若くて力のある美術評論家、沢山遼(1982 - )が『絵画の力学』という本を少し前に出しました。興味のある文章が並んでいますので、折を見て少しずつ取り上げていきたいと思います。
そして今回は、香月泰男(1911〜74)を論じた「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」について考えてみたいと思います。これは香月泰男の画業の中でも、「シベリア・シリーズ」と呼ばれる作品群を論じた文章です。香月は第二次世界大戦のときにシベリアで抑留され、二年間の収容所生活ののちに日本に帰還しています。その過酷な体験を描いた作品は、当然のことながら「戦争」の悲惨さを告発する意味合いを帯びています。
このように、社会的な問題を芸術作品が告発する場合、そのメッセージの正しさがそのまま作品としての価値に結びつかないことが、多々あります。しかし香月の「シベリア・シリーズ」はその逆で、過酷な体験を表現しようとした香月の欲求が、より高い表現を実現したと私は思っています。
その香月の話に入る前に、私たちが日々耳にしているポピュラー音楽のなかで、社会的な問題を告発した先駆的な例として、ボブ・ディラン(Bob Dylan、1941 - )の『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』(1962)について、私の敬愛するピーター・バラカン(Peter Barakan、1951 - )の解説を紐解きながら、考えてみたいと思います。
まず、『風に吹かれて』の歌詞がどんなものか、確認しておきましょう。さすがに古典的な曲だけあって、歌詞と音楽の動画を掲載したホームページがあります。この歌を知らない方はいないと思いますが、歌詞をすべて把握している方は少ないと思いますので、見やすそうなページをご紹介しておきます。
(Blowin' In The Wind 歌詞「Bob Dylan」ふりがな付|歌詞検索サイト【UtaTen】)
ボブ・ディランがどんな人なのか、などと書きはじめると、私のような音楽の素人でも、このblogの何本分かを書いてしまうぐらいの思い入れがあります。ですので、なるべく簡略を心がけてご紹介しておきます。
ディランは1960年代のはじめに、フォーク歌手としてデビューしました。その数年後、ロック・ミュージックに転じて、フォーク・ファンからの反発を受けますが、結果的には大成功します。ディランはアルバムを出すごとに、音楽のスタイルをときに微妙に、ときに大胆に変えてきましたが、その歌詞の魅力は変わることがありません。そして2016年には、ミュージシャンとしてはじめてノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹の受賞を期待していた日本人には、ちょっとがっかりしたニュースだったのかもしれません。
そのディランは、どんなミュージシャンなのでしょうか。私はどこかで書いたと思うのですが、ディランはとても勤勉な芸術家だと思います。歌詞にはインテリジェンスがありますし、音楽的にはつねにアメリカのルーツ・ミュージックと向き合う姿勢が見られます。古いブルースをほとんどそのまま借用したのではないか、という楽曲もありますが、レコードや楽譜が普及していなかった時代では、耳で覚えたブルースに自分の思いをのせて歌うことが多々あったでしょう。ディランは、自分も伝統的なブルース歌手と似たようなことをやっているつもりなのではないか、と私は思います。
私は、高校生のときだったと思いますが、武道館にディランのライブを見に行きました。ディランが壮年期を迎えて充実した頃だったので、とても感動したことを憶えています。ディランは自分の楽曲を、まったくちがう曲のようにアレンジを変えて演奏するので、それも彼の生演奏を聴く楽しみの一つです。いまのディランは、ジャズの即興演奏に近いほどに、自由自在に音楽を操る領域に達しているのではないでしょうか。また、数年前にディランが担当したラジオ番組では、古今東西の名曲を独特の選曲で聴かせたことで、みんなを驚かせました。もちろん、優秀なスタッフがバックアップしていたとはいえ、一人のシンガー・ソング・ライターがここまで博識であることに、多くの人が舌を巻いたのです。
