マーク・ロスコ(Mark Rothko, 1903 - 1970)さんをご存知ですか?
ロシア系ユダヤ人の出自を持つアメリカの画家で、現代絵画の大きなムーヴメントである抽象表現主義の代表的な画家だとされています。
実は彼の貴重な作品が、日本のDIC川村記念美術館にあります。
https://kawamura-museum.dic.co.jp/architecture/rothko-room/
このホームページを見れば、この「ロスコ・ルーム」と呼ばれる部屋が、どういう経緯で設置されたのか、どれほど貴重なものなのかがわかります。とはいえ、ここではもうひとつの資料として、ベストセラー作家の原田マハさんが書いた『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』という著書を読んでみましょう。その本が取り上げる(全部で26枚のうちの)21枚目の絵が、ロスコさんの「シーグラム壁画」と呼ばれる作品で、それがDIC川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」にある作品なのです。
次の文章をお読みください。
まさか日本で、それも新しくできたばかりの美術館でロスコを観るなどと、どうして想像できただろうか。
展示の方法が、また見事だった。同時代のほかのアーティストと並べて展示するのではなく、一室を丸ごとロスコのためだけに捧げている。ーそう、それはまさしく「捧げている」と表現するのがふさわしかった。
その部屋に飾られていたのは七点の作品。しかもすべてが大型のカンヴァスに描かれているものだった。七点のロスコ作品が四方の壁にバランスよく掛けられていて(現在の展示室は作品に合わせた変形七角形)、その中央に佇むと、ふわっとあたたかな光に包まれているような感覚になる。
作品はどれも落ち着いた暖色系の色合いで、黒に近い赤、茶に近い黒、臙脂(えんじ)色などの長方形がカンヴァスの中に浮かび上がっている。長方形を縁取るのがきっちりとした直線ではなくゆるやかにほどけた輪郭のせいだろうか、絵全体が発光しているかのような効果を生み出している。カンヴァスの大きさゆえに、色面だけの単純な構成が静かに迫ってくる。
(『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』「21枚目 シーグラム壁画」原田マハ)
この「シーグラム壁画」ですが、もともとニューヨーク、マンハッタンに新築される高級レストラン「フォー・シーズンス」の壁を飾るために、ロスコさんが依頼されたものでした。ロスコさんは自分の作品が他の画家と並べられることを嫌っていたので、自分の作品だけを飾るというこの注文を引き受けたのです。しかし作品が出来上がってレストランを見に行った時に、その雰囲気に幻滅して依頼を断ってしまいました。
結果的に、30点の壁画の大作が残されました。それがロンドンのテート・ギャラリー、ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリー、そして千葉県のDIC川村記念美術館の三ヶ所に分けて展示されることになったのです。これらの作品が一同に会する場所を失ったのは残念なことですが、しかし高級レストランの壁に飾られるよりも、じっくりと見ることのできるギャラリー・スペースに収められた方が良かったのではないでしょうか?
そして私たちにとっては、海外に出かけなくてもロスコのまとまった作品を見ることができるのですから、こんなにうれしいことはありません。美術館のホームページを見ていただくと、これらの作品を展示するために、最大限の工夫をされていることがわかります。私は折に触れて、この「ロスコ・ルーム」について話題にしてきたのですが、今月末に友人と一緒にこの場所を再訪することになりましたので、これを機会にロスコの芸術について振り返っておこうと考えた次第です。
再び、原田マハさんの著書にもどりましょう。
次はロスコさんの生い立ちについて、かんたんにおさえておきます。ユダヤ系ロシア人としてロシアに生まれたロスコさんですが、反ユダヤ勢力の迫害を避けるために、彼がまだ子どもの頃に家族でアメリカへ移住します。このような精神的な困難が、ロスコさんの内省的な性格を形成し、哲学への興味を抱かせたのではないか、とマハさんは分析しています。
そのロスコさんが、本格的に美術を学び始めたのは大学生になってからです。マハさんがとても要領よく、ロスコさんの生い立ちをまとめています。
奨学金を得てイェール大学に通ったのち、ニューヨークでアートを学んでいた友人の影響で「絵を描いてみよう」と決心する。しかしその後、進路がはっきりと定まらず、俳優になろうとしてみたり、グラフィック・デザインの勉強をしてみたりと、しばらく迷走するが、あらゆる階層に開かれた美術学校、アート・スチューデンツ・リーグでキュビスムの画家、マックス・ウェーバーに師事し、これを境に本格的に画家の道を目指すようになった。
