平らな深み、緩やかな時間

123. 『感覚の論理学』(ジル・ドゥルーズ)について

今年は夏休みが短くて、とくに首都圏にいると、いろいろなところへ移動しづらく、季節感が狂ってしまいます。そんななかですが、一昨日はわずかな仕事休みを利用して小田原まで出かけました。小田原ダイナシティ4Fにある「ギャラリーnew新九郎」で知り合いの作家、飯室哲也さんたちが『美・小田原2020』という展覧会を開催していたからです。
http://www.0465.net/omise/shinkurou/index.html?CATEGORY=2011
この展覧会は本日、17日(月)で終わってしまいますが、そういえば昨年の夏に、その飯室さんが企画した『小田原ビエンナーレ2019』を一緒に回ったことを思い出しました。もうずいぶん前のことのような気がしますが、とても楽しい時間でした。その少し前には『絵のすがた-または、絵画の骨』という展覧会を見に、国立にある「宇フォーラム美術館」まで行きましたから、ずいぶんと動き回っていましたね。さらにその前には、このblogで「92. 2019年、夏。若い美術家の方へ。」という文章を書いています。
そこでも書きましたがそのblog以降、私の文章を若い方にも読んでいただきたいな、と思うようになりました。頭の回転の遅い私が60年かけてわかったことを、若い方が私の文章から数分間で学び、軽々と別次元へと飛び出していただけたら、私の存在価値も多少はあったということになります。残念ながら、今のところの私の存在価値はゼロに近いと思っていますが、それでも自分にできることをやるしかありません。この新型コロナウイルス感染の状況下においても同じです。
そのように、私が発奮する動機をくださった学生の方には感謝の気持ちしかありませんが、木彫をやっていらっしゃる方なのでこの状況下でさぞかし大変な思いをされているだろうと思います。この春からこんなに世界が一変するなんて、誰が予想できたでしょうか。去年の自分のことを思うと、あまりに無邪気だったと思えて涙が出そうになりますが、「hard times」はいずれ過去のものになります。少しでも前を向いて進みましょう。

今回は、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)の書いた、イギリスの画家フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909 - 1992)論とでもいうべき、『感覚の論理学』という本を取り上げます。
この本はドゥルーズの書いた唯一の美術書なので、いつかはちゃんと読まなくてはいけないな、と思いつつ、ドゥルーズという思想家のスケールの大きさにたじろぐ一方で、ベーコンの絵画に特別の興味がわかない、という理由で、これまで放り出していました。しかし今夏は自分への宿題として、少しずつ読み進めてみました。そのまとめを書いておきましょう。
それではまず、ジル・ドゥルーズという人はどういう哲学者でしょうか。
私たちの世代からすると、浅田彰(1957 - )の『構造と力』(1983)という本で、その名前をはじめて聞いた人も多いのではないでしょうか。1983年当時では、ジル・ドゥルーズの主著はほとんど翻訳されていませんでしたから、専門的にフランスの現代哲学を勉強していなければ、その存在を知る人も少なかったと思います。『構造と力』にはドゥルーズのことがこんなふうに書かれています。

まさしくここで、ニーチェ、この偉大な遊戯への誘惑者のもつ重大なアクチュアリティに注目しなければならない。今日ドゥルーズ=ガタリが最大級の重要性をもっているというのも、彼らがこの面におけるニーチェの最良の後継者と目されるからにほかならないのである。彼らは明快に断言する。真に遊戯するためには外へ出なければならない。してみると、遊戯の場を求めて前近代モデルの如きものへと遡り、そうした秩序の中へ這い戻ろうするのは、完全な転倒だと言わねばならないのである。近代はそのような秩序からぬけ出した。しかし、問題は、まだ十分によく外へ出てはいないという点にある。外へ出よ。さらに外へ出よ。これこそが彼らの誘惑の言葉である。
(『構造と力』「第六章 クラインの壺からリゾームへ」浅田彰著)

