『飯沼知寿子展 Silhouette-言葉が満ちる空間で』という展覧会が、学習院女子大学内の「文化交流ギャラリー」で7月21日(金)まで開催されています。開館時間が9時から16時半までということで、街の画廊の時間帯とズレていますので、ご覧になるときにはご注意ください。
https://www.gwc.gakushuin.ac.jp/news/2023/07/silhouette.html
*実はこの文章を公開した後で、作家の飯沼さんからいくつかのご指摘をいただきました。そのことについては、文末に記してありますので、最後までお読みいただけるとありがたいです。
大学の構内ですので、門を入るときには警備の方にギャラリーを見学したい旨を告げて、手続きを踏んで入りましょう。ギャラリー以外の場所に立ち寄ってはいけません。
門を入ると右側に背の高い木立があって、蝉の声が賑やかに聞こえてきました。地下鉄を乗り継いで、早稲田界隈の雑踏を通ってきた身には、別世界に入ったような心持ちがしました。
展示場の「文化交流ギャラリー」の入り口には、次のような主催者のコメントが書かれています。ホームページにも記載されていますが、改めて確認しておきましょう。
この度、学芸員課程「博物館実習ⅠB」受講生による展覧会を開催いたします。
画家の飯沼知寿子氏は、社会の中のジェンダー構造を露わにし、ふだん見過ごされている女性差別を意識化させるような作品を制作してきました。一つの消失点に向かって視線を導く一点透視図法によって、家父長制や男性優位の社会構造を表象し、その上に「言葉」を重ねるドローイングを行っています。ドローイングは、言葉を発するという行為の集積であり、女性たちが社会を変えようと途切れることなく紡いできた言葉を思わせます。
本展では、特に飯沼氏が初期より表現してきたシルエットに焦点を当てた作品を紹介いたします。絵画と紙の作品のそれぞれに切り抜かれた人型のシルエットは何を表わしているでしょうか。本展が社会と人間の関わりについて考え直す機会となれば幸いです。
(学習院女子大学・文化交流ギャラリーより)
ちなみに「silhouette」を辞書でひくと次の通りです。
「silhouette/シルエット、影絵、輪郭、(流行婦人服・新車などの)輪郭(線)」
そして、この大学のコメントにある「それぞれに切り抜かれた人型のシルエットは何を表わしているでしょうか」という文章ですが、実は今回の展覧会では飯沼さんの作品の中に女性の固有名をタイトルに付した作品があります。その資料も展覧会場ではプリントで用意されていますが、具体的にどのような画像をシルエットとして題材にしたのか、は言葉でしか説明されていません。そこで、ここではその素材について、具体的な画像を探ってみたいと思います。展覧会の作品番号順に掲載しておきます。
6.In a Cell(Artemisia)
アルテミジア・ロミ・ジェンティレスキ(Artemisia Lomi Gentileschi、1593年7月8日 - 1652年[月日不明])は、17世紀イタリア、カラヴァッジオ派の画家。フィレンツェの美術アカデミーにおける初の女性会員。当時としては珍しい女性の画家であったこと、その生涯においてレイプ事件の被害を訴訟した公文書が残ることなどから、ジェンダー研究の対象としても知られる。
(ウィキペディアより)
ここで取り上げられたアルテミジアのシルエットは、1639年にアルテミジア自身が描いた『Self-portrait as the Allegory of Painting』という作品で、日本語では『絵画の寓意』とされています。
「『絵画の寓意』では、彼女がキャンバスに向かっている様子を描き、自分が最高のアーティストであるということを誇示している。権力や生き方が制限されていたバロック時代の女性だが、アルテミジアは絵画を通して女性の力強さ、存在意義を表現した。」
(展覧会プリントより)
https://www.rct.uk/collection/405551/self-portrait-as-the-allegory-of-painting-la-pittura
7.In aCell(Marie)
マリー=ドニーズ・ヴィレール(フランス語: Marie-Denise Villers、旧姓ルモワーヌ、生没年:1774年 – 1821年8月19日)は、肖像画を専門としていたフランスの画家である。長らくジャック=ルイ・ダヴィッドの作品と思われていた肖像画「マリー・ジョゼフィーヌ・シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュ」の作者と考えられている。
(ウィキペディアより)
マリーの作品で取り上げられたのは、上記にも書かれている『シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュの肖像』です。よく見ると窓の外の男女が寄り添う部分の窓ガラスが割れています。
