坐花酔月 徒然日記

 「花咲く処に腰を下ろし 月を眺めて酒を楽しむ」 この一年、どんな年になるのか。

「加茂坂古道峠を歩く」現地研修

2024-11-28 23:01:43 | 古文書、郷土史他
令和6年度 令和おうら大学歴史学
升川繁敏先生「大山と加茂のつながりを考えるシリーズ2」
現地研修『加茂坂古道峠を歩く②』に参加した。


青線:舗装道路(中央が旧道、右端が新道)
赤線:加茂古道(鉄門海が開削する前の道)
緑線:鉄門海道(鉄門海が開削し鉄竜海が整備した道)
黄線:古道峠〜鉄門海道峠(鉄門海が開削し鉄竜海が整備)
鼠線:枝道

港町加茂は、江戸時代中頃から大正頃まで日本各地と庄内・内陸を結ぶ物流の要地として栄え、30数軒の船問屋と10数軒の宿屋が軒を並べていた。その加茂と庄内各地・内陸を結ぶ物流の大動脈と出羽三山参詣等の道となったのが、この『加茂古道』と『鉄門海道』である。加茂古道は、江戸時代初期から使われた道である。鉄門海道は、1812年湯殿山行者鉄門海が新しく切開き主街道となり、さらに明治初め1871年に鉄竜海が峠の切下げ工事をした道である。その後、1884(明治17)年〜1891(明治24)年の加茂隧道工事で、鉄門海道は寸断された。この道を、かつては背負子や馬子たちが物資(入:塩、砂糖、古着、紙類等。出:米、酒、大豆等)を盛んに運んでいた。近年、地元の加茂や大山の人たちの手で整備され、参り墓なども見つかり、当時を偲ぶことができる散策道となっている。(案内掲示看板より)


旧道から加茂古道に入る

大山コミセンを1時半過ぎにマイクロバスで出発。加茂坂峠道の旧道を上り、加茂坂古道入口付近で下車する。


旧加茂坂トンネル(加茂隧道:明治24年竣工・昭和14年改良)

2003(平成15)年に新・加茂坂トンネル(777m)が開通したことで廃止された旧トンネルを、寸断した鉄門海道から見下ろす。
以前はバス通りだった旧道(国道112号)だが、車の通らない今は落葉が積もり、その面影は寂しいほど変わってしまっていた。


古道峠鞍部:大山地区と加茂地区の分岐点

【古道峠と馬道】鉄門海道ができる前まで使われていた加茂古道の峠でる。元は狭い道であったが、加茂隧道工事で鉄門海道が寸断され通れなくなったことから、荷車や馬車も通れるように道幅を広げて「馬道」として利用された。この峠の広い切通しも、その時広げられたと考えられる。今は「庄内アルプス」縦走の八森山から加茂山稜線の道に入る通過地点となっている。(案内掲示看板より)


古道峠〜鉄門海道峠(黄道)

【鉄門海道峠】加茂港の交易は、明治期になり通行手形などの制約がなくなり、商品の種類・量も増え、湯殿山等の参詣者も船で多く来るようになった。戊辰戦争後に酒田港が明治政府の直轄地となり、蒸気船を購入し直接横浜との交易をした大泉藩にとって、加茂港はより重要な港となった。そのため、鉄竜海が鉄門海道を改修したことは、とても重要な意義があった。地雷火を使って砕いた岩の様子がうかがえる場所が、大山側に少し進んだ先にある。ここは、シラネアオイの群生地でもあり、大切に保存したい。(案内掲示看板より)


石碑;鉄門上人(加茂側)

【稲荷】「鉄門上人」の石碑は年号がなく、いつだれが建てたのかわからないが、鉄門海の切開いた道がここから始まっていたかもしれない。コンクリート製の角柱は、「坂寄付者 藪田弥右衛門 旧名 久吉 昭和十三年五月」と刻まれている。1938(昭和13)年は、翌年にかけて自動車が通れるように加茂隧道の大規模改修工事が行われた。隧道工事の間、背負子たちが少しでも楽に荷物を運搬できるように、茶屋の主人の藪田さんが峠への直登のコースを造ったと考えられる。(案内掲示看板より)

今回の加茂古道を歩く企画は、勉強になったし本当に面白かった。思ったほど風雨にも晒されずに歩けたのも良かった。知ることは楽しい。
来年度の「おうら大学歴史学」に入校することをスタッフにお願いして、大山コミセンを後にした。
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