年を取ると、「喪失」という言葉が一層身に染みてくる。
まず、「健康」である。
同年輩の知人、友人と顔を合わせると、
「体調はどうだ」というのがあいさつ代わりとなる。
何事につけ経年劣化は避けがたく、
人の体も、たとえば足腰の関節は長年の〝勤続疲労〟で歪んで痛み、
目の焦点は合いにくくなり、夜の運転は危なっかしい。
また、五臓六腑のあちこちもやはり〝勤続疲労〟が現れてきて、
医師は「加齢のせいですな」の一言で片づける。
その程度で済めばまだしもであろう。
そして、身辺から人が喪失していく。
仕事上知り合い、互いに一線を退いた後も
親交を続けていた方に久しぶりに電話したところ
「今、入院していましてね。いや大したことはありません。
間もなく退院する予定です。また食事にでも行きましょう。
こちらから連絡しますよ」口調もいつもと変りなく元気そうだったので、
すっかり安心していたら突然訃報が届いたのである。
確かに病状は回復し、いったん退院されたそうだが、
再び悪化して再入院、治療を続けた挙句のことだった。
死去を知った時には、すでに近親者のみで葬儀も終えられていた。
お別れの言葉一つかけられぬまま、
深い慙愧の念に沈むばかりである。
定年退職すると、言うまでもなく仕事を失くす。
伴って人との関わりが薄れていき、ついには人さえ失くす。
一人また一人と失くしていった挙げ句、
人との関わりがなくなってしまう人生。
そんな残酷な残りの人生をどう生きていけばよいのか。
ひどく悩ましい問題が突き付けられる。
実は、多くの人が同様の悩みを抱えているようだ。
そのためか定年後の人生をどう送ればよいか、
その方策を示してくれる本が、書店にさまざまに並んでいる。
そして、一様に「自らの役割を自ら探し求めよ」とし、
「まず何らかの『目標』を設定することから始めたがよい」とする。
個人の趣味でもよいし、できればそれによって仲間の輪が広がり、
さらにそれが社会的活動につながっていければ
社会に貢献することにもなるから、さらに良し。
こういうことが書かれている。
「人生100年時代」と言われれば、
まだ20年ほどの残余の時間がある。率直なところ長い。
どうすれば、残りの時間を悔いなく送ることができようか。
そうそう簡単な話ではないように思えてくる。