「マリーは18世紀のまだ女性の活躍が制限されていた時代に、肖像画家として活動した、当時には珍しい女性画家である。絵を描いている若い女性がまっすぐにこちらに視線を向けるその後ろで、窓ガラスが割れている構図には違和感を覚えさせられる。」
(展覧会プリントより)
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437903
8.In a Cell(Frida)
マグダレーナ・カルメン・フリーダ・カーロ・イ・カルデロン(Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón、1907年7月6日 - 1954年7月13日)は、メキシコの画家。インディヘニスモの代表的美術作家。メキシコの現代絵画を代表する画家であり、民族芸術の第一人者としても数えられる。
(ウィキペディアより)
フリーダは幼少時に病で片足の成長が止まったということです。さらに若い頃の通学時の事故で背中や足を痛めます。その後、有名な画家ディエゴ・リベラ(Diego Rivera、1886 - 1957)と結婚、離婚、再婚と波乱万丈の生涯を送りました。この展覧会では彼女の不思議な自画像である『二人のフリーダ』が取り上げられています。
「この自画像では、一人は西洋風のドレスを着て傷ついた心臓をもち、もう一人は民族衣装のドレスを着て健康な心臓をもつ、二人のフリーダが血管で結ばれて手を繋いでいる。」
(展覧会プリントより)
フリーダの作品を見ると、その幻想的な発想に驚かされますが、ラテン・アメリカの現代文学を読むと、そのイメージの豊かさに共通したものを感じます。
https://www.fridakahlo.org/the-two-fridas.jsp
9.In a Cell(Niki)
ニキ・ド・サン・ファル(Niki de Saint Phalle、1930年10月29日 - 2002年5月21日)は、フランスの画家、彫刻家、造形作家、映像作家。ファッション・モデルとして活躍した後、アートセラピーとして絵を描き始め、芸術表現による自己解放として射撃絵画を制作。挑発的・攻撃的な作品、特に社会における女性の役割を批判的に表現する作品(主にアサンブラージュ)から、やがて、女性性を肯定・強調する《ナナ》シリーズへと転じた。
(ウィキペディアより)
ここで取り上げられているのは、私たちにとって親しみのある「ナナ」シリーズではなくて、彼女が射撃絵画を制作していた時のシルエットです。
「血のように絵の具が流れる射撃絵画は、男性性と結び付けられてきた攻撃や破壊の役割を女性であるニキがパフォーマンスすることで、ジェンダーイメージの転覆を試みたものであった。」
(展覧会プリントより)
https://p-art-online.com/artist/niki-de-saint-phalle/
※残念ながら、飯沼さんの作品と同じシルエットの写真が見つかりませんでした。その代わりに射撃絵画を制作している彼女の写真が掲載されているページを紹介します。
10.In a Cell(Yoko)
オノ・ヨーコ(小野 洋子、1933年〈昭和8年〉2月18日 - )は、日本の前衛芸術家、音楽家、平和運動活動家。イギリスのシンガーソングライターでビートルズのメンバーだったジョン・レノン(1940年 - 1980年)と結婚し、共に平和活動、音楽、創作活動を行ったことでも知られている。
(ウィキペディアより)
ここで取り上げられているのは1964年の京都山一ホテルで行われたパフォーマンス『カット・ピース』です。
「『カット・ピース』では、ステージにオノ・ヨーコが座っており、観客は順番にステージに上がり彼女の衣服にはさみを入れていくというパフォーマンスである。写真の中の彼女は目を瞑り、観客に服を切られており、その様子は少し奇妙な空間であると感じさせる。自身のアイデンティティや自己犠牲、他者に対する関係性などを問うフェミニズムの先駆的作品であったが、日本では理解されなかった。」
(展覧会プリントより)
※この写真も、飯沼さんの作品と同じシルエットの写真が見つかりませんでした。こちらは作品のシルエットがちょっとわかりにくいということもあります。同時期の同名のパフォーマンスの動画がありましたので、共有しておきます。
11.In a Cell(Ana)
アナ・メンディエタ(Ana Mendieta、1948年11月18日 - 1985年9月8日)は、キューバ系アメリカ人の美術家である。「1970年代と1980年代における重要なフェミニスト美術家のひとり」であると考えられている。
(ウィキペディアより)
ここで取り上げられているのは、『Rape Scene』(1973)というレイプを主題としたパフォーマンスです。