もちろん、浅田彰はこんなふうに感覚的に私たちに呼びかけるだけではなくて、ドゥルーズ=ガタリが、「コード化」された近代社会(効率的な方法で規則化された社会だと思っていただけるとよいでしょう)が行き詰り、それに代わって「脱コード化」という社会モデル(規則から逸脱することで活性化する社会だと思ってください)を提示していたこと、それは一本の木の幹が中心にあって枝葉を広げるような「ツリー」状の社会のイメージではなく、あらゆる方向に根を広げる「リゾーム(根茎)」状のイメージであること、をちゃんと説明しています。
しかし、そんな大それた社会モデルを提示できる思想家とは、どのような人なのか・・・、実はここで浅田が言及しているドゥルーズ=ガタリというのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari、1930 - 1992)というフランスの哲学者、精神分析家の連名のことです。もちろん、当時の私にはどの本がドゥルーズの単著であり、どの本がドゥルーズ=ガタリの共著であるのか、などということは見分けがつきませんでしたし、そんなことはどうでもいいことでした。
後になって、國分功一郎(1974 - )の『ドゥルーズの哲学原理』という本を読んで、実は偉い学者の間でも、ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリの思想をどのように見分けるのか、その差異をどのように考えたらよいのか、ということが課題になっていることを知りました。國分の解説によると、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek、1949 - )というスロベニアの哲学者は、ドゥルーズが非政治的な哲学者であり、一方のガタリが政治活動家であったので、その共著に顕著な政治性はガタリが持ち込んだものだ、ということを言っているのだそうです。ドゥルーズを研究している学者の間でも論争になっているようなことを、私のような者がわからなくても当然です。開き直るわけではありませんが、ここはひとつ、ドゥルーズという哲学者が本来どのような思想を持っているのか、という話はとりあえず置いておいて、単なる美術書として『感覚の論理学』を読んでみましょう。
ただ、國分が『ドゥルーズの哲学原理』の冒頭に書いているドゥルーズの紹介文は、わかりやすくて、ドゥルーズの人となりが表れていて、とてもよいです。インターネットで検索しても要領を得ない紹介文が多いので、せっかくですから、ちょっと長くなりますが書き写しておきます。

ジル・ドゥルーズは、20世紀を代表する哲学者の一人である。1925年、フランスのパリ17区に生まれた。幼い頃は暇つぶしに切手集めをする平凡な子供であった、と本人はのちに回想している。15歳の時に大戦が勃発。疎開先のノルマンディーで若き文学教授からフランス文学の手ほどきを受け、知的好奇心に目覚める。哲学と出会うのは、その後、高校(リセ)の最終学年においてである。哲学の授業の初回、「これこそ自分のやるべきことだ」と天啓に打たれ、そのまま哲学研究者の道を歩んだ。ソルボンヌで書いた、イギリスの経験論哲学者デイヴィッド・ヒュームについての学位論文が最初の著書となる。その後、数年の「沈黙」の期間を経て、1960年代には、それまでの研究を覆す著作を次々と発表。1972年に精神分析家で政治活動家のフェリックス・ガタリと共同署名で出版した『アンチ・オイディプス』により、その名声は確実なものとなる。のちにアングロ・サクソン文化圏内で「ポスト・モダニズム」や「ポスト構造主義」などと呼称されることになる潮流の一翼を担う哲学者として、その名は世界的に知られることとなった。ドゥルーズはしかし、移動することを好まなかった。その世界的名声にもかかわらず、講演の類に時間を割くことは少なく、パリ17区のアパルトマンにこもって大学での講義と執筆に専念した。その意味で、その人生は驚くほど変化が少ない。若い頃から肺の疾患に悩まされていたが、晩年にはひどい喘息の発作のため酸素吸入器を使用せざるをえない状態に陥っていたという。そのためであろうか、1995年11月4日、自宅の窓から身を投げて、この世を去った。ドゥルーズには1982年発表の「ヤセル・アラファトの偉大」という文章があるが、その日はちょうど、オスロ合意に調印し、アラファトと握手した当時のイスラエル首相イツハク・ラビンが暗殺されて日であった。
(『ドゥルーズの哲学原理』「はじめに」國分功一郎著)

ちょっとだけ当時の世界史を思い出す記述ですね。パレスチナのアラファト(Yasser Arafat 、1929 - 2004)とイスラエルのラビン(Yitzhak Rabin, 1922 - 1995)が和平協定を結び、ノーベル平和賞を受賞したのが1994年で、ラビンが暗殺されたのがその翌年でした。ドゥルーズが死んだ時のこと、それが飛び降り自殺であったことにショックを受けたので、そのときのことを憶えています。知り合いの美術家にドゥルーズのような思想家が自殺してしまうなんて、というようなことを言ったら「(病気が)きっと、つらかったんだと思うよ」とボソッと言われました。就職してすでに10年が経っていましたが、自分がやけに青臭い人間のように思えました。それが、ラビンが暗殺された日だったなんて、まったく気づきませんでした。

