ギャラリー檜で『Drawing Show part2』という展覧会を見てきました。
https://hinoki.main.jp/img2023-7/b-2.jpg
出品されている作家の野村厚子さんからDMをいただいたので、見にいくのを楽しみしていたのですが、平日は仕事があるので実際に見に行ったのは最終日の土曜日でした。
そんなわけで、作品のご紹介になればよかったのですが、もう終わってしまった展覧会です。そこで、かんたんな感想をまとめてみたのですが、それと同時に、いま再読している江藤淳さんの『作家は行動する』という本が投げかけている問いに、野村さんの絵が一つの答えをもたらしているような気がしたので、今回はそのことについて書いてみます。
さて、今回の野村さんの作品ですが、大きな紙に描かれたパステル画でした。3点ありましたが、どれも同じ視点から眺めた風景のようで、ほぼ同じ構図で、空が大きく広がっているのが特徴でした。
しかし同じ風景といっても青空と雲の様子は三点三様で、モヤっとして全体に白っぽい作品もありましたし、空の水色と雲の白とのコントラストが印象的な作品もありました。雄大な空を見ながら何とかそれを画面に定着させようと、必死になってパステルを動かす野村さんの姿が目に浮かぶようでした。
と、いま何気なく書きましたが、実はこの「必死にパステルを動かす野村さんの姿が目に浮かぶよう」だ、と書いたことが大切なのです。普通に考えると、作品というのは、そんなふうに描いている作者を思い出すようではダメです。作品だけでちゃんと自立し、完結したものにならなければなりません。ところが野村さんは、あまりそういうことにこだわっていないようです。とにかく彼女は、目の前の空や雲を描くのに必死なのです。その結果、パステルの動いた軌跡も露わなままに残されて、それが野村さんの感受した視覚の記録にもなっているのです。
実は、野村さんの表現の本当に素晴らしいところは、野村さんの作品と野村さんが感受した視覚との間に、ほとんど夾雑物のようなものがないように見えるところなのです。普通の画家なら、先ほども書いたように、作品が見栄え良く完結するように、とか、自分の技術や個性を何とかそこに盛り込みたい、とか、そんなことを考えます。しかし野村さんとお話ししていると、本人にはそのような考えがまったくなくて、自分の視覚と描画行為が直結したように描くことがごく自然にできてしまうのです。
私はこのような野村さんの表現を「本当に素晴らしい」と何のためらいもなく書いてしまうのですが、実は作家が行動した軌跡をそのまま表現として認識し、そのことをちゃんと評価する、ということは、批評の理論としてはなかなか難しいことなのです。
これから取り上げる江藤淳さんの『作家は行動する』は、私が野村さんの作品を見て感じ取ったことと同じようなことを、何とかしっかりと理論化して批評として位置付けようとする試みだったのです。この本の中には、当時の文芸批評に関する批判や、文学ならではの問題意識が含まれていますが、それらについてあれこれと言及する資格は私にはありません。そこでこのあとは、野村さんのドローイングを思い浮かべながら、『作家は行動する』の中から絵画にも共通する問題点についてのみ、取り上げていくことにします。
ところで皆さんは、江藤 淳(えとう じゅん、1932 - 1999)さんという文芸評論家をご存知ですか?生前は東京工業大学、慶應義塾大学教授を歴任し、文芸評論以外でも保守派の論客として活躍された方です。テレビでお姿を拝見することも多かったと思います。亡くなって25年近く経つ江藤さんについて、あるいは64年前に書かれた『作家は行動する』について、なぜいま再読し、考察しようとしているのか、というとこれは個人的な話になります。私も高齢になってきましたので、本やレコードなどの身の回りのものを少しずつ整理しています。LPレコードは中古屋さんに7万円ほどで引き取っていただきました。そんな中で、この『作家は行動する』という本についても、その整理のかたわら読み直してみたのです。その再読の過程で、そこには現在にもつながる問題が提起されていたことがわかりました。そして野村さんのドローイングを見て、まさにこれは『作家は行動する』の内容を視覚化したものではないか、と思い当たったのです。
それでは『作家は行動する』とは、どういう本なのでしょうか?本屋さんの紹介文を引用してみます。
