伊藤亜紗さんの、初の美術入門書がでました。
伊藤亜紗さんは、いま話題の美学者ですが、主に身体性と表現との関わりについて研究されている方です。共著も含めてたくさんの著書が出ていますが、それらに共通するのは最新の知見に基づいた身体論であって、美術と関わる本は意外と少ないかもしれません。
その中でも、私は何回か伊藤さんの本を取り上げてきました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8f0cd919dcea13ce56408a0b98106ed9
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8d898332d3c2d97129e47cbe7961a50c
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/207fa3fb341ace110f52a648a4dba187
これ以外の文章でも、何回か彼女の研究に言及していると思います。
その伊藤さんが、がっつりと「西洋美術」をタイトルにした本を出版されましたので、いやでも期待が膨らみます。まずは、出版社の本の紹介文を読んでみましょう。
2500年もの歴史をもつ「西洋美術」。その膨大な歴史や作品を理解するのは至難の業だ。しかし、5つの様式から「大づかみ」で概観すれば、「この時代の作品はこんな感じ」という全体像が見えてくる。キーワードは「感性」。古代から20世紀まで、約40点の名作を鑑賞して、感じたことを言葉にしてみれば、作品理解がぐっと深まる。「ルネサンスはなぜ重要なの?」「マネの何が革新的なの?」「ピカソはなぜ不思議な絵を描くの?」。美術館に行くと、まず解説を読んでしまう鑑賞法から卒業できる、新感覚の美術入門!
(出版社の紹介文より)
この紹介の通り、伊藤亜紗さんは6つの章を立てて、その中で5つの様式について講義をしています。
第1章 ルネサンスの夜明け
第2章 ルネサンス「理性」を感じる
第3章 バロック「ドラマ」を感じる
第4章 モダニズム「生々しさ」を感じる
第5章 キュビズム「飛び出し」を感じる
第6章 抽象画「わからなさ」を感じる
この章立てを見ると、ルネサンスが二回出てきますが、第1章はルネサンス以前の古代から中世までをカバーしています。その章の中心となる話題は、チマブーエ(Cimabue, 1240頃 - 1302頃)とジョット( Giotto di Bondone、1267頃-1337)の比較となります。この二人は数十年ほどの年代の違いしかなくて、師弟関係だったとも言われますが、チマブーエは中世の円熟した表現を象徴する画家であり、ジョットは初期ルネサンスの先駆者とも言われる画家です。わずかな差ですが、絵画の様式が大きく変わった時代で、その変化を象徴する二人でもあるのです。伊藤亜紗さんは、その二人の表現の違いを「感性で感じてみよう」、というこの著書の「ねらい」にそって講義を進めています。
著者である伊藤亜紗さんは美学者です。そして、この本の章立ては美術史の順番にはなっていますが、たんなる美術史上のできごとの紹介にはなっていません。
このblogを読んでいる方は、ある程度、美術に関する知識がある方が多いでしょうから、ここでは伊藤亜紗さんの本の概説ではなくて、伊藤さんの美学者としての意図を読み取りながら、本の紹介を進めていきましょう。そして、もしも西洋美術史の大枠が頭に入っていない方がいらしたら、ぜひともこの『感性で読む西洋美術』をお読みください。この本は、ちゃんと美術史の概要が頭に入るようにも書かれているのです。
その点について、伊藤さんに質問した学生がいますので、そのやり取りを見てみましょう。
ー先生は美学が専門ですよね?美学と美術史学は違うんですか?
