ザクとは違うのよね

投稿再開しました。 できるだけこまめに更新します。。。

関ケ原古戦場記念館

2020-11-07 21:10:00 | 歴史・城
先月オープンしたばかりの関ケ原古戦場記念館に行ってきた。

笹尾山の三成陣跡、松尾山城など、それぞれは単なる史跡であるため、観光地としてはなかなか魅力が伝わっていない関ケ原。
それを、まず関ケ原の戦いの概要・魅力を知り、個々の史跡への興味を持たせるビジターセンター的な役割で作られた。

新型コロナの影響で、入館には事前予約が必要。オープン後最初の土日だったので、予約開始後すぐに予約が埋まるかと思いきや、午後は空きがありすんなり予約完了😄

当日、時間どおりに到着。正面入口前には関ケ原武将隊の面々が。早速皆さんと記念撮影📸



ちょうど予約日からキャッシュレス決済もできるようになるはずだったんだけれど、行った時はすっかり忘れていて、スタッフに案内されるまま入館料の券売機でチケットを購入した直後、カウンターにあるキャッシュレス決済OKの立札を発見し思い出すが時すでに遅し。😵
券売機で払う前にキャッシュレス決済をするか確認してくれないと😠

気を取り直し、いよいよ中へ。
まずは、会津征伐から合戦当日までの流れが神田伯山の語りとともに床面スクリーンに映し出される。
スクリーンをぐるりと囲むようにして見るんだけれど、正面以外だと日本地図を横か本体から見ることになるので、視覚的にはちょっと分かりにくい。😥
部屋を移動し、今度は大画面に風と振動とともに合戦のてん末をシアターで鑑賞。ずっと使っていくからだろうけれど、実写ではなく白黒で描かれた武将たちの絵も相まって、幼い子どもたちにはちょっと怖かったみたい。😅

シアターを抜けると、関ケ原の戦いの中心的な7人の武将の紹介映像が。






これらは、写真なら撮影📹OKです。

エスカレーターで2階に上がると、関ケ原の戦いに至るまでの史料の展示室。
参戦武将の甲冑のレプリカや、これまたほとんど複製だけれど秀吉、家康、三成、輝元らの花押も見られる当時の書状の数々も、書いている本人たちの心情も伝わってきそうで。
前田玄以の署名が「徳善院」という号で書かれているのも、書状を見て初めて分かった。🧐

戦国体験コーナーでは、火縄銃や采配なんかを持てたり、陣羽織や太刀を持って関ケ原合戦図屏風の映像をバックに記念撮影。

5階の展望室は、笹尾山、松尾山、岡山烽火場など関ケ原古戦場の主な史跡を一望できます。


大垣方面。右手の山が南宮山


笹尾山方面


松尾山方面

隣には、関ケ原関連のグッズなど土産ショップとカフェが併設。

さらに隣には、家康の最終陣跡である陣場野公園があり、戦後の首実験をした床几場跡が残っています。
そこから夕陽に照らされた記念館もまた綺麗😊







小日向えり引退

2020-05-22 08:31:00 | 歴史・城
歴女・歴ドルの小日向えりが引退するとのこと。
3年前に起業した高齢者の就労支援事業に専念するそうだ。

今でこそ「歴女」なる言葉が一般的になってきてはいるけれど、それを初めて聞いたのは彼女のことからだったと思う。
あまたいる歴女・歴ドルの中では可愛かったし😊、知識もしっかりしているので、非常に好感を持ってはいたけれど、30代になって、いつまで歴ドルでいけるのかという気持ちもあって。
そんな中でこの決断に至ったのも仕方ないことだと思う。🤔
高齢者の就労は、これから益々重要になってくると思うので、これまでの人脈も大いに活かして頑張ってください!

苗木城

2020-05-04 21:55:00 | 歴史・城
最近人気の苗木城。
県もひがし美濃の三山城として売り出している。
なんと言っても本丸跡から見るその眺望と、硬い岩盤の上に天守を建てる懸造りという手法が特徴的。

行ったのは、昨年の6月。
最近注目されて観光客が増加しているだけあって、単身タクシーで攻める人など、結構人がいました。
まず最初に山の上に見える天守跡が壮観😀

次に見える大矢倉は、石垣もしっかり残り、見どころの一つなので押さえておかないとね。😉



三の丸付近まで来たところで雨が☔️。
本丸手前まで来て雨足が強くなってきたためしばらく木陰で雨やどりしていたものの、当分やむ気配がないため、そのまま頂上までささっと写真を撮り、途中木陰で止まりながらトイレのある所までなんとか降り、そこで雨がやむのをやり過ごしました。







今は、出歩けないけれど、また数年後に天気の良い日に再挑戦したいと思っています!🤨

近江八幡

2017-05-29 01:20:51 | 歴史・城
昨日(土曜)、かみさんの誕生日が近いこともあり、クラブハリエのバームクーヘンを買いに7年ぶりに近江八幡を訪れた。

前回は、まだ付き合い始めて2ヶ月くらいの頃で、ちょうど自分がスキーで左手を骨折してギプスをしていた時だった。
それから7年、結婚して子どもが2人になり、再び同じ風景を見ると、何だか感慨深い。