1920年代のアメリカに次々に紹介されていたヨーロッパで生まれた新しい美術の潮流や画家ードイツ表現主義、シュルレアリスム、パウル・クレーなどに影響を受け、ロスコは生真面目に道を極めようとする。20年代から30年代にかけては、暗く重苦しいシュルレアリスティックな都市の風景などを描いていたが、なかなか自分自身の表現を見出だせずにいた。この頃のロスコは生活も苦しく、学校で彫刻制作の授業を受け持ったりしながら、どうにか日々暮らしているような状態だった。
一方でこの時期、ロスコの創作に決定的な影響をもたらす人物との出会いがあった。画家ミルトン・エイブリーである。ロスコよりも18歳年上のエイブリーは、色の扱いではなく、色彩との付き合い方を教えてくれた。その頃、ともにエイブリーに学んだ仲間たちの中に、のちにロスコとともに「抽象表現主義」の主軸となって活躍するバーネット・ニューマンがいた。ニューマンもまた、シンプルな構成の中に深遠さを秘めた、色を主役にした大画面絵画を創作したアーティストである。
(『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』「21枚目 シーグラム壁画」原田マハ)
少々、見慣れない固有名詞が出てきたかと思います。
まずはロスコさんの師、マックス・ウェーバーさんですが、この人はどんな作品を描いたのでしょうか?こちらのリンクを御覧ください。
https://www.meisterdrucke.jp/artist/Max-Weber.html
このウェーバーさん(Max Weber、1881‐1961)は、社会学者のマックス・ウェーバー(Max Weber、1864 - 1920)さんとは、別人です。
また、アメリカでは有名なミルトン・エイブリー(Milton Clark Avery , 1885 – 1965)さんですが、日本で彼の絵を見る機会はそれほど多くありません。作品は素朴ですが、実に美しいです。こちらのリンクを見てください。
https://www.wikiart.org/en/milton-avery/gaspe-pink-sky-1940
そして、初期からのロスコさんの作品の変遷をご覧になるには、次のリンクをどうぞ。
https://www.artpedia.asia/mark-rothko/
具体的なモチーフからシンプルな色面の絵画へとゆっくりと変わっていった様子がわかります。
こうして振り返ってみると、ロスコさんの作品が、独特の人物像や神秘的な形象から、滲むような色面へと移行していく過程が、実に興味深いです。例えば、彼の先達だったピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんやマティス( Henri Matisse, 1869 - 1954)さんの場合は、形体の単純化が徐々に進んでいって、その帰結として大きな色面が現れたのですが、ロスコさんの色面にはそのような明快さがありません。そういう構造的な平面化であるならば、そこに一定の論理を見出して、その内容を共有することができるのですが、ロスコさんの描いた形象が色の海の中へ滲んでいき、やがて完全に溶けて消えていく様は、理屈としては共有できない、何か神秘的な、あるいはロスコさんにしかわからない内向的な感じがするのです。
おそらく20世紀初頭の美術の動向には、モダニズムが一気に進んでいく中で、その陽の部分をピカソさんやマティスさんが、そしてその理詰めの変革ではカバーしきれない陰の部分をシュルレアリスムや象徴主義が、というふうな区分が何となくあったと思います。しかし、そのような時代とは違って、ロスコさんの時代にはそれらがひとかたまりとなってヨーロッパからアメリカへと渡ってきました。その数十年間の時間的な差や地理的な距離が、画家の創作環境に影響していたのかもしれません。抽象表現主義の画家たちが近代化の中でシュルレアリスムから受けた影響は大きく、その事に関するさまざまな研究があるようです。
あるいは、アメリカの抽象表現主義の画家たちが悶々と個性を形成しようとしていたのが第二次世界大戦中のことでした。そういう時代の不安な雰囲気が、とりわけロスコさんの自己形成に影響したのかもしれません。その事情について、原田マハさんが興味深い解釈をしています。先ほど引用した部分の続きを読んでみましょう。
