平らな深み、緩やかな時間

17.福岡伸一の『フェルメール 光の王国』

昨日、「現代アーチストセンター展」の搬入に行ってきました。午前中に上野に行き、午後は会議のために職場に戻り・・・と、さすがに疲れました。以前の「現代アーチストセンター展」は、夏休みが開催期間だったのですが、美術館改修後の展示期間の変更で、年度末が開催期間になってしまいました。搬出の日程はそれほど問題ではありませんが、搬入は綱渡りのようなスケジュールになってしまいます。今回はともかく搬入日に自分で展示出来たので、運が良かった方だと思います。
春分の日の初日も会場に出たかったのですが、今週中に終わらせなければならない仕事もあり、一日職場で書類やパソコンと格闘していました。出品者が一堂に会する日は他にないし、残念です。しかし、いま抱えている仕事は土曜日で一段落しますので、24日(日)の夕方と、27日(水)の午後は会場にいる予定です。とくに27日は会場の当番なので、13時30分から閉館まで会場に詰めています。
肝心の作品の方は、展示を終えたところで、まぁ予想した通り、というところでしょうか。最近では若いころのように、自分に対して過剰な期待をしないので、作品が貧相に見えてもそれほどがっかりしないのです。

さて、そんな状況なので、落ち着いて文章を書く時間もないのですが、生物学者の福岡伸一(1959 - )が書いた『フェルメール 光の王国』を読んだので、その感想をメモしておきます。
以前にテレビ番組で、福岡伸一がフェルメール(Johannes Vermeer、1632 - 1675)について語っているのを見ました。 当時の科学的な知見とフェルメールとの関わりについて話していたようでしたが、ぼんやりとしか見ていなかったし、テレビ番組の枠の中、という制限もありましたから、何か面白いことがありそうな・・・という予感程度のことしか聞き取れませんでした。そんな記憶がある中で、図書館でこの本を見つけて、もしかしたらもう少し深いことが書いてあるのかもしれない、と思い読んでみることにしました。
結論から言えば、肩透かしを食ったような感じです。もともとこの本は、航空会社の機内誌『翼の王国』に連載されていた文章をまとめたものだそうですから、研究的な深みを求める方が無理なのでしょう。写真はきれいだし、たんにフェルメールの絵を見て回るという以上に、紀行文的な旅の楽しさがちりばめられていますから、海外旅行が趣味の方にはよいかもしれません。
フェルメールと科学との結びつきについては、やはり予感以上のことは語られていません。仮に著者が、そのことを本格的な研究書で著わそうとしても、難しいことだったろうと思います。
たとえばこの本では、フェルメールの画面とカメラ・オブスクーラとの関係について書かれています。しかしそれはこれまでも語られてきたことで、目新しいことではありません。また、光が粒子のように捉えられている、という指摘もありましたが、それもフェルメールの科学的な傾向をあらわす、というほどのことなのかどうか、よくわかりません。
しかし、そうはいっても興味深いエピソードがあちらこちらに埋め込まれた本ではあります。
本の冒頭に、フェルメールと科学者のレーウェンフック(Antoni van Leeuwenhoek、1632 - 1723)や哲学者のスピノザ(Baruch De Spinoza, 1632 - 1677)が同い年であった、と指摘してあります。レーウェンフックは素人学者でありながら、顕微鏡による研究で有名な人であり、フェルメールの『天文学者』や『地理学者』のモデルになった人だと言われています。福岡はさらに踏み込んで、フェルメールがレーウェンフックの顕微鏡スケッチを手伝ったのではないか、と推理します。

