blogの本題に入る前に、私の生業に関する話題について、少しだけ書いておくことをお許しください。私は教員として定年後も働いていますが、最近、朝日新聞が教員の免許更新制について、まとまった記事を書いています。
よかったら、朝日新聞のサイトから『先生に10年の「有効期限」 教員免許更新制って何?』、『免許更新は「懲役1週間、罰金3万円」 先生も疑問の声』、『教委の8割、免許更新「見直しを」 教員確保のネックに』といった見出しの記事を読んでみてください。有料会員でなくても、何を問題提起しているのか、というぐらいのところまでは読むことができます。
この教員免許更新制ですが、一般の方からすると、あまり興味がなく、内容がよくわからない方もいらっしゃると思います。せめて、次のような概要を知っておいてください。
〈教員免許更新制度〉 国公私立学校・幼稚園で教えるのに必要な教員免許に10年間の期限を設ける制度で、教員の資質向上のために2009年に導入された。それまでは終身有効だった。更新するには大学などで開かれる「更新講習」を30時間以上受け、教育委員会に申請する。費用は3万円程度で、原則、自己負担。教員でない人の一部を除き、講習を受けないと失効する。自民党の案をもとに制度化され、第1次安倍政権の教育再生会議も導入を促した。
(『朝日新聞 5月29日』)
この更新制が安倍政権によって導入されたため、私は教員生活の半ばを過ぎてから突然、お前の免許は時限付きで、更新のための講習にはお金と時間がかかり、それが嫌なら教師をやめてしまえ、と言われてしまったのです。私はその後、55歳で免許更新時期を迎えましたが、その時に私は総括教諭と言われる職にありました。実は管理職と総括教諭(主幹教諭)は申請すれば免許更新講習を免れる、という抜け道があるのです。このことからしても、この更新講習には受講すべき必然性がないことがわかります。私はこの講習が無駄なものであることを、身をもって体験してみることにしました。私の受講した講習の講師たちは極めて良心的でしたが、わずかな夏休みを返上して講習に当てたことを考えると、やはり無駄な時間だったと言わなければなりません。こんな馬鹿な理由で受講した人間は、私以外には多分いないと思うので、これは間違いありません。
そしてそれぐらいのことは、講習を受講する前から予想がつくのですが、教師というものはそれでも何とか講習で得たことを自分のスキルアップに役立てたいと願うものなのです。しかし、こんなことを書くのは恐縮なのですが、私は大学の先生たちが高校生の前で話す場面を何回も見てきましたが、話(授業)が上手いと思った先生はほとんどいません。彼らは小・中・高校で教える実践的なスキルを持っていないのです。ですから、彼らの短時間の講習を受講して教員としてのスキルアップをしようというのは、そもそも無理な話です。もしも文部科学省が、このような形で教員のスキルアップをしたいと本気で考えているのなら、ある程度の経験を積んだ教員を大学に派遣し、1年間ぐらいの時間をかけて大学の先生と共同の研修をするような制度を構築しなければなりません。教育に関する最新の知識を持っているけれども実践経験に乏しい大学の先生と、現場で日々研鑽しながらもスキルアップのためのまとまった時間の取れない教員とが、じっくりと時間をかけてすり合わせをすることでお互いの短所を補い、長所を伸長することができるでしょう。
しかしそれにはお金と時間がかかりますし、何よりも研修中の先生の代替を雇用しなければならないことがネックとなります。なぜなら、免許更新制によって、長らく現場を離れていた人たちが、次々と教員免許を失ってしまう、という笑えないような事態が生じていて、そこら中で代替教員が不足しているのです。例えば、今までなら65歳を過ぎてもお元気な先生なら教壇に立つことができましたが、現行制度では65歳までに免許講習を受講しないと教員免許が切れてしまうのです。私もあと4年後のことですから他人事ではありません。今のところ、お金と時間をかけて講習を受けてまで教職を続けたい、という気持ちにはなれません。私のような無能な人間ならそれも良いのでしょうが、まだまだ教育に貢献できる年配の先生方はたくさんいます。経験豊富な彼らに対して講習を受けないと免許を取り上げるぞ!というのは、本当に馬鹿馬鹿しい話だと思います。
