はじめに、訃報を取り上げます。
ポピュラー音楽の巨人、バート・バカラック(Burt Bacharach、1928 - 2023)さんが亡くなりました。すでに数年前から90歳を越えていましたので、最近までテレビでそのお姿を拝見することの方が驚きでしたが、とうとうこの日が来てしまいました。
バカラックさんの音楽の特徴は、メロディーが親しみやすいことと、そのイメージとは反対にコード進行が複雑であること、そしてジャズからボサノヴァまでのリズム・パターンを幅広く使いこなしていたこと、などでしょうか。要するに難しいことを、それと気づかせずにわかりやすく表現した音楽家だったのです。それは、売れなければダメ、というポピュラー音楽の世界で生き残るための処世術であったのかもしれませんが、これだけ多くの人に愛される音楽を生んだのですから、その業績を誰も否定できないでしょう。
しかし、バカラックさんと言えども、1970年代の後半からのディスコ・ブームやその後のパンク・ロックのムーヴメント、1980年代からのラップ・ミュージックなどの隆盛には逆らえなかったようで、今の若い方は私たちの世代ほどにはバカラックさんに親しみを感じていないかもしれません。
バカラックさんの曲は、ディオンヌ・ワーウィック(Dionne Warwick)さん、カーペンターズ(Carpenters)、B・J・トーマス(B. J. Thomas、1942 - 2021)さんなどの歌唱が特に有名ですが、カーペンターズのカレン・カーペンター(Karen Anne Carpenter、1950 - 1983)さんもB.J.トーマスさんもすでに亡くなり、時代の移り変わりを感じます。
以前にラジオ番組の中で山下達郎さんが、バカラックさんの好んだ歌手は複雑なメロディーを高音から低音まで、安定したテンションで歌える人たちだ、という趣旨のことを言っていました。なるほど、激情的に歌い上げるのではなく、メロディーの良さと作り上げたアレンジをじっくりと聞いてもらいたいのだろうなあ、とその分析に感心したものでした。
彼らの歌った、超有名曲がネットで視聴できるので、リンクを貼っておきます。よかったらお聞きください。彼らの中でも、ディオンヌ・ワーウィックさんはバカラックさんの曲の表現者として特に有名で、バカラックさんの曲だけを集めた作品集もあるはずです。
このように、バカラックさんは先鋭的な芸術家というわけではありませんでしたが、繰り返して聞きたくなる曲を作ったという意味では、単なる流行歌を作った人ではなくて、立派な芸術家であったと思います。私は表現が先進的で新鮮であることと、ながく人から愛されることと、両方を満たす作品を作りたいといつも願っています。その意味では、バカラックさんの曲が人を飽きさせない秘密を握っているように感じられることがとても気になります。
いろいろと書きましたが、まずはご冥福をお祈りいたします。
さて、美術家のさとう陽子さんが “ 空空 “というタイトルの個展を開催しています。
https://www.splusarts.com/yokosato2023
六本木の国立新美術館の近くの「スプラスアーツ(S+arts)」というギャラリーで、2月19日までです。
さとうさんの表現に対する姿勢には、いつも感銘を受けますが、満身創痍で作品に立ち向かう今回の個展も、一つ一つの作品にさとうさんの表現への欲求が感じられます。それがとてもストレートで、彼女の作品を見ると、澄み切った空気の向こう側に表現の核心部分があるような気がして、とても不思議です。
さとう陽子さんの作品は、いわゆる「現代美術」というジャンルに分類されるのでしょうが、その「現代美術」の高名な作家たちの絵を見ると、理論的な帳尻合わせやら、技術的な粉飾やら、見栄えを気にしたはったりやら、とにかくいろいろな夾雑物をかき分けないと作家の姿が見えてこないので、疲れてしまいます。それに比べて、どうしてさとう陽子さんの作品は、こんなにも透明感があるのか、そんなとりとめのないことを、ちょっと書いてみたいと思います。
さとう陽子さんの作品を考えるときに、私が少し前に川西紗実さんという作家について書いたことが参考になると思います。よかったら次のblogを読んでみてください。
293.『川西 紗実 展』とベンヤミンの「アウラ」について
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/0072623a50e7e2160bee2ae31ee2f99b
この川西さんの作品展について私が書いたことは、川西さんの作品には、ドイツの思想家、批評家のベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)が
『複製技術時代の芸術』の中で言及した「アウラ」があるのではないか、ということでした。