質問ありがとうございます。重なるところもありますが、美学と美術史学は違います。美学は感性など言葉にしにくいものを言葉で分析する哲学的な学問です。対して美術史学は歴史学の一種。作品が成立した経緯など実証性が求められます。
今回のタイトルが「感性でよむ」となっているのも、私が美学の専門であることと関係しています。
たとえば、展覧会などに行くと、展示作品の横に解説文が付いています。私たちは、作品を見る前についそちらを読んでしまうことがありますね。作品を見ただけではきっと理解できないだろうと思い、まずその作品についての情報を得ようとする。でも、ずっとそういう鑑賞法だと、作品鑑賞というものは結局、解説に書いてあることの確認作業になってしまいます。それではちょっともったいない。
情報も大事なのですが、現代では、情報はいつでも手に入ります。これから六回の授業で、「感性をよむ」という方法を実践しながら、当時の人の感じ方を解凍する練習をしていきたいと思います。
「感性でよむ」というと「センスを磨く」ことだと思うかもしれませんが、感性でよむとは必ずしも直感を鍛えることではありません。むしろ言葉をしっかり使うということです。一般に言葉と感性は相性が悪いものだと思われています。しかし、だからこそ一緒に使うと、感じ方も深まるし、言葉も磨かれるのです。
(『感性でよむ西洋美術』「はじめに」伊藤亜紗)
わかりやすい解説ですね。さらにこの後には、具体的な作品の鑑賞方法や今回の講義のやり方についての話が続きます。興味のある方は、ぜひこの本を購入して読んでみてください。
ここで、私なりの美学と美術史に関する認識を書いておきます。
美術作品を語るには、さまざまなアプローチがあって、美学と美術史はその代表的なものだと思います。「美術史学は歴史学の一種」という伊藤亜紗さんの言葉がありましたが、「美術史」は美術に関する歴史的な事実を積み重ねたものです。一方の「美学」は哲学の一種という言い方ができると思います。「美しいとはどういうことか」とか、「なぜ、人は美しいと感じるのか」ということを問いかけるところから始まった学問なのです。だからまず、自分自身が美術作品からどのようなことを感じたのか、ということが「美学」を学ぶ上で、とても重要なことになります。それは美術史的な知識を得ることとは、根本的に違ったアプローチなのです。
しかしその一方で、例えば先ほど話題になったチマブーエやジョットの作品について、それを描いた画家やそれを見た当時の人たちがどのように感じたのか、ということを考える時に美術史的な知識がどうしても必要になります。今から数百年も前の人たちの感性は、私たちとはだいぶ違っていたはずですし、その差異を抜きにしては作品について語ることができません。今の私たちから見ると彼らの絵は稚拙でぎこちない表現に見えてしまうことがありますが、その印象だけで判断するのはもったいないと思います。
この講座では、例えば、なぜ私たちが中世の絵に対してそのようなぎこちなさを感じるのか、ということをていねいにわかりやすく解き明かしていきます。それは絵画が時代を経るにしたがって獲得した描写技法によるところが大きいのです。伊藤亜紗さんのねらいは、それを知識として身につけるのではなく、「チマブーエの絵は立体的な描写が発展する前の時代だから、作品はこんな感じだな」とか、「ジョットの絵は、まだ遠近法(透視図法)が成立する前だから、作品はこんな感じだな」というふうに感性として「おおよそのスケール」を身につけることにあるのです。
この伊藤亜紗さんの作品の見方は、画家が作品を見るときの見方にすごく近いと思います。例えば私は、好きな画家の作品ならば、見たことがない作品であっても、だいたいその作家のものだとわかります。あるいは、見たことのない絵であっても、その絵がどの時代のどこの地域で描かれたものなのか、おおよその見当がつくこともあります。もしも私が美術史を勉強している人間であったなら、ざっくりとそんな感じで絵を見ているだけではダメです。もっとその裏付けを得るための研究が必要となるでしょう。
それでは、私のそんな感性的な見方はあまり役に立たないのか、というとそうではなくて、むしろ画家としての鍛錬を積むのであれば、そんなふうに未知の絵を見てピンとくるようなことの方が重要なのだと思います。その上で、その作品がどんな時代背景の中で、どのような技法で描かれたのか、ということを必要に応じて勉強すればよいのです。
そしておそらく、一般的な絵の愛好家の方ならば、伊藤亜紗さんの「おおよそのスケール」を身につけるというやり方が、絵を楽しむための最短の方法ではないかと思います。そこからさらに知的な興味が出てきた時には、美学を学ぶのか、美術史を学ぶのか、を考えてみれば良いのです。もちろん、そこから派生したさまざまなジャンルの学問を覗いてみるのも良いでしょう。
伊藤亜紗さんは、そのような美術の学びの効用について次のように書いています。
最後に、美術を学ぶと芸術作品がわかるだけでなく、日常生活の中での感じ方の解像度が上がります。美術で学んだことがツールとなり、日常生活で触れるものの見え方が変わるのです。
(『感性でよむ西洋美術』「はじめに」伊藤亜紗)
これはまったくその通りだと思います。