これは私見になりますが、安倍政権はなぜか教員を目の敵にして、教員を虐げるためだけにこのような悪制度を作ってしまったのです。現在の文部科学大臣は、彼のお友だちだと思っていましたが、意外と新型コロナウイルスの対応や今回の更新制の見直しなどをみると、教育に対して頑張る姿勢を見せています。都合が悪くなるとお腹が痛くなる安倍がまた政権に復帰しそうな雰囲気ですが、そうなる前に何とか教員免許更新制を見直していただきたいと思います。
次に、訃報です。このblogでも取り上げたことのある彫刻家のダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930 - 2021)が亡くなりました。よかったら、「107」のblogの終盤にダニ・カラヴァンのことを書いた部分がありますので、blog内検索で読んでみてください。
(『107. ジュゼッペ・ペノーネ、ダニ・カラヴァンから時間について考える』)
前にも書いたと思いますが、彼の大きな作品を見ると、その中を実際に歩いてみたいという気持ちになります。決して才気あふれる作家だとは思わないのですが、自分の大掛かりなアイデアをこういうふうに実現できるのは立派だと思います。私はダニ・カラヴァンの作品といえば、実物を見てもいない『ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ』をイメージしてしまいます。
https://www.danikaravan.com/
ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)の著作にも、もっと触れておきたいのですが、思うように時間が取れません。いずれしっかりと読み込んで、ここで論じてみたいと思います。
それからアメリカの歌手、B.J.トーマス (Billy Joe Thomas, 1942 -2021)が亡くなりました。日本では1969年の映画『明日に向って撃て!』の主題歌としてバート・バカラックが作曲し、ハル・デイヴィッドが作詞した『雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin' on My Head)』が有名です。確か映画の中では、ポール・ニューマンとキャサリン・ロスが早朝に自転車の二人乗りをしている場面で使われていたと思うのですが、違っていたでしょうか?この曲は1970年にアメリカのヒット・チャートで1位を記録しましたが、この頃はまだ私は9歳で、洋楽を聞くような環境にはありませんでした。私がリアル・タイムでB.J.トーマスを聞いたのは、1975年の『心にひびく愛の歌((Hey Won't You Play) Another Somebody Done Somebody Wrong Song)』という曲でした。45年前の当時でも「古風な歌だな」と思ったのですが、アメリカのチャートで1位になったのでびっくりしました。ラジオ番組を担当していた湯川れい子が、「若い人には、こういう曲を勉強して欲しい」とコメントしていたことを憶えています。その言葉から、アメリカのポピュラー・ソングには、私などにはわからない広がりと深みがあるのだろう、と思いました。それに関連したことでいえば、シンガー・ソング・ライターの山下達郎が自身のラジオ番組でB.J.トーマスの特集を組んだことがありましたが、そのときに彼は、トーマスの音楽のバックグラウンドにはカントリーがあり、ゴスペルがあり、そして彼の歌はソウル歌手のようにソウルフルなのだ、と言っていました。カントリーやソウルの源流にはアメリカの古いフォーク・ソングやブルースがあり、あるいは黒人が教会で歌っていたゴスペルがあったのですが、それらが互いに関わり合いながらカントリーやソウル、ロックン・ロールやジャズに発展していったのだと思います。したがってカントリーの傾向が強いB.J.トーマスの歌がソウルフルだということもあり得るのです。ちなみにトーマスはこの曲で1976年度のグラミー賞ベスト・カントリー・ソング部門(Grammy Award for Best Country Song)を受賞したのだそうです。
彼の代表曲を聞くことのできるYouTubeを紹介しておきます。
https:// music.youtube.com/watch?v=0IcMGxtpLp0&list=RDAMVM0IcMGxtpLp0
