平らな深み、緩やかな時間

155.個展終了!ピアソラ生誕100年について、バロキシズムについての考察

昨日で、無事に個展が終了しました。
新型コロナウイルス感染による緊急事態宣言が、ちょうど個展期間まで延長されてしまいましたが、それにもかかわらず会場に来てくださった方々には本当に感謝しています。また、今回外出を見合わせて、会場に来ていただけなかった方々には、またの機会に私の作品をご覧いただけるとうれしいです。今回も夕方のわずかな時間しか会場にいられませんでしたが、そのなかで何人かの方のお話を聞くことができたのは、幸運でした。
特に印象深かったのは、若い作家の方から、現在の状況でどのような形で作品を発表してよいのか、いい方法が見つからずに困っている、というお話を伺ったことでした。真面目に作品に取り組んでいれば、当然そのような悩みを抱えることになるでしょう。いつの時代でも、若者は自分の制作や発表の方法を試行錯誤するものですが、現在のように売れる作品と売れない作品が両極化し、それに加えて情報が氾濫する中では、成功のルートに乗らないとじっくりと作品を見てもらえない、という不安な気持ちになります。たとえ大成功、というわけではないとしても、自分の作品を正当に評価してもらいたい、と願うのは当然のことでしょう。
しかし、どうも世の中はイチかバチか、売れるか売れないか、という評価(?)を求めたがります。このような構図を突き詰めて考えると、美術の世界だけではなく、社会全体がそういうふうになってしまっていることに気がつきます。ほんの数パーセントの富裕層の収入が、それ以外の全世界の人たちの収入に匹敵する、などという話をよく聞きますが、どうしてそうなってしまったのでしょうか。その勝ち組の人たちだって、自分の地位を守り続けることに必死です。誰もが同じ方向に走り続けているのですが、その列の後ろに連なってしまえば、必死に走るばかりで富を手にすることもできません。
その社会構造とリンクしているのが、ごく一部の先進国の人たちが快適に暮らすために、地球全体の環境を汚している、という環境の問題です。それ以外にも地域による経済的格差、人種や宗教、あるいは性による差別など、いろいろとリンクした課題があります。私たちはひどく歪んだ世界に住んでいて、その被害者であり、時に加害者にもなりうるのです。
このような世界を変えるためには、どうしたらよいのでしょうか。私にそんな難しいことがわかるわけがありませんが、思いつくことと言えば、一人でも多くの人が世界のいびつさを認識し、それを改善しようと努力をすることぐらいでしょうか。
美術のことで言えば、例えば<サザビーズ香港にて約30億円で落札されたゲルハルト・リヒターの作品。購入者であるポーラ美術館は展示予定について「未定」と語った。>という美術雑誌の記事があります。ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )は、いまもっとも高額の値が付く作家ですが、それにしても一枚の絵の価格として30億円は異常です。彼の絵の構造的な単純さは、現代の抽象絵画を批判的に表現しているとも言えますが、それにしても価格が高過ぎます。こんなことを書くと、資本主義の仕組みのわからない浅はかな人間だと言われそうですが、投機的な価値で芸術を判断しようとしている人たちの方が、よほど浅はかだと思います。
たまたま、昨日の朝日新聞を開いてみたら、「反ウォール街 若者の乱」という見出しの記事がありました。今年の初めに米国市場で起きた「個人投資の乱」についての、専門家のインタビュー記事です。これは、SNSでつながった若者らが一斉に、あるゲーム会社の株を買い、市場取引のプロを慌てさせた、という事件です。このことについて立教大学准教授の佐々木隆治(1974 - )は資本主義の空虚さがあらわになった事件であり、「若者を中心に、あまりに不公平な現実への怒りが広がっている」と言っています。このような株式に関する知識や技術だけでは社会は変えられないものの、「資本主義に代わるビジョンを私たちが構想し、気候変動対策を求める運動やブラック・ライブズ・マター運動など草の根の社会運動と連携していく必要があります」とも言っています。
このように、世界で起こる問題はいろいろなところで繋がっています。だから美術作品を投資の道具にするのではなく、自分の興味のある作品を制作し、あるいは鑑賞する、というあたりまえのことを行うことが、他の分野における問題の解決にも繋がるのではないでしょうか。
ただし、この歪んだ現状の中でそういうあたりまえのことをすること、つまり正気を保つことは、実は困難なことです。先日から紹介している吉本隆明(1924 - 2012)の詩『廃人の歌』の中に、「廃人」としての「ぼく」が出てきますが、彼は真実を語るがゆえに「廃人」だと言われてしまうのです。現在の状況下では、正気を保ち、真実を語ろうとしても社会的に何の力も獲得できず、顧みられることもないのです。
それでも、正気を保つ人が少しずつ増えていけば、社会の構造も変わっていくはずです。そうならなければ世界はもたないでしょうから、いずれそうなると私は思います。若い人から見ると、あまりに気の長い話のように思われるかもしれませんが、急激な変化を求めてもうまくいかないことを、私たちの世代はたびたび見てきました。だからそれよりも、自分自身が変わり、身近なことで変革できるものから手を付けていくしかないのです。
そして、そのように社会全体が変わっていくことを考えれば、現状に媚びず、絶望せず、自分の興味のあることを続けていくことが、結局、後悔しない唯一の方法なのではないでしょうか。