「アウラ」とは、一般的には「オーラ」という言葉で知られていますが、「どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象」のことで、「あの有名人(スター)にはオーラがかかって見えた」などというときの「オーラ」のことです。ベンヤミンは写真や映像技術の発達によって、芸術作品から「アウラ」が失われていくと考え、どちらかといえばそれを肯定的に捉えたのでした。ベンヤミンの判断の中には、当時の最新の芸術の動向であった「未来派」が戦争を礼賛した、ということが関わっていたそうです。
少し横道にそれますが、ベンヤミンが「未来派」への批判から芸術至上主義的な考え方全般を否定したことによって、音楽家でもあった後輩のアドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903 - 1969)から批判されることになりました。その辺りの事情については、私の上のblogを参照していただけるとわかると思います。また、「未来派」という芸術運動については、伊藤亜紗さんが『感性でよむ 西洋美術』という最新著書の中で取り上げていたので、そのことを私は前回のblogでご紹介しました。こちらも参照していただけると幸いです。
そして肝心なことは、たとえベンヤミンのような優れた批評家、思想家であってもその時代の思想や考え方に影響を受けることは避けられない、ということです。生半可に「ベンヤミンがこう言った」などとその言葉を鵜呑みにするのではなくて、どのような状況で、どうしてベンヤミンがそのように考えたのかを理解することが大切です。私も不勉強な人間なので、たびたび思想家の言葉に対して表面的な理解で済ませてしまうことが多いので、自戒を込めて書いておきます。
さて、さとう陽子さんの作品には、まさに「アウラ」があります。それも、一点一点の作品に、それぞれ違った輝きの「アウラ」があるのです。川西さんの個展の折にも書きましたが、現代美術の多くの展示が一点一点の作品の「アウラ」をおろそかにしている中で、さとう陽子さんや川西紗実さんの作品の「アウラ」は貴重です。
私は現代美術の作品が、一点一点の作品の「アウラ」よりも、一連の作品の方法論を優先して考えてしまうことに対し、不満を抱いています。どうしてこうなってしまったのでしょうか?
かく言う私も、若い頃には自分の作品の方法論を確立することが大切だと思ってきました。個展を開くなら、個々の作品よりも展覧会全体で、一つの明確な現代美術の方法論を示さなくてはならない、と強迫観念のように思っていました。今でも、現代美術を志すなら新たな方法論を提示しなくては・・・、という気持ちはあります。また、ある一定の期間に制作した作品ならば、ある程度同じ技法で作品を制作する、という事情もあります。しかし、それらのことが、一点一点の作品と向き合うことよりも優先して良いわけではありません。もちろん、ある作家の個展会場に行ったときに、会場全体の景色から感銘を受ける、ということは頻繁に起こります。しかしそれは、作家が一つ一つの作品と向き合って制作した結果でしょう。同じような作品を流れ作業のように量産した展覧会で、感銘を受けるということはありません。
先ほどの問いに戻って、どうして現代美術はこうなってしまったのか、ということですが、それはマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)の「レディ・メイド」の作品に始まって、ジョセフ・コスース(Joseph Kosuth)さんの「コンセプチュアル・アート」に至るように、作品の創作観念を重視した現代美術の傾向が影響しているのでしょう。「ミニマル・アート」の作品もその流れの結果、生まれたものだと思います。芸術活動というのは、時代の流れを先鋭的に捉える面がありますから、現代思想の先端を走るような作品を創造することも、芸術活動の大きな役割ではあります。現代美術のある時期に、その観念的な側面のみを重視した作品が創作されたというのも、確固たる必然性があったのだと、私は思います。
しかし、いま必要な芸術活動は、それらの先鋭的な作品を反省したことから生まれるはずです。そして芸術的にも思想的にも、これまで辿ってきた筋道とは異なる、新たな道を探さなければならない時期に来ていると思います。
このblogでも幾度となくご紹介してきましたが、日本の若い思想家の中には、そのような趣旨の著作を発表している人たちが少なからずいます。若い人たちは、自分たちの未来に対して大きな不安を抱えていますし、いますぐにでも軌道修正しなくては大変なことになる、という危機感も大きいと思います。
これらの危機感に対して、最も動きが鈍いのは年寄りの政治家たちだと思います。環境保護の危機的な状況下で戦争を始めてしまう愚か者は論外としても、私たちの身近にいる政治家たちも似たようなものです。
そして、芸術家や美術家はどうでしょうか?
