平らな深み、緩やかな時間

122.『ピーター・ドイグ展』『なんでもない日ばんざい!』『Hard Times Come Again No More』

新型コロナウイルス感染でがまんの日々が続きます。
こういうときに力づけられる音楽というのが、あると思います。私は、ふだん好んで聞かないけれども、以前に落ち込んだときにラジオで流れてきて力をもらった曲があります。力をもらった、というよりは寄り添ってくれた曲、といった方が正確かもしれません。
19世紀アメリカの作曲家フォスター(Stephen Collins Foster, 1826-1864)の作った『Hard Times Come Again No More』(1854)という曲をご存知ですか?インターネットで調べれば、すぐにいろいろなことが分かりますが、例えば次のページを見てください。
http://www.worldfolksong.com/foster/song/hard-times.html

Let us pause in life's pleasures and count its many tears,
While we all sup sorrow with the poor;
There's a song that will linger forever in our ears;
Oh Hard times come again no more.

(Chorus)
Tis the song,the sigh of the weary,
Hard Times,hard times,come again no more
Many days you have lingered around my cabin door;
Oh hard times come again no more.

人生の楽しみの中で立ち止まり
その多くの涙を数えて見ないか
貧しい者たちと悲しみを分け合いながら
永遠に耳に残り続ける歌がある
ああ、厳しい時代よ もう来るな

(合唱)
その歌は 疲れ切った人々のため息
厳しい時代よ もう来るな
それは幾日も小屋の戸から離れない
ああ、厳しい時代よ もう来るな

これが最初の一節とコーラス部分の歌詞と翻訳です。
私はたしか、ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951 - )のラジオ番組でこの曲のことを知ったのだと思います。つい最近も、この曲が彼のラジオ番組でかかりました。この曲は絶望の歌です。本当に絶望した時、人は空々しいはげましの言葉を聞くことができません。うっかりすると、はげましてくれる人の無理解にいら立ったり、それでさらに絶望したりします。そのときには、こう思うしかありません。「こんな時は、もう二度と来ないで」と・・・。
私の下手な解釈より、有名な歌手が歌っている4つのヴァージョンをご紹介しておきます。

●(https://www.youtube.com/watch?v=RZgOKLFuDOU
トーマス・ウォルター・ハンプソン(Thomas Walter Hampson, 1955 - )は、アメリカ合衆国生まれのオペラ歌手(バリトン)です。あるサイトで「トラディショナルな形に近い録音として、トーマス・ハンプソンがカントリーバンドと共に入れているEMIの録音がアイリッシュミュージックのようにゆったりしたテンポで美しく歌われていてお勧めです」と解説しているのは、たぶんこれだと思います。

●(https://www.youtube.com/watch?v=P17dz6B0x7Y
アーロ・ガスリー(Arlo Guthrie, 1947 - )は『我が祖国』(This land is your land)を作曲したウッディ・ガスリー(Woodrow Wilson "Woody" Guthrie, 1912 - 1967)の息子です。彼自身も『アリスのレストラン』という曲が有名で、昔はギターの教則本によく載っていました。この『Arlo Guthrie & Jim Wilson ft. Vanessa Bryan』についてくわしいことは次のページに載っています。出演者の豪華さより曲の解釈が素晴らしいです。(https://www.musiclifeclub.com/news/20200807_13.html

●(https://www.youtube.com/watch?v=8nLDj-Vn3AQ
ブルース・スプリングスティーン( Bruce Frederick Joseph Springsteen, 1949 - )については、説明の必要がありませんね。これはBruce Springsteen & The E Street Band performing "Hard Times (Come Again No More)" from London Calling: Live In Hyde Park, 2009と説明がありますので2009年のEストリートバンドとのライブのようです。絶望の歌ですが、こんなに力強く歌ってしまうところがさすがです。