さて、今回の一つ目の話題です。
先日、NHK・FMの『ジャズ・トゥナイト』という番組を聴いていたら、ピアソラの特集でした。ジャズ番組なのに、なぜタンゴのピアソラの特集なのでしょう。進行役の、ジャズ・ミュージシャンで作曲家の大友良英(1959 - )の紹介によると、この3月が「タンゴの革命児」アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla, 1921 - 1992)の生誕100年にあたるからなのだそうです。
私は音楽に詳しくありませんし、ましてや「タンゴ」のことなどよくわかりません。ただ、ピアソラの音楽を聴いた後で、一般的なタンゴを聴くと何か物足りなく感じます。たぶん、もともとタンゴがダンスのための音楽であるために、私のように踊りとは縁のない人間がジーっと聴いていると、すこし退屈に感じるのだと思います。ところがピアソラの目指したのはダンスのためのタンゴではなく、「聴くためのタンゴ」なのです。ですから、それまでのタンゴとは異なり、聴くことに集中する鑑賞に耐えるのだと思います。
少しだけ、ピアソラを紹介しておきましょう。ピアソラは若くしてバンドネオン奏者として母国アルゼンチンで活躍しますが、それに食い足りずに音楽を本格的に勉強するため、パリに留学します。そこでクラシックの作曲家を目指してナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887 – 1979)に師事します。しかし結局、彼女からタンゴの世界に戻ることをすすめられます。それからは、ジャズやクラシックの影響を受けながら革新的なタンゴを創作し、アルゼンチンとニューヨークやヨーロッパを行ったり来たりしながら活動します。母国の伝統的なタンゴの世界では、彼の音楽が思うように受け入れられなかった、という事情もあったようです。
大友良英の解説によると、ピアソラの音楽活動はジャズのチャーリー・パーカー(Charlie Parker Jr. 、1920 - 1955)やマイルス・デイヴィス(Miles Dewey Davis 、1926 - 1991)と共通するものがあるそうです。そう言われてみると、年齢的にも同じ時期の人たちですね。ジャズもタンゴも、もともとローカルなダンス・ミュージックであったのですが、それがクラシック音楽や現代音楽の理論を取り入れて、グローバルで複雑な音楽へと変わっていったのです。ただ、パーカーやマイルスがジャズの仲間たちと切磋琢磨して音楽を切り拓いていったのに対し、ピアソラはアルゼンチンでただ一人、独力で改革するしかなかった、と大友は言っていました。そう言われてみると、ピアソラの音楽にはどこかに彼の孤独さが表れているようにも感じます。
ここでとりあえず、大友の番組で取り上げられていた曲を2曲と、ピアソラの代表曲「Libertango」の動画をご紹介します。もしもピアソラを聴いたことがない方がいらしたら、ぜひ聴いてみてください。ダンス・ミュージックとしてのタンゴのイメージが変わることは間違いありません。もしかしたら、これは「タンゴ」というよりは、「ピアソラの音楽」と言った方がよいのかもしれません。そしてとにかく、老境に達したピアソラがかっこいいです。
「Concierto Para Quinteto」(Astor Piazzolla - Concierto para quinteto. - YouTube
「Nuevo Tango」(Nuevo Tango - YouTube)
「Libertango 1977」(RTS Astor Piazzolla Libertango 1977 - YouTube)