さて、本の中身に入ります。
はじめに目につくのは、ベーコンの描くあの奇妙な肉体についての記述です。ベーコンの描く人体を、みなさんもご存知ですよね。念のため、事例をリンクしておきます。
●(http://bigakukenkyujo.jp/blog-entry-104.html
●(https://www.cnn.co.jp/style/arts/35156128.html
人体の骨格を無視したあのグロテスクな肉体描写が、ベーコンの絵画の最大の特徴でもあるのですが、それをドゥルーズはこう書いています。

「口はない。舌はない。歯はない。咽頭はない、食道はない。胃はない。腸はない。肛門はない」。非有機的な生の全体がここにあり、有機体は生ではなく、生を閉じ込めるからである。身体はまるごと生きているが、非有機的である。だから感覚は、有機体を貫いて身体に達するときには過剰で痙攣的な様相を呈し、有機的な活動の限度を逸脱するのである。全肉体において、感覚はじかに神経の波動や生命的感動に向けられる。多くの点でベーコンにはアルトーと共通点があると思われる。<図像>とは、まさに器官なき身体である(身体のために有機体を、頭部のために顔を解体すること)、器官なき身体とは肉体であり神経である。
(『感覚の論理学』「7 ヒステリー」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

私は無教養なために「器官なき身体」の引用もとになっているアントナン・アルトー(Antonin Artaud, 1896 – 1948)の本を読んだことがなく、また出演した映画も見ていません。したがって、あまり正確ではないのかもしれませんが、この「器官なき身体」という概念は、アルトーが精神を病んだときの経験から思いついたもののようです。それは精神と肉体が有機的なつながりをもっていない異常な状態のときに、むしろ人は自由になれるということ、人間の各部位がそれぞれの役割を果たすことで命をつないでいる、と考えずにまるごとの肉体で生命や欲望を感じるということ、というような理解になるかと思います。私自身、説明していてよくわからないのですが、それがベーコンの描く肉体のようなものだ、と言われれば、むしろイメージとしてつかみやすいのかもしれません。ベーコンの描く肉体は、人間らしい骨格がなく、歪んで醜い肉の塊ではあるけれども、なぜかそこに生命感やエロティシズムのようなものが感じられます。そう考えると、ドゥルーズがベーコンの作品をモチーフとしてこの本を書いた理由も分かるような気がします。

ただし、なぜこの本のモチーフがベーコンなのか、ということの合点がいくのはここまでです。
この本全体を通してみると、ドゥルーズがいかに美術について深く考えていたのかがよくわかるのですが、そのモチーフがなぜベーコンなのか、という点に関しては、この「器官なき身体」に関する部分以外ではよくわからないのです。それは先に書いたように、私がベーコンを好きではないことに起因しているのかもしれません。しかし、とにかくドゥルーズは、深く、正当に絵画芸術について考察しており、それがなぜこの一冊のベーコン論なのか、あるいは、なぜドゥルーズは美術論をこの一冊しか書かなかったのか、が私にはよくわからないのです。そこで、ここではこの本をベーコン論としてではなく、絵画論として読んでみたいと思います。変則的な読み方になるかもしれませんし、ベーコンが好きな方には申し訳ないのですが、いずれにしろ、この濃密な本の全てを語りつくすわけにはいきません。ということで、以下の読み方に偏りがあったら(あるのですが)、ご容赦ください。
少し先走りました。順を追って見ていきましょう。

例えば、「11 絵画、描く前・・・」という章があります。ここに書かれていることは、絵を何枚か描いた経験があれば、誰でも突き当たる問題です。この章のはじめの部分を引用してみましょう。

