樹庵のお気楽ナビ

チビデビル ルックと
天使キャラ セントの日記です。

「かいじゅうたちのいるところ」

2007年06月11日 | 絵本

ああ、このかいじゅうたちの素敵なこと!
黄色い目玉、尖った爪、耳まである口。
私はこの中では助演男優賞?ものの牛頭?君が好きだ。
作者の描いている時の楽しさや、わくわくがそのままこちらに伝わってくる。
今日これを書くために、久しぶりにページをめくったのだが、
やっぱりこの本はお薦め。

「かいじゅうたちのいるところ」はモーリス・センダックの代表作で、
日本での初版が1975年だから、これもかれこれ30年以上経つ。
実は20代後半に会社を辞めて、ぶらぶらしていた時に出会ったものだ。

その頃の大会社の会社勤めは、大過なくすごせば給料も身分も保証されるよいものだった。
しかし、そこでの仕事は所詮歯車のひとつなのだ。
もっと自分が没頭したかった。

とても定年までいられそうにない…私は次の仕事も決めないまま会社を辞めた。

辞めてしばらくの間は、自分が何をしたいのか探そうと思った。
それにはなんでもいい、自分が興味のあること、好きなことをとにかく触ってみること。
悩んでいただけでは物事は始まらないから、とにかくやっていて好きだな、楽しいなと思えることをやってみようと思った。

「かいじゅうたちのいるところ」は、
主人公マックスがいたずらの挙句、お母さんから夕ご飯抜きで子供部屋に閉じ込められてしまうところから始まる。
でも、いつの間にか部屋の中が森になり…、船に乗って海を渡り「かいじゅうたちのいるところ」にたどり着く。
マックスは魔法を使ってかいじゅうたちの王になり、遊びたいだけ遊ぶのだが、
やがてお母さんが恋しくなり、また船に乗って子供部屋に帰ると、お母さんの用意したあたたかい夕食があった。

かいじゅうたちのいるところは、船で1年と1日かかるところにあるらしいけど、
実は忘れかけた自分の心の中に、大人になった今でもあるんじゃないかと思う。

マックスといっしょに、踊ったり木を渡ったり、行進したり疲れて眠ったりしたかいじゅうたちは、
マックスがお母さんのところへ帰ってしまったから、今でもきっと誰かが来ないかと毎日海を見ていることだろう。
グロテスクだけど、どこか本質をつくところがあって、嫌だと思えないかいじゅうたち。
私やあなたが、船に乗って訪れるのを待っているのかもしれない。

これからどう生きるか考えているんだって?悩むのは止めて僕らと遊ぼうよ。
遊び疲れた頃、何かわかるかもしれないしね。


「百億の昼と千億の夜」 その3

2007年06月09日 | 本と雑誌

宗教は、<シ>の実験台となった人類が、実験に気づかぬように
<シ>から吹き込まれたものであるという、
その視点が昔の私にはショックだった。

人の死や、罪や病い、貧困をつかさどるという神は、
多くの民間信仰の中に長い間残っていた。
その多くの土俗の神たちの意味するところはいったいなんだろう?
そして、それらの神たちが、なに故、土俗の神として否定され、
人間たちに忘れられていったのだろうか?

おおーっと、ゾクゾクするほどの謎解きの快感があったことを思い出す。
20年以上(30年?)前に初めて読んだ時の印象だった。

しかし今回、読み直して、
あの時のような快感は残念ながら得られなかった
なぜか。
話を知っているからではない。

①私は毎朝、仏壇で般若心経を唱えるが、
供養をしているだけで、宗教で救ってもらえると思っているわけではない。
②宇宙外の「何か」だっているかもしれない。
③時はまさにサミットが終わったところで、初めて環境問題が主要課題になったが、
温暖化は人類にとって致命傷になるかもしれない。
④疫病神も貧乏神も、いてもいいじゃないか。(憑かれるのは困るが…)

人類は地球上に現れた時から、破滅への道を歩いている…と言われても、
何千年か先はまあそうかもしれないと思ってしまう。
不幸なことに「百億の昼と千億の夜」が自分の中で、驚きではなくなって来ている。

こちらも年をとって、肉親や愛するものの死に直面したり、
わけのわからない運気の波に呑み込まれたりして感覚が鈍くなってしまった。

それでも「百億の昼と千億の夜」、
これは今でも日本のSFの代表作で、すばらしい作品であることは間違いない。

萩尾望都のコミックは、今回初めて通して読んだ。
これは、萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」だった。
でも、それはそれでよい。
これがなかったら私は原作を読むこともなかっただろうし、
阿修羅に思いをはせることもなかっただろう。

ユダの扱いが、原作とは違っていたが、
これは、萩尾望都のユダへの愛情だったのではないだろうか。

「百億の昼と千億の夜」今回の出会いは、
20年ぶり(30年ぶり?)に再会できた友人のようだった。
私だけが年をとっていた。
相変わらずの相手を見て、感じ方も変わるはずである。
そして、それでいいのである。