https://music.youtube.com/watch?v=TDXW_WglzOI&list=RDAMVMTDXW_WglzOI
https://www.youtube.com/watch?v=_gRZOvSVSps
なお、バカラックの『雨にぬれても』は、トーマスの中では異質のおしゃれな曲ですが、バカラックの曲を多く歌ったディオンヌ・ワーウィックと同様に、トーマスも抑制した歌い方をする歌手なので、それが楽曲に合ったのではないか、と山下達郎は分析していました。この曲が気に入った人は、バカラックの他の曲も検索してみると面白いと思います。必ず、どこかで聞いたことがある曲があるはずです。日本では、カーペンターズの『遙かなる影』がおなじみでしょうか。
さて、今回の本題は大江健三郎(1935 - )の『あいまいな日本の私』と川端康成(1899 - 1972)の『美しい日本の私』です。
大江は1994年に、川端は1968年にそれぞれノーベル文学賞を受賞しましたが、この二つの文章はその記念講演の内容となります。大江の講演タイトルは、川端の『美しい日本の私』をもじったものですが、それだけにこの30年近くの月日の間に、二人の受賞者の間でいったいどのような講演内容の差があったのか、気になるところです。
以前に私はこのblogにおいて(『163. Heart of Goldとは?長谷川三郎、岡田謙三について』)、現在の私の位置はあいまいなものである、という趣旨のことを書きました。それは第二次世界大戦後に主にアメリカで活躍した二人の画家、長谷川三郎(1906 - 1957)と岡田 謙三(1902 - 1982)のような自分のアイデンティティーを日本的な美意識に求める態度には共感できませんし、かといって現在のグローバル化した世界と気軽に同調できるものでもありません。そのように、自分は極めてあいまいな立ち位置にある、という意味のことを書いたのです。そして、こうして当てずっぽうに川端、長谷川、岡田という名前を並べてみると、彼らの生年が10年以内の差に収まるほぼ同世代であることがわかりました。ですから、文学者の川端と大江のアイデンティティーに関わる意識の差を読み取ることは、戦後の芸術家の意識の変遷を理解する上でも有意義なことだと思われます。
ということで、今回はこの二人の講演を比較しながら読んでみます。それから、あらかじめお断りしておきますが、私はこの二人の文学について良き理解者であるとは、とても言えません。とくに川端に関して言えば、一般的な日本人と比べても読書経験が不足していると思います。ですから、何か的外れなことを書いていたら、そんな事情があるのだということで大目にみてください。
それでは、大江の講演から見ていきましょう。大江ははじめに、自分の少年期の読書体験について語っています。
それは不幸なさきの大戦のさなかでしたが、ここからはるかに遠い日本列島の、四国という島の森のなかですごした少年期に、私が心底魅惑された二冊の書物がありました。『ハックルベリー・フィンの冒険』と『ニルス・ホーゲンソンの不思議な旅』。前者には、世界を恐怖が襲うようだった時代に、私が谷間の小さな家で夜をすごすより、森に登り樹木に囲まれて眠ることに安息を見いだす子供であったことの、自己正当化の根拠があると感じられました。そして後者の、少年が小人となり、かつ鳥の言葉を理解して、冒険にみちた旅をする物語には、いくつものレヴェルの官能的な喜びが隠されていたのでした。祖先がそうしてきたとおり、小さな島の奥深い森に閉じこめられて暮らす少年に、本当の世界は、またそこに生きるということは、このように解放されたものだという、みずみずしく不逞な確信が与えられもしました。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
この短い語りだしの中に、多くの情報が盛り込まれています。大江が四国の山村で育ったこと、外国の児童文学に少年時代から親しんできたこと、その愛読書が二冊とも旅や冒険の物語であったこと、などです。