さて、そしてもう一つの今回の話題は「バロキスム」についてです。
いま『表層の冒険 抽象のバロキスム』という展覧会が開催されています。私の個展と同時期の3月15日(月)から3月28日(日)にかけて、学校法人片柳学園「ギャラリー鴻(東京都大田区5-23-22)」で開催されているのです。この展覧会には多数の著名な画家が参加していて、私の知り合いの方も出品しています。私は個展で忙しかったので、もしかしたら見逃してしまうかもしれません。しかし、美学者の谷川渥(1948- )が企画した展覧会ですので、その企画意図には注目しておきたいのです。
そう考えた時に、この展覧会のタイトルが気になります。展覧会を見ていないので、何とも言い難いのですが、『表層の冒険』の「表層」とは、たぶん、平面芸術である絵画のことを指しているのでしょう。「冒険」も「抽象」も、文字通りの意味に受け取ってよいのだと思います。問題は、「バロキスム」という言葉です。

バロック(伊: barocco, 仏: baroque 英: baroque, 独: Barock)とは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

イスム‐ism
【接尾辞】
次の意味を表わす名詞語尾:
1行動・状態・作用の意.
2体系・主義・信仰の意.
3(言語・慣習などの)特性・特徴の意.
・・・
(Weblio 辞書 『英和辞典・和英辞典』)

つまり、「バロキスム」はバロック主義、バロック状態ということなのでしょう。その「バロック」というのは、16世紀初頭から17世紀にかけてのヨーロッパ美術の一様式ということになります。それでは、バロックはどのような様式なのでしょうか。ここはひとつ、西洋美術史の権威である高階 秀爾(たかしな しゅうじ、1932 - )の説明を聞いてみましょう。

バロック音楽の隆盛やバロック美術に対する関心の高まりを通じて、「バロック」という言葉は今では、少なくとも芸術愛好家のあいだでは、かなり身近なものとなっているといってよいであろう。その内容についても、細かな議論は別として、大筋においてはほぼ共通の理解が成立しているように思われる。すなわち、17世紀から18世紀の中頃にかけて、美術、建築、音楽、演劇など、時には文学をも含めて、さまざまの芸術分野において西欧世界全体を風靡した雄大壮麗な表現様式というのが、一般的に通用している「バロック」の意味である。事実、バッハを「バロック音楽の巨匠」と呼ぶことは広く一般に受け入れられているし、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂前の広場を大きく馬蹄形に取り囲むベルニーニの列柱廊をバロック建築の代表的作例として挙げることも、誰しも異論のないところであろう。
しかしながら、このような「バロック」観が登場するのは、決してそれほど古いことではない。端的にいってそれは、20世紀になってから、それも大方の証人を得るのは、第一次世界大戦後のことである。それ以前、特に19世紀においては、「バロック」はほとんどつねに、「価値の低い」、「劣った」というニュアンスをこめて用いられていた。例えば、バロック芸術に対して早くからかなりの理解を示していたヤーコブ・ブルクハルトでさえ、『チチェローネ』のなかで、「バロック建築はルネサンスと同じ言葉を話すには違いないが、それは粗野な方言によってである」と述べているし、ニーチェにいたっては、「芸術が頽廃に陥る時、それはバロックとなる」と断定している。その点では「バロック」という様式名称は、「ゴシック」の場合とよく似ているといえるかもしれない。
もともと「バロック」という言葉には、はじめから否定的なニュアンスがつきまとっていたようである。ヴィクトール・リュシアン・タピエの『バロック芸術』によれば、この単語がはじめてフランス語の辞書に取り上げられたのは17世紀末のことで、その意味は、「完全に球形ではない真珠についてのみ言われる宝石関係の単語」と規定されているという。つまり「歪んだ」、あるいは「いびつな」真珠ということである。当然のことながら、それは完全な球形の真珠よりも評価が低い。もっとも最近では、バロック流行の余慶か、「バロック真珠」が一部の人々のあいだでは珍重されているらしいが、本来なら嫌われても仕方のないものであろう。
(『バロックの光と闇』「第1章 歪んだ真珠」高階秀爾)