●(https://www.youtube.com/watch?v=-ixbah9u234&list=TLPQMTAwODIwMjAKSvS3XhV0Kg&index=1
ザ・ステイプル・シンガーズ (The Staple Singers) の一員でもあるメイヴィス・ステイプルズ(Mavis Staples 1939 - )の歌唱です。先日のラジオで流れていたのも彼女の歌でしたが、たぶんこのヴァージョンではないかと思います。とにかく、歌が素晴らしいです。カントリー、ゴスペル、ソウルなどアメリカのポピュラー音楽の最良の部分がミックスされていて、今回聴いたヴァージョンではピカ一だと思います。

人生の中でつらいのは、新型コロナウイルス感染だけではありませんが、とにかく今は「二度と来ないで」としか言いようがありません。いま、絶望感に陥っている方は、あなただけではなく、みんなが無力感を感じていることに思い至ってください。
そんな方に、このなかからお気に入りの歌唱を見つけていただけたら、とてもうれしく思います。
あるいは、ご自分で見つけられた『Hard Times Come Again No More』を心の中で口ずさむ、というのも素敵ですね。


さて、短い夏休みですが、昨日と今日は私の仕事も休みになりました。美術系進学の生徒の指導も、部活動の練習も、今週の後半は一休みです。
そこで昨日は、東京国立近代美術館と上野の森美術館に行ってきました。ということで、今回は『ピーター・ドイグ展』の感想と、『上野の森美術館所蔵作品展 なんでもない日ばんざい!』の広報を少しだけ書かせてください。

