坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

令和6年度古文書解読講座

2025-01-25 18:56:43 | 古文書、郷土史他
嘉永四亥年舎人殿御手元迄指出置候書取案

今年度の郷土資料館主催の「古文書解読講座」が開催された。テキストは嘉永4(1851)年に大山庄太夫が松平舎人さんに提出する文書の下書きのようだ。


私(大山庄太夫)儀、天保九戌年(1838)御留守居役被2仰付1候処、翌々子年(天保11[1840]年)、御所替(三方領知替え)之御沙汰有之 其翌丑年(天保12[1841])、先般関茂太夫儀、御役御免被2仰付1候以来、右代御内御用取扱被2仰付1候 然処、其砌、水野越前守様(老中首座:水野忠邦)御執権之折柄御座候処、御懇意之御熟和相破 乍恐、両殿様(大殿:酒井忠器と第11代藩主:酒井忠発)二茂2一通12御憂慮1、何卒御和談相整候様、殊之外被2御心配1候 付而者昨今之私、何之才覚2御座1、大狼狽仕 越前守様御家来佐藤新兵衛、牧田幾右衛門方罷成候得共、何分御隔意相解兼、乍憚、日夜心痛仕候 右之御模様御座候付、御右筆、御組頭御勘定所向、惣諸御役人方二茂何となく嫌疑之為哉 被諱候気味合二而何方向候而茂真実、懇意之難2談示1、殆当惑仕候処、終印旛沼古堀筋御普請御手伝被仰 右御用中、柳原御屋敷(浅草柳原中屋敷:隠居した酒井忠器が居住)替被仰 誠以慓々奉2恐入1候次第御座候処、其頃合至、段々辛苦仕候、験二茂御座候哉 漸、手寄相求、越前守様御家来岩崎彦右衛門、公用人関善左衛門之両人懇意之通信仕候事罷成 夫ゟ右両人取成を以、追々越前守様御気詰も取直候処、無程御同所様御退役(天保14[1843]年閏9・水野忠邦老中罷免)相成候付、又候、手寄を以、其頃之御筆頭土井大炊頭様(土井利位[トシツラ]、同月水野忠邦に替って老中首座)御懇意被2仰入1 右家来枚田源之丞土岐丹次郎入魂仕、御懇交相整、且又、其以前、堀大和守様(堀親寚[チカシゲ]:老中、水野忠邦の右腕。水野と連座して罷免)江茂御懇意…… 

など、この古文書の当初には、留守居役の大山庄太夫さんが一生懸命頑張ってる様子が語られている。この頃(天保9年頃)の大山さんは、忠器さんからの信頼も厚く乗りに乗っている頃だ。次第に権勢を強め、その屋敷は大山御殿と称されるほどだったという。
しかし、この文書を書いた嘉永4年頃は、前年(嘉永3年)に用人に任ぜられたが、次第に側近から遠ざけられており、忠器が亡くなった嘉永7年には用人罷免となり、禄も350石から200石に減らされ、庄内勝手に移されている。
恭敬派の大山さんは11代藩主の忠発(最側近は放逸派の松平親懐と菅実秀)には、当初から嫌われ対立していたと、宮地正人氏が「自由民権創成史」の中に記している。この古文書を足がかりに、舎人さんと庄太夫さんら恭敬派の動きも学んで行けたらいいなと思っている。
来週の、当古文書解読講座も楽しみだねぇ。どんな話が聴けるんだろう?
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