さすがに、わかりやすい説明ですが、すごい情報量で、ちょっと補足が必要でしょうか。「ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂前の広場を大きく馬蹄形に取り囲むベルニーニの列柱廊」の写真は次のようなものです。
http://hashim.travel.coocan.jp/roma/817/007.html
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini, 1598 - 1680)は、バロックの時期を代表するイタリアの彫刻家、建築家、画家です。「ベルニーニ」で検索すれば、彼の有名な彫刻作品を見ることが出来ます。美術史に疎い方でも、彼の作品をどこかで見たことがあるはずです。
カール・ヤーコプ・クリストフ・ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt、1818 - 1897)は、スイスの歴史家、文化史家です。『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き Der Cicerone』は、1855年の著作のようです。
ヴィクトール・リュシアン・タピエ(Victor Lucien Tapié、1900 – 1974)の本は、文庫クセジュから出版されていますが、その 『バロック芸術 (文庫クセジュ 333)』は高階秀爾が翻訳しています。
哲学者、思想家のニーチェや音楽家のバッハは解説の必要がありませんね。
ここで高階秀爾が書いているように、バロック美術の評価には移り変わりがあります。バロック美術と言えば、イタリアのカラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571 - 1610)、ギリシャ出身のエル・グレコ(El Greco、1541 - 1614)を先駆者として、スペインのベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 - 1660)、ネーデルラントのルーベンス(Petrus Paulus Rubens、1577 - 1640)、オランダのレンブラント(Rembrandt Harmenszoon van Rijn、1606 - 1669)、フランスのニコラ・プッサン(Nicolas Poussin, 1594 - 1665)など巨匠が目白押しです。私たちが一般的に絵画の大作をイメージした時に、思い起こすのは彼らの作品なのかもしれません。ルネサンスの時代に遠近法などの図法や油絵の具などの素材が発達し、それらを自由自在に駆使して大工房で大量に絵画を制作したのがバロックの時代なのです。とくにベラスケスやレンブラントは、絵画の神様のような存在ですから、この時代の絵画が高く評価されるようになったのが20世紀になってから、という指摘は驚きです。印象派の先駆者、エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832 - 1883)がベラスケスを尊敬していたのは有名な話です。その「バロック芸術」が、ほんの少し前までは「価値の低い」、「劣った」ものだと思われていたのですから、現代の常識で美術史をながめてはいけません。
このように、美術史上の「バロック」という時代、およびその様式を捉えようとしても、矛盾した評価や見方が表れてきて、なかなか簡単にはいきません。それだけでもたいへんなことなのに、「美術史」という概念が成立したこと自体がそれほど古いことではない、と書いているのが谷川渥の『美のバロキスム』です。そのなかの「4章 美学問題としてのバロック」から、目につくところを拾ってみましょう。

いつごろ美術史的な記述が現れたのか。古代ローマのプリニウスの『博物誌』(1世紀)のなかにすでに美術の問題がかなり書かれています。最初にどういうかたちで絵が出てきたのか、それは影をなぞるところから始まったなど、いろいろ興味深いことが書かれていますが、基本的に美術に関する逸話の寄せ集めで、まだ美術史とは言えません。
常識的に美術史の最初に名前を挙げられるのはジョルジョ・ヴァザーリが1550年に刊行した『画家・彫刻家・建築家列伝』という膨大な著作です。
(『美のバロキスム』「4章 美学問題としてのバロック」谷川渥)

ヴァザーリが美術史の父だと言われることは事実ですが、たしかに統一的な「芸術」概念をもとに膨大な資料を集積したにせよ、やはりそれがさまざまな逸話の寄せ集めであるという性格はぬぐいきれません。われわれが考えるような意味での、つまり様式を並べ対比するという美術史が最初に出てきたのはヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンにおいてだと言われています。ヴィンケルマンはドイツ人の芸術学者で、『ギリシア美術模倣論』を1755年に出します。ギリシア美術に比べるとローマの美術は取るに足らない、ローマに独創性なんかない、とにかくギリシアのものを模倣するのがいいという内容で、いわばローマを貶めてギリシアを持ち上げたそのドイツ人が、どういうわけかローマ法王に寵愛され、古物監督官に任命されてずっとローマに滞在しました。
(『美のバロキスム』「4章 美学問題としてのバロック」谷川渥)