『ハックルベリー・フィンの冒険』を書いたマーク・トウェイン(Mark Twain, 1835 - 1910)といえば『トム・ソーヤーの冒険』の方が有名なのかもしれません。私もずいぶん前に読んだきりなので、はっきりとはおぼえていませんが、トムは悪戯好きのわんぱくな少年ですが、ハックは根っからの野生児です。大江がトムではなく、ハックルベリーの本を選んだのは、根無草のハックの冒険譚の方が、魅力的だったからでしょう。
しかし、ここで大江はハックルベリーには深く触れずに、ニルスの話に移ります。
『ニルス・ホーゲンソンの不思議な旅』という本を、皆さんはご存知でしょうか。日本では『ニルスのふしぎな旅』として、本やアニメで知られています。家畜をいじめてばかりいたわんぱく少年のニルスが、妖精の魔法で小人にされてしまい、たまたまめぐり逢ったガンの群れとともにスウェーデン中をめぐる旅をする、という冒険譚です。その旅の経験によってニルスは成長し、魔法を解かれて優しい少年となって無事に家に帰る、という話です。ノーベル賞の地元の児童文学だから意図的にニルスの話を取り上げた、という面もあるのでしょうが、大江はニルスと鳥との交流という話題から、自然な流れで障がいを持った自分の息子の話へとつなげていきます。その部分を見てみましょう。
半世紀前、森のなかの子供の私は、ニルスの物語を読みながら、そこにふたつの予言を感じとっていました。ひとつは自分もまたやがて鳥の言葉を理解するようになるだろう、ということ。もうひとつは、やはり自分もまたやがて鳥の言葉を理解するようになるだろう、ということ。もうひとつは、やはり自分もまた親しい雁と連れだって、はるか遠くへ、望むべくはスカンジナヴィア半島まで空を飛ぶ旅に出るだろう、ということ。
家庭を持った私に生まれた最初の子供はーかれに私はlightという意味の、光という名をつけましたー知的な発達に障害を担っていました。幼い時、かれは野鳥の歌にのみ反応を示して、人間の声、言葉には無反応でした。6歳の夏を過ごしにでかけた山小屋で、木立の向こうの湖からクイナの番(つが)いの声が聞こえた時、野鳥の歌を録音したレコードの解説者のアクセントで、ークイナ、です、といったのが、息子が人間の言葉を話した最初でした。それをきっかけとして、かれと私たちの、言語的なコミュニケーションは始まったのです。
いま光は、わが国の社会がスウェーデンからもまなびつつ作った、障害者のための福祉作業所で働きながら、作曲を続けています。人間のつくる音楽へとかれを仲立ちしたのは、なによりまず鳥の歌だったのでした。それは光が、鳥の言葉を理解するという予言を、父親にかわって成就させてくれたことではないでしょうか?それともうひとつ、私の生涯にもっとも豊かに女性的な力を発揮してくれた妻とともに、つまりニルスにおけるアッカという名の雁の役割の女性と連れだって、私はストックホルムまで飛行しました。第二の予言も愉快に成就されたように私は感じています。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
あなたは大江光の曲を聴いたことがありますか?この講演の終盤でも、大江は息子の曲について語っていますが、よかったら、こちらをどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=mSezGklc-I0&vidve=5727&autoplay=1
大江は息子との関係を、しばしば小説に登場させています。光が人間の声よりも鳥の鳴き声に先に反応したことは、彼がしばしば語る美しいエピソードです。そして大江光の作曲した音楽は、難解な現代音楽や流行のポップソングの喧騒に疲れた人たちによって、静かな支持を得たのです。
ところでこのような大江の講演の語り出しの部分は、そのおよそ30年前の川端の講演といかに違っていたことでしょうか。大江は日本人の受賞者であることを意識しつつも、あえて日本の文学作品ではなくて、海外の文学作品を引き合いに出し、それに関連させながら障がいのある自分の息子のことを話題にしたのです。これらの話題を選ぶにあたっては、大江の中で日本の禅僧の短歌から受賞講演を始めた川端との比較の意図があったはずです。大江自身が、上記の話の後で次のように川端の講演について触れています。