それでは『風に吹かれて』を、ピーター・バラカンの『ロックの英詞を読む』(2003)を参照しながら読んでいきましょう。この『ロックの英詞を読む』は、『ロックの英詞を読む 世界を変える歌』(2016)という続編がのちに出版されていますが、『風に吹かれて』が載っているのははじめに出版された本の方です。
この歌は、アメリカの公民権運動の頃に書かれました。公民権運動というのは、1950年代から1960年代にかけて、アメリカの黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求めて起こした大衆運動のことです。つまり、人間の平等を求めた大きな政治的なうねりの時代に書かれ、歌われたのです。そして先ほど、『風に吹かれて』は社会的な問題を告発した先駆的な例だと書きましたが、実はディラン以前にも、ウディ・ガスリー(Woodrow Wilson "Woody" Guthrie, 1912 - 1967)らのフォーク・シンガーが社会の矛盾や、庶民の思いをモチーフにした歌を歌っていました。ウディ・ガスリーの有名な『わが祖国(This land is your land)』は、普遍的なプロテスト・ソングだと言えます。ちなみに『わが祖国』も、ピーター・バラカンの『ロックの英詞を読む』で取り上げられています。そういう社会的な問題を取り上げたフォーク・シンガーは確かにいたのですが、『風に吹かれて』はポップ・ミュージックという土壌のなかで歌われたことで珍しいものだった、とピーター・バラカンも書いています。そしてピーター・ポール&マリーという当時の人気グループが歌うことで、全米で大ヒットしたのです。
それだけのポピュラリティーを得たわけですから、ディランの歌はわかりやすいのか、と言えばそうではありません。むしろ、そうとうに難解で、英語が母国語の人にとっても、歌詞のすべてが理解できるわけではない、とピーター・バラカンは本の中で書いています。そのうえで、ディランの魅力について次のように書いています。
たぶん僕の世代では誰でもある程度はそうだと思いますが、ディランからはビートルズと並んで大きな影響を受けました。彼の“Like A Rolling Stone“という曲の歌詞に、When you got nothing, you got nothing to lose(何も持っていなければ失うものもない)という一節がありますが、あれはものすごいインパクトがありました。いまだにそれを意識的に思い出すことがときどきあるくらいです。
(『ロックの英詞を読む』ピーター・バラカン)
文中の“Like A Rolling Stone“は、ディランがロック・ミュージックに変わった時期の大ヒット曲で、全世界にもっとも大きな影響を与えたポップ・ソングだと思います。ちなみに私はオリジナルの演奏よりも、ザ・バンドと共演したライブ盤の疾走するような演奏が好きです。イントロ部分のピアノのフレーズと、サビの部分の「転がる石みたいな(転落する)気分はどんな感じだい?」と社会の底辺から叫ぶようなディランのシャウトがとても気持ちいいです。ピーター・バラカンが取り上げている歌詞の「何も持っていなければ失うものもない」という部分も、何もかもうまくいかない気分の時には最高の励ましになります。だいたい私は、自分の作品と向かい合う時にそんな気分になります。
そして『風に吹かれて』ですが、こちらはディランがフォーク・シンガーとしてデビューして間もない頃のヒット・ソングです。英語のわからない私が聴いても、うまく韻を踏んでいるなあ、と感心してしまいますし、それが心地よい言葉のリズムを生んでいるように思います。そのはじめの部分を見てみましょう。
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, and how many times must the cannonballs fly
Before they’re forever banned?