「人間の行動はすべて一種のことばである」―文体は書きあらわされた行動の過程、人間の行動の軌跡である。ニュー・クリティシズムやサルトルの想像力論の批判的摂取を媒介に、作家の主体的行為としての文体を論じた先駆的業績であり、著者自らの若々しい世代的立場を鮮烈に示した初期批評の代表作。石原慎太郎、大江健三郎らの同世代の文学と併走しつつ、文学の新たな可能性の地平を提示する。
(インターネット紹介文より)
さっそく難しい言葉が出てきました。
ニュー・クリティシズム(New Criticism)= 一九三〇年代に米国で確立した文芸批評の方法。作家の伝記や時代背景の知識を重視せず、作品を自律的なものとして、その構造・意味・象徴性などを解明しようとするもの。
この『作家は行動する』は、教養主義的な古い批評に対して、作品そのものに目を向ける新しい批評が出てきた状況の中で書かれたのでしょう。先にお断りしたように、私には文芸批評のことについて言及するだけの知識がありません。したがって、ここでもわかる範囲のことだけを書いていきます。江藤さんは「ニュー・クリティシズム」の理論をそのまま応用するようなことはしませんでした。しかし、作品の歴史的な背景とか、作者の来歴とか、作品以外の要素に論点を逃してしまうような教養批評はしなかったのです。その点では、「ニューク・リティシズム」の理論を「批判的」に「摂取」したのだと言えるでしょう。江藤さんは私が生まれる少し前の時代に、新たな文体論を提唱した若い批評家として文壇に現れたのです。そして大江健三郎(1935 - 2023)さんのような同世代の作家とともに、大いに注目されたのでした。
それでは、その『作家は行動する』の書き出しの部分を読んでみましょう。
文学作品はことばで書かれる。文体論というものは、文学作品を意識的にことばの面から批評することである。これは犬が西むきゃ尾は東というのと同じ程度にわかりきった話であるが、それからさきはいっこうにわかりきっていない。つまり、文体批評の出発点は言語の批評にある。これは家を建てようと思ったら、土台からかためてかからなければならないというのと同じことであっても、ものごとを本質的に論じるとはもともとこのような態度のことをいう。
しかし、現在世間に氾濫している「本質論」のたぐいはがいしてこのようなものではない。人間の存在や行動の問題である文学の問題が、主として技術の問題であるなどというのはこのような「本質論」の特徴であるが、世の中に一切の問題が主として技術の問題であるような人間は原則的にいって存在しない。
<中略>
簡単にいえば、人間の行動はすべて一種のことばである。そして人間の行動を人間の存在からきりはなすことはできない。それは手足が身体からきりはなされてひとりでに動くことができないというのと同じである。文体を技術的に論じるということは、したがって、ことばを、道具として、あるいは身体からきりはなされて盆踊りをおどっている手足のようなものとして論じるということである。それがナンセンスであることはいうまでもない。文体は書きあらわされた行動の過程──人間の行動の軌跡である。
(『作家は行動する』「作家は行動する(1)」江藤淳)
この最後の一節「文体は書きあらわされた行動の過程──人間の行動の軌跡である」というところが、とても重要です。文学作品というものは、人間が何かを表現しようと思って言葉を紡いだ結果、出来上がった作品です。そこが最も肝心なところで、その人間の意志と行動を抜きにして、文学作品の技術的な面ばかりを論じていても意味がない、と江藤さんは考えているのです。今の私たちが読むと、江藤さんの言っていることにほとんど違和感がないのですが、文学作品の言葉を客観的な「もの」のように取り出して、その出来栄えを云々するような批評がその当時盛んであったとするなら、江藤さんのこの物言いはかなり大胆なものであったでしょう。
また、江藤さんは次のように書いています。