画家が空白の表面を前にしていると思ったなら間違いである。具象を信じ込むことは、この間違いからやってくる。実際、もし画家が空白の表面を前にしているならば、モデルとして機能する外部の対象をそこに導入することができよう。しかし事実はそうではない。画家は頭の中に、自分の周囲に、あるいはアトリエに、たくさんのものをかかえている。ところが頭の中や周囲にあるものは、すべて画布の中にすでに存在する。仕事を始める前に、多かれ少なかれ潜在的に、多かれ少なかれ現勢的に存在するのだ。こうしたものはすべて現勢的に、あるいは潜在的に、イメージとして画布の上に現前するのである。したがって画家は空白の表面をみたすのではなく、むしろ空っぽにし、片づけ、洗浄しなければならない。モデルとして機能する対象を画布の上に再現するために描くのではなく、すでにそこにあるイメージの上に描き、ひとつの画布を生み出し、その機能がモデルとコピーの関係を覆すようにするのである。要するに、定義すべきことは画家の仕事が始まる前に画布の上にある。すべての「前提」なのである。そしてこの前提には、障害になるもの、助けになるもの、あるいは準備的作業の効果をもつものさえ含まれている。
(『感覚の論理学』「11 絵画、描く前・・・」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

このような経験は誰にでもあります。絵を描く、ということは、白い画布の上に新たに何かを表現することであるはずなのに、何か決まりごとの上をなぞるような気になる、という経験です。
というよりもむしろ、絵を描き続けるということは、すでに画布の上に存在するものとの闘いであるはずなのです。そうではない人というのは、特殊な才能のある人か、逆によほど感受性の鈍い人なのではないでしょうか。
ドゥルーズはすでに画布の上にあるもののことを、この後の文章で「紋切り型」というふうに言っています。そしてセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)のリンゴはその「紋切り型」との闘いの痕跡である、というのですが、セザンヌがいかに自分の見ている世界をキャンバスに描こうとしたのか、ということはこのblogでさんざん見てきました。そしてそのセザンヌの仕事の価値を正しく見抜いていたのが、あの『チャタレイ夫人の恋人』を書いた作家のD.H.ロレンス(David Herbert Richards Lawrence, 1885 - 1930)だというのですが、このこともこのblogで、例えば「101.高村峰生『触れることのモダニティ』について」をご覧いただければ、すでに学習したことでした。
それはよいとして、それではベーコンはその「紋切り型」に対してどのように対峙したのでしょうか。やはり、これは見ておかなくてはなりません。ドゥルーズは、ベーコンは「手の軌跡を経由して、具象は再発見され、再創造され、もはや最初の具象には似ても似つかない」ものにしたのだ、と言います。つまり、絵を描く時の手の動きを介することで結果として「紋切り型」とは似ても似つかないものになるのだ、というのです。
ここで私が感じることは、もしも「手の軌跡を経由して」描くことで、そこに微妙なずれのようなものが生じ、それが「再創造」される、という事例として挙げるならば、例えばゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)の向日葵はどうでしょうか。あるいは、もっとしつこく同じものを繰り返し描いた画家としてはモランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)という画家がいます。あるいはすこし意味が違ってくるのかもしれませんが、モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)の睡蓮もありますね。私にはベーコンよりもドゥルーズの説明がしっくりと腑に落ちる画家がたくさんいます。好みの問題でしょうか。

そしてドゥルーズが次に書いているのが、抽象絵画の問題です。

セザンヌの「深淵」や「カタストロフィー」、そしてこの深淵がリズムに変わるという機会、パウル・クレーのカオス、失われる「灰色の点」、そしてこの灰色の点が「それ自身を飛び越えて」、感覚的次元を切り開く機会・・・あらゆる芸術のなかでも、絵画だけは、おそらく必然的に、「ヒステリックに」、自分自身のカタストロフィーを統合し、こうして自分自身を前方への逃走として立て直すのである。別の諸芸術において、カラストロフィーはせいぜい協力者にすぎない。しかしまさに画家は、カタストロフィーを通過し、カオスを抱擁し、そこから出ようと試みる。画家のそれぞれの違いは、この非具象的なカオスをいかに抱擁するか、来るべき絵画の秩序を、この秩序とカオスとの関係をいかに評価するかによって生じるのである。この点に関しておそらく三つの方向性が区別できるだろう。それぞれの方向に非常に異なる画家たちがグループ分けされ、絵画の「現代的」機能がわりあてられ、絵画が「現代人」に何をもたらそうするかが表現される(なぜ今日でもまだ絵画が問題なのか)。
(『感覚の論理学』「12 図表」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