The answer, my friend, is blowing in the wind
The answer is blowing in the wind
“How many”、“Before”、“The answer”の韻の踏み方が見事だと思います。その部分のピーター・バラカンの解説を読んでみましょう。
まず最初の2行は、人が人として正当に扱われるためには、あとどれだけの道のりを経なければならないのか、という意味ですが、もしかすると黒人に対する差別がなくなる日のことを歌っているのかもしれません。たとえば黒人はどんなに大人になっても、manではなく、boyと呼ばれたりすることがあったわけです。
(『ロックの英詞を読む』ピーター・バラカン)
なるほど、“man”は「人として」という意味と同時に、“boy”という蔑称との対比の意味もあったのですね。それから次の、ちょっと分かりにくい部分については、次のように解説しています。
鳩がsailするというのは変わった言いかたですが、鳥や航空機が空を飛ぶことをsailということがあります。また、鳩の代名詞がsheになっているのも興味深いですね。ふつうはitで受ける場合が多いです。
(『ロックの英詞を読む』ピーター・バラカン)
言うまでもなく、鳩は平和の象徴です。野蛮で浅はかな男性優位の社会が戦争をやめないことに対して、平和の象徴の代名詞がsheであることに意味があるのかもしれません。こんなことも、言われてみなければ気がつかないですね。
それから、この曲の邦題が『風に吹かれて』になっていることについても、ピーター・バラカンは次のように書いています。
またこの曲の邦題は「風に吹かれて」ですが、「吹かれて」というよりはむしろ風の中で「舞っている、ゆらめいている」というニュアンスのほうが近いでしょう。つまり、「答えはつかもうと思えばつかまえられる場所にある。答えのほうからやって来てくれるのではなく、自分で答えをつかみ取って解決しなければならないんだ」ということですね。
(『ロックの英詞を読む』ピーター・バラカン)
私は、この曲を絶望的な状況を歌った歌だと思っていましたが、「自分で答えをつかみ取って解決しなければならない」という気分が歌われている、ということです。これは、英語のニュアンスとしてそう感じとれるのか、それともピーター・バラカンが前向きな人だからそう解釈しているのか、ちょっとわかりませんが・・・。
同様にピーター・バラカンは、この曲全体について、こう書いて文章を結んでいます。
このように、当時の社会情勢を敏感にとらえ「個々の人間が行動を起こさなきゃだめだ」と訴えかけた衝撃作だったわけですが、その内容は、今日でもまだまだ十分に聴き手の心に訴えかけてきます。たとえばBefore he can see the sky?のくだりなど、最近の環境問題と関連づけて聴けば、新しい意味合いを帯びてくるでしょうね。
(『ロックの英詞を読む』ピーター・バラカン)
ディランの歌は、表現が抽象的でわかりにくいところがあるのですが、そのことによって多くの人の想像力を掻き立て、多様な解釈を生み、それだからこそ普遍的な価値を持っている、という点が素晴らしいと思います。社会性をもった優れた芸術作品というものは、ジャンルの違いはあっても、おしなべてそういうものではないでしょうか。
私はここで、三つのことを押さえておきたいと思います。一つ目は、ディランの歌がていねいに韻を踏んでいることや、シンプルなフォークソングの型を守っていることです。ディランは自由な思考を重んじる人ですが、それと同時に歌の形式にも自覚的な人です。二つ目は、ディランの言葉が抽象的であり、それが難解であると同時に普遍性を生んでいるということです。その言葉の選び方は、感覚的であるだけでなく、文学や音楽についての広範な知識を生かした、きわめて意図的なものでしょう。三つめは、それらのことからわかるように、ディランは技巧的な芸術家であり、シンプルな初期の作品でさえ、過去の作品から多くのことを学んだうえで作られたものだということです。私たちはディランの衝撃的な言葉やメッセージから、それが感覚的で無垢なものだと思いがちですが、得てしてほんとうに無垢なものは時代とともに古びてしまいます。純粋な思いを感じさせる芸術作品は、しっかりとした技術に支えられていることを、私たちはあらためて認識しておきましょう。
実はこのことは、香月泰男のシベリア・シリーズにも共通していると、私は思います。それをこれから、確認していきましょう。それでは、香月の作品に話を移します。