「アイオワ大学で起きた同級生の強姦殺人事件を受けて制作された。レイプが匿名化され、具体性を失わされることに抗うために、彼女は自身によるパフォーマンスによって、レイプを具体的で個人に関わることとして提示した。」
(展覧会プリントより)
次のリンクは、酷い写真です。苦手な方は、見ない方がいいかもしれません。
https://hammer.ucla.edu/radical-women/art/art/rape-scene
血の痕跡まで再現していて、「パフォーマンス」という言葉がそぐわないほどの迫力を感じます。
さて、これで一通りの紹介になりましたが、実際の作品は、飯沼さん特有の「言葉」をドローイングした画面と、透視図法による線描(女性トイレ?)が重ねられたものです。それに加えて、人物像のシルエットが切り抜かれたり、画面に切り込みが入れられたり、という三重構造の複雑な画面となっています。言葉で説明すると、なんだかややこしい画面のような気がしますが、飯沼さんはこれらのコンセプトの重なりをできるだけすっきりと、シンプルに表現することを心がけていたのだと思います。作品は良い意味で見やすく、美しく、そしてダイレクトに彼女のコンセプトが伝わってくるものです。
ところで、このようにシルエットに重要な意味を託した表現として、私は宇佐美圭司(1940 - 2012)さんの一連の作品を思い起こします。宇佐美さんについては、たとえば次のリンクをご覧ください。
https://www.momaw.jp/exhibit/2016usami/
この和歌山県立近代美術館の解説の真ん中あたりを読んでみましょう。
宇佐美さんの作品は「画面の抽象化を徹底的に押し進めた《還元》シリーズの後、徐々に画面に現れた人間の身体の形は、1965(昭和40)年の『ライフ』誌に掲載されたワッツ暴動の写真から抜き出された4つの人型に集約され、以後の作品の基本的な主題となっていく」というふうに展開していったのです。ですから彼の代表作は、ほぼ暴動の写真の中から選ばれた4つの人型のシルエット、これは宇佐美さんが人間を表現する際の基本的な姿だと定義したものだと思いますが、そのシルエットの組み合わせになっていきました。
宇佐美さんの作品を初めて見た方がそこに描かれた人型を「暴動の写真から抜き出された」ものだと理解することは不可能でしょう。もちろん、宇佐美さんの作品をただ感覚的に見ても良いのですが、彼の考え方を知るとより深く宇佐美さんの芸術が理解できることも事実です。
宇佐美さんという芸術家は、『絵画論』(1980)をはじめとしてさまざまな美術に関する著作があり、またいくつかの美術大学で教鞭も取られていました。彼は表現者としてだけではなく、現代美術の啓蒙者としても精力的に活躍したのです。そのことについて、彼は『絵画論』の「あとがき」で次のように書いています。飯沼さんの作品とも共鳴するところがあるので、読んでみてください。
私は人間の顔や身体の形を記号論的に展開し、描く舞台のモデルとした。モデルは描くことと共に、ことばたちにとってもまた活動の場となったのである。
描くことと書くことが反響しあいながらモデルは鍛えられていくだろう。響いていくことと響き返されることの微妙なずれが、反響することのおどろきとなってくれればいいのだが。
描くことと書くことは、互いに隔てられた別々の事柄だ。事実、文章を書いている数日は描かないことが多いし、描くことに没入しているときは、ことばは何処かにしまいこまれてあるような気になる。しかし、ちょうど呼吸運動が呼気と吸気をくり返すように、描くことと書くことが私の中で繰り返され、両者は一種の鏡像関係をつくりはじめている。
(『絵画論』「あとがき」宇佐見圭司)
私はなぜ、ここで宇佐見圭司さんのことを思い出したのかといえば、シルエットという表現が共通するということもあるのですが、それ以外にも飯沼さんが継続して行なっている表現活動が、「言葉」と「ジェンダー思想」という視覚表現としてはすぐには了解しづらいものを孕んでいて、その点でも宇佐見さんと類似した点があると、ふと頭をよぎったのです。
私は正直に言えば、宇佐見さんの絵画へのアプローチについて、独りよがりの傾向が強く、また彼の作品を感覚的に見ると、意外と旧弊的な絵画の迫力を求めていて、ちょっと古臭いなあ、と思ってしまいます。
一方の飯沼さんの作品ですが、初見でのわかりにくさという点では宇佐美さんと似たところがあるのかもしれません。特にフォーマリズム批評に慣れ親しんだ私ぐらいの世代の人間から見ると、なぜこのような方法を取るのか、と疑問に感じる人もいるでしょう。しかし今回の作品のように、具体的な女性作家たちのシルエットが参照され、それぞれ取り上げられた作家たちの人物像に深い奥行きがある場合に、そこに何も感じない人がいるでしょうか?