私は、芸術や美術においても、モダニズムに対する反省が必須だと思うのですが、多くの美術家がモダニズムの枠の中で表現活動を考えてしまっています。その一方で、モダニズムの芸術運動について無頓着な美術家も多くいます。いずれにしても、現在の表現活動に対して切実な危機感を持って表現することが難しい人たちだと、私は思います。私はそれらの人たちに対して、何も理屈でモダニズムを勉強してください、というつもりはありません。しかし、現在の状況に対して、あるいは自分自身の表現活動に関して、自分の肌で危機を感じていただく必要があります。
例えば、もっと自由に、あるいはもっと豊かに表現するにはどうしたら良いのか、絶えず自問自答することが重要です。私たちは、知らないうちに何かに囚われていることが多いのです。とくに、自分がモダニズムの優等生だと思っている方は危険です。おそらくそういう方は、苦労して自分の方法論らしきものを見つけて、そこから動き難くなっているのだろうと思います。そういう方の作品を見ると息苦しくなってしまいますし、退屈でつまらなくなってしまうのです。
それでは、さとう陽子さんの作品はどうでしょうか?
素朴な感想ですが、彼女の作品を見ると、まずは素材の扱い方に驚きます。
例えば、鉛筆でぐるぐるとドローイングをした作品があります。これが鉛筆の芯の色だと気づかないぐらい、綺麗なグレーのトーンをしています。途中で気分が変わったり、飽きてしまったりしたら、このような均質なグレー・トーンは表現できないと思います。そしてドローイングの線が、システマティックというのとも違うのです。子どもが鉛筆を握って、紙にぐるぐると線を引いているときに感じる心地よい気持ちのようなものが、さとうさんの線にはあります。
それから、おそらくは包装用の紙箱だと思われる厚紙が、そのまま手を加えられずに貼り付けられた作品があります。黄色とオレンジの中間のような色で、鮮やかというほどきれいな色ではなく、近くに寄ってよく見ると、どこにでもあるような箱の色です。それが作品の中に置かれると、とても微妙な色合いに見えるのです。なかなか意図して探しても、こういう色合いの紙は見つからないでしょう。箱を開いた形のままに貼り付けられていますが、その形がまた面白いのです。ハサミで輪郭の形に手を加えていない(と思います)のが良いのです。その展開図のような形は、もともと人間の作ったものですが、もちろん、こんなふうに美術作品になることを考えて作られたものではありません。そのわざとらしさが感じられないところが良いのです。
案内状の写真に図版として使われていた作品は、ギャラリーのホームページに使われている作品と同じものです。堂々とした作品ですが、実物を見ると意外と小さくて驚きます。さとうさんの作品には、得てしてそういうことが起こります。写真を見て、大きくてすごく手間のかかった作品だと思っていると、本物の作品は小さくて最少の手数で作られているのです。さとうさんは余計なことを何一つしていなくて、中央の絵の具のタッチも一発で決まっています。言うまでもないことですが、私にはとてもこういう真似はできません。
このような作品を見ると、さとうさんが作品と向き合っている時の密度の濃い時間が想像できます。さとうさんのようなタイプの作家の場合、私のように絵の具を重ねて制作するタイプの作家とは、少しちがった時間を過ごしているのでしょう。私だって、たとえ基層となる絵の具であっても、それが的確なものなのかどうか、真剣に考えながら制作しています。しかし、作品制作の最後の頃の気持ちと、描き始めの頃の気持ちとでは、やはり少し違っています。もう少しで筆を置くかもしれない、と思うとやはりテンションが上がりますし、その一方で慎重にもなります。そのような重たい時間がずーっと続いていて、そのことすら忘れるぐらいに作品に集中しているとすると、さとうさんの華奢な体にどれほどの負荷がかかっているのか、と心配になります。