まず、香月泰男の作品をご覧になっていない方、それからシベリア・シリーズといっても、どんな作品だかわからない方は、ちらっと次のホームページの作品を参照してください。黄土色と黒で描かれた絵があったら、それがシベリア・シリーズだと思って間違いありません。
(香月泰男美術館オフィシャルホームページ (city.nagato.yamaguchi.jp))
(香月泰男のシベリア・シリーズ一堂に 過酷な記憶追体験:朝日新聞デジタル (asahi.com))
(シベリア抑留から生き残った画家—香月泰男 | nippon.com)
ご覧になっていただければわかるのですが、香月泰男は山口県に生まれた、第二次世界大戦の戦前と戦後を生きた画家です。1911年生まれですから、同世代の画家としては靉光(1907 - 1946)、松本 竣介(1912 - 1948)、麻生 三郎(1913 - 2000)などがいます。海外からキュビスムやシュールレアリスム、抽象絵画などが入ってきた時期に画家を志した人たちですが、画業の途中で戦争を体験したことも共通しています。そしてキュビスムの影響による形体の単純化、シュールレアリスムによる自由な発想、抽象絵画的な平面性、自由な色彩などが、共通した絵画的な特徴だと言えるでしょう。香月泰男の作品にも、形体の単純化、平面性を意識した画面構成、抑制されてはいるものの自由な色の使い方などが見られます。彼はシベリア・シリーズがなければ、穏やかな現代性を持った好ましい画家で終ったのかもしれません。しかし、香月泰男はシベリア・シリーズを描かずにはいられなかったのです。
沢山遼は「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」のはじめに、香月泰男自身が書いた『私のシベリア』という文章を引用しています。そして、香月がどのようにしてシベリア・シリーズが描き始めたのかについて、解説しています。
シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している。私にとってシベリヤとは一体何であったのか。私に襲いかかり、私を呑みこみ、私を押し流していったシベリヤを今度は私が画布の中にとりこみ、ねじふせることによってそれをとらえようとする。肉体がシベリヤを体験しているとき、精神がその意味を把握するには状況はあまりに過酷であり、あまりにめまぐるしく変わりつつあった。私の軍隊生活と俘虜生活とはあわせてたかだか四年半のことでしかない。すでにその四倍の時間を、四年半の体験を反芻することに費やしている。
(香月泰男『私のシベリヤ』)
香月泰男は、シベリアの抑留体験を経て日本へ帰還した1947年から約十年後にあたる1957年『乗客』とういタイトルをもつ作品を描いた。のちに、この独特の様式をもった絵画は連作化され、57年以前に描かれていた数点を加え「シベリア・シリーズ」と名付けられることになる。香月は、このシベリア・シリーズにおいて、第二次世界大戦下における自身のシベリア抑留体験を描き、亡くなるまでの画業をシベリア・シリーズの制作に費やすことになった。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
この引用部分の前半の、香月泰男の手記を読んで、どのように思われますか。
香月自身は「私の軍隊生活と俘虜生活とはあわせてたかだか四年半のことでしかない」と書いていますが、画家として活動を始めた30代を戦争と抑留に四年半も費やしたことは、画家としての人生に大きな変革をもたらすのに十分な時間だったと思います。そして、それをモチーフとして作品を制作するまでに十年の月日がかかった、というのも分かる気がします。香月がその表現として選んだ方法は、シベリアでの体験をそのまま写実的に描くことではなく、そのイメージを様式化し、さらに絵画としての技巧をこらしすことでした。しかし、それはシベリアでの体験を間接的に描くためにではなく、むしろシベリア体験そのものを表現するために彼はそうしたのです。シベリア・シリーズの様式化について、沢山は次のように分析しています。
香月の絵画を現実的な記録(ドキュメント)ではなく、一つの証言としてみなすときに注目されるのは、シベリア・シリーズそれ自体が備えた様式的な一貫性・統一性である。香月がシベリア・シリーズに着手するまでの十年は、画家自身がシベリア・シリーズで用いるためのさまざまな技法を開発するために要請した時間でもあった。したがって、香月のシベリア・シリーズにおいて見出されるのは、表象不可能な経験の絵画化という命題と、香月様式、すなわちシベリア・シリーズにおける様式の確立をはかるという命題が併行しているという事態である。言い換えれば、香月においては、絵画様式を完成させることによってシベリア抑留を描くことがはじめて可能になったということであり、あるいはシベリア抑留を絵画化するために、新たな絵画様式の創出とシベリア・シリーズで用いられる諸々の技法が要請されたということだ。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
