美術史上でとくに有名というわけではないけれど、気になる画家というのが、誰にでもいるのではないでしょうか。例えばモンティセリ、ポリアコフという二人の画家は、一般的に誰もが知っているとは言えないと思うのですが、私にとっては気になる画家です。
このふたりは、生きた年代もずれているし、「具象」と「抽象」という絵のスタイルも異なります。しかし、彼らの絵画から感じられる「触覚性」とでもいうべきものが、私には特異なものに見えるのです。視覚的な芸術である絵画において、「触覚性」といってもわかりにくいかもしれません。文字通り、絵画の触れ方、ということならば、画家の筆のタッチ、あるいは絵の具のマチエールということになるでしょう。それで間違いではないのですが、それだけではないような気がします。絵画を見るときに、私たちは目で見るわけで、直接、絵に触れるわけではありません。ですから、具体的な絵筆の痕跡や、絵の具の盛り上がり方から、私たちは画家がどのように絵に触れたのかを感受するのですが、それが視覚というフィルターを通したものであることを忘れるわけにはいきません。筆致やマチエールが際立って見えるのかどうかは、色の使い方などさまざまな視覚的な要素が影響しているのです。近代にいたるまで、画家はこのような「触覚性」を、表現の裏側に隠してきました。作品を重厚に見せたり、軽やかに見せたり、という演出のために、「触覚性」は欠かせない表現要素だったと思うのですが、それは表立って見せるものではありませんでした。それが、ロマン派の頃からでしょうか、徐々に画面上に隠さずに表現するようになってきました。
そこで、アドルフ・モンティセリ( Adolphe Joseph Thomas Monticelli 1824-1886)です。彼はロマン派の少し後の世代、自然主義や写実主義の世代とほぼ同じ世代の画家だと言っていいでしょう。現在では、彼が後のセザンヌやゴッホに影響を与えたことの方が、彼の絵そのものよりも大きく取り上げられています。実際のところ、私がモンティセリについて知ったのは、セザンヌが影響を受けた画家のひとりだったからです。そして私の知る限り、モンティセリの作品を日本でしっかりと取り上げた展覧会は、1995年のブリヂストン美術館の『特集展示:モンティセリ』という展覧会のみです。いまでは、そのときに購入した小冊子のようなカタログが、貴重な資料となっています。ということなので、もしもこの画家の作品をご存知ない方がいらしたら、次のホームページを見てください。
(http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/monticelli.html)
作品写真からもわかるのですが、過剰なほどの筆致が画面を覆っています。それが油彩画特有の光沢とあいまって、写真のところどころに反射した光となって出てしまって、色や形を見づらくしています。写真だからこのように見えるのだろう、と思われるかもしれませんが、私の記憶では本物の作品も同様の印象がありました。それはゴッホを飛び越えて、表現主義などにつながるような感じすらしたのです。そして、こんなことを書くと生意気だと思われるかもしれませんが、モンティセリのマチエールは、現代美術のさまざまな表現方法に慣れてしまっている私たちの目から見ても、丁度よいと思われる範疇を微妙に超えてしまっていると思います。興味深いのは、なぜそれほどまでに過剰な筆致で、彼は絵を描いたのかということ、そしてそのどこにセザンヌは魅かれて、影響を受けたのでしょうか。
私はその鍵になることばが、「触覚性」なのだと思います。私は彼の筆致が直接、描く対象に筆先で触るようものであり、さらにキャンバスの上でその感触を再現するようなものでもある、と考えます。その触覚的な感覚が、ものの存在感をどのようにして画面に定着させるのか、というセザンヌの生涯のテーマに大きなヒントを与えたのだ、と考えます。セザンヌが印象派と距離をおいて独自の道を歩んだのも、モンティセリが孕んでいた絵画の可能性をセザンヌが継承したからだ、と考えるなら、モンティセリという人はなかなか重要な作家だということになります。ただ、モンティセリ自身の作品を見ると、先ほども書いたようにマチエールがやや過剰に上滑りをしてしまっていることが多く、それが「触覚性」を曖昧なものにしてしまっているように思います。セザンヌの作品のように、晩年になるほどクリアーに対象の存在感に迫っていくような感じではないのです。