何を言っているのか、よくわかりませんが、先ほどの「紋切り型」の話の続きで言えば、絵画は「紋切り型」の停滞から脱するために、手仕事のズレや混乱(カオス)を取り込んでいきますが、それらはいずれ爆発するカタストロフィー(破局)のようなものです。ドゥルーズによれば、絵画だけがその「カタストロフィーを統合し、こうして自分自身を前方への逃走として立て直す」というのです。この時点で彼が何を指して言っているのか不明ですが、もしもドゥルーズがイメージしているカタストロフィー(破局)の統合というものが、抽象表現主義やアンフォルメルのような表現の暴発のような絵画だとしたら、それは音楽におけるフリー・ジャズにもあてはまりそうな気がします。ドゥルーズがアメリカ人だったら、すぐにそこに思い至ったのではないでしょうか。
それでは、彼の言う「三つの方向性」というものが何なのか、探ってみましょう。

抽象はこれらの方向のひとつであろう。しかし抽象は深淵やカオス、また手動的なものを最小限に切り詰める。つまり禁欲主義を、精神的救済を提案する。強度の精神的努力によって、抽象は、具象的前提の上に上昇する。しかしまたカオスを、超えるべき単なる流出のようなものにして、抽象的かつ意味的形態を発見しようとするのだ。モンドリアンの正方形は、具象的なもの(風景)の外に出て、カオスの上を飛び越える。彼はこの飛躍から一種の波動を保存する。このような抽象性は、本質的に見られるものでしかない。抽象絵画については、ペギーがカントの道徳について言っていたことを繰り返したくなる。これは純粋な手をもっている、しかしこれには手がない。つまり抽象形態は、純粋に光学的な空間に属しているが、手動的あるいは触覚的要素を自分に従わせる必要さえない。
(『感覚の論理学』「12 図表」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

一つ目の方向性というのは、モンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)に代表されるような禁欲的な抽象絵画だとドゥルーズは言います。それは手の痕跡すら残さない、「純粋に光学的な空間」であることによって、混沌(カオス)を乗り越えるのだ、というのです。言ってみれば、手の痕跡によるズレがどうのこうの、といった議論を一気に飛び越えて、別の次元の話にしてしまう・・・手癖の残らない純粋に視覚的で光学的な空間の話にすり替えてしまう、ということなのでしょうか。論理的にはそれも成り立つのでしょうが、私の記憶しているモンドリアンの絵画は、微妙に絵具の厚みがあって、「純粋に光学的な空間」ではないな、と思ったことがあります。ですから、とりあえずこの一つ目の方向性は、私の中では保留にしておきます。

第二の方向性は、しばしば抽象表現主義あるいはアンフォルメル芸術と呼ばれてきたもので、対極的な、まったく別な答えを提案した。こんどは深淵またはカオスが、最大限に展開されるのだ。ある国と同じサイズの地図のようなもので、図表は絵の全体と一体となり、絵の全体が図表(ダイアグラム)である。手動的な線が優先し、光学的幾何学は崩壊する。この線は、まったく排他的に手に属するのである。目にとっては追いかけることが難しい。実際、この絵画の比類ない発見とは、ある線(そしてある染み―色彩)の発見であり、それは輪郭を形成することがなく、もはや何も、内部も外部も、凹凸も限定することがないのだ。
(『感覚の論理学』「12 図表」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

やはり予想したような方向性でした。これらの絵画によって、絵画がカタストロフィー(破局)そのものとなるのです。ここでドゥルーズが言及している「図表(ダイアグラム)」というのは、おそらく画家が意識的に、あるいは無意識的に参照としているイメージ、あるいは技法や方法論のようなものだと思います。例えばゴッホであれば「直線、または曲線の線影の総体であり、これが地面を上昇させては沈下させ、木々をねじまげ、空を痙攣させ、1888年以降は特別な強度をもつようになる」とドゥルーズは書いています。1888年というのは、ゴッホが南仏に向かい、ゴッホらしい線の束がよじれるようなスタイルを確立した時期です。それはゴッホが参照とすべき「図表(ダイアグラム)」を確立した年なのだ、ということでしょう。
それが抽象表現主義のポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)に至っては、絵画そのものがドリッピング(技法)であって、それは画家が「図表(ダイアグラム)」として参照すべきものではなくなりました。ドゥルーズが「図表は絵の全体と一体となり、絵の全体が図表(ダイアグラム)である」とは、そういう意味だと思います。ポロックにとってドリッピングとは、参照にすべき技法、図表(ダイアグラム)ではなくて、絵画そのものなのです。それは表裏一体であって、「参照」というワンクッションがなくなります。この「図表(ダイアグラム)」という概念がわかりにくいですね。でも、このように考えるほかはないと思います。