まず、『上野の森美術館所蔵作品展 なんでもない日ばんざい!』ですが、このblog「118.『ピアノのレッスン』アンリ・マチスについて」で書かせていただいたように、この展覧会には私の学生時代の絵が展示されています。
この静物画を描いたのは、もう40年近く前のことです。展覧会のポスターになっている若い画家のような今風の描写の絵ではないので、会場の片隅にひっそりと置かれているのかと思ったら、なんと会場入り口の一番はじめに展示されていました。会場で配られたパンフレットにも作品の写真が掲載されていて、ていねいに取り上げていただいて、ちょっとびっくりです。
この作品を制作した当時はお金がなくて、手作りの木の仮縁をつけて展覧会に応募したのですが、いまでは立派な額縁までつけていただいて、とにかく感謝しかありません。展覧会前にメールでコメントを求められたのですが、それをそのまま掲示するのではなく、学芸員の方がそれをかみ砕いた言葉にして絵の横に添えられていました。それが全部で80点近くですから、当たり前の話なのかもしれませんが、たいへんなお仕事ですね。コロナウィルスの影響で、美術館もたいへんな状況だと思いますが、どうかがんばってください、と心から言いたいです。
その展覧会の内容ですが、全体として見れば、タイトルのコンセプトからも分かるように、日々の生活を描いた、奇をてらわない絵が並んでいてたいへん好ましく思いました。公募展を見に行くと、それぞれの作家が思いっきり自己主張をしていて、それが透けて見えてしまうので疲れてしまうのですが、この展覧会ではそういうことはありませんでした。静かに慈しむように描かれた絵が並んでいて、そのなかの一点に私の絵が選ばれていることに、誇らしい気持ちにもなりました。
個々の作品を見ると、当然のことながら近年の作品が多いので、若い画家の作品が目立ちましたが、とにかく若い方はモチーフの画像的な処理がとてもうまいです。私たちの若い頃は、画像処理などといってもアナログの写真しかありませんでしたから、そんな言葉もなかったですね。そして写真を使って絵を描こうと思ったら、まずフィルムの入ったカメラで写真を撮影して、写真屋さんに行ってそのフィルムを現像し、サービスサイズ(最初にプリントされる写真のサイズです)のプリントの中から気に入ったものがあれば引き伸ばしの注文に出して・・・と、とにかくアナログでしたから手間と時間とお金がかかりました。その写真の写り方や色合いを調整するなどということはほぼ不可能で、作品ファイルにするような場合にはこんなふうに現像して、と見本になるプリントをつけたり、言葉で指示をしたり、というあたりが限度でした。それも、調整をお願いするには機械では現像できないので、手焼きの高い料金を払わなくてはならないから、けっこう真剣に注文内容を考えて写真屋さんに行ったものでした。
それがいまでは、高校生の美術展を見に行っても、ほとんどの作品がデジタルの画像処理をした写真や映像をモチーフにして描いているのだろう、と思われる作品ばかりですから、若いプロの作家がそれにさらなる工夫を凝らすのも当たり前の話ですね。
しかし、機械で画像処理をすると、どうしても画像処理の技法に引っ張られてしまって、実際に目で見た実感から離れてしまう、ということはないでしょうか。あるいは自分の中の画像のイメージが、コンピュータで処理できる範囲のことに、いつの間にか左右されてしまう、ということはないでしょうか。
何でそんなことを言うのかといえば、例えばボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)という画家の作品を取り上げて考えてみたいと思います。彼は何気ない日常の食堂の絵を描いても、その視点を自在に変えながら描いていきます。次の絵を見てください。。
https://www.musey.net/28278
このボナールの『田舎の食堂』という作品を見て、みなさんはどのような感想を持ちますか?色彩に工夫はあるものの、人物の描写はたよりないし、テーブルの上の皿は歪んで見えるし、デッサン力がいまひとつ・・・・、もしくはヘタウマの作品に見えるかもしれません。しかし、手前のテーブルが広く見えることで、作品全体がゆったりと見えませんか?
ボナールはテーブルを広く描きたくて、その部分だけ意図的に上から俯瞰して見たような描き方をしています。そのことは、ドアやその左横の飾り棚の花瓶などの描写と比べてみるとわかります。ドアや飾り棚に置かれたものは、ふつうに真横から見た視点で描かれているからです。このことから、描いている人の目の高さが違うことが分かります。そして、これははっきりと断言できませんが、外の風景は再び上から見下ろしたような視点から描いています。そのことによって、家の前の庭から奥へと続く空間が、描かれたものを目で辿るようにしながら感じ取ることができるのです。そのことによって、透視図法の遠近感とは異なる空間の広がりが表現されているのです。
人間の視覚というのは、上から見下ろすと平面的な広がりが見えて、横から見ると遠近法的な奥行が見えます。それらを組み合わせることで、広がりと奥行の両方が無意識のうちに実感できる絵が描けるのです。ボナールはたぶん、手前のテーブルと奥のドアや壁と、それから外の風景と大雑把に三層ぐらいにわけてこの絵を制作しています。手前のテーブルは垂直に立つ壁のように平面的な広がりを私たちに見せていて、中継のテーブルや棚はその奥に位置していて、その向こうの風景は再び見下ろしたような広がりを見せているのです。ボナールの絵を見ると、絵画の平面性をフルに活用したような心地よい広がりを感じますが、この話は後ほど出てきます。
実は私の展示されている静物画も、手前の部分を上から見下ろしたような視点を使って、画面を広く見せようとしています。それから画面の中央の層に置かれた植木鉢と、その上の背景と、意識としては三層ぐらいに分けて描いています。それがうまくいっているのかどうかは、見る方の判断にお任せします。
私は作品を見る楽しみのひとつとして、こういう作者の工夫を辿ることがあると思います。それを理屈ではなく、感覚的にさりげなく、自然に見せることが作家の仕事でもあります。後で論じることになるピーター・ドイグは、こんなことを言っています。

コンセプチュアル・アートというものはなにがそんなにコンセプチュアルなのか、わたしにはぜんぜん理解できません。いずれにしても、あらゆる絵画は実にコンセプチュアルなものです。あらゆる絵画は考えです。コンセプチュアル・アートは、見ることの喜び、つまり色や美しさのようなものを取り除くだけです。
(『ピーター・ドイグ展 カタログ』「ピーター・ドイグとアンガス・クックの対話」より)