ヴィンケルマンは、『ギリシア美術模倣論』の次に1764年に『古代美術史』を公刊します。これこそが、正真正銘、美術史の最初の書物として挙げられるものです。つまり、ギリシアが西洋文明の淵源であって、すべてそこから出発しなければならないとして、ギリシア美術を規範として論じている本です。古代美術史という表現そのものが革命的であることに注意しなければいけません。この表現は、ある種のイデオロギーというか考え方を前提に成り立っています。まず「歴史」という言葉です。美術の歴史というときにはなんらかの概念的なモデルがあるわけです。それは要するに、芸術が誕生し発展し衰退していくというある種の生命論的、生物学的モデルです。芸術もまた、生命を持って誕生から死を迎えて子孫に継承されていくという生物学的モデルがあるという問題があります。
それからもうひとつの問題は、実はヴィンケルマンはギリシアに行ったことがないということです。実はずっとイタリアのなかにいて、結局古代ギリシアの断片か修復作品あるいはレプリカを見ていたわけです。フランスのディディ=ユベルマンも『残存するイメージ』(2002)のなかで論じていますが、ヴィンケルマンの美術史のモデルは要するに不在の理想的なモデルです。実際に見たことがない理想形を観念的につくり上げて書いているという不思議な美術史です。
(『美のバロキスムか「4章 美学問題としてのバロック」谷川渥)

ヴィンケルマンとギリシア美術のことは、このblogでも松宮秀治の著作のところで取り上げています。ヴィンケルマン本人がギリシアに行ったことがない、というのも面白い話です。私たちが知っているギリシア彫刻で、ローマ時代の模刻が結構多いのですが、ヴィンケルマンの時代には、そのことがわかっていたのでしょうか。ちなみにミロのヴィーナスが発見されたのが1800年代のようですから、ヴィンケルマンは見たことがなかったでしょう。
それから、美術史が様式概念を中心とした生物学的モデルだというのも、頷ける話です。これは字面ほど難しい話ではなくて、例えばヴァザーリの本を読むと、何か物足りない感じがしてしまうのですが、それは様式概念についての考察とか、ひとつの時代の始まりと終わりをどうとらえるのか、ということが欠けているからです。彼の見た事実や見聞したことを書いたものですから、それがただのエピソードの羅列に見えてしまうのです。しかし、次々と様式が生まれては消えていき、世代交代していくという歴史的な考察は、実は一つの物語に過ぎません。客観的な事実だと思い込んで、信用し過ぎないことが大切です。
そして次第に「バロック」という言葉は、一つの時代の様式の概念ではなくて、別な意味をもってきます。はじめのところで、高階秀爾が「バロック」を「歪んだ」という意味から来ていることを解説していましたが、それは古典的なもの、優美なクラシックなものに対して「歪んだ」もの、という「古典」との対比的な意味合いを帯びてきます。ギリシアの「古典」への回帰を目指した優美なルネサンス美術が、やがて「歪んだバロック美術」に変わってしまう、という物語です。その物語を生物学的なパターンとして見るならば、そのパターンは人間の歴史のあちこちに見られるはずです。

ドールス(スペイン人の歴史家)の『バロック論』はある意味でヴェルフリンのバロック論の拡大解釈だと言ってもいい。
ドールスは「アイオーン」というギリシア語を使います。アイオーンとはもともと「永遠」という意味です。古典的なものとバロック的なものとは時代と地域を問わず現れ出てくる常数であるという。普通はヨーロッパ芸術の17世紀をバロック芸術と言うのですが、ドールスに言わせれば、それはひとつのバロックにすぎない。バロックは地域と時代を問わないのだから、どんな文明どんな地域にも古典的なものとバロック的なものがあると言う。しかもそれはたんに芸術様式にだけではなく、それこそあらゆる精神活動の領域、さらには意味の拡張によって自然の形態にさえ適用される。こうしたバロックの本質を、ドールスは汎神論、力動性、多極性、連続性といった言葉で表現しています。換言すれば、それは、クラシックの閉ざされた体系、対位法に対する開かれた体系、遁走曲形式であり、「理性」に対する「生命」だと言うのです。
(『美のバロキスム』「第4章 美学問題としてのバロック」谷川渥)

このように、優美でクラシックなものが「閉ざされた体系」と見なされるならば、それに対するバロック的なものは「開かれた体系」と見なされます。閉ざされたものには限界がありますが、開かれたものには限界がありません。このような「古典=クラシック=閉鎖系」と「バロック=開放系」という対比させた考え方が、やがて世界観、宇宙観へと繋がっていきます。

古典主義とは閉ざされた世界観であり、これはガリレオ的な宇宙である。それに対してバロックとはケプラー的な宇宙だとよく言われます。これはアレクサンドル・コイレが『閉じた宇宙から無限宇宙へ』(1957年)という本で詳しく論じたところです。
(『美のバロキスム』「第4章 美学問題としてのバロック」谷川渥)