さて、ここにおいて、ある意味では近代絵画が抱えていた葛藤はすべて解消したようにも見えます。絵画が抱え込もうとした渾沌(カオス)を飛び越えて、別な次元に立つのか(モンドリアンの抽象画)、あるいは絵画がカタストロフィー(破局)そのものとなって、混沌(カオス)をぶちまけるのか(ポロックのドリッピング)、いずれかの抽象絵画の方向性ですべて解消したように見えますが、ベーコンはそれらとは違った方法を選んだ、とドゥルーズは言います。

重要なのはまさに、なぜベーコンが先の二つの方向のどちらにも参入することがなかったのかということである。彼の対応の厳格さは、審判を下そうとするものではなく、むしろベーコンにとって不都合なことは何か、なぜ個人的にベーコンはこれらのどの方向にも行かないのかをはっきりさせようとするものだった。まず彼は、無意志的な図表(ダイアグラム)のかわりに精神的な視覚的コードを採用する絵画には惹かれない(それも芸術の典型的態度といえるにしても)。コードは必然的に頭脳的なもので、感覚を、落下の本質的リアリティを、神経系統への直接的作用を捕らえそこなうのである。カンディンスキーは抽象絵画を「緊張」と定義していた。しかしベーコンにとって、抽象絵画にいちばん欠けていたものはまさに緊張なのだ。抽象絵画は光学的形式のうちに緊張を内面化し、中和してしまった。そして結局、抽象的なせいで、コードは具象的なものの単なる象徴的なコード化になってしまう恐れがある。一方でベーコンは、やはり抽象表現主義にも、輪郭を欠いた線の力能や神秘にも惹かれはしない。なぜなら彼の言うとおり、図表(ダイアグラム)が絵の全面を占め、図表(ダイアグラム)の増殖がまったく絵を「でたらめ」にしてしまうからである。アクション・ペインティングのあらゆる暴力的な手段、棒、ブラシ、箒、襤褸(ぼろ)切れ、菓子作りのための噴射器でさえ、絵画―カタストロフィーにおいて乱舞する。このときまさに感覚は獲得されるが、取り返しがつかない混乱状態にとどまるのだ。図表(ダイアグラム)が増殖することを阻止する絶対的必要、絵画のある部分、描く行為のある瞬間だけに図表(ダイアグラム)をとどめておく必要を、ベーコンは語り続けるのだ。非合理的な軌跡と輪郭のない線の領域では、(アンリ・)ミショーは、図表(ダイアグラム)の統制を慎重に維持したからである。
(『感覚の論理学』「12 図表」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

難解な文章ですが、何となく言いたいことはわかります。
カンディンスキー(Vassily Kandinsky、1866 - 1944)には、有名な抽象絵画論がありますが、それは抽象的な形体で絵を描く方法を探究したものです。しかし、その通りに描けばよい絵が描けるというわけではありません。言ってみれば人体の描き方の見本帳のようなものを抽象形体で作ってしまったわけで、それは新たな「コード化」(規則化)と言ってもよいのかもしれません。「抽象的なせいで、コードは具象的なものの単なる象徴的なコード化になってしまう恐れがある」というのは、例えばそのことを指しているのかもしれません。
また、抽象表現主義やアンフォルメルの絵画においては、制作のアクション(行為性)だけが取り沙汰されて、大仰な身振りやそれらしい素材を使えば誰でもアクション・ペインティングが描ける、という類の混乱がありました。それに比べるとミショーの作品は、方法論や素材が限定されていただけあって、「線の領域」での脱コード化がはっきりと評価できた、ということはあるでしょう。
しかしもしかしたら、グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のフォーマリズム批評などのアメリカの美術批評がヨーロッパで十分に読まれていなかった、ということはあり得るかもしれません。ベーコンが自分の好みでアクション・ペインティングよりミショーの方がいい、というのはあり得ますが、もしかしたらドゥルーズはそれを鵜呑みにしてしまったのかもしれません。ちょっとこまかいところは分かりませんので、判断が難しいですね。
ただ、いままで確認した二つの方向性、そのいずれもが抽象絵画の方法だったのですが、それらを選ばない、ということがあっても、もちろんよいと思います。芸術には絶対的な方法などはありませんし、単独で別な方向性を探るということは、むしろ好ましいことです。
しかしここでも、その事例がなぜベーコンでなければならなかったのか、という疑問が残ります。ドゥルーズは、ベーコンをモチーフにしつつ、もっと大きな絵画の問題を掘り下げたかったのではないか、という思いが、ここでも私の中でわいてくるのです。この先のドゥルーズは、短い文章の中でみごとに独自の絵画論、絵画史を展開していきます。そしてそのなかで、(このblogでも何度も話題にてきた)絵画の「触覚性」の問題が出てきます。どんどん抜き書きしてみましょう。