ピーター・ドイグの言いたいことが、実によくわかります。
「あらゆる絵画は考えです」というところに、この画家の芸術に関する深い理解を感じます。もちろん、コンセプチュアル・アートの立場の人たちからすると、別の意見もあるでしょう。しかし、ピーター・ドイグという画家は、このような考え方をはっきりともって、絵を描いた人なのです。そのことは、あとで説明します。
そしてその肝心な「考え」の部分を、コンピュータの画像処理にゆだねるだけでは、つまらないと私は思います。画家が写真を使って、あるいはコンピュータを使ってどんな画像処理をしたのか、そしてそれを画家自身がどう考えて、どう表現したのか、ということが出来上がった作品から透けて見えてきます。ですから、そこに画家の考えや感性が十分に働いていないと、その作品は、長時間の鑑賞に耐えられないものになってしまいます。
先ほども書きましたが、この展覧会は企画された方たちが、ていねいに慈しむような作品を選んでいます。その個々の作品が、鑑賞者の長い時間の鑑賞に耐えうるのかどうか、という点において、私も含めて各作家がこれからも研鑽していかなくてはならないと思います。ピーター・ドイクは別なところで、こんなことも言っているようです。

わたしにとって、絵画の遅さというのもまた、それを制作するにあたって重要です。決断を下していくのにたくさんの時間をかけられる、つまり(必要があれば)長い時間をかけて制作過程によって物事を発展させることができるのです。
(『ピーター・ドイグ展 カタログ』「東京でピーター・ドイグについて想像する」桝田倫広)

そのドイグの作品だって、どれもよいわけではないでしょう。私たちも冷静に、彼から学ぶべきことがあれば学べばよいし、そうでないところは批判的に鑑賞すればよいのです。
『ピーター・ドイグ展』と『なんでもない日ばんざい!』を私はよい感じで、比較鑑賞できました。よかったらみなさんも試みてください。

ところで、この新型コロナウイルス感染状況下での美術館訪問です。
私は混雑を避けて、朝一番に車で上野に行きました。『上野の森美術館所蔵作品展 なんでもない日ばんざい!』は時間予約制ですが、私の行ったときは当時券でもすぐに入れました。たぶん、みなさんがふいに訪ねても、大丈夫だと思います。上野の森美術館に入ると入り口に検温装置があって、機械の前に立って自分の体温を映像で確認します。36度台で無事に入館できました。
一方の『ピーター・ドイグ展』ですが、上野を出て、車で北の丸公園の駐車場で車を止めて、炎天下を歩いて美術館まで行くと、ちょうど予約券の入場時間になりました。こちらは、事前に時間指定の券を買っておいたのです。ちなみに、当日券の方も待たずに入館できているようでした。
近代美術館では係の方が非接触型の体温計を額に向けて検温してくれますが、駐車場から美術館まで、太陽の下を歩いて行ったものですから体温が38度台まで上がってしまいました。「日陰で休んでから、もう一度いらしてください。次に検温してもだめだったら、本日は入場できません」と言われてあせりました。日時指定のチケットまで買ったのに、猛暑で体温が上がって入れないのでは、いかにも悔やまれます。念のため、冷たい飲み物を買って、額や首の後ろ、わきの下などにあてて体温を下げます。そんな私の必死な様子を見たからでしょうか、係の方がわざわざ寄ってきて「準備ができたら、こちらにどうぞ」と声をかけてくれました。再び測ると36度台に下がっていて、検温された方もほっとしたようでした。美術館には入れることが、こんなにうれしかったことはありません。作品を見る前から、何だかありがたい気持ちになりました。余計な話で、すみません。