これは見事な分析だと思います。
私が香月のシベリア・シリーズを初めて見たのは、中学生の頃だと思います。あまりはっきりとは憶えていないのですが、シベリア・シリーズを中心とした展覧会でした。様式化されたシベリア・シリーズが狭雑物のない、純粋な表現のように見えたのに対し、それ以外の色彩豊かな香月の作品が、決して悪い絵ではないのに、なぜかスーッと見ることができないような違和感を覚えたのです。近代以降の絵画において、様式化された表現は、純粋な表現と相反するものと見なされがちですが、それは思い込みに過ぎません。香月のシベリアにおける「表象不可能な経験」を絵画として描くためには、そのための方法論が必要だったのです。それがシベリア・シリーズの様式化だったのでしょう。シベリアの抑留体験を象徴する黒と黄土色、脳裏に浮かぶ痩せ細った戦友の顔や手、それこそが香月にとってのリアリズムだったのです。
続けて、香月の技巧的な側面について、沢山の分析のさわりの部分を書き写してみましょう。
香月は、シベリア・シリーズの出発に際して新たな絵肌をもった二種類の絵具を開発した。後に「カーボン・エポック」と呼ばれる香月の独自の様式を支えた顔料である。香月は日本画の材料である方解石の結晶粉末(方解末)をイエローオーカー(黄土色)の油絵具に混ぜて下地をつくり、木炭をヤスリで削り粉末状にしたものを黒い油絵具と併用することで、光を吸収するペースト状のマットな顔料をつくりだした。香月の絵画の、黄土色と黒の二色からなる禁欲的な色彩のコントラストは、それぞれ方解末と木炭という、二種の粒子状の物質を配合することでつくりだされるものだった。香月の絵画は、この顔料を使用して主に三層から形成される。第一層にはイエローオーカーを薄く塗った下地がつくられ、次に、その周囲に余白を残しながらイエローオーカーに方解末を混ぜた第二の層が載る、さらにその上に炭を混ぜた黒い絵具が、主として具体的な形象を示唆するものとして使われる。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
このような素材の分析からはじまって、沢山は香月の絵具の工夫が、シベリアの「湿地」や「凍土」などを表現するためのものだったことを明かしていきます。それはやがて、人間の極限状態に置かれたときに感じる「空しさ」や「虚無」の表現へと向かい、さらには技法的に東洋画の余白の表現とも共通するという興味深い指摘に至っています。その技法の発端にあったのは、パブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)と共にキュビスムを創始したジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882 – 1963) の絵画の絵肌の影響ですが、ブラックの絵肌がポジティブな触感の空間を表象するものだとするなら、香月の絵の絵肌はネガティブな、マイナスの触感の空間なのです。それはどういうことかといえば、ブラックの絵肌がヨーロッパの家屋の漆喰の壁のような、抵抗感のある触感をもたらすものであるのに対し、香月の絵肌は艶がなく、「光を吸収するペースト状のマットな顔料」であるために、底のない砂の中に引き込まれるような感じがするのです。
その絵肌は、当然のことながら香月の絵画空間の構造とも関連しており、それはまるで箱の内部のような空間構成である、と沢山は分析しています。これは絵画としては特殊な空間です。私も絵を描く人間だから言えることなのですが、ふつうの画家は、自分の描いた絵の空間が、その現実の絵の大きさから解き放たれて、周囲の空間を取り込みながらさらに広い空間へと広がっていくことを夢みて、制作を進めるものです。しかし香月は、箱型のオブジェ作品を実際に作ったりしながら、平面的な絵画でさえも、箱の中の奥深い砂を覗き込むような空間構成にしてしまいます。それは、どのようにしてそうなっているのでしょうか、また、それはどうしてそうなったのでしょうか、沢山の解説を続けてみていきましょう。