それにしても、ある進化が生じ、またむしろ有機的な表象を不均衡状態に陥れる突発的事態が生じるとしたら、それは次の二つの方向のどちらかにおいてでしかない。まず純粋な光学的空間が露出することであって、この空間は、たとえ触覚性が従属的であったとしても触覚性に準拠すること自体から自由になったのである(この意味でヴェルフリンは、芸術の進化において「純粋な視覚に身を委ねる」傾向について語っている)。もうひとつは、反対に従属関係に抗い、これを揺さぶる暴力的な手動的空間を強制することである。これは「なぐりがき」のようなもので、手はある「未知の、抗しがたい意志」に奉仕して、自立的な仕方で自己表現するようになる。この二つの相反する方向は、ビザンティン芸術と、原始芸術あるいはゴシック芸術において体現されるように思われる。すなわちビザンティン芸術は地に能動性を与え、地がどこで終るのか、形がどこで始まるのかわからなくすることによって、ギリシャ芸術を転覆させることになった。実際、平面は丸天井、穹窿、アーチなどによって閉じ込められ、鑑賞する人々に対して作られた距離のせいで、背景となり、触知しがたい形態の能動的な支持体となり、形態はますます明暗の交代に依存し、光と影の純粋に光学的な作用に依存するようになる。触覚的な参照項はなくなり、輪郭さえも限界であることをやめ、影と光から、黒い部分と白い表面が生じるのだ。これと似た原理によって、絵画はずっと後に17世紀になって、光と影のリズムを展開するが、このリズムはもはや造形的形態の統合を尊重することがなく、むしろ地から発した光学的形態を出現させるのである。
<中略>
原始芸術、あるいは(ヴォリンガーの言うような広い意味での)ゴシック芸術が有機的表象を解体する仕方は、まったく異なっている。これらはもう、純粋に光学的なものを目ざしはしないのだ。反対に触覚の純粋な活動をとりもどし、触覚を手に返してやり、手に速度、暴力、生命を与えるのであって、目はこれについていけないのだ。ヴォリンガーはあの「北方的な線」を描写している。それらはたえず折られ砕かれ自失しては方向を変えつつ無限に達する。
<中略>
しかし純粋な光学的空間と、純粋な手動的空間にむかう二つの傾向を、相容れないものであるかのように対立させることは誤りだろう。二つの傾向は、少なくとも、古典的と呼びうる表象の触覚的―光学的空間を解体したという点では共通しているのである。この点で二つは、新しく複合的な組み合わせや相関関係に入りうる。
<中略>
光学的光の裏面として手動的な線を発見するには、レンブラントのような画家の絵を裏返すようにして、つぶさに眺めて見るだけで十分である。光学的空間それ自体が、新しい触覚的価値を解放した(そして逆も真である)といえよう。そして色彩の問題を考えるなら、事情はもっと入り組んでくる。
実際に、まず色彩は光に劣らず純粋に光学的な世界に属し、同時に形態に対しては自立性をもっているように思われる。色彩も光と同じく、形態にみずからを委ねるのではなく、形態を支配し始める。この意味でヴェルフリンは次のように言うことができるのである。輪郭が多少とも無差別になった光学的空間では、「われわれに語りかけるものが色彩であるか、あるいは明暗の空間であるのかどうかは重要性を失う」と。しかし事情はそれほど単純ではない。なぜなら色彩そのものが、まったく異なる二つのタイプの関係に導かれるからである。まずは色価の関係があり、この関係は黒と白のコントラストに基づき、<濃い、または明るい><飽和した、または希薄な>といった調子を定義するのである。もうひとつは色調の関係であって、これは光のスペクタクルに、そして黄と青あるいは緑と赤の対立に基づき、暖色と寒色のように、何らかの純粋な調子を定義するのである。
<中略>
色彩理論の観点から、すでにニュートンとゲーテのあいだには大きな違いがあるのではないか。人が光学的空間について語りうるのは、優勢的、さらには排他的であるような色価の関係にしたがって、目がそれ自体光学的なものである機能を行使するときだけだろう。すでにターナー、モネ、セザンヌの場合のように、反対に色調の関係が色価の関係を無にしようとするときには、触感的空間について、目の触感的機能について語ることができよう。ここでは、ただそこに配置された異なる色彩によって、表面の平板性が立体性を生み出しているのだ。つまり白―黒の光学的な灰色と、緑―赤の触感的な灰色という、まったく異なる二つの灰色があるのではないか。もはや視覚の光学的空間に、ある手動的空間が対立するのではなく、触覚的空間が光学的なものと結合しているわけでもない。いまは視覚そのものにおいて、触覚的空間が光学的空間に競合しているのである。光学的空間は、明と暗、光と影の対立によって定義されるが、触感的空間は暖色と寒色の相対的対立、そしてこれに対応する遠心的または求心的運動、膨張と収縮の運動によって定義される(ところが明と暗は、むしろ運動への「志向」を示している)。
(『感覚の論理学』「14 それぞれの画家が自分なりの方法で絵画史を要約する」ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳)