そのような緊張感や体の負荷を乗り越えて作品を制作できるのは、ひとえに「表現したい」という欲求があるからでしょう。それは、「もの」や「情報」が溢れている現代社会の中ですが、そこには何か欠けている、という気持ちが作家の背後にあるからだと思います。
さとうさんは詩人でもありますが、彼女の書いた『世界はいつも』という作品を読んでみましょう。
世界はいつも
勝手に醜く
勝手に喜劇で
勝手に惨め
全部知らん顔
これらの言葉の冷静さに驚きますが、その一方でこんな「世界」を少しも見捨てていない、さとうさんのジレンマのような気持ちが伝わってきます。「世界」は美しくあってほしいし、喜劇として笑えないほどの悲惨さにちゃんと向き合ってほしい、とこの詩を読むとそういう気持ちになります。
詩人でもあるさとうさんがこのような言葉を発する時、私は「芸術家は社会における炭鉱のカナリアのようなものだ」という比喩を思い出します。これは「炭鉱のカナリアが何らかの危険が迫っていることを知らせてくれる前兆だ」ということ、つまり「炭鉱で有毒ガス(危険)が発生した場合、人間よりも先にカナリアが察知して鳴き声(さえずり)が止むことから、炭鉱労働者がカナリアを籠にいれて坑道に入ったこと」に由来する、ということです。その「炭鉱」が「社会」で、「カナリア」が「芸術家」だというわけです。
この比喩に見合った芸術家を探すとなると、人々はたいてい戦争について歌った詩人や、環境保護を訴える造形作家などに目を向けることでしょう。しかし私たちの世界に欠けているものは、何もそのような特別な状況にあることばかりではなくて、私たちのすぐそばにもあるはずなのです。
私はさっぱり詩を読まない人間ですが、それでも私と同世代の詩人である小池昌代さんが、次のような言葉を紡いでいることを知っています。
『蜜柑のように』から
・・・・
わたしの遅さ
蜜柑一個
わたしたちはいつも
それぐらい何かを欠いて生きている
やさしさは異物感
ごつごつとして見慣れない固まり
辺鄙な場所へ落ちた、とおくからの届け物
深いポケットに指をのばして
わたしはおそるおそる蜜柑に触れる
ひんやりした
この夜の
夜気よりも冷えたすこやかな固まりを
誰のものでもない、この固まりを
蜜柑のように
無造作に
ポケットの底に
ころがして歩く
小池さんの書いた「蜜柑一個」分の何かが心のどこかで欠けている、という言葉がなんだかとてもリアルです。それぐらい欠けていても、いますぐに死ぬわけではありません。無神経な人なら、気づかずに過ごしてしまうかもしれません。しかし、その欠損に気づいてしまうと気になって仕方ありません。それはごつごつと固く、冷たく、おまけに誰かにもらってもらうわけにもいかないのです。私たちは、「ごつごつとして見慣れない固まり」を抱えながら生きていくしかない、と小池さんは言っています。
あるいは『永遠に来ないバス』という詩には、こんな言葉があります。
『永遠に来ないバス』
・・・・
橋の向こうからみどりのきれはしが
どんどんふくらんでバスになって走ってくる
待ち続けたきつい目をほっとほどいて
五人、六人が停留所へ寄る
六人、七人、首をたれて乗車する