以前と同じ市営駐車場に車を止め、途中古い町並みや八幡堀を見ながら、歩いてロープウェイ乗り場まで向かう。

八幡堀は、時代劇のロケにも使われる風情のある場所で、堀めぐりの舟もある。
堀沿いは石畳になっており、前来た時は気にならなかったけれど、ベビーカーを引くにはガタガタして進みづらい。

昨日は、天気は良かったが最高気温は22℃で、風が吹くと寒いくらい。
朝子どもに、「半袖でいいけれど、寒くなった時のためにパーカー持って行きな」と言っておいたんだけれど、かみさんは聞いておらず、防寒具は何もなし。
とりあえず、自分もタオルを首に巻いてしのぐ。

ロープウェイで八幡山を上り、徒歩で遊歩道を登って西の丸址と北の丸址を目指す。
八幡山城は、豊臣秀次の居城で、石垣も結構残っている。
西の丸址からは琵琶湖が、北の丸址からは安土城と観音寺城が見える。
それぞれ、恋の聖地とかで、「LOVE」とハートのモニュメントがあった。7年前にはなかったな。


ロープウェイを降り、クラブハリエに向かおうとすると、上の子がさっき見た舟に乗りたいというので、大人1,000円とちょっとお高めだが、せっかくなので乗ってみることに。
自分たちの貸切になるかなと思ったら、出発間際に中国人観光客4人組と50〜60くらいの夫婦っぽい方がやって来て乗り合わせることに。
風が冷たく寒かったが、上の子は大満足、堀からの眺めは風情があって良かった。
帰ってきたら、もう受付は終了していて、どうやら自分たちの便が最終だったみたい。乗れて良かった。(*´ω`*)


堀めぐりも終わり、いよいよクラブハリエへ。
ショーケースの中の商品をざっと見た後、まずはカフェで休憩。
バームクーヘンを食べようと思っていたら、カフェにはないとのこと。
そういや、前に来た時も同じことしたような。
仕方がないので、さっきショーケースで見て気になっていた、子どもに優しいドーナツ🍩がキッズセットとしてあったので、子どもにはそのキッズセットを、我々も単品として注文。
ドリンクは、今の時間帯は水出しダージリンがありますということだったので、水出しコーヒーは聞いたことあったけれど紅茶では珍しいからそれにしてみようと思うものの、体を温めたいからホットがいいんだけれど、水出しってアイスかな?それともホットかな?そんな初歩的なことを聴くのが恥ずかしく、カッコつけて注文してしまった。
下の子をソファに寝かせていたが、眠いのかドーナツとドリンクが来た頃には泣き出してしまい、2人交互にあやしながら食べることに。
思っていたのと少し違った味だったが、子どもに優しいドーナツという意味は分かった。
その後、1,620円のバームクーヘンを購入し、湖岸道路を波の高い琵琶湖を横目に見ながら家路に着いたのでした。

懐かしい年号暗記(5)

2005-11-06 00:51:34 | 歴史・城
 年号暗記第5弾

 聖徳太子の子である山背大兄王を自害に追いやった蘇我入鹿・蝦夷父子は、ますますその力を強大なものにしていく。
 蘇我氏の専横を快く思わない葛城皇子は、蘇我氏に代わって自らが政治の実権を握るため、中臣鎌足と親交を深め、蘇我氏打倒の計画を企てる。
 蘇我氏以外の勢力を味方につけるため、有力豪族の阿部内麻呂、蘇我入鹿のいとこ石川麻呂に近づき、引き入れに成功。軽皇子も味方につけたことで、クーデター実行に向けた準備は整った。

 朝鮮から使者がやってきたとして入鹿を宮中に呼び出し、儀式の最中皇極天皇の目の前で入鹿を討ち取った。入鹿暗殺の方を聞くや、勝ち目はないと見て蝦夷は自害。ここに蘇我氏宗家は滅亡する。

 その後、軽皇子が即位して孝徳天皇となり、葛城皇子は中大兄皇子と名乗り、皇太子として政治の実権を握ることとなった。阿部内麻呂が左大臣、蘇我石川麻呂が右大臣に任命され、中臣鎌足が内臣(うちつおみ)、僧旻&高向玄理が国博士となるなど、クーデーターに加わった者らが新しい政治の中枢を占めた(それがクーデーターというものか)。

 個人的には、中大兄皇子という人物は好きではない。このクーデターも、蘇我氏の専横を正し皇族中心の国づくりを目指そうとしたよいうよりも、単に自分が政治の実権を握りたかっただけのような気がする(もっとも、舒明天皇の嫡子でありながら蘇我氏のために皇位につけなかったのも事実ではある)。
 クーデター後、都を難波へ遷した後、再び飛鳥へ都を戻そうと孝徳天皇に求めてこれが退けられると、天皇だけ残して勝手に遷都してしまうという傍若無人ぶり。
自分が病に倒れた時、弟の大海人皇子を病床に呼び、野心を探るなど、権力への執着がものすごい。

 律令国家の礎を築いたとされる大化の改新であるが、その中身はどうも中大兄皇子らの功績という評価でもないみたいだ。改新の詔があったのかどうかは怪しいらしい。蘇我氏が滅ばなくても、律令国家の道は必然だったという説もある。とにかく、古代のことは謎が多い。

 というわけで覚え方は、

    6  4  5 
   無事故の世づくり大化の改新

 これは定番かな。