さて、それで『ピーター・ドイグ展』です。すでにドイグについて論じ始めていますが、あらためて紹介します。
ピーター・ドイグ(Peter Doig、1959 - )はスコットランドのエジンバラ生まれ、カリブ海の島国トリニダード・トバゴとカナダで育ち、1990年、ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで修士号を取得、1994年、ターナー賞にノミネートされたことで、画家としての地位を確たるものにしたということです。
私はこの画家について、これまでまったく知りませんでしたが、展覧会の広報を見て、何となくイギリスらしい画家だな、と思っていました。イギリスの現代美術というと、アメリカやフランスなどとは少し距離をおいた、個性的な作家が多いという印象があったからです。フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909 - 1992)は言うに及ばす、その友人だったルシアン・フロイド(Lucian Freud、1922 - 2011)、人を食ったようなウサギの彫刻のバリー・フラナガン(Barry Flanagan、1941 - 2009)、もはや大作家になってしまったトニー・クラッグ(Tony Cragg, 1949 - )など、学生の頃に見たイギリス美術の印象は強烈でした。しかしピーター・ドイグの経歴を見ると、それほど単純な話ではないようです。
肝心の展覧会の印象ですが、興味深い作家だと思う反面、正直に言うと、私にはしっくりとこないところもありました。それはおそらく、この作家が私とはまったく違ったタイプの作家だからだと思います。もちろん、作家としての地位や才能は私など比較になりませんが、それ以外の面でピーター・ドイグと私とでは、絵に対する見方、接し方がずいぶんと違うという印象を持ちました。
たぶん、ピーター・ドイグは絵を描く前から、描きあがる絵のイメージがかなり出来上がっているタイプの作家なのではないか、と思います。そのイメージを実現するために、ドイグはさまざまな技法を使いますが、それはかなり現代美術的な技法で、部分的に画面の細部を見ると抽象表現主義の絵画のようなダイナミックさがあります。それが具象的な画像の中でうまくコントロールできているのは、はじめに絵のイメージが出来上がっているからだろうと思います。
私は私なりに、現代美術の絵画の技法について勉強してきましたが、その結果、例えばアンリ・マチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)が画面上での試行錯誤の末に形体の単純化をおしすすめたような描き方が標準だと思ってきました。はじめに画家が抱いていた絵のイメージが、制作に連れて徐々に変わっていくことを当然だと思っていたのです。
あるいは、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)のように、下絵を描かず、あらゆる予断を持たずに白い画面に立ち向かう、という制作方法に憧れていました。
しかし、そういう絵画に対する先入観が私の作品を縛っているな、ということに気づいてきて、最近は、はじめから最後の筆触を意識して絵を描いたり、ある程度エスキースに忠実にタブローを描いてみたり、などということを試みています。私自身がそういう中途半端な状態ですから、ピーター・ドイグの作品を見ても、感心してみたり、いやいやこれは違うと思ってみたり、考えがまとまりません。
そして技術的にも、ピーター・ドイグに対して私は相反する評価をしていて、先ほども書いたように抽象絵画のような奔放な絵具の使い方をかなりうまく使いこなしていると感心する部分と、ちょっとデッサンが甘いと感じる部分と、両面があるのです。デッサンが甘い、というのは、彼が写実的な描写をしていないから、ということではなくて、線描のリズムが単調だったり、人物やライオンの形が気になったり、というようなことなのです。要するに、うまいような、そうでもないような、という感じです。本人が、決してうまく見せようと思っていない、ということは理解できますが、それにしても・・・、という思いです。これは私自身が絵を描くから気になるのでしょうか、ざっと彼に関して書かれたものを読んでも、みなさん、あまり気にしていないみたいです。
それよりも彼の絵画で問題になるのは、やはり絵画が喚起するイメージであって、例えば文学者の小野正嗣(1970 - )はドイクの絵画のイメージに敏感に反応して、次のように書いています。

予見不可能性―、ドイグの絵から私たちが受け取るのはそのような体験ではないだろうか。ドイグの絵に描かれている光景には、見たことがあるはずもないのに、どこかで見たことあると感じられる懐かしさがある。個人的な感慨で恐縮だが、あの素晴らしい『ラペイルルーズの壁』(2004)を見たときには本当に仰天してしまった。これは僕の故郷の風景ではないのか。
(『ピーター・ドイグ展 カタログ』「ピーター・ドイグに近づく(あるいは遠ざかる?)ための5つの断章」小野正嗣)