モチーフとして箱や壺を描く時代を経て、シベリア・シリーズの香月は明らかに絵画それ自体を一つの容器として編成しなおしている。私たちが香月の絵画において目撃する数々の人物たちは、このような絵画=箱の図式において、絵画面の内側に位置づけられたものであることがわかるだろう。たとえば『北へ西へ』(1959)は『避難民』と同一の主題を反復するものである。虜囚たちは、行き先もつげられないままに北上する貨車のなかで、絶望的な表情を浮かべている。この絵では、絵画をグリット状の幾何形体へと還元する香月の方法は、貨車の窓枠と棚の格子状の図像の描写に示されている。彼らは、窓にすがりつくように、それぞれが貨車の棚を掴んでいる。ここでは、本来は「図」であるところの虜囚たちは、その棚を画面の内部空間、その内側から掴んでいるのだ。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
普通の絵画であれば、虜囚たちは画面を底面とした平面上にいることでしょう。そしてその手前の窓枠は、さらにその画面のこちら側に出てくるように描かれるものなのです。ところが、香月の絵画は虜囚たちが箱の中の砂に埋もれていくように、画面の向こう側へと沈んでいくように描かれているのです。そんな押し出しの弱い、視覚的に埋没してしまうような絵を、画家が好んで描くことはありません。どうして香月は、このような画面構成の絵を描いたのでしょうか。
香月にとって、絵画とは生者を拘束する牢獄のような空間である。その基底面が、もとよりシベリアの風土を思わせる過酷な自然そのものとして描かれたように、箱としての絵画空間もまた、人体をその内部空間に嵌め込み、主権を剥奪し剥き出しの生へと主体を差し向ける現実性を行使しようとするかのようだ。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
香月にとって、絵画空間は牢獄のメタファーであったのかもしれません。彼にとって極限状態で見てきた人間の存在を描くためには、そのような空間が必要だったのでしょう。それは箱の底へと埋没してしまうような、決して画面のこちら側へと出てこないような空間なのです。
その画面構成と関連して、さらに沢山はシベリア・シリーズに登場するマスクのような人間の顔についても大胆な仮説を立てて分析していきます。香月自身がそれを「中世絵画のキリストのデスマスクのような哀しい美しさ」という言葉で書いていることを引用したうえで、沢山はそれが「聖骸布」に転写されたキリストの顔なのではないか、と考察しています。
ところで、この、三次元的な奥行を欠き、私たちを正面から見据える顔の正面性は、ヴェロニカの布やトリノの聖骸布と共通したものであり、またそのイメージにおいて聖骸布に転写されたキリストの顔に酷似していることに気づく。聖骸布とは、聖なるキリストの遺体から直接的に転写された、チャールズ・サンダース・パースが分類するところの、「インデックス(指標)」であり、キリストその人の肉体とともにその受難を示す物理的な痕跡ともなるものである。聖骸布とは、聖なるものであるとともに、布という媒体を通じて転写された以外の直接的指標である。香月は、キリストの顔をシベリア・シリーズにおいて模倣することで、抑留者たちの顔貌を、過酷な現実を受難するものであると同時に、崇高かつ聖なるものとして描きだすことを意識していたように思われる。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
私のように宗教に疎い人には、少し解説が必要でしょう。
「ヴェロニカの布」は、ヴェロニカという女性が十字架を背負いゴルゴタの丘へと歩くキリストの額の汗を拭くよう自身の身につけていた布(ヴェール)を差し出したところ、返された布にキリストの顔が浮かび上がっていた、と伝承されている布のことです。
「トリノの聖骸布」は、キリスト教の聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布のことです。
チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce、1839 - 1914)は、アメリカ合衆国の哲学者、論理学者ですが、彼は記号を「イコン」「インデックス」「シンボル」に分類しました。
「インデックス(指標)」とは、その指示対象と「物理的かつ直接的な」結びつきを有する記号であり、その例として光学的な痕跡としての写真があげられます。
