平らな深み、緩やかな時間

44.『ルネサンス 経験の条件 / 岡崎乾二郎(文春学藝ライブラリー)』

ごく個人的なことですが、先週末に体調を崩しました。今までに経験したことがないような症状だったので、仕事を休んで大きな病院に検査に行きました。診察の待ち時間の長さを予想していたので、『ルネサンス 経験の条件 (文春学藝ライブラリー)』を鞄に入れておき、気を紛らわすために真剣に読みました。難しい本ですが、ふだん、なかなか読む時間がないので、まぁよかったといえば、よかったです。(とても、そう言える状況ではありませんでしたが・・・)

さて、この本は、十数年前に単行本で出版されたときにも話題になっていましたが、何となく書かれていることが自分とは直接かかわらないような気がして、そのまま読まずにきてしまいました。その当時では、おそらく読んでもピンと来なかったでしょう。それが最近、文庫形式で再版されたので、読む機会を得ました。解説や新たなあとがきも追加され、私のような理解力のない人間にとって、ありがたいことでもあります。
その内容ですが、いくつかの章に分かれています。話題は美術に限らず、音楽、思想など多岐にわたっていますが、そのハイライトに当たるのが、ブランカッチ礼拝堂の壁画の分析のところでしょう。ブランカッチ礼拝堂は、サンタマリア・デル・カルミネ教会の一部で、何よりもマサッチオ(Masaccio, 1401 - 1428)の壁画で有名です。「楽園追放」など、美術史でよく取り上げられていますので、多くの人が一度は見たことがあるでしょう。マサッチオは若死にした人だから、彼の代表作としても、まずこの壁画があげられるようです。インターネットで調べてみると、岡崎乾二郎の名前で壁画の分析画像がありました。はじめに出てくる美しい動画像もすばらしいのですが、それだけではありません。本の中で指摘されている各壁画の構造的な重なりが、絵を重ねて見られるように工夫されているのです。よかったら、ご覧になってみてください。
http://kenjirookazaki.com/brancacci/
この画像をご覧になれば、まだるっこしい説明は必要ないかもしれません。これらの構造分析は、岡崎乾二郎がはじめて指摘したものだそうです。この壁画は、マゾリーノ、マザッチョ、フィリッピーノ・リッピの3人によって引き継がれながら完成されたといわれています。一人の手によって描かれたわけでもないのに、なぜ、このように構造が重なり合うのでしょうか。
このことは、ブランカッチ礼拝堂の壁画に限らず、この本の中心人物であるブルネレスキ(Filippo Brunelleschi, 1377 - 1446 )の仕事においても言えることです。当時の建築の仕事は長大なタイムスパンを必要としているので、個人的な意志ではなく、時間や空間をこえた見ず知らずの人たちの協働が必要です。岡崎はこの版のあとがきで、このように書いています。

 対象がいかに変化し代替されても維持される変換群、明け透けにいって、これはメディアの問題である。筆者の傾向として、これまでも言語による分析よりも図版による分析に力を注ぎ、読書過程、鑑賞過程がそのまま制作過程に重なるような工夫をしてきたつもりである。けれどもようやく最近になって、媒体=メディウムを単なる手段としてではなく、それ自体が自律した系として変化し運動する、独立した回路だと考えるべきであること、メディウムをむしろ人と対等に対向する別の主体と考えるべきだという発想に確信をもつことができ、方法としてメディウムに実装化する可能性を手に入れたところである。たとえば絵を描くときの画材、画材などの支持体を単なる手段(mean)ではなく、それ自体を自律した系として扱うこと。たとえばサッカーで人は媒体としてのボールを相手に行為するが、そのボールは単なる静止した物体としての手段ではなく別の自律した系として(端的に他の選手の誰かによる行為―意志を加えられて)運動している。選手はこうして自らにときに対抗し、運動する、別の主体としてボールに向いあい、それと協働することで新たな運動を形成するのである。
(『ルネサンス 経験の条件 / 文春学藝ライブラリー版あとがきに代えて』)

このように、サッカーボールに例えられると、わかりやすいのではないでしょうか。偶然ですが、もうすぐサッカーのワールドカップが始まります。日本チームの浮沈は、まさにパスボールが「自律した系として」機能するのかどうかにかかっています。
それはともかく、このように複数の芸術家が仕事を引き継ぎながら、共通した構造を持つブランカッチ礼拝堂の壁画は、スタンダール・シンドロームという症状を、もっともよくひき起こす場所なのだそうです。