これは良い例になるのかどうかわかりませんが、例えば私の場合、ものを見るときの見方のほとんどが、美術で学んだことが土台になっています。それはそれで、あまりに偏りがあって問題なのかもしれませんが、しかし私はもうそういう見方から離れることができません。仮に絵を描くことをやめたとしても、私が世界を見るときの窓口は、美術なしでは考えられないのです。それでどれくらい良いことがあるのか、と聞かれると困りますが、少なくとも美術や芸術に関することならば、一般の方よりも大きな楽しみを見出すことができていると思います。
私よりもバランスの良い人生を送っている方ならば、伊藤亜紗さんの言う通り、絵の楽しみ方がわかるとさらに世界が広がるのかもしれません。
それではこの著書の具体的な例として、はじめのルネサンスに関わる講義を取り出して見ていきましょう。その前に口絵として選ばれている4枚の作品を見ておいてください。
4.ジョット『荘厳の聖母』(1300 - 05頃、ウフィツィ美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/asset/the-ognissanti-madonna-giotto/OgE-RDjvff-y6g?hl=ja
5.チマブーエ『荘厳の聖母』(1290 - 1300頃、ウフィツィ美術館蔵)
https://artsandculture.google.com/story/nwVx162-8jWAIw?hl=ja
6.ジョット『磔刑』(1305頃、スクロヴェーニ礼拝堂)
https://livedoor.blogimg.jp/mement_mori_6/imgs/9/e/9eaa5b49.jpg
7.マザッチオ『聖三位一体』(1425 - 26、サンタ・マリア・ノヴェラ教会)
https://www.rogerwlowther.com/2020/04/10/%E8%81%96%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93/
先ほども書いたように、こういう古い絵を見る場合は、現在の私たちとの感性の違いについて気づくことが重要です。伊藤亜紗さんは、学生とのやりとりの中で自然と聞き手がそのことに注意を払うように持っていった後で、次のように解説しています。
現代の私たちからすると、現実に存在しているものを見て、写生し、それをもとに絵を描くということは、小学校の図工の授業で学ぶ当たり前のことです。しかし、中世という時代にはそういう描き方をしていませんでした。古代ではしていたのですが、中世の間にその習慣が消えてしまい、それを復活させたのがジョットなのです。
その結果が二人の絵の違いです。チマブーエの絵はスタンプで押したように顔がみんな同じです。天使とはこういうものだという理解がまず頭の中にあり、それを反復的に描いているだけ。顔の向きも二パターンしかなく、人工的です。
先ほどラヴェンナの聖堂を紹介した際、花など描かれるものすべてに象徴的な意味があるとお話ししました。それと同じで、チマブーエの絵は非常に記号的です。つまり「書物」なのです。「天使が八人立っていました」と文章で書くのとほとんど等価なものとして、天使の顔を八つ描いている。
それに対しジョットは、「実際にはこういう感じ」というものを視覚的に表現しました。だから、実際に人や天使がそこに「いる」ように感じる。何かに集中しているような内面も感じる。構造物も空間を区切る仕切りではなく、実際にそこに「ある」物として感じられる。画面に「重力」が生まれたと言ってもいいでしょう。そこがものすごく新しかったのです。
(『感性でよむ西洋美術』「第1章 ルネサンスの夜明け」伊藤亜紗)
この後で伊藤さんは、例えば服のひだの表現の違いなどを取り上げて、より具体的な解説をしています。さらにジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511 - 1574)の書いた評伝『芸術家列伝』を例にとって、ジョットの革新性がルネサンス当時から評価されていたことを紹介しています。『感性でよむ西洋美術』と言いつつ、「感性」ばかりでなく、役に立つ知識も厳選されて言及されているのです。
新刊の本なので、あまり多くの引用を載せることはまずいのですが、次のジョットとマザッチオの比較については、必要最小限のことだけ書き写しておきます。そのあとで、私の感想を少しだけ書いておきたいと思います。
早速、比較に入りましょう。まず見てほしいのが、マザッチオ(一四〇一~二八)の「聖三位一体」(一四二五~二六年)という作品です。三位一体とはキリスト教の教理で、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位は、唯一の神が三つの姿で現れたものであり、もとはひとつだとする教えです。この絵はそれを表現しています。 この作品を、ジョットが描いた「磔刑」(一三〇五年)という作品と比べてみてください。これら二つの作品は、ともに十字架に架けられたキリストが描かれていますが、ジョットはルネサンスの走り、マザッチオは本格的なルネサンスです。二つの絵にはどういう違いがあるでしょうか。
<中略>
第1章で見たように、中世の絵が最も説明的で、ジョットはそれを脱して視覚的な面白さを追求してはいるのですが、マザッチオと比べると、まだかなり説明的です。「キリストの周りに天使が飛んでいます」とわざわざ文章で書いている感じかな。
<中略>
二つの絵には確かにいろいろな違いがあります。その上で、マザッチオの絵の決定的に新しいところは何でしょうか。
<中略>
ー遠近法を使ってる?