日本語の作家として、初めてこの場所に立った川端康成は、『美しい日本の私』という講演をしました。それはきわめて美しく、またきわめてあいまいなものでありました。私はいまvagueという言葉を使いましたが、それは日本語でのあいまいなという形容詞にあてたものです。それをここで念を押したいのは、あいまいなという日本語を英語に訳す場合、いくつもの訳語が考えられるからです。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
大江は「美しい日本の私」のなかの「の」という助詞が、「日本」に含まれる「私」のようにも読めるし、「日本」と「私」が同格であるようにも読める、と指摘しています。川端は「美しい日本の私」というタイトルの中に、そのようなあいまいな含みを持たせたのだ、というのです。そして次のように続けます。
右のタイトルのもとに、川端は、日本的な、さらには東洋的な範囲にまで拡がりをもたせた、独自の神秘主義を語りました。独自の、というのは禅の領域につながるということで、現代に生きる自分の心の風景を語るために、かれは中世の禅僧の歌を引用しています。しかも、おおむねそれらの歌は、言葉による真理表現の不可能を主張している歌なのです。閉じた言葉。その言葉がこちら側につたわって来ることを期待することはできず、ただこちらが自己放棄して、閉じた言葉のなかに参入するよりほか、それを理解する、或いは共感することはできないはずの禅の歌。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
ここまで書かれると、川端の講演がどのようなものであったのか、気になります。それは、どのような短歌から始められたのでしょうか。川端の『美しい日本の私』の出だしの部分を読んでみましょう。
「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」
道元禅師(1200 - 53)の「本来ノ面目」と題するこの歌と、
「雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雲や冷めたき」
明恵上人(1173 - 1232)のこの歌とを、私は揮毫(きごう)をもとめられた折に書くことがあります。
明恵のこの歌には、歌物語と言えるほどの、長く詳しい詞書き(ことばがき)があって、歌のこころを明らかにしています。
「元仁元年(1224)12月12日の夜、天くもり月くらきに花宮殿に入りて坐禅す。やうやく中夜にいたりて、出観の後、峰の房を出でて下房に帰る時、月雲間より出でて、光り雪にかがやく。狼の谷に吼ゆるも、月を友として、いと恐ろしからず。下房に入りて後、また立ち出でたれば、月また曇りにけり。かくしつつ後夜の鐘の音聞ゆれば、また峰の房へのぼるに、月もまた雲より出でて道を送る。」
(『美しい日本の私』川端康成)
高校時代にまったく勉強をしなかった私には、古文の解釈などはまったくチンプンカンプンです。その私でも、これらの禅僧の歌が当たり前の自然の様子を当たり前に歌っただけのものであることぐらいはわかります。例えば、はじめの道元の歌は、「春は花」の美しい季節であり、「夏」は「ほととぎす」の声を聞き、「秋」は「月」を愛でて、「冬」の「雪」はさえたように「冷(たい)」と歌っているだけだと思います。その当たり前のことをあえて歌うことが趣のあることなのだぞ、と言われればわかるような気もしますが、川端はノーベル賞の受賞講演という全世界が注目する場所で、一体何が言いたかったのでしょうか。彼自身の解説を聞いてみましょう。
2番目の歌「雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雲や冷めたき」に関する解説です。
「我にともなふ冬の月」の歌も、長い詞書きに明らかのように、明恵が山の禅堂に入って、宗教、哲学の思索をする心と、月が微妙に相応じ相交るのを歌っているのですが、私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思いやりの歌とも受け取れるからであります。雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこわいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷たくないか。私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげています。