ヨーロッパでナチス・ドイツが台頭し、1939年、ついに、第二次世界大戦が勃発する。実はロスコが、本名の「マーカス・ロスコウィッツ」から「マーク・ロスコ」に名前を変えたのはこの翌年のことだ。ユダヤ系ロシア人とわかる名前を封じ込めるためだった。アメリカにいながらにして、ロスコはユダヤ人迫害の悪夢に苛まれた。しかし名前を変えることはできても、出自を消し去ることはできない。ヨーロッパで戦争が繰り広げられているあいだ、ロスコは、神話や哲学にひたすら没頭した。消去できない過去を忘れようとするかのように。
(『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』「21枚目 シーグラム壁画」原田マハ)
戦争当時のナチスの脅威については、私たちは想像するしかありません。遠いアメリカに逃れたロスコさんでしたが、原田さんが解釈するように不安は消えなかったのかもしれません。ロスコさんの名前の変更がそのころのことだった、というのは鋭い指摘だと思います。
このように、ロスコさんに限らず、抽象表現主義の画家たちの芸術の形成期について、あれこれと考察を加えていくと興味が尽きないのですが、それだけにきりがありません。なかなか「ロスコ・ルーム」までたどり着けないので、先を急ぎましょう。
さて、そのロスコ芸術の到達点、たとえば「ロスコ・ルーム」はその頂点のひとつなのですが、それははいかなるものであり、私たちはそれをどのように評価し得るのでしょうか?それに、ロスコさんは66歳で自殺してしまうのですが、あんなに素晴らしい作品を作った人がどうして自らの命を絶ってしまったのか、そのあたりのことも気になります。原田マハさんは、このロスコさんに関する章を次のように結んでいます。
完成したレストランを訪れたロスコに、いったいどんな絶望が訪れたのだろう。イメージしていた究極の展示にはほど遠いと、彼は判断した。画家の野望が断たれた瞬間だった。
すでに仕上がっていた30点は行き場を失った。ロスコはそのうちの9点をロンドンのテート・ギャラリーに寄贈し、ヒューストンにある教会ーのちに「ロスコ・チャペル」と呼ばれるようになるーの壁画制作を完成させたのち、66歳で自らの命を絶った。最後までこだわったのは、自作で空間を覆い尽くす、その一点であった。
DIC川村記念美術館のロスコの展示室は「ロスコ・ルーム」と呼ばれて、ただただロスコの作品のみが空間を覆い尽くしている。
ロスコの絵に囲まれるーそれはまるで光の腕に抱かれるような得がたい経験である。マンハッタンでもなく、ワシントンD.C.でもなく、ロンドンでもない。ここ日本でその体験がかなう。こだわり抜いた画家の思いに、光にいだかれながら浸ることができる。
(『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』「21枚目 シーグラム壁画」原田マハ)
この『いちまいの絵』は美術の専門書ではなく、新書判の一般的な啓蒙書です。ですから、ロスコ芸術を深く論じることが目的ではなく、ロスコさんの絵画へと一人でも多くの人を誘うことが目的だったはずです。その点で、原田さんの文章は、とてもみごとなものだと思います。
しかし、もう少しロスコさんの芸術について深く考えたい方は、私の愛読書である『絵画の思考』という持田季未子(1947 - 2018)さんの書かれた著作を読むことをおすすめします。あるいは同じ持田さんの書かれた『芸術と宗教』という著書があります。こちらはなかなか手に入らないかも知れませんが、こちらの本の中でもロスコさんについて論じた部分があります。
これらの持田さんの文章は、日本の美術批評のなかでロスコさんを論じたものとして最高のものだと私は考えています。実は私は、以前にこのblogでそれらについて書いています。ちょっと消化不良気味ではありますが、ぜひご参照ください。
88.持田季未子『絵画の思考』『芸術と宗教』―ロスコ論から―
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/0780615501eb25b789606e0d69c7973d
この中で、持田さんはロスコさんが「ロスコ・チャペル」の作品へと至るうちに、次第に色彩を失ってしまったことに注目しています。そして芸術と宗教との関わりが、簡単ではないことも示唆しています。持田さんはこんな厳しいことを書いています。
最晩年の一連のモノクロームの作品は、二つの矩形が層をなすように描かれているので一見以前のスタイルの延長上にあるが、よく見ると黒とグレーのアクリル絵の具だけを使っていること、色面の端にささくれや塗りムラがなくなり直線的な硬直した印象を与えること、などの点で成熟期のものとは一線を画している。豊かな色彩を失い、表現力に欠けたものになっている。率直にいうと、まるで別人のような痩せかたである。チャペル壁画を境に画風が一変した。