 フィレンツェへの旅行者が頻繁に起こすというスタンダール・シンドロームと呼ばれる症候群がある。曰く芸術作品に過度の感銘を受けた旅行者が起こす一時的な錯乱で、眩暈を起こして失神し、あげくに自分を作者である芸術家本人と思い込んだりもする。1817年にフィレンツェに旅した作家スタンダールが彼自身に生じたこうした症状を記述していることから、こう名づけられているが、近年フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ病院に勤める精神科医グラツィエラ・マゲリーニが出した研究書(1989年)によって、このシンドロームの存在は広く知られるようになっている。
― 中略 ―
「スタンダール・シンドロームがもっともよく起こるのはどこか知っている?ブランカッチ壁画の前だよ」。ある日、敬服する磯崎新氏が、筆者のたどたどしく説明するブランカッチ分析をひととおり聴きおえたあと、笑みを浮かべてこう言った。この磯崎説は、もちろん筆者にすぐさま「ブランカッチの壁画を前にして、なぜ、かくも多くの芸術家が眩暈を起こしてきたのか」という答えを、この分析が解き明かしたというひとり合点の自負さえ与えてくれるものだった。
(『ルネサンス 経験の条件 / あとがき』)

つまり、ブランカッチ礼拝堂の壁画群は、その重なり合う構造ゆえに、室内にいる鑑賞者の内面に連鎖して作用し、眩暈を引き起こすほどの感動を与える、ということなのです。その真偽はともかく、話としては、とても面白いと思います。というのは、この『ルネサンス 経験の条件』という著作は、ただ酔狂にルネサンスの良き時代を分析するだけの本ではなく、その底には芸術の可能性を狭めてしまっている現代芸術批評への批判があるからです。現代芸術では、作品を形成する要素を分析的に取り出して、極限まで問い詰めていく、という傾向があります。例えば、この本の第一章のアンリ・マティスの中では、現代美術批評を代表するフォーマリズムについて、こう書かれています。

 すなわち視覚性の徹底というモダニズムの公理は芸術諸ジャンルの弁別の純化というもうひとつのモダニズムの原理と乖離してしまう(フリードのアイロニカルな役割は、クレメント・グリーンバーグのフォーマリズムを受け継ぎながら、それが孕むパラドックスをみずから証明しきったことにあった)。純粋な視覚性を徹底しようとするなら、当然、絵画や彫刻というジャンル画定は確保されないし、むしろ先験的なもののように確保された彫刻や絵画というジャンルの弁別は、視覚形式の純粋な援用を拒む桎梏とさえなりうるだろう。
(『ルネサンス 経験の条件 / Ⅰ アンリ・マティス』)

このようなモダニズム批評の方法では、マティスの晩年の作品は語りがたいだろう、ということなのです。たとえば絵画の視覚性を徹底したフラットな平面性という観点では、マティスの切り絵作品を語ることができません。そして、そのモダニズムの原理そのものが、互いの要素の中で矛盾してしまう、というのです。
ましてや、壮大な時間と空間をこえた協働作品であるブランカッチ礼拝堂の壁画を語るには、モダニズムの方法論を批判的に乗り越えていくしかありません。
岡崎乾二郎は、スタンダール・シンドロームのくだりのあとで、あとがきにこのように書いています。

 このスタンダール・シンドローム=ブランカッチ壁画説の真偽はいまだ確かめられないけれども(もっともそれは統計的な問題でしかないのだろうが)、ともかくブルネレスキという人物が、おおよそ普通の人間の脳髄ならみんな麻痺させてしまえるだけの頭脳―トマス・ハリスのサスペンス・ホラー『ハンニバル』に出てくるレクター博士などはるかに凌ぐ―を持った人物だったということはなんとか、この本で示すことができたのではないかと信じている。しかしこれはブルネレスキの能力というよりも、本来、芸術が持っている能力であり、その可能性である。ここにしか芸術の可能性はない。
(『ルネサンス 経験の条件 / あとがき』)

この文章に、岡崎乾二郎の芸術観がよく表れています。ちなみに彼は、ブランカッチ礼拝堂の壁画の方法論が、自分の絵画の方法論と同じである、と書いています。ネット上に上がっている彼の作品を見ると、なるほど、と思うところもあります。
http://kenjirookazaki.com/#
このなかの、paintingを開いていただくと、その中のいくつかは2枚組に並んでいて、確かに絵の構造が似ています。しかし、壮大な壁画の画像を見た後では・・・、という気がしてしまいます。正直なところ・・・・。

しかし、いずれにしろ、高い知性と感性を全開にして、芸術の可能性を切り開こうとするこの著作は感動的です。「ここにしか芸術の可能性はない」という決意に同意するかどうかはともかくとして、岡崎乾二郎の経験と判断が、このように言わしめたのでしょう。
私には、とても同じようなことはできないけれども、同時代でこれだけの仕事をする人がいるのだから、少しは頑張らないと、という励みにしたいと思います。

 
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