最初に、私は「文体」を漠然と「行動の軌跡」とよんだ。しかし行動は恒になにものかからの、なにものかにむかっての行動である。そしてこの場合、文体は、フィクションのなかにとりこめられ、「わな」の網の目をはいまわっているアリのような存在から、真の自由に到達しようとする、人間になるための倫理的な軌跡である。すくなくともそれは、ことばのならべかたの問題などではない。伝統主義的な修辞学者のたぐいは、縁側にとびこんで火を消すことが問題であるとき、ぬいだ下駄のそろえかたを問題にしようという些末主義の徒であって、このような人々の精神構造はやかましやの小姑のそれとあまり相違がない。日本語の美しさを守れという意見がある。しかし、個々の作家のこのような行動への熱情の外側に「美しさ」などというものがあるわけのものではない。もっと充実した行動の軌跡がひかれるとき、文体はつねに美しい。なぜなら、その中には、会社の上役からの、学校教師からの、あの空疎な日常生活のフィクションすべてからの自由の契機があたえられているから。
(『作家は行動する』「作家は行動する(1)」江藤淳)
江藤さんの文章は勢いがあって、時には今では差別用語にあたる言葉も混じっているのですが(引用した文章内には、多分ないと思いますが・・・)、半世紀以上前に書かれたものなので、そこは塩梅して読むことにしましょう。
江藤さんによれば、「言葉」は客観的な「もの」ではなくて単なる記号です。それは人間が何かを表現しようとするときに発せられるものですが、その「言葉」を連ねたものが文学表現上の「文体」となります。その「文体」の美しさを論じるときに、「伝統的な修辞学者のたぐい」はそれを作家から切り離された客観物のように見做して、その「ことばのならべかた」をあげつらうのです。しかし、本当の「文体」の美しさはそのようなものではない、と江藤さんは言っています。その言葉が「充実した行動の軌跡」であれば、「文体はつねに美しい」というのです。
私はこの江藤さんの指摘を、素晴らしい批評だと受け止めます。そしてこの批評の言葉が、そのまま野村さんの作品の批評にあてはまると考えるのです。野村さんが無心で雲の形をおいかけ、隙間から見える空の色に苦心している行為が、そのまま「文体の美しさ」、言葉を変えれば「美術表現の美しさ」につながっているのです。なぜそう言えるのかといえば、野村さんのパステル描画の軌跡が、「充実した行動の軌跡」そのものだと私が感じるからです。
言うまでもありませんが、空と雲を見ながら絵を描けば、誰でもこのような「充実した行動の軌跡」になるわけではありません。野村さんの描く雲の形には、そのふくらみ具合、消えかかって薄白く空と同化していく様子などが、決して器用とは言えないタッチの中で的確に表現されているのです。自分の技術を誇示せず、不必要な表現の婉曲をせず、ただひたすら自分が見て、感じている風景を表現しようとすることで、その描画行為が「充実した行動の軌跡」となるのです。
それからもう一つ、『作家は行動する』の中から、野村さんの作品と関わりそうな重要な問題を取り上げておきます。それは「空間」と「時間」に関する考察です。江藤さんはその問題について、次のように書いています。
一般に、われわれは「空間」と「時間」を対立したものと考えることになれている。三次元の空間があり、第四番目の次元としての時間がある。ということは、われわれの日常生活を成立させている空間は、時間と無関係なものだということである。それは静的なものであり、時間は時計か、カレンダーか、タイム・レコーダーのなかにだけある。これが常識であって、常識というものはいうまでもなく日常生活の「共通感覚」のことであろう。共通であるからには、これは会社員にも、水泳選手にも、文学者にも、ひとしく共有されているということになる。したがって、われわれの日常生活に変化とか、運動とかいうものの意識が欠けている。昨日まで隣の席にいた同僚が左遷されて田舎にとばされるとき、われわれはなにかが変わったと思うかも知れない。しかしそれは二、三日のあいだ空席ができる、ということ以上のものを意味しない。それは空間的な変化であっても、時間的な変化だとは考えられない。
簡単にいえば、われわれはもっぱら時間を客体化してとらえている。前の章の定義によれば、これは人間から切りはなして、という意味であった。人間は家のなか、ビルのなか、電車のなかと、いうような三次元の空間に存在し、時間は腕時計やラジオや、タイムレコーダーのなかにある。時間がみたければ時計を見ればよい。なぜなら、それはそこにあるから。あるいは、せいぜい詩的な表現をつかっていえば、時の流れが流れている。人間はため息をつきながら、世の無情をなげいている。