話が壮大になってきました。
そしてさらに、バロック論は近現代の思想書にも広がっていきます。
谷川は、このblogで前回も論じたベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 – 1940)について、その『ドイツ悲劇の根源』という著作が一種のバロック論だと書いています。この論文では演劇を寓意の概念から論じているらしいのですが、その中に出てくる「断片」、「廃墟」という言葉が、それぞれ「断片」と「全体」、「廃墟」が有する「時間性」などの問題として、バロック論とリンクするようなのです。私はこの本を読んだことがありませんが、読んでみなければなりませんね。
それから現代哲学の巨人、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)の大著、『襞(ひだ)』も画期的なバロック論だと谷川は書いています。この著作は副題が「ライプニッツとバロック」ですから、バロック論であることは明らかです。「襞」とは、例えば衣服の上に波打つようにできる凹凸ですが、それはバロック的な「無限に続くもの」の表象なのだそうです。バロックの巨匠、ベルニーニの彫刻を見ると、服の「襞」が強調されている、と谷川は指摘しています。ここは興味深いところなので、その紹介部分を書き写しておきます。

無限性との関連で、もうひとつ注意しておかなければいけない画期的な本は、1988年に出たジル・ドゥルーズの『襞』です。「ライプニッツとバロック」という副題が付いています。ライプニッツは17世紀のドイツの哲学者で微分積分を創案しました。微積分というのは要するに世界を無限に分割し続けるという発想でしょう。ライプニッツ自身は死後に刊行されたその『単子論(モナドロジー)』において、「精神は自分の襞を一挙に展いてみるわけにはゆかない。その襞は際限がないからである」と書いています。ドゥルーズは、その際限なく生成する襞を何よりもバロックの特徴と見て、17世紀バロックの世界観が視覚的には襞で表されてきたと言うのです。
(『美のバロキスムか「第4章 美学問題としてのバロック」谷川渥)

このように「バロック」という概念は、私たちが考えている以上の広がりがあるのですが、その上で谷川は展覧会のサブタイトルや著作のタイトルに、この言葉を使っているのです。『美のバロキスム』の「あとがき」で谷川は次のように書いています。

『美のバロキスム』と題した所以は、本書をお読みいただいた読者諸兄姉にはすでにあきらかであろうが、簡単に説明するとこういうことだ。美とはまさにその問題を考究する営みにほかならないが、芸術史のうえでは、形と形ならざるもの、フォルムとアンフォルム、あるいは形式と質料の微妙な関係が端的に可視化したのがバロックという現象であり、主題としての美とバロックとは互いに交叉するのである。すでにカントのうちに窺われる「美学問題としてのバロック」をあたうかぎり意識化することこそが、本書の主たるもくろみである。
(『美のバロキスム』「あとがき」谷川渥)

「形と形ならざるもの」の交叉やせめぎ合い、それが開放系であるバロック的なるものだとするなら、現代における良質の抽象絵画はバロック的であるべきなのだと思います。谷川がその著書や企画した展覧会に「バロキスム」という言葉を用いるのは、あえてアニメ的な定型型の絵画が売れている時代に、矛盾する要素がせめぎ合うような開放的な論文や議論、そして絵画や芸術が見てみたいからではないでしょうか。そうだとするなら、その趣旨に賛成できます。
ただ、実際の展覧会を企画して、そのような開放的なもの、せめぎ合うような躍動感を実現するのは、たやすいことではありません。前回の『表層の冒険』を見たときには、選ばれた作家の数が多すぎて、もっと谷川が見たいと思った作家を、個別にじっくりと見てみたい、と思ったものですが、今回はどうでしょうか。
ただ、いずれにしろ、「バロック」という美術史上の概念だと思っていた言葉が予想外の拡がりを持っていたこと、そして美術史という概念そのものも、絶えず更新していく必要があることを、谷川の著作から教えられました。こういう言葉や概念の提示こそが、美学者、谷川渥の表現なのだろうと思います。私たちは、彼の言葉をせまい学問領域に置き去りにせずに、それぞれの表現の場、考察の対象へと引っぱり出すべきでしょう。
何よりも、私には谷川が示唆したベンヤミン、そしてドゥルーズの著作とバロックとのつながりが気になります。少し時間がかかるでしょうが、読み解いてみることにしましょう。

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