あ、その通りです。ジョットの絵も奥行きを感じさせますが、遠近法はまだ使われていなかった。ところがマザッチオの絵には遠近法が使われています。マザッチオの「聖三位一体」は、世界初の遠近法を使った絵画と言われています。
(『感性でよむ西洋美術』「第2章 ルネサンス<理性>を感じる」伊藤亜紗)
伊藤亜紗さんは、学生から絵を見て感じたことをうまく引き出しながら、その感覚がどうして生じているのか、理論的に解き明かしていきます。専門用語の使用を最低限に抑えて、できるだけ平易な言葉で語っているところがうれしいです。語るべきことを語りながら、言葉遣いはわかりやすく、ということは私も理想としているところです。平易な言葉で平易な内容しか伝えないのでは、意味がありません。難しいことをやさしく伝えるにはどうしたら良いのか、伊藤亜紗さんの本を読むと勉強になります。
さて、ここで伊藤さんは、チマブーエとジョットを比較しながら、両者のモチーフと向き合う態度の違いについて解説しました。さらにジョットとマザッチオを比較しながら、写実的に描写するための技法の違いについて説明しました。繰り返しになりますが、この『感性でよむ西洋美術』は美術史の本ではありませんが、西洋美術の歴史的な歩みについて、ちゃんと解説しています。そこには、確かな進歩があったのです。
しかし、それではチマブーエ、ジョット、マザッチオの順に芸術的に進歩してきた、と言えるのでしょうか?
ここからは私の感想になりますが、私はそうではないと思います。
私がこの三者の作品で、一番見てみたい作品は誰の作品か、と言えば、ジョットの作品です。ジョットの作品の青い色の美しさは、ぜひ本物の作品を見て体感してみたいです。
その次はチマブーエの作品です。中世の作品の金色の表現は、やはり写真ではわからないと思います。日本の金箔を使った絵画と比較してみたい気持ちもあります。それに表現が平面的であるだけに、その色面の美しさがどれほどのものなのか、体感してみたいものです。
このように、芸術作品の魅力というのは、技法的な発展と必ずしも比例するものではありません。それらが描かれた時代の表現様式を理解できれば、より自然な眼差しで古い作品を見ることができます。それにマザッチオの作品よりも、チマブーエやジョットの作品の方が、モダニズムの表現に近いということもできます。美術史的な発展を知ることも大切ですが、美術史の研究者ではなく、美術鑑賞者である私たちにとって大切なことは、自分の感性で作品を見るということでしょう。
そして、伊藤亜紗さんが書いていたように、自分の感じたことを言葉にしてみることが、大切なことだと思います。もしもチマブーエ、ジョット、マザッチオの本物の作品を見ることができたら、その時の自分の感動を書き留めておきたいものです。そうすれば、どの作品に対して自分が最も強い感銘を受けたのか、客観的に知ることができるでしょう。記憶だけだと、どうしても美術史的な知識や他の人の意見に引っ張られてしまいがちです。
それから、自分の感想を書き留めて、それを人に表明することは、自分の意見が間違っていたらどうしよう、という不安になったりして、ちょっとためらわれてしまうかもしれません。しかし、他人から間違っていると思われてもいいじゃないですか。それぞれの人が、ちょっとずつ違った感想を持つから、作品を鑑賞することは楽しいのです。ですから、できれば自分の感想を他の人に聞いてもらって、合わせて人の意見を聞くことを楽しみたいものです。これは当たり前のことのようですが、なかなかできないことです。
あれ、そうでもないですか?それなら、良いのですが・・・。