(『美しい日本の私』川端康成)
このように明恵上人の歌と詞書きは、禅堂にこもって思索する明恵が、行き帰りに月が雲間から足元を照らしてくれるので、狼の声も怖くはない、というだけの話です。それを川端は「しみじみとやさしい日本人の心の歌」だというのです。
それでは、1番目の「春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」の歌はどうでしょうか。やはり川端の解説を見てみましょう。
この道元の歌も四季の美の歌で、古来の日本人が春、夏、秋、冬に、第一に愛でる自然の景物の代表を、ただ四つ無造作にならべただけの、月並み、常套、平凡、この上ないと思えば思え、歌になっていない歌と言えば言えます。しかし別の古人の似た歌の一つ、僧良寛(1758 - 1831)の辞世、
「形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉」
これも道元の歌と同じように、ありきたりの事柄とありふれた言葉を、ためらいもなく、と言うよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるうちに、日本の真髄を伝えたのであります。まして、良寛の歌は辞世です。
(『美しい日本の私』川端康成)
なるほど、「ありふれた言葉」こそが「日本の真髄」なのか、と私たちも唸ってしまいます。それほど、これらの歌は現代の価値観と違っています。いまの日本の私たちは、「ありふれた」ものよりも付加価値のついたもの、プレミアムなものが大好きです。しかし、この川端の講演内容を理解するためには、彼と同年配であった岡田謙三が戦後のアメリカに行った時の状況を思い出してみると良いと思います。それは次のような状況でした。
16日には(岡田夫妻は)国吉康雄のアトリエに招かれ、それ以降たがいのアトリエを行き来する親密な交友が始まる。日本での作品展が予定されていた国吉は日本の美術界の様子を知りたがり、謙三は逆にニューヨークのそれを問う。国吉はまた禅や能、幽玄の話題を好んでとりあげた。このころ、国吉に限らずニューヨークの画家たちは多かれ少なかれ禅を中心とする日本の宗教哲学に関心を寄せていた。
鈴木大拙はこの年の始めからクレアモント大学で「日本文化と仏教」を講じ、継いでロックフェラー財団の委嘱でエール大学、ハーバード大学、コーネル大学、プリンストン大学、コロンビア大学、シカゴ大学などで「仏教哲学」を講じていた。この講演活動を通じて多くの美術家、詩人、作曲家など芸術家に少なからぬ感銘をもたらしていた。
幽玄の原理について西欧では初期ロマン派の時代から研究され、早くからアメリカに伝わっていたが、大拙のアメリカにおける講演活動は1936(昭和11年)に始まっている。第二次大戦後、アメリカ美術に影響をおよぼした難解な禅の教義を欧米人に判りやすく説いた大拙の功績は大きかった。
(『画家 岡田謙三の生涯』「第四章 画家のアメリカン・ドリーム」北湯口孝夫著)
このように、西洋人が日本の文化をどう思っていたのか、日本人としてノーベル賞を受賞した川端に西洋人がどんなこと語って欲しかったのか、ということを川端は知っていたのだと思います。そう考えると、川端が日本の古い和歌の話を、とりわけ禅僧が残した和歌の話をしたくなった気持ちもわかる気がします。
しかし、ありきたりでありふれたことを良しとして、特別な事柄を求めないという心のあり方は、空虚な、虚無的な気持ちと隣り合わせにあるものです。つまり、何もなくたっていいのさ、という諦めにも似た気持ちと近いものなのです。西洋ではそれをニヒリズムと言い、克服すべき対象として捉えられていたのです。そのことも知っていた川端は、講演の最後を次のように締め括らなければなりませんでした。
日本、あるいは東洋の「虚空」、無はここにも言いあてられています。私の作品を虚無という評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがうと思っています。道元の四季の歌も「本来ノ面目」と題されておりますが、四季の美を歌いながら、実は強く禅に通じたものでしょう。
(『美しい日本の私』川端康成)