晩年のこの急速な変化を私は不思議に思いながら、画家が老齢になり力が衰えたためかぐらいに思ってそれ以上気にとめないでいた。だがこれを宗教的世界観のあらわれとして説明する研究もある。すなわちロスコが1959年にイタリアを旅行した際に訪れたヴェネツィア近郊の12世紀の寺院の壁画が、チャペルの建築、キャンバスの配置、個々の絵の表現法、配置構成など全般にわたって決定的な影響を与え、さらにチャペル後に制作された「ダーク・ペインティング」の上下二段構成の画面にも天上と現世を二分するキリスト教的世界観が象徴的なかたちで反映しているという推定である。
この影響関係の推定が事実とすると、残念だが宗教と芸術の出会いは、少なくともロスコ最晩年にかぎっては、よい成果を生む方向に働かなかったと言わざるを得ない。なぜなら結果として生じた作品が以前とくらべてあきらかに表現力を失っているからである。第一ロスコ芸術は色彩がいのちであったのに、無彩色を選んだのは自殺行為であろう。かれの実人生もまもなく自殺というかたちで悲しい終わりにいたる。
教訓は、現代における宗教と芸術の実りある関係は、共同体のなかに信仰が生きていた中世の宗教美術や教会建築などとは異なるものであるべきだ、ということであろうか。
(『芸術と宗教』「20世紀の死者たちのために」持田季未子)
これは本当に厳しい評価だと思います。そして、多くの人が「ロスコ・チャペル」と呼ばれる(「ロスコ・ルーム」の作品群よりあとに描かれた)壁画を、巨匠ロスコの到達した境地として崇めているのに対し、そういう先入観などまったく感じさせない持田さんの批評を、私は心から尊敬します。残念ながら、私は「ロスコ・チャペル」を見たことがないので軽はずみなことを書けませんが、一般的に年老いた作家が枯れていくことに対して、それを仙人のような境地であるかのように称えてしまう傾向がありますが、私はそれに対して違和感を抱きます。その老作家が「巨匠」とか、「大物」とか言われる人であるならば、なおさらそのような安易な批評に流されることは許されないはずです。例えば、持田さんがここで「宗教」と「芸術」に対して発した警告は、持田さんの濁りのない批評眼があればこそ可能であったのです。
さて最後に、原田マハさんの新書とは対照的に、いまではほとんど入手不可能だと思われる三井こう(「氵」+「晃」という文字です)さんという1929年生まれの研究者の書いた『現代美術へ』という本から、ロスコさんの晩年について書かれた部分を読んでみましょう。三井さんは宮城教育大学で教鞭をとられていた方ですが、インターネットの情報網ではその後のことがわかりません。この本は1985年に文彩社から発行されたもので、先程も書いたようにいまでは入手不可能だと思いますが、まだ抽象表現主義の画家たちに関する情報が十分でなかった時代には価値のある知識をもたらしてくれました。
三井さんはロスコさんの成熟期、そして晩年について次のように書いています。
ロスコの作品には、とくに60年ごろまでのものには、赤を主調とする作品が多い。それも朱系の赤の印象が強い。フィリップス・コレクションに『赤の上のオーカーと赤』(1954)という作品があるが、この後のほうの赤、それは下方三分の一ほどを占める純色に近い赤であるが、画面の上部約三分の二を占めるオーカーが、周囲と背後から浸透する赤のために、紅色に燃え上がり、それが下方の赤にも反映する。観者は、画面の内部から燃え上がる炎に対面するかのような印象さえうけるであろう。赤い色面というと、マティスの『赤いアトリエ』(1911)を思い出させる。このマティスの作品は、アトリエの壁も床も全体を一様な赤で被いつくすことにより、奥行きを生み出すと同時に、絵画の平面をアラベスクのように活性化している。そしてその181×219センチという大きさも、ロスコの色面絵画の先駆といってよい。しかし、ロスコは、現実的背景にはまったく手掛かりをもたない。内部の矩形とその周囲の空間によって、そして微妙に変化する筆触と、透明な色彩によって同様な効果を得ている。しかもそこに託される感情効果には大きな差異がある。マティスの世界は、彼自身が語ったように、”肉体的疲労を癒す良いアームチェアのように、精神的鎮静剤となる芸術”の世界である。ロスコの赤は、むしろ悲痛な感情の中に瞑想を誘うのである。それはマティスの時代よりはるかに苛酷な状況にある現代のものであるだけではなく、それ以上に、文明などはまだ知らぬ時代から、人間の生きるということにつきまとってきた感情である。
(『現代美術へ』「第Ⅵ章 マーク・ロスコ」三井こう)
先程から私も比較した、マティスさんとの差異がみごとに書かれています。ロスコさんの絵画の内面性について、深く、そして具体的に書かれた内容が素晴らしいです。
そして、三井さんはロスコさんの晩年について、あるいは「ロスコ・チャペル」について、次のように書いています。
