前回、「美術史上でとくに有名というわけではないけれど、気になる画家」という、ややとりとめのないことを書きました。今回はさらにとりとめのない話になりますが、「本来、気になる画家(作家)ではないはずなのに、ちょっと気になる画家(作家)」についてです。
まずは、アメリカの画家、エドワード・ホッパー(Edward Hopper, 1882 -1967)です。ホッパーはアメリカの具象絵画を代表する画家だと言われています。アメリカの画家といえば、ホッパーより後の世代の抽象表現主義の画家たち、例えばジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)などが有名です。ホッパーはむしろ、ポロックの若い頃の師匠でもあったトーマス・ハート・ベントン(Thomas Hart Benton, 1889 - 1975)と年齢的には近いようです。ただ、ベントンが地方主義の画家、と言われているように、意図的に開拓期のアメリカを象徴するような絵を描いたのに対し、ホッパーは同時代の都市的な風景を描いています。アメリカ的な具象画家、とはいっても、そのイメージにはかなりの開きがあります。
さて、「本来、気になる画家(作家)ではないはずなのに、ちょっと気になる画家(作家)」とわざわざ書いたのは、言うまでもなく「本来、気になる画家」というのは、私にとってポロックに代表されるような現代美術の画家たちで、ホッパーは基本的に興味の外にいる画家です。いままでに、あまりしげしげと作品を見たこともないし、展覧会で本物の作品を見て感動した、という経験もありません。しかし、今回ちょっと気になったのは、村上春樹が翻訳しているグレイス・ペイリー(Grace Paley)の二冊の本『人生のちょっとした煩い』、『最後の瞬間のすごく大きな変化』(ともに文春文庫)をたまたま購入したのですが、その表紙にホッパーの絵が使われていて、それがとてもよい感じだったからです。実はこれらの本は、(購入してしまったこともあって)あとでゆっくり読もうかな、という気分で、まだ少ししか読んでいません。しかし、ごくふつうの日常を描いたアメリカの短編小説と、ホッパーの絵の肌合いがうまく合っていて、いい装丁だな、と思ったのです。それと同時に、ホッパーの絵の魅力というのは、実はこういうことなのかな、ということにも思い至りました。「こういうことなのかな」というのは、日本人の私たちから見ると、アメリカのすこし乾いた感じの、都市生活の日常を過不足なく描くにあたっては、ホッパーの絵のようなタッチが最適なのだろう、ということなのです。それで、インターネットで彼の絵を、少し調べてみました。
(http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=edward+hopper)
ものの描写は細かすぎず、器用すぎず、そして人物であろうと感情移入をしすぎることもなく、構図はスナップ写真のようにあっさりと構築されています。当時のモダンな建物が描かれているので、透視図法的な遠近法がやや目につくところが特徴といっていいでしょう。人物が描かれている作品の場合は、余白のような広い空間が目立ちますが、それがうまくいっている絵もあり、これはちょっと・・・、と思うものもあります。しかし、画家本人はそんなことにはあまり頓着せず、欲張ることもなく淡々と描き続けたように見えます。
そんなことを思いながら、もうすこし彼の絵を見てみようと、図書館で『エドワード・ホッパー』という本を借りました。すると表紙の裏に、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のこんな言葉が書いてありました。「ホッパーは下手な画家にすぎない。しかし彼がそこそこの画家ならば、これほどまで偉大な芸術家ではなかっただろう。」さすがに、グリーンバーグです。彼はポロックらの抽象表現主義の画家たちを理論的に支えた、モダニズムを代表する評論家として知られていますが、一般的にイメージされているよりも、ずっと間口の広い人だったようです。彼の評論はあまり翻訳されていないので、その幅広い業績を知るには、アメリカで出版されているグリーンバーグの評論集を自分で訳してみるしかないのですが、こんな明晰な言葉に出会えるのならば、いずれはチャレンジしてみたいものです。そのためには、相当な勉強が必要ですけれど・・・。
さて、そんなホッパーとの出会いがあり、ホッパーの本を借りるついでに、うっかり借りてしまったのが、村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler, 1888 - 1959)の『大いなる眠り』です。チャンドラーの本は古い翻訳で二冊ほど読んだことがありましたが、この村上訳の『大いなる眠り』は面白かったです。こんなことを書くと、村上春樹のファンから怒られそうですが、最近の村上春樹の小説よりも面白いと思いました。そして読みながら、ふと思ったのが、この小説の世界がどことなくホッパーの代表作『Nighthawks』をイメージさせる、ということです。とくにチャンドラーとホッパーを結びつける事実はないようですが、生没年を見るとほぼ同時代人です。この絵の中の、夜のバーで金髪の女性とたたずむ帽子をかぶった男がフィリップ・マーロウであっても、まったく不思議はないように思います。チャンドラーにとって最初の長編小説である『大いなる眠り』が出版されたのが1939年で、探偵マーロウのデビュー作になるそうです。一方の『Nighthawks』が描かれたのが1942年ですから、まさに同じ時代の空気を吸っていたことになります。余談ですが、少し前に、NHKの連続ドラマでチャンドラーの『長いお別れ』を戦後の日本に置き換えて放映されていましたが、よくできていましたね。このマーロウという主人公の独特の倫理観、これがホッパーの絵の作法とどこかでつながるような気がします。「細かすぎず、器用すぎず、そして人物であろうと感情移入をしすぎることもなく」というホッパーの特徴が、厳しい現実と突き当たりながらも決してずるくはならないマーロウの姿勢と共通しているように思います。
そこで私は、かつて美術評論家の宮川淳(1933-1977)が、戦後アメリカ美術の特徴として「プロテスタンティズム」という言葉を使っていたことを思い出しました。
「アメリカ美術の《プロテスタンティズム》を語るとすれば、われわれはなによりもまず描く行為の現在進行形-イリュジョニスムを否定する禁欲性に支えられたこの現在への意志をこそ挙げなければならない。」(『記憶と現在』)
宮川は、抽象表現主義からポップアート、ミニマリズムと様変わりする「戦後アメリカ美術のidentity」として、この「プロテスタンティズム」を読み取っています。みごとな読みとしか、言いようがありませんが、その「identity」が、宮川が言及しなかった戦前の具象画家であるホッパーや、さらに通俗的なハードボイルド小説の主人公の中にもつながっている、と読むのはいささか強引でしょうか。
今回は、夏休み(?)ゆえのすこし寄り道した話になりました。このあとは、わけあってグリーンバーグとポロックのことについて、勉強する予定です。何か成果があれば、ご報告するかもしれません。
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