ちなみにヴェルフリン(Heinrich Wölfflin, 1864 - 1945)はスイスの美術史家、ヴォリンガー(Wilhelm Worringer、1881 - 1965)はドイツの美術史家です。いずれも美術の変遷と人間の精神との関連を考察した重要な研究者です。それから万有引力で有名なニュートン( Sir Isaac Newton、1642 - 1727)は、光学的な色彩論を唱えて、それが現在の色彩論の基礎になっているのですが、ドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)は人間の感覚に基づいた色彩論を研究してそれに異を唱えました。そういうふうに見ていくと、ドゥルーズが美術史から色彩論まで幅広く絵画全体を視野に入れて論じていることが分かります。ビザンティン芸術とゴシック芸術の対比など、古い美術に関して私はまったく無知なので、これからは意識的に見なくてはなりません。そこに触覚的な違いがあるのかどうか、実物を見て確かめてみなくてはなりません。
それから、色彩についてですが、たぶん、絵を描いている人間で白―黒の灰色と、緑―赤の灰色を同じだと思っている人はいないでしょう。そう考えると、ふだんから私たちは純粋に光学的な色彩論から逸脱して色について考えているのかもしれません。さらにそこに触覚性の問題が潜んでいるとしたら、ちゃんと意識してみなくてはなりません。このように、今まで意識していなかったことをこうして言葉として語ってもらえると、絵画における触覚性の問題も、もっと根本的な課題として広がってくるのかもしれません。
このようにきわめて示唆に富む、濃厚な文章が数ページにわたって続いたのち、本の最後の二章にわたってドゥルーズは、ベーコンの絵画がいかにこれらの問題を横断的に含んでいるのか、ということを説明しているのですが、これはどちらかと言えば、その前の章までで考察した絵画の課題をベーコンに当てはめてみた、というふうにも見えます。しかしベーコンに興味がある方なら、十分に興味深い文章だと思いますので、直接、本文にあたってみられることをお薦めします。

私にしてみると、ドゥルーズが絵画の触覚性についてたびたび触れていたこと、それを美術史の大きな流れの中で整理して見せたことが刺激的でした。いかに自分がせまい領域でしかものごとを考えていないのか、ということを思い知らされます。すこし古い美術史の本や、ドゥルーズ、あるいはドゥルーズ=ガタリの本なども、もう少し本気で取り組まないとだめですね。でも子供のような言い訳になりますが、彼らの本は分厚くて、読む前にたじろいでしまうのです。どうしても自分に関係のありそうなところだけを拾い読みしてしまいます。この『感覚の論理学』も、浅はかな拾い読みの結果、面白い部分を読み落としていました。反省します。

それにしても、ドゥルーズといい、少し前に取り上げたフーコー(Michel Foucault、1926 - 1984)のマネ論といい、大きな思想家は考え方の射程が広く、的確で、かつ独創的ですね。どうしたら、一人の人間がここまで大きな仕事ができるのでしょうか、不思議です。

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