暗色はときにキリストの受難を、そして、そこに挿入される明色は復活の祈りを暗示するものとなる。私は、彼の大作、いわゆるハーバード大学のトリプティクも、ヒューストンの通称ロスコ・チャペルとして知られる建物にセットされた晩年の大壁画もまだみていない。しかし、これらの作品を含めて、ロスコがその最後の十年間に精魂を傾けた作品が、絶望と切実な祈りの中に生まれてきたものであることを信ずることはできる。
しかし、結局は、黒と灰色だけの世界にいき着く以外にすべがなかったとき、自らの命を絶たねばならなかった画家の生涯を考えるのは悲しいことである。彼はすでに58年、自分の芸術の処方の成分として死を第一にあげていた。
「明白な死への専念。あらゆる芸術は死すべきものの暗示を取り扱う。
官能性。それは、世界について具体的であるための根拠。
アイロニィ。近代的要素(ギリシア人はそれを必要としなかった)、それは人間がしばしの間、その運命を逃れうると思わせるような自己の抹殺と自己検証。
約10パーセントの希望ーこの種のものを必要としたにしても、ギリシア人は決してそれについて語らなかった。」
(『現代美術へ』「第Ⅵ章 マーク・ロスコ」三井こう)
最後の部分はロスコさんが、講義で語った一節のようです。「あらゆる芸術は死すべきものの暗示を取り扱う」とロスコさんは亡くなる12年前に語っていますが、確かに芸術に携わるものが「死」について考えない、ということはありえないでしょう。それは自らの限界であれ、苦難からの救済であれ、芸術において「死」はつねに影を落としているものです。
しかし、「死」をあまりに見つめ過ぎてしまうと、「結局は、黒と灰色だけの世界にいき着く以外にすべがなかったとき、自らの命を絶たねばならなかった画家の生涯を考えるのは悲しい」と三井さんが書いたような帰結に至ってしまうのかも知れません。三井さんは持田さんよりも優しい目でロスコさんの晩年を見ていますが、それでも感受した内容には共通するものがあったようです。
私は、ロスコさんの絵画が秘めていた色彩の感情表現のようなものについて、今一度考えるべきときがきているなあ、と感じています。そんなロスコさんの表現の対極にいるのが、現代絵画の巨匠と言われるドイツのリヒターさんです。ゲルハルト・リヒターさんは、色彩を物質として扱うことで、軽々と大作をものにして、現代最高の画家となりました。リヒターさんの抽象絵画は、抽象表現主義の手法に学びながら、その精神的なものを振り落とすことで方法論としての推進力を得たのです。しかし私はリヒターさんの絵画をじっくりと味わうことができません。そこには味わうべきものがないからです。その一方で、絵画表現の中に深い心理を込めて、それがやがて白黒の世界へと枯れていったロスコさんの芸術へのアプローチにも問題があったのかも知れません。
私はロスコさんの芸術のなかに「生」へとつながるような論理を見出すことはできないか、と考えています。それには「ロスコ・ルーム」の時期のロスコさんの作品がふさわしいように思います。ロスコさんが「死」に魅入られる前に、まだ「生」の輝きを表現しようとしていた絵画に、その色彩表現に、これからの絵画の可能性が秘められているような気がするのです。
さて、「ロスコ・ルーム」はどんな部屋なのでしょうか。
私の勝手な意見ですが、ロスコさんは30点もの大作で自分の世界を表現しようとしたようですが、それはちょっとやり過ぎです。他の人の作品と並べられたくない、という気持ちもわかりますが、芸術作品には作家の思い通りにならないほうが健全である場合も多いのです。ロスコさんは、遠い東洋の異国で多くの人が自分の作品に囲まれてさまざまな思いを抱くさまなど、想像もしなかったでしょう。彼の思い通りにならなかった現実は、彼の想像を超えた素晴らしい効果をもたらしています。
そういう現実を、あるいはそういう世界を、もう少し信頼できたら、「ロスコ・チャペル」はもう少し彩りに満ちたものになり、彼ももう少し長生きしたのかも知れません。ときには深刻に、ときには気楽に、平凡な人間である私にはそれほど難しくない生き方ですが、才能がある人には難しいことなのかも知れません。いま、この文章を読んでいる才能豊かな方々も、ご注意ください。私の拙い文章を読む暇な時間があるぐらいが、ちょうどよいのです。
いずれにしても、「ロスコ・ルーム」が私たちの内面に、私たちの知性に働きかけるものを見極めることが、いまとても大切なことです。ロスコさんの表現した色彩が、そのあいまいな形象が、私たちの内面に何をもたらすのでしょうか?「ロスコ・ルーム」は現在においてこそ、さまざまな可能性を秘めた部屋なのだと思います。ロスコさん本人が捨ててしまった現代絵画の可能性が、その部屋の中にあるのかもしれません。あらゆる先入観を捨てて(ここまでいろいろと書いておいて、ちょっと厳しいかも知れませんが・・)、「ロスコ・ルーム」でしばし佇んでみることにしましょう。