このようにしてとらえられた時間は、いうまでもなく人間の外側に存在する。科学者や実業家は、それをいくらにでも分割することのできる、軽量的な道具だと考えることをえらぶにちがいない。自然科学はこうして外在化された時間の上にはじめて成立しているし、実業家は「二十四時間をいかにつかうか」ということに頭をなやませる。
<中略>
時間は、実は時計のなかや、タイム・レコーダーのなかにあるものではない。われわれの外側にではなく、われわれのなかにあるものである。そしてそれはわれわれの行動によってはじめてつくりだされて行く。しかも「文体」は前の章でのべたように文学者の行動の軌跡であった。したがって、文体をかたちづくるということ、文体を完成させるということは、作家たちが自分の主体的な行動によって時間をつくって行くということを意味する。逆にいえば、時間をつくりだしていくことに成功しなかった作家、それは外在的なものとしてしかとらえていない作家は、決して真の文体をもつことがなく、当然真の現実に迫るということもない。この関係は正確に相互作用的である。
(『作家は行動する』「二 文体と時間」江藤淳)
重要な点を、まず押さえておきましょう。江藤さんによれば、「文体」と「時間」は切り離せないものです。したがって先ほどの「文体はつねに美しい」という言葉と同様に、「文体を完成させるということは、作家たちが自分の主体的な行動によって時間をつくって行くということを意味する」ということになるのです。
さて、それでは少しずつ内容をみていきましょう。
「時間」が外在的なものではない、という認識については、このblogを読んでくださっている方ならば、もう説明不要ではないか、と思います。時間が人間の外側に客観物として存在する、という考え方は、科学実験に携わる科学者や、労働時間を捻り出したい経営者などの頭の中にしか存在しない、と私は言いたいぐらいです。そのような時間の考え方は、一般的に思われているほどオールマイティなものではありませんし、私たちの生活実感とかなりかけ離れた認識だと思います。そのような客観的な時間の存在も含めて、「時間」はつねに私たちと共にある、と言って良いと思います。
そして絵画における時間を考えるときに、野村さんのドローイングは素晴らしい資料となります。野村さんのドローイングには、大きく分けて二つの時間が存在するのですが、それを一つ一つ見ていきましょう。
一つ目の時間は、野村さんが実際に眺めていた雲の動きや空の色の変化などを表現することによって認識できる時間です。もしも野村さんの表現が、写真のように一瞬の雲の姿を切り取ったものであるならば、画面全体がもっとぎこちなく、また不必要な緊張感のあるものになったことでしょう。しかし、実際の野村さんのドローイングの中には、雲の動きまで彷彿とさせるような緩やかな時間が感じられるのです。それは野村さんの描いた形や色の中に、それとなく野村さんが風景を眺めた時間の流れが反映されているからだと考えられます。このように絵画の中に描かれた形象が、ある程度の時間の流れを反映したものであることは、よく知られた話です。ロマン派の画家、テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault、1791 - 1824)が描いた馬の姿が、写真で撮影された正確な馬の姿よりも生き生きとして見えるというエピソードは、特に有名です。
そしてもう一つの時間は、最初に私が書いた野村さんのドローイングの印象、すなわち「必死になってパステルを動かす野村さんの姿が目に浮かぶようです」ということばの中にカギがあります。すなわち、野村さんのドローイングには、野村さんが描いた行為がその時間の流れとともに表現されているのです。具体的に言えば、野村さんの描いたパステルのタッチ、あるいは色を塗り重ねた痕跡などが、それを行った野村さんの行為を見る者に彷彿とさせるのです。
そしてここでは、江藤さんの戒めに満ちた批評の言葉も、私たちは胸に刻んでおいた方がよいかもしれません。それは「逆にいえば、時間をつくりだしていくことに成功しなかった作家、それは外在的なものとしてしかとらえていない作家は、決して真の文体をもつことがなく、当然真の現実に迫るということもない。この関係は正確に相互作用的である。」という部分です。そう言われてみると、それに当てはまる作品を頻繁に見ることがあります。この江藤さんの言葉が、文芸批評の中でどれほど受容されているのかわかりませんが、絵画においてこういう厳しい批評を書いた人はいないのではないでしょうか?街を歩けば、時間を「外在的なものとしてしかとらえていない」と思われる作品に、よく出会います。それどころか、美術館の中にも名画としてそういう作品が収蔵されていることが多々あります。