さて、最後に伊藤亜紗さんが「第5章 キュビスム<飛び出し>を感じる」の中で取り上げている芸術運動「未来派」について触れておきましょう。口絵として掲載されている作品はジャコモ・バッラ(Giacomo Balla, 1871 - 1958)の『高速車 抽象的速度』という作品です。
この本で取り上げられている他の作品と比べて、最も賛否が分かれる作品だと思います。私は<293.『川西 紗実 展』とベンヤミンの「アウラ」について>の中で、思想家のベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)が未来派について、否定的に考えていたことを次のように書きました。
この当時の芸術運動でイタリア未来派という動向がありました。その中心人物である詩人のフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ(Filippo Tommaso Marinetti、 1876 - 1944)は当時の最新のテクノロジーを肯定し、勢いあまって「戦争」と「ファシズム」を讃美したのです。どうやらベンヤミンは、その動向を芸術至上主義の帰結だと解釈し、それに対して映画の大衆性に注目したようなのです。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/0072623a50e7e2160bee2ae31ee2f99b
この本で伊藤亜紗さんは、マリネッティの「未来派宣言」の1、4、7、9を引用しました。
https://tanken.com/miraiha.html
その後で、次のように書いています。
こうして書き写しているだけで胸が悪くなるような、男尊女卑と排他主義と暴力に満ち満ちた内容です。正直、未来派の活動を美術として純粋に評価するのは難しい。
彼らの時代に生まれた、新しい美を追究することから生まれた表現が非常にユニークであることは確かです。まさに戦争を含めてこの時代の感性を真空パックしている。未来派の活動は、絵画のみならず、詩や彫刻や音楽、演劇、ダンス、ときにおもちゃまで、実に多岐にわたりました。見る人の感性を刺激し、沸き立つ力に火を付けるその可能性を、誰より信じていたのが未来派であるように思います。
(『感性でよむ西洋美術』「第5章 キュビスム<飛び出し>を感じる」伊藤亜紗)
マリネッティの「未来派宣言」が「胸が悪くなるような」と書かれているように、私は未来派の作品の多くが醜悪だと思っています。作品制作の理念が間違っていると作品も悪くなってしまうのか、それともただ単に優れた作家がいなかっただけなのか、判断が難しいところです。しかし、このような芸術の動向が「戦争を含めてこの時代の感性を真空パックしている」というのも事実であり、伊藤亜紗さんが「純粋に評価するのが難しい」と判定しているだけに、かえってその動向の重要性が強調されることがあります。
私たちの文化は、いまだに20世紀初頭から続くモダニズムの延長線上にあると思うのですが、そのモダニズムが大きな戦争を引き起こし、さらに格差社会や排他主義を生んでいることは間違いありません。その事実を見つめるためにも、私たちは未来派の醜悪さを受け止めなくてはならないのだと思います。それにしても、未来派の作品を鑑賞することは、私にとってなかなか辛いことです。
この『感性でよむ西洋美術』ですが、急げば10分ぐらいで読めてしまう本の中に、芸術の甘美さも苦さも含めて、これだけの内容をわかりやすく詰め込んでいることに驚きます。
あまり美術に詳しくない方は、最良の入門書として、美術に詳しいと自認している方は、伊藤亜紗さんが美学者として西洋美術をどのように見ているのかを確認する機会として、ぜひ一読することを、お薦めします。
そして今後とも、伊藤亜紗さんが本格的な美術書を出版されることを期待して、筆を置くことにします。