Toshiが行く

日々の出来事や思いをそのままに

思い出の中に生きる

2024-03-13 06:00:00 | エッセイ

 

「祖母が老衰で亡くなりました。

良くしてもらった祖母なのに、寂しくも悲しくもありません。

近所に住んでいて、かわいがってもらいました。

しかし、数年前に老人ホームに入ってからは、一度も会いに行きませんでした。

再び祖母と対面したのは葬儀の時。

でも、遺体に触ることをむしろ不快に感じてしまい、

そそくさと逃げるように帰りました。涙も一度も出ません。

……悲しみがわかない私は異常なのでしょうか」

そう書く一方で、「数年前に自死してしまったアイドルのことを思うと、

いまだに涙が出ます」と、二つの死を重ね合わせ、

自ら、「異常ではないか」と言うのである。

 

    

 

新聞の「人生案内」、つまり読者の相談コーナーに

20歳代の女性がこんなことを話していた。

これを読んで、ひどく寂しい思いに駆られた。

仮に僕が死んだ時、孫たちは悲しんでもくれず、

涙一滴流してはくれないのだろうか、と。

それではあまりにも切ないではないか。

僕の遺体にすがりついて、ワアワア泣いてほしい、と。

 

でも、ちょっと待て。僕自身はどうだったか。

祖父母、それに両親、あるいは兄や姉が亡くなった時、

悲しい、寂しいと感じたか。そういう思いになっただろうか。

いや、その記憶はない。涙も流さなかったはずだ。

亡くなった瞬間、あるいは葬儀の時はそうだった。

だとすれば、この女性を「何と冷たい人か」と責められるはずがない。

 

父や母、あるいは兄や姉の死に対して、

悲しいとも、寂しいとも思わず、

涙一滴さえ流さなかったのは確かだ。

だが、それらの人たちを忘れ去ってしまったのか。

いや、違う。

時がたち、今は皆、喜怒哀楽の思い出の中にいて、

時に思い出しては無性に寂しく、あるいは悲しくなることがある。

孫たちが泣いてはくれなくとも、思い出の中に居させてくれさえすれば、

時々、思い出してくれさえすれば、それで十分でないか。

自分にそう言い聞かせ、また悩みを打ち明けた若い女性に、

「僕も同じだよ。異常ではないと思う」

そう呟きながら、新聞をたたんだ。

 

 

 

コメント (1)
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