確かに、彼女の作品の背後にある広いバックグラウンドと、作品の多重構造と、その美しさと、それらが鑑賞する際には頭の中をぐるぐると巡っていて、時にはうまく調整できないこともあります。しかし、それで良いのではないでしょうか。宇佐美さんは次のように書いていました。
「描くことと書くことが反響しあいながらモデルは鍛えられていくだろう。響いていくことと響き返されることの微妙なずれが、反響することのおどろきとなってくれればいいのだが。」
この点において、宇佐美さんと飯沼さんの作品は似たところがあると思います。飯沼さんの作品が内包している「言葉」の部分を宇佐美さんの「書くこと」に置き換えてみれば、ピッタリと当てはまります。「描くことと書くこと」が「反響しあい」ながら、これから「鍛えられていく」と思うのですが、これは作者である飯沼さんにだけ当てはまることではなくて、鑑賞する私たちの目も鍛えられていく、ということなのです。実際に、私は飯沼さんの絵を見続けてきたおかげで、どんどん彼女の作品を見ることが面白くなっています。継続して見続けることが大切です。
それから、もう一つ付け加えておきます。先ほど私は宇佐美さんの絵は、感覚的に眺めると旧弊的な感じがする、と書きましたが、この点においては飯沼さんの作品は宇佐美さんと似ていません。彼女の作品の平面的な張りの強さと心地よい奥行きは、どうやら彼女の資質によるもののようです。今回、飯沼さんの過去の作品も何点か展示されていましたが、これらの作品が、どれも良いのです。現在の彼女の手法とは、当然のことながら違った描き方をしていますが、彼女の画面の強度と広がりは変わっていません。それを確認できる、という意味でも、今回の展示は見逃せません。
最後にこの展覧会の企画に関する感想を書いておきます。
今回の展示は見応えのあるものでしたが、せっかく大学のギャラリーが飯沼さんという作家を企画したのですから、配布したプリントだけではなくて、もっと彼女の作品の背景がわかるような工夫があると良かったと思います。
それから若い学生の皆さんは、飯沼さんの作品について、あるいは今回取り上げられた女性作家たちの表現について、どう考えているのでしょうか?そのことが、とても気になります。これからの社会は学生の皆さんが作っていくものですから、関連した学科の方たちだけでなく、他学部の多くの学生の方に見ていただいて、いろいろな感想を抱いてくださると良いなあ、と思います。
これらのことについて、大学として何か考えていらっしゃるのならうれしいです。とにかく、一人でも多くの方に見ていただいて、何かを感じていただきたい展覧会です。
さて、今回はもう少しだけ、女性の表現者についての情報提供です。
それはNHKのEテレのテレビ番組になるのですが、『100分de名著』で今月は作家の林芙美子(はやし ふみこ、1903 - 1951)さんを取り上げています。私は林芙美子さんの著書を読んだことがないのですが、この番組はなかなか面白いです。
https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/pDOppwpjP0/
林芙美子さんといえば、女優の森光子(1920 - 2012)さんの演じた芝居『放浪記』の原作者として有名です。しかし番組で解説をしている作家の柚木麻子さんによれば、森光子さんの芝居は森さんの創作した面が強く、原作のイメージとは随分と違うそうです。
「放浪記」といえば、菊田一夫脚本・森光子主演で舞台化され2000回を超える公演数を記録したことでも知られます。が、原作を読むと、まるでイメージが異なることに驚かされます。明るさを失わない健気な主人公の人柄はどこへやら。描かれるのは、あくなき欲望や家族のしがらみ、愛するものへの妄執など、どんなに偉ぶったところで、誰ひとりとして避けては通れないという人間の赤裸々な姿。それらに翻弄されるのが人間の宿命ならば、突き放して俯瞰し、苦さも含めて味わってみること。芙美子は、日記的な手法で、欲望やしがらみに翻弄される人生の悲喜劇を描き切り、人間の浅ましさ、愚かさ、滑稽さを浮かび上がらせていきました。そして、作品の裏側には、極太のメンタルで人生を痛快に生き抜く、林芙美子の逞しい生命力が脈打っています。
(『100分de名著』ホームページより)
いかがでしょうか?