「百億の昼と千億の夜」 その2

2007年06月08日 | 本と雑誌

その1で、20年以上前と書いたが、
萩尾望都が少年チャンピオンに掲載していたのは、1977年~78年だった。
30年も前のことなのだ。
そして原作がこの世に出たのは、1965年~66年のSFマガジンへの掲載で、
すでに40年以上を経過している。

興福寺の阿修羅像がきっかけで、「百億の昼と千億の夜」をまた読みたいと思った。
書店で検索したら、コミックも出てきた。
30年前に前半を少し読んだ漫画が、やっと全部読めることになった。

そしてまた一気に原作を読み、次にコミックを読んだ。

あらすじを稚拙に説明すると、

アトランティスをはじめ人類のかかる文明が栄えては滅ぶ。
いろいろな原因があるのだが、実はそれは、この大宇宙の外にある<シ>の時空を超えた実験であり、
<シ>が意図した結果である。

転輪王はそれを阻止するために、
阿修羅王のあしゅらおう、プラトンのオリオナエ、悉建多のシッタータを選び、改造し、
何者かの目を避けて永い眠りにつけていた。

一方で転輪王は、はるかな昔に、
人々の心にいくつかの言葉をささやくのだが、
それがやがて来る破局を予感していることに、どれだけの人が注意をはらっただろうか。
やがてそれに気づいた<シ>は、ことごとく転輪王の予告を消してしまう。

<シ>は、あるときはポセイドン神に、
あるときは56億7000万年後に現れてこの世を救済するという弥勒に、
またあるときは大天使ミカエルとなってキリストに「最後の審判」を吹き込む。
キリストの教えに疑問を抱いたユダは、何者かに消されてしまう。

5000年を経て眠りから覚めたあしゅらおう、シッタータは、
荒廃した都市に息を潜めて何千年も二人を待っていたオリオナエと共に、
大宇宙の外にある<シ>を探す旅に出る。


「百億の昼と千億の夜」 その1

2007年06月07日 | 本と雑誌

 

講談社の「週刊原寸大日本の仏像」創刊号のCMで、
久しぶりに興福寺の阿修羅像を見て、ある本を思い出した。

光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」だ。
同時に、それを萩尾望都が描いたコミックも。

知ったのは20年以上前、
最初は週刊少年チャンピオンの,萩尾望都の掲載がきっかけだった。
少年チャンピオンの中で、「百億の昼と千億の夜」は異質な光を放っていた。

何しろ、少年チャンピオンにプラトンが登場し、
アトランティスの司政官としてアトランティスの最後を見届け、
次に登場した悉達多太子は
波羅門僧に伴われて出家してしまい、兜率天(とそつてん)阿修羅王と会い…。

プラトンのイデア論、仏教の言葉、
それが少年チャンピオンにあった。
そのギャップの激しさも、また気持ちがよかった。

しかし萩尾望都の連載は半分も読まなかった。
たぶん少年チャンピオンを読むチャンスがなくなってしまったからだと思う。

それからしばらくして、書店で目に止まったのが光瀬龍の原作だった。

手に取った途端、萩尾望都の描いた修羅の鬼、少女のような阿修羅王の顔を思い出した。

原作は、かなり哲学的でかなり難しかった。
それでもぐいぐい引き込まれ、憑かれたように読んだ。

特に主人公の阿修羅王については、これがきっかけでいろいろ調べたし、
ついには興福寺まで阿修羅像に会いに行った。

しかし、あの本は不思議な本といえば不思議な本で、
読んだ後に、残ったのは茫漠とした限りない光の海のイメージだけだったような気がする。
20数年前に読んだ感想は、実はそれだけだった。


星新一 再び

2007年06月05日 | 本と雑誌

書店で偶然目についたのは、もう20年以上前によく読んだ、星新一のショートショート。
まだ読んだことのなかった「ご依頼の件」と、
昔読んだ中の代表作「ぼっこちゃん」を手にとった。

昔読んだ時の記憶では、星新一のSFショートショートは、
都会的で意外性があり、スマートでユーモアがあった。
ショートショートは一話があっという間に読める。

どきっとする意外な結末にも、どろどろした感情がまとわりつかず、
なるほどねぇ思うが、すぐに次の世界に入って行ける。
星新一の魅力は、シニカルでウイットに富むが生活感のないスマートさだと思った。
面白いが、何も残らない。

ところが、今回読んでみて、以前のイメージとは全く違う印象なのにびっくりした。

一口で言うと、「怖い」のだ。
読んでいて、多少なりとも先が読める自分がいる。
その先というのは、「重い人間の業が込められている」と、文庫「ぼっこちゃん」の帯に書かれていたが、
そう言ってしまえばそうなのだ。

ああ、自分も年をとったんだと思った。そんなことがわかるようになってしまったのだと。

今となれば、彼の作品をなんと言ったらいいのだろう。
大人のイソップと星新一自身は言っていたそうだが、

私に言わせれば、これは現代の怪談だ。

「怖い」のは、人間に約束された救いようのない未来を垣間見るから。

自分が年を重ね、どろどろにまみれて初めて、目を開かされた星新一のショートショート。
泥の池に咲く、蓮の花のような美しさである。