沢山がここで上記のような面倒な言葉や概念を持ち出したのは、ひとつには香月の描く人の顔が、画家の主観を越えた聖なる痕跡のようなものである、と言いたかったからでしょう。そしてもうひとつには、もしも香月の描こうとした顔が聖骸布の顔だとしたら、それらの顔は画布の裏側から転写されたものだ、ということになります。つまりそれらは画布の表面に描かれた顔ではなくて、画布の裏側から、まるでスクリーン越し写し取られたような顔なのです。その顔は永遠にこちら側に出てくることがない、絵の向こう側に、画布(スクリーン)によって遮蔽された顔だ、と沢山は言いたいのです。そのような仮定に立って、沢山はこの論文を次のように結んでいます。
イコン的な香月の「顔」は支持体の物理的表面と一体化した染みの表現である。こうして、香月の絵画では、人物はたえず絵画平面の構造に対して圧制され、吸収され、その内側へと封じ込められ、あるいは裏側へと反転してしまう。箱としての絵画、あるいはスクリーンに遮蔽された絵画とは、そのような構造的な力学において主体を拘束するものである。それこそ、香月が描こうとした「戦争」を絵画の構造的なレヴェルにおいて遂行する具体的な術でもあった。絵画とはしたがって、現実に起こった、あるいは将来起こりえる具体的な経験を絵画内の「現実」において反復し実演するものである。それこそが香月のシベリアなのであり、その意味でシベリア・シリーズとは、かつて存在したシベリアの表像やその記録、すなわち二次的生産物であったのではなく、カンヴァス内に生起したシベリアそのもの、「場」そのものなのだ。イエローオーカーの顔料がかたちづくる仮想的な地面=土地とは、もとよりそのような「場」をオブジェクティブに創設することを企図したものだった。
その「場」で死んでいった者たち、死者たちを此処=現在へと出現させること、そして絵画の物質的な耐久性において、私たちを宙づりにする死者たちの眼差しなき眼差しを現在から未来へと留め続けることこそ、その絵画がかかえ込んでしまった終わりなき命題だった。その無言のメッセージの解読は、いまも私たちに委ねられている。此処に、そして彼処に偏在するシベリアこそ、香月が描こうとしたシベリアなのだ。
(『絵画の力学』「第三章 限界経験と絵画の拘束 香月泰男とシベリア」沢山遼)
これはかなりの深い読み込みであり、ちょっと穿って読みすぎではないか、という気がしないでもありません。戦争や抑留という極めて悲惨な体験を表現するに際して、様式化を進め、そのことによって普遍性を勝ち取り、さらにそれを実感できるように技巧を凝らして描く、というところまでなら、ディランの歌とも共通する優れた表現者の営みであった、と言えるでしょう。ところがそこからさらに突き進んで、箱型の空間、あるいはスクリーンの向こう側へと死者を封じ込めた香月の絵画の構造が、「戦争」という巨大な圧力の構造そのものを表現している、と沢山は言っているのです。「絵画とはしたがって、現実に起こった、あるいは将来起こりえる具体的な経験を絵画内の「現実」において反復し実演するものである」というのは、そういうことでしょう。しかし、これは理解するのにも骨が折れる、かなり踏み込んだ解釈だと言えるでしょう。言ってみれば、香月の絵画空間の構造そのものが、「戦争」のメタファーになっているのです。
その理論に説得されるのかどうかは、香月のシベリア・シリーズを見て、さらに沢山の文章の全編を読んで、それぞれの方が判断されることだと思います。ただ、沢山の批評の優れた点をあげておくなら、香月の制作した箱のオブジェや、香月が自ら中世のキリストのデスマスクのようなものだと言及した顔の描写について、それらを単なるエピソードに終わらせず、香月の画面構成と結びつけて解釈した点です。香月が意図したであろう「死者たちを此処=現在へと出現させること」について、画家本人が言葉で語りえないほどに複雑な構造を批評の文章として書き表そうとしたこと、そのこと自体が素晴らしい試みだったと私は思います。
この沢山の評論を読むと、作品の内部へと深く入り込む批評家の眼は、画家の絵筆とも共通する表現手段なのだと、改めて認識させられます。それに比べて、遠巻きに作品を品定めし、他人事のように作品の評価を上げ下げするような評論が蔓延している現実があります。それらが商業的な作品価値と連動していく現状において、こんなふうに作品を読み取っていく真摯な書物が生まれたことに、私は感動を覚えます。これほどの知性と才能を持った新進気鋭の評論家である著者が、「あとがき」の中で「これまでの生活は困難も多く、容易ではなかった」と書いていることに、現在の世界の歪みを感じざるをえません。しかし、それにも関わらず、この本を世に出してくれたことに感謝します。
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