芝居では「明るさを失わない健気な主人公」になっているということですが、これはいかにも一般受けする女性像に他なりません。それに比べて「あくなき欲望や家族のしがらみ、愛するものへの妄執」を持った女性を主人公にしたのでは、2000回を超えるロングランは無理だったのかもしれません。私は芝居も原作も見ていないので偉そうなことは言えませんが、おそらくはそうだと思います。
それに林芙美子さんの生きた時代には、セクハラ、パワハラが当然の如く存在したのですが、第二回の放送ではそのことが中心に語られていました。
「放浪記」には、女たちを食いものにする情けない男たちが数多く登場。芙美子は、舌鋒鋭く彼らの行状を暴き立てる。持ち込まれた原稿を自分の作品として発表する詐欺師的な編集者、愛人を作りながらも嘘をつき続け金を貢がせる新劇俳優、言うことをきかせようと暴力を振るい続ける詩人…等々。そんな苦境の中で、支えになるのは、女友達との友情と絆。時ちゃん、ベニちゃんといった女友達と、ある時は励ましの言葉をかけ合い、ある時は生活を共にし、厳しい状況を乗り越えていく。第二回は、「放浪記」を彩る女性群像、男性群像にフォーカスし、その中で浮かび上がってくる「お人好しで嫌われ者」という二面性をもつ林芙美子の魅力を浮き彫りにする。
(『100分de名著』ホームページより)
林芙美子さんと同時代の女性たちの多くは、ここで書かれているような男性からの被害に遭遇していたはずですが、それを騒ぎ立てずに黙って受け入れるか、角が立たないように受け流すか、おそらくいずれかの方法しかなかったのだと思います。ところが林芙美子さんは、そこで大騒ぎをし、男の足を蹴り、さらには小説の中で男の嫌らしさを完膚なきまでに表現したということです。林さんの時代に、どれほど男女平等という考え方が広まっていたのかわかりませんが、彼女は感覚的に女性が貶められている社会を許せなかったのでしょう。林芙美子さんは時に一人で、時に女友だちとともに戦っていたのだと思います。
さて、そんな林芙美子さんが、面白い詩を書いています。この番組を見て、彼女のことを少し調べてみた時に見つけた詩です。林さんは小説家であると同時に、詩人でもあったのです。私の友人にコピーを送ったところ好評だったので、ここに書き写しておきます。
『灰の中の小人』
今日も日暮れだ
仄白い薄暗の中で
火鉢の灰を見つめてゐたら
凸凹の灰の上を
小人がケシ粒のやうな荷物をもつて
ヒヨコヒヨコ歩いてゐる。
―姉さんくよくよするもんぢやないよ
貧しき者は幸なりつてねヘツヘツ
あゝ疲れた
私はあんまり淋しくて泣けて来た
ポタポタ大粒の涙が灰に落ちると
小人はジユンジユン消へてゐつてしまつた。
いかがですか?
生活の疲れが滲み出ていますが、それでもユーモアを忘れないところが素晴らしいです。それに「ヒョコヒョコ」「ヘッヘッ」「ポタポタ」「ジュンジュン」といった擬音語の表現が面白いです。こういうふうにヘトヘトの自分を客観視できるところが、林芙美子さんの強さなのかもしれません。男女に関わりなく、辛い時には見習いたいものです。
番組の話に戻りますが、第三回以降はこれからです。どんな話が出てくるのか、林芙美子さんのことを知らないだけに楽しみです。
そういえば、この『100分de名著』で以前、『戦争は女の顔をしていない 』(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ)を特集していた時にも、飯沼さんが展覧会を開催していました。そういう巡り合わせなのでしょうか?
こういうふうに巷間では、ジェンダーの問題に関する意識が高まりつつあります。それなのに、日本のジェンダー・ギャップは低い水準のままです。それは女性にとっても、そして男性にとっても不健全で、良いことではありません。これは社会全体がバランスを欠いているということなのです。こういう社会問題においても、芸術の果たす役割は小さくないと思いますが、本当に反省しなければならない人たちは、芸術に触れる機会のない人たちなのかもしれません・・。
たとえそうであっても、ジェンダーの問題に限らず、私たちは重要なメッセージをくじけずに発信していきましょう。
<追伸>
この文章を公開した後で、飯沼さんよりいくつかのご指摘をいただきましたので、ぜひお知らせしておきたいと思います。
ネット上の広報文と会場の挨拶文は同じではないこと。(よく読み比べず、結果的にいい加減な情報を公開してしまって、申し訳ないです。)
作品Cellシリーズの的確な解説は、学生の方たちが作成されたこと。
展覧会タイトルやポスターなども学生の方たちが多く関わっていること。
それらの活動は(学芸員として)展覧会の表面に出ないように配慮されていること。
そして、展覧会開催までに、飯沼さんと学生の方たちとさまざまな交流があったこと。
以上、私の表面的な見方や誤ちをそれとなく正していただきました。それと同時に、私の予想以上に若い学生の方々が活躍された、意義のある展覧会であることもわかりました。本当に素晴らしい企画、そして展覧会だと思います。飯沼さんのていねいな返信にも、感謝いたします。
石村実