私は今から振り返るなら、川端のこのような論理(?)は、いささか甘いと思います。彼が自分の追求している美の世界がニヒリズムとは程遠い、禅に通じる道だと感じていたことを私は否定しません。そしてその独特の美の世界に対して、ノーベル賞が授与されたことも確かでしょう。私はもちろん、その川端の業績を否定はしませんが、いまの世界のことを考えると、それで良しとするほど世界は穏やかなものではないのです。それを言葉の裏で語ったのが、大江の講演でした。次の部分を見てみてください。
しかも川端は、次のように講演をしめくくったのでした。自分の作品を、虚無と批評する者がいるが、西洋流のニヒリズムという言葉はあたらない、心の根本がちがうと思う、道元の四季を歌った歌も「本来の面目」と題されているが、それは季節の美しさを歌いながら、じつは強く禅につうじたものなのだから。私は、ここにも、率直で勇敢な自己主張があると思います。自分が根本的に東洋の古典世界の禅の思想・審美感の流れのうちにあることを認めながら、しかしそれがニヒリズムではないと、とくに念をおすことで、川端は、アルフレッド・ノーベルが信頼と希望を託した未来の人類に向けて、同じく心底からの呼びかけを行っていたのです。
さて、正直にいえば、私は26年前にこの場所に立った同国人に対してより、71年前にほぼ私と同年で賞を受けたアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェーツに、魂の親近を感じています。もとより、私がこの天才と自分を同列に並べるのではありません。詩人がこの世紀に復興させたウィリアム・ブレイクによれば、「ヨーロッパとアジアを横切って、さらに中国へ、また日本へ、稲妻のように」と歌われるほど、かれの国から遠い土地の、ひそかな弟子として、そういうのです。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
川端の心情を重んじながらも、その言葉の裏で「正直にいえば、私は26年前にこの場所に立った同国人に対してより、・・・」というところが大江の本音でしょう。その証拠に、大江の話は日本のエキゾチックな美しさを説いた川端の講演とはまったく逆に、日本人として難しい立場にいる自分自身について、どんどんと進んでいくのです。
もしできることならば、私はイェーツの役割にならいたいと思います。現在、文学や哲学によってではなく、電子工学や自動車生産のテクノロジーのゆえに、その力を世界に知られているわが国の文明のために、また近い過去において、その破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間として。
このような現在を生き、このような過去にきざまれた辛い記憶を持つ人間として、私は川端と声をあわせて「美しい日本の私」ということはできません。
(中略)
国家と人間をともに引き裂くほど強く、鋭いこのあいまいさは、日本と日本人の上に、多様なかたちで表面化しています。日本の近代化は、ひたすら西欧にならうという方向づけのものでした。しかし、日本はアジアに位置しており、日本人は伝統的な文化を確乎として守り続けもしました。そのあいまいな進み行きは、アジアにおける侵略者の役割にかれ自身を追い込みました。また、西欧に向けて全面的に開かれているはずの近代の日本文化は、それでいて、西欧側にはいつまでも理解不能の、またすくなくとも理解を停滞させる、暗部を残し続けました。さらにアジアにおいて、日本は政治的にのみならず、社会的、文化的にも孤立することになったのでした。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
話が現実的になればなるほど、私たちの立ち位置は難しくなっていくことを大江は語っています。そして大江は「あいまいな日本の私」という時の「あいまい」さとは、英語に訳すとvagueではなくて、ambiguousという単語になるのだと言っています。このambiguousという単語の意味は「両義に取れる、多義の、あいまいな、不明瞭な」ということだそうです。特にこの中でも「両義的」「多義的」という言葉が大江の言いたい内容を表現しているのだと思います。ただ、ぼんやりとしてあいまいなのではなく、私たちの存在はさまざまな意味によって引き裂かれているのだということです。それはぼんやりとしたあいまいさではなくて、ヒリヒリとするような痛みを伴う多義的なあいまいさです。私たちはそのような引き裂かれた存在であることを、直視しなくてはならないのです。