一方、ゴッホですが、ゴッホ本人がモンティセリの色彩から影響をうけた、と言っています。
「ゴッホにとって色彩画家としてモンティセリは、ドラクロワの最大の後継者であった。色彩について語るとき、彼の口からほとんど連鎖的にドラクロワとモンティセリの名が出てくる。」(『ブリヂストン美術館カタログ』より)しかし、このカタログの中でも書かれていることですが、色彩ということでいえば、例えば同時代のゴーギャンの影響の方がより大きいと言えるでしょう。むしろ、ゴッホとゴーギャンを分かつもの、ゴッホをゴッホらしくしているものの核にモンティセリがいるのではないか、と私は考えます。例えば、ハイデガーが芸術について語る際に、ゴッホの靴の絵を取り上げていますが、それはゴッホの絵がものの存在感に迫るものだったからでしょう。(当ブログ 2013.8.25参照)その絵がモンティセリの影響で描かれたものだとは言えませんが、資質として両者は似たものを持っていたのではないか、と私は考えます。
さて、セルジュ・ポリアコフ(SERGE POLIAKOFF 1906~1969)ですが、彼はモスクワの富裕な家庭に生まれましたが、ロシア革命を逃れてパリに落ち着き、戦後フランスを代表する抽象画家となりました。私が学生の頃、画廊や美術館のギャラリーで、彼の小さな作品展を見たことがありますが、その後、日本で本格的に紹介されたことはないのではないでしょうか。もしも作品をご覧になったことがなければ、例えば次のホームページをご覧ください。
(http://paulparis.exblog.jp/9834231)
(http://www.againc.co.jp/poliakoff.html)
いま見ると、何の変哲もない抽象絵画のように見えます。色や形のパターンをおさえておけば、模倣やデザイン化もしやすいかもしれません。しかし、この画家の興味深いのは、そういう色や形のパターン化だけではおさまらないところです。
ポリアコフの絵は、おおむね単純な形の色面による構成でできています。しかし、彼の絵の中にはそのひとつひとつの色面が平滑に塗られていなくて、波立つような筆のタッチ、もしくは色むらが見られるものがあるのです。この色むらが、色味の異なる隣の色面と繋がって見えたり、あるいは別の場所の色面と繋がって見えたりします。そのことにより、色彩による区切りとは異なる画面の構成が表れてきて、彼の絵を複雑で広がりのあるものにしています。その波立つような色むらが、私にはポリアコフ独特の「触覚性」のような気がするのです。彼は色による視覚的な構成と、筆致のむらによる触覚的な構成とを使い分けているのです。私も彼の絵をそれほど数多く見ているわけではありませんが、私の見る限りではその「触覚性」が感じられる場合と、それほど感じられない場合とがあります。「触覚性」が感じられない作品は、やはり精彩を欠いていて、ポリアコフの作品の表面的なスタイルだけが見えてしまいます。
いまのところ、彼の絵について書けることはこれぐらいでしょうか・・・。もう少し数多く、あるいは初期から晩年まで作品をまんべんなく見ることができれば、彼の絵の「触覚性」がどのように形成され、どのようなときに失われてしまうものなのか、わかるかもしれません。
ということで、この二人の画家は絵画における「触覚性」において、とても気になる画家です。例えば、自分の制作に行き詰ったとき、私はどちらかの作品のカタログを思い出したように開くことがあります。カタログといっても、小冊子のようなものなので、多少は想像力で補いながら、自分の作品の中で見失っている対象との接点を、触覚的に探ってみるのです。それでうまくいくこともあるし、いかないこともある・・・、というか後者の方が圧倒的に多いのが現状ですが、そんな見方もしてみるのです。
今回書いたようなことは、ちょっとことばではわかりにくいかもしれません。いずれ、絵画における「触覚性」について、もうすこし煮詰めたことばで書いてみたいと思います。
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