あるいは、美術評論家のリチャード・シフ(Richard Schiff)は、ピーター・ドイグの技法的な側面も含めながら次のように書いています。

ドイグは、カナダのロッキー山脈にある山間の湖を写した絵はがきから、『桟橋』の光景を取り出した。彼は曖昧さという状態をほのめかすときでさえも、それがもたらす効果については的確に説明している。「視界から消えていくようなイメージの印象を創造したかったのです。あたかも、ある部屋の住人が眠りに落ちていくときに眺めている、ベッドルームの壁にピンでとめられたあるイメージのようなものです。」表面にグレージングを施し、スプレーで絵具を噴霧するという手法は、『桟橋』のなかに色彩がゆっくりと色褪せて消えていくような効果を生み出し、ありふれた絵はがきから視覚的な興味を引き出していく。
(『ピーター・ドイグ展 カタログ』「漂流」リチャード・シフ)

ピーター・ドイグは、しばしば写真を利用し、そのイメージから絵画を制作しているようです。また彼は映画が好きで、友人と映画の上映会を運営しているほどの映画マニアのようです。その上映会のために彼の描いたポスターが会場出口の近くに並べられていましたが、とても楽しそうに描いています。また、映画のシーンからイメージを喚起された絵画作品もあるようです。
このように、彼の絵画はまずはイメージの楽しみがあり、それを表現するために現代美術的な描画技法が総動員されているのです。そんなピーター・ドイグですが、私よりもひとつ年長で、当然のことながら同時代のアメリカを中心とした現代美術の流れを感じながら育っているはずです。実はドイグも、この展覧会で展示されているような作品を制作する前は、アメリカのニュー・ペインティング風の絵を描いていたのだそうです。そして、彼が画家として活躍し始めたころには、同じイギリス出身のダミアン・ハースト(Damien Hirst、1965 - )などのヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBAs)と呼ばれる若手作家が頭角を現し、大がかりなインスタレーション作品が主流になってきました。そのなかで、現代美術の手法を大胆に取り入れているとはいえ、オーソドックスな絵を描き続けるということは、はっきりとした意志があったのだろうと思います。そのことが、彼の大きくて充実した作品群からしっかりと伝わってきます。
私自身は、先ほども書いたようにイメージが先にあって絵を描くという方法を、半ば否定して育ってきたので、ピーター・ドイグのようにイメージを前面におしだすような絵の楽しみ方を長らくしていません。ですから私は、彼の絵に対する良い鑑賞者ではないのかもしれませんが、そういう先入観のない方、あるいは映画や文学が好きで、それでいて現代絵画も好きだ、という方にとっては、ピーター・ドイグの作品はこれ以上ないくらい素晴らしいものなのではないでしょうか。私のような者にとっても、そのことが予想できるほどに作品の水準が高いと感じます。
私のとくに好きな作品は、やはり絵画的な手法がさえわたっている『ブロッター』とか『スキージャケット』、それに水の表現が素晴らしい『のまれる』、『ロードハウス』などです。それに『ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ』の空も美しいです。

それでは最後になりますが、この展覧会のホームページのレビューの欄に松浦寿夫(1954 - )が興味深いことを書いているので、触れておきます。
ピーター・ドイグはボナールが好きで、あるところで「自分自身の作品について考えるとき、私はしばしばボナールの作品を見ます」と語っているのだそうです。私がさきほど、『なんでもない日、ばんさい!』においてボナールをもち出したのは、実はこのことがあってボナールの絵のことを思い出したからなのです。ボナールはときに同時代のマチスと並ぶ巨匠と言われることもありますが、美術評論的にはとても批評しにくい画家で、美術史的にはナビ派という一派にくくられてはいますが、その位置づけははっきりとしません。言ってみれば、それ相応の評価をされていない画家だということが言えるわけですが、ピーター・ドイグの絵画も批評が難しいという点で、ちょっと似たところがあるのかもしれません。そんなことを指摘しながら、松浦はドイグがボナールの絵画のどこに魅かれたのか、どこが共通しているのかを、つぎのように分析しています。