待ち続けたものが来ることはふしぎだ
来ないものを待つことがわたしの仕事だから
乗車した後にふと気がつくのだ
歩み寄らずに乗り遅れた女が
停留所で、まだ一人、待っているだろう
橋の向こうからせり上がってくる
それは、いつか、希望のようなものだった
泥のついたスカートが風にまくれあがり
見送るうちに陽は曇ったり晴れたり
そして今日の朝も空へ向かって
埃っぽい町の煙突はのび
そこからひきさかれて
ただ、明るい次の駅へ
わたしたちが
おとなしく
はこばれていく
ここに掲げた二篇の詩の言葉は、いずれも小池昌代さんの詩の一部です。
気になる方は、彼女の詩集を購入して、全編を読んでみてください。小池さんは小説家でもあるので、彼女の本は普通に手に入りますが、これが少し前の詩人の本となるとなかなか入手できません。困ったものです。
さて、『永遠に来ないバス』ですが、「来ないものを待つことがわたしの仕事だから」というわたしのお仕事は何なのでしょうか?カゴの中のカナリアと、少しイメージが重なります。わたしは「芸術家」や「詩人」なのかもしれません。
それにバスに乗れなかった女の人は、どうなるのでしょうか?その存在に気づいた時にはちょっと気になります。しかし結局のところ、私たちは「ただ、明るい次の駅へ」と「おとなしくはこばれていく」だけなのです。これは特別に無気力な人たちの詩ではありません。私たちは、おしなべてそういう存在なのです。しかし、もしもそのことに気付いたなら、そのままでいてはいけません。小池さんはそこまで押し付けがましいことは書いていませんが、まともな人間なら、そう考えるべきです。違いますか?
小池昌代さんの詩にも、さとう陽子さんと同じように「世界」の欠落について何かを伝えなくてはならない、という表現欲求の高まりを感じます。彼女たちは、それをどんな言葉で表現すると正しく、そして印象深く伝わるのか、そのことをじっくりと考え、そして表現し、あるいは実践しています。
さとう陽子さんの美術作品は、詩のように直接的に言語化できるメッセージを伝えているわけではありません。しかし、やはり詩作品と同様に「世界」で不足しているものを表現として指し示し、その欠落を少しでも埋めてみたい、という欲求を作品から感じることができます。そうでなければ、これほどにもさとうさんの作品に必然性を感じることはないはずです。
さとう陽子さんの美術作品はどれも美しいと思います。しかし、それは決して「世界」を粉飾するためのものではありません。さとうさんの作品を贅沢な調度品として購入したお金持ちがいたとしたなら、その方は勘違いであったとはいえ、良い買い物をしたと思います。さとうさんの作品がその方の家のどこかに飾られたとしたら、それはその方の最も必要な部分を埋めることになるからです。そのことによってその方の暮らしは豊かになるでしょうし、もしかしたらその影響がその方のその後の生き方に表れるかもしれません。もちろん、私が言いたいのは経済的な豊かさのことではありません。それ以上に、その方にとって必要な、心の中の何かです。
私はこのように、芸術の力を信じています。
そして実際に、その力が必要とされていることを、いま、ひしひしと感じています。川西さんやさとうさんの展覧会から受けた感銘は、そのことを指し示す証拠だと、私は思っています。そして私は私で、今の世界がどこから再生したら良いのか、絵画で、あるいは批評文でこれからも表現していきたいと考えています。
3月に個展を予定しているので、その時に私が現時点でできることの全てをお示しします。