そして私たちはそんな存在であるとして、一体私たちに何ができるというのでしょうか。そしてその時に芸術には、どんな力があるのでしょうか。大江の講演の最後の部分を見てみましょう。
あらためて個人的な話になりますが、知的な障害を担って生きる私の息子は、鳥の歌からバッハやモーツァルトの音楽に向けて育ってゆき、ついに自分の曲をつくるようになりました。初期の小さな作品は、草の葉にキラキラ光る露のような、新鮮な輝きと喜びそのものだったと思います。イノセントという言葉は、inとnoceo、つまり傷つけないということから来ているようですが、光の音楽は、まさに作曲家自身のイノセンスの自然な流露でした。
ところがさらにかれが作曲を進めるうち、父親の私は、光の音楽に、泣き叫ぶ暗い魂の声を聞きとるほかなくなったのです。知的な発達のおくれている子供なりの、しかし懸命な努力が、かれの「人生の習慣」である作曲に、技術の発展と構想の深化をもたらしました。そしてそのこと自体が、かれ自身の胸の奥に、これまで言葉によっては探りだせなかった、暗い悲しみのかたまりを発見させたのでした。
しかもその泣き叫ぶ暗い魂の声は美しく、音楽としてそれを表現する行為が、それ自体で、かれの暗い悲しみのかたまりを癒し、恢復させていることもあきらかなのです。さらに光の作品は、わが国で同じ時代を生きる聴き手たちを癒し、恢復させもする音楽として、広く受けとめられることになりました。芸術の不思議な治癒力について、それを信じる根拠を、私はそこに見いだします。
そして私は、なおよく検証できてはいないものであれ、この信条にのっとって、20世紀がテクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害を、できるものなら、ひ弱い私みずからの身を以て、鈍痛で受けとめ、とくに世界の周縁にある者として、そこから展望しうる、人類の全体の癒しと和解に、どのようにディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるものかを、探りたいとねがっているのです。
(『あいまいな日本の私』大江健三郎)
少しだけ解説しておきましょう。ディーセント(decent)は「上品な、礼儀正しい」という意味で、ユマニスト(humaniste)は「人文主義者、ヒューマニスト」という意味です。この二つの意味を重ねた寛容さ、人間らしさを体現するような「日本人の建設」を目指したのが大江の師で、フランス・ルネサンスの文学と思想の研究者、渡辺一夫(1901 - 1975)であったと大江はこの講演の中で言っています。戦中から戦後という困難な時代を生きた師のように、大江もまた「テクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害」を自分の身で引き受けよう、と言うのです。彼が時に政治的な発言をし、それを快く思わない輩から暴言を浴びせられ、障害のある息子・光も容赦なく攻撃の対象となることがあるようなのですが、それでもヒューマニストとしてあり続ける大江の存在は、私たちに人としてあるべき方向を指し示しているように思います。
そして、このような状況にあっても芸術には「癒し」の力があります。障がいのある光の音楽には、まさに聴き手を癒し、恢復させるだけの「治癒力」があるのだと、大江は言っています。それは「泣き叫ぶ暗い魂の声」の中から聞こえてくる音楽だからこそ、そのような不思議な力を持つものなのです。もしかすると、今日の絶望的な状況と「人類全体の癒しと和解」とは、隣同士にあるものなのかもしれません。だから私たちは、決して諦めてはいけません。
そして川端と大江の受賞講演を比較してみると、エキゾチックな日本らしさを強調する時代はもはや過ぎて、日本人としての存在感を訴えるなら、その負の遺産も引き受ける覚悟がなければならない、ということが既に25年以上前の大江の講演で示されているのです。そのヒリヒリするような現実を直視するということは、どういうことなのか、次回以降も、もう少しそのことを考えてみたいと思います。
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