 それは顕微鏡で拡大された昆虫の脚を描いたものだった。するどい爪先。関節と関節のつながりが徐々に太い脚部に至る。間隔をおいて生える細い毛。驚くべきことはその描法だった。光があたる部分は白く輝き、陰に入る部分は暗い影が差す。丸みを帯びたその立体感。昆虫特有のつややかで硬質な黒い表皮の質感。その描きだし方や明瞭なコントラストのつけ方はまるで、長年、石膏デッサンを積み重ねた熟達の筆の動きのようだ。
 昆虫の脚部の観察記録の横には、植物の実か髄を輪切りにした観察図がある。ここでは、先ほどの硬い虫の質感と打って変わって、やわらかくみずみずしい植物組織の周囲とその内部の細かな導管群が精密に、何ごとをもおろそかにせず、省略することもなく描かれている。
 これらの絵は明らかに科学者の目によって描かれたものではない。この絵は明らかに芸術家の目によって描かれたものだ。なぜなら、ここには自然を分けようとするのではなく、つなげることで表現しようとする意思があらわれているから。ここには人為的な分節線がなく、滑らかな明暗の連続があるから。
(『フェルメール 光の王国』)

私は福岡伸一の他の著作を読んだことがありませんが、この最後の「分節」ではなく「連続」でものを見るという部分が、福岡の展開している理論に基づいたもののようです。時間や空間をこまかく「分節」することによって発展した科学は、時間的な要素を短い瞬間のうちに固定してしまいます。それに対し、「連続」して流れる時間を認識する、ということは時間的な要素を加味しながら、あらためて自然な見方でものを見る、ということになります。この考え方は、私自身の課題ともつながるようで、共感が持てます。
話がそれましたが、福岡の指摘によれば、この芸術的なレーウェンフックの観察スケッチは、フェルメールの死と前後して描法が変わってしまったそうです。
レーウェンフックとフェルメールのつながりは、このようにどんどん掘り下げられていきますが、冒頭の章で取り上げられた三人目、スピノザとこの二人との関係は生年が同じ、という以上のことではないようです。強いて言えば、「レンズ」つながり、というところでしょうか。スピノザがレンズ磨きによって生計を立てていたというのは、有名な話です。しかし、このような具体的なエピソードによってではなく、この時代に広がっていった世界観を三人がどう共有していたのか、などと考えると面白そうです。そういう研究は、ないのでしょうか。
それから、これは他愛のないエピソードですが、元ビートルズのポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney, 1942 - )が、フェルメールの『ギターを弾く女』をお忍びでよく見に来る、という話が書かれています。ポールは最近、ジャズのスタンダードをさりげなく歌ったCDを出しているようですし、よい年のとり方をしているのかもしれません。
そしてこの本では、フェルメールとどこまで関係があるのか分かりませんが、何人かの科学者が取り上げられています。彼らに関する文章が、やはりひときわ精彩があるような気がします。
なつかしいところでは、ライアル・ワトソン(Lyall Watson, 1939 - 2008)の名前が出てきます。ひところはずいぶんと話題になった人ですし、彼の本をもとにしたテレビ番組もありました。私も二冊ほど本を読んでいます。彼について、福岡はこう書いています。

 1970年代から80年代にかけて、ライアル・ワトソンはある意味でもてはやされた。そして別の意味で厳しい批判にさらされた。彼は時に自然界の中に見られる不思議な共時性について語り、時に科学がなお観察しえない法則の関連性について記した。それはあまりにも分析的な還元主義の隘路にはまりこんだ近代科学に対し、新しい統合のビジョンを示すものだった。同時に、それは科学の意匠をまとった似非科学だと非難された。
 彼は確かに実証的な科学者ではなかった。彼はむしろ、自然に対する認識のあり方を、ある種の予言的な言葉で語ろうとした詩人だったということができる。
(『フェルメール 光の王国』)

ライアル・ワトソンについて、否定的な見方をよく目にします。とくに科学者からの批判が多く見られます。その評価は、私のような素人にはできませんが、科学的な態度で語る以上、実証的であることは不可欠なのではないか、という思いはあります。一方で、「詩人」だと言われれば、そうなのか、とも思ってしまいます。「詩人」というか、思想家としての価値を秘めた人なのかもしれません。

『フェルメール 光の王国』という本でしたが、何だか、直接フェルメールとかかわらないことばかり書いてしまいました。

 
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