ここで、ごく簡潔にドイグがボナールの作品に注目した点を列挙すれば、扇情的な主題を扱わず、自らの生にとって身近な主題を扱うこと、技量をこれ見よがしに誇示しないこと、ある種の開放性を備え、完成/未完成の判断が困難であること、事前の計画なしに断片的に画布に介入することによって、時間の経過を積層化し、現在の知覚と記憶の領域とを同時に組み込む点などをあげることができる。そして、この開放性のために、観者は画面に巻き込まれるように参加することを強いられる点を指摘している。この点で、ボナールの作品に関していえば、その画面の一貫した構成原理は、画布の奥に展開する空間の創設以上に、画布の手前の空間、つまり、画布と観者との間の空間をいかに組織するかという点に集約されるが、ドイグもまた、この同じ手前の空間の編成を異なった仕組みで遂行しているとはいえないだろうか。
 ごく端的にいえば、ドイグの場合、それは、マネならびにそれ以後の絵画に顕在化するように、画面の前景を遮蔽する仕組みである。たとえば、初期の《ロードハウス》(1991年)に顕著なように、水面、陸地、空という3つの領域に画面が分割される構成の作品においてさえ、この3つの領域は画面の奥へと視線を誘導することなく、3つの立ち上がった領域の様相のもとに視線を画面に留めさせる、つまり、視線を遮蔽する一種の壁として立ち上がる。
(『ピーター・ドイグ展 ホームページ・レビュー』「画面の手前で」松浦寿夫)

ドイグが絵の主題をどのように扱っているのか、これまである程度見てきましたし、彼の「技量をこれ見よがしに誇示しない」という点については、私なりに少し留保をつけました。そして私は展覧会を見る前にこの文章を読んでしまっていたので、ピーター・ドイグの絵において、ボナール的なものがどれくらい感じられるのか、と期待していったのですが、結論からすると思ったほどには感じられませんでした。
ただ、画面分割の大胆な構図については、松浦が指摘するような影響があるのかもしれない、と思いました。ドイグもボナールも、画面の広がりを重視しているところは共通して感受できます。そもそもボナールは、絵を描く時には木枠に布を張らず、直接、壁にピンでとめて描いていたのだそうですが、そのことが絵画を一枚の布として、その広がりを意識しながら描くことになっているのではないか、と彼の絵を見ると考えさせられます。ドイグの画面の分割は、そのような手ざわりの広がりは感じられないものの、ボナールから学んだ平面的な構図の妙は確かにありそうです。
そして何よりも『スキージャケット』に見られる色彩の輝きは、ボナールの後継者というのにふさわしいのかもしれません。これはぜひ、多くの人に実物を見ていただきたいです。

いろいろと駆け足で作品を振り返ってみました。読み込んでいない資料もたくさんあるので、あとでいろいろと後悔することもあるのかもしれませんが、まずはスピード重視で書き上げることにしました。
そして何と言っても、ピーター・ドイグは「同世代、後続世代のアーティストに多大な影響を与え、過去の巨匠になぞらえて、しばしば『画家の中の画家』と評されている」と展覧会のホームページに書かれているのに、そんな重要な画家の存在を知らなかった自分が、正直、恥ずかしいです。
でも、日本での大がかりの展覧会ははじめて、ということですから、それも仕方ありません。もしもドイグという画家を画像やカタログだけで知ったのだったら、そのすばらしさを実感することもなかったと思います。やはり今回、これだけの作品を実物で見ることができたのが、大切なことです。
そういえば今回紹介した二つの展覧会は、どちらも写真撮影が自由にできます。『ピーター・ドイグ展』にいたっては、どんどんネット上でその素晴らしさを拡散しましょう、というようなことが書いてあって感心しました。良質の画家の絵は実物を見ないと分からないし、写真で見るとどんな画家なのかな、と興味が湧いてきて、ますます見に行きたくなるものです。著作権の問題とか、いろいろと難しい点はあるかと思いますが、こんなふうにネットと展覧会が共存出来たらいいな、と思いました。たぶん、外出を自粛しているがゆえの、観客動員のための思い切った判断なのでしょうが、この方向性はなかなかいいと思います。新型コロナウイルス感染の困難な状況ですが、実作品との出会いの在り方を見直すことは悪いことではありません。ただでは転ばない、という人間の知恵を大切にしたいものです。

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