ただ、ただ祈るばかりである。
被爆者健康手帳を所持するれっきとした被爆者だが、その実感は薄い。
原爆投下時、3歳になったばかりとあってその記憶がほとんどないせいだろう。
本来なら、原爆の悲惨さを語り継ぎ、
反戦・非核への役割を果たすべきなのだろうが、
おそらく語る言葉には現実感がないはずである。
爆心地から3・5㌔、長崎市新地町、あの中華街のある付近に住んでいた。
昭和20年8月9日午前11時2分、何かがぴかっと光り、ドーンと大きな音。
家はガタガタと不気味な音を立てた。
側にいた姉が幼い僕に覆いかぶさり、得体のしれない恐怖から守ってくれた。
幸いに爆風で家屋が倒壊、炎上するでもなく無事であった。
〝ピカドン〟に対する僕の記憶はこの程度である。
それも、本当にそうだったのかどうか。
後に姉たちから聞かされた話が自らの記憶として残ってしまったのではないか。
正直なところ、被爆の恐怖、悲惨さを直に目にし、感じたことはまったくない。
わずかに爆心地近くにあった当家の墓掃除へ行った際、
石柱に埋め込まれたヤリみたいな鉄の棒がぐにゃりと曲がって何本も残っており、
「こん、ひん曲がった鉄の棒は、ピカドンのせいたい」祖母からそう聞かされ、
原爆というものが、鉄の棒をこんなにも曲げてしまうほど力が強いものだと知った。
母は爆心地近くに住んでいた妹家族を誰一人見つけられず失意の中にいた。
この時、母と同行した長兄にしても時を経て青年期になり、
打ち身か何かで腕や脚にポツンポツンと内出血したりすると、
「原爆症ではないか」と恐れおののいたものである。
爆心地の浦上地区は多くのキリスト教徒が住んでいた所である。
一説には1万5千人が住み、このうち1万人が被爆死したとされる。
廃墟の中にポツンと立つ浦上天主堂の鐘楼ドームや
無傷ながら熱線で変色してしまったマリア像、
これらが長崎における被爆のシンボル化されもした。
そうとあってか、反戦・非核運動が今よりずっと活発な頃、
〝行動の広島、祈りの長崎〟という言われ方をした。
そこには「長崎は祈るばかり。非核運動には熱心ではない」との誹りがあった。
広島に、長崎に原爆が投下されて79年。浦上天主堂の鐘はいつものように響く。
かすかであろうが我が家の墓地まで届くだろう。
ここには原爆におののいた母も長兄も一緒に眠っている。
11時2分、戦争のない世界をと、ここ福岡の地から祈るばかりだ。精一杯に。