たとえば私は、岸田 劉生(きしだ りゅうせい、1891 - 1929)という画家の作品に時折見られる気色悪さは、おそらく劉生が絵画の時間性について理解できていなかったからだろう、と考えています。劉生に関して言えば、絵画表現そのものについて誤解し続けた人ではないか、と思うのですが、それを日本的な写実絵画だなどと持ち上げてはいけないと思います。才能豊かな人だったのに、絵画を誤解したことによって、どんどん自分の表現を貧しくしてしまった人として、戒めを持って語るべき画家だと思うのですが、いかがでしょうか。生前、誰か適切な助言者に出会えていれば、もっと素晴らしい画家になったと思うのですが、ちょっと残念な人です。
そして、この『作家は行動する』をよく読むと、わずかですが文学以外の芸術についても語っています。その部分を引用してみます。
「文体」と「時間」との関係は、あらまし以上のようなものである。そしてまた、なにも文学作品だけが時間的な芸術だというわけのものでもない。あらゆる芸術作品は、このような角度からみれば、それが音楽、絵画、映画たるとをとわずすべて時間的、過程的である。一枚のデッサンをみるとき、それをフォームとしてみようとする人々は空間的な錯覚におちいっている。われわれは、逆にそこに画筆の運動以外のものを感じてはいけない。絵画もまた、みるものではなく実は参加するものである。
(『作家は行動する』「二 文体と時間」江藤淳)
もう解説の必要はありませんね。
江藤さんは「一枚のデッサンをみるとき、それをフォームとしてみようとする人々は空間的な錯覚におちいっている。われわれは、逆にそこに画筆の運動以外のものを感じてはいけない。」とかなり極端なことを書いています。しかし、気にすることはありません。私たちはデッサンを見るときに、そこに描かれた形象を「フォーム」として味わい、そしてまた「画筆の運動」としても鑑賞すればよいのです。先ほど私が言ったように、絵画は「フォーム」の中にも絵画特有の時間が流れているのですが、江藤さんは、そのことをあまり認識しておられなかったようです。
さて、このように60年以上前の文芸評論が、現代を生きる画家のドローイングを批評する際の、見事な指標になるということがあります。それは過去の評論も、現在のドローイングも、共に時間の垣根を越えるだけの質を伴っていればこそ、というものでしょう。私たちは古いもの、とか新しいもの、という先入観を抱かずに、広い視野で作品や評論に触れていく必要があります。
そのことについて、具体的な問題提起を一つ、しておきましょう。
実は美術批評においても、作家の行為性についてはかなり論じられてきました。しかし美術批評における作家の「行為性」は、いつしか絵画表現から離れてしまって、パフォーマンスなどの一つのジャンルを形成してしまい、固定化されてしまったような気がします。その結果、野村さんのドローイングのように、優れた「行為性」を持った作品と出会っても、そのことを正当に評価できる人が少なくなってしまったのではないか、と危惧します。文芸評論においては、1959年に作家の行為を「文体」論として、さまざまな考察を試みた江藤淳という人がいました。現在において、それを絵画に置き換えて考察してみると、たとえば今回のようにちょっと考えてみただけでも面白い発見がありました。それはおそらく、江藤淳という文学者が同時代の美術評論家よりも興味深い仕事をしていたからではないか、と思います。
このように、美術批評にこだわらずに、優れた批評を読み解くことが必要です。
それにしても、『作家は行動する』を発行当時に読んだ人の衝撃はどれほどのものだったのでしょうか?この評論は私が生まれる前年に書かれたものなので、私にはそれを推し量ることができません。しかし、江藤さんの勇ましい「文体」に触れると、こういう若手の評論家が注目された時代がうらやましくなります。私には、もうこのような元気な文章を書くことはできませんが、現在という時代が少しでも面白いものになるように、力を尽くしていきます。