平らな深み、緩やかな時間

43.『ポルディ・ペッツォーリ美術館展、ハーグ展、バルテュス展』

今日は、東京に出たついでに、渋谷の「Bunkamuraザ・ミュージアム」と新宿の「損保ジャパン東郷青児美術館」をまわりました。それぞれ、「ポルディ・ペッツォーリ美術館展」 
http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/14_pezzoli/index.html
「オランダ・ハーグ派展」が開催されています。
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index_hague.html
それから、少し前に見た東京都美術館の「バルテュス展」について書いておきます。
http://www.tobikan.jp/exhibition/h26_balthus.html

まずは、「ポルディ・ペッツォーリ美術館展」ですが、実は電車の乗り換えで渋谷駅を出て、うろうろしているうちにポスターを見かけて、見に行くことにしました。田舎ものなので、いまだに渋谷駅の乗り換えが昔のようにいかずに、うろうろしてしまいます。しかし、それが原因で、たまにはいいことがあるものです。もちろん、この展覧会が開催されていることは知っていましたが、有名美術館の名画展、というのは、忙しいとつい後回しにしてしまうものです。それが、思ったよりもおもしろかった・・・。
「ヨーロッパで最も優雅な邸宅美術館と言われているポルディ・ペッツォーリ美術館。ミラノ有数の貴族ジャン・ジャコモ・ポルディ・ペッツォーリが先祖代々の素晴らしい財産を受け継ぎ、また蒐集した美術品からなる珠玉のコレクションを誇ります。1881年、彼の死から2年後、『全ての美術コレクションは永久公開されるものとする』という遺言のもと、美術館が設立されました。」
これは展覧会ホームページの紹介文ですが、展覧会場がうまくこの邸宅美術館の雰囲気を出していました。それに、評判のピエロ・デル・ポッライウォーロの『貴婦人の肖像』やボッティチェッリの『死せるキリストへの哀悼』が、ほとんど混雑もなく見られたのもうれしかったです。
その『貴婦人の肖像』ですが、ガラス越しではあるものの、間近から見ると絵の具の盛り上がりまで見ることができました。気品のある色遣いで、評判通りの名作ですね。
一方、『死せるキリストへの哀悼』は、ボッティチェッリがサヴォナローラの影響を受けたといわれる晩年の作品で、ちょっと複雑な味わいです。優美な線や、わかりやすい人物描写など画家としての技術は若い頃から変わりようがないのですが、それが悲壮な題材と微妙にミスマッチしているようで・・・。さらに彼の悲惨な晩年を知っていると、痛々しさすら感じてしまいます。余談ですが、辻邦生の『春の戴冠』は、ボッティチェッリのことを描いた小説で、その悲惨な晩年も描かれています。それは一人の画家の光と陰であると同時に、メディチ家の時代、あるいはフィレンツェという都市の光と陰でもあります。歴史に無知な私でも楽しめた小説なので、詳しい人ならきっとおもしろいと思います。
ところで、この展覧会で意外とよかったのが、14~15世紀頃の宗教画です。私たちは透視図法による遠近法やなめらかな立体表現を絵の基準として見てしまうので、盛期ルネッサンス以前のこれらの絵について、どうしても素朴で稚拙な絵として見てしまいがちです。しかし、今回展示されていたそれらの作品は、緻密な細部描写がなされていますし、何よりも画面の平面性が宗教的な額装飾と響きあっていて心打たれます。私はまったく信仰心のない人間ですが、このように表現と目的が一体化した作品はよいものだと思いますし、表現の強さも感じます。それは絵を描くことの幸福感を感じることでもあります。

絵を描く幸福感、ということで言えば、「オランダ・ハーグ派展」の作品群も、やはり幸福なものだと思います。
「ハーグ派はフランスのバルビゾン派の影響を受けながら、17世紀オランダ黄金時代の絵画を再評価し、屋外における自然観察を基盤として風車や運河、海景や船といったオランダならではの風景、漁業や農業に従事する人たち、室内など身近でありふれた光景を、透明感のある繊細な光とともに描きました。」
これがハーグ派を紹介したホームページの文章ですが、ここで名前の出てくるバルビゾン派にしろ、19世紀の印象派にしろ、そして今回のハーグ派にしろ、自然と一体化するように絵を描いた画家たちは、みんな幸福だったと思います。いかに彼らに憧れようとも、現代に生きる私たちが彼らのように描くことは困難です。今回の展覧会を見て、そんなふうに思いました。
さて、この「オランダ・ハーグ派展」は、ハーグ派を本格的に紹介する日本で初めての展覧会だということです。こういう、これまであまり知られていない美術作品を紹介する展覧会は、いつも書いていることですが、貴重なものだと思います。もちろん、どれも名品ばかり、美術史上で重要な作品ばかり、というわけにはいきませんが、だからこそ見ておく価値があるともいえます。氷山の一角ばかりでなく、海面に潜んでいる大きな部分を見ておくことが大切なのだ、と年をとるとわかってきます。
それに、今回の展示の中で見ると、ゴッホの個性やモンドリアンの感性の鋭さがよくわかります。それにクールベの風景画の力強さも際だっていました。クールベの絵画はただ写実的なだけではなく、絵の平面性や物質性においても秀でています。彼らはハーグ派ではないけれども、関連する作品として展示されていました。そんなふうに、展覧会としても工夫されていたと思います。

最後に「バルテュス展」について・・・。そういえば先ほどまで、NHKのBSで俳優の豊川悦司が調査員役という、フィクションを交えたバルテュスの特集番組をやっていました。節子夫人がバルテュスの調査を依頼する謎の女性だった、というしゃれた落ちで、彼女も多少の演技をしていました。
そんなわけですから、ここで私が屋上屋を重ねるように何か書くこともないのですが、若干の感想だけ書き留めておきます。バルテュスのタブロー、デッサンをまとまったかたちで見ると、その不安定さが興味深いと思いました。すごくうまい、と思うものもあれば、ちょっとこれは・・・と思うものもあり、バルテュスほどの画家になると、そのぶれも魅力になるのだな、と感じました。生意気な感想だと思われるようでしたら、ごめんなさい。でも、バルテュス自身、そんな技術的な水準で見られることなど、どうでもいいと思っていたのではないでしょうか。現代美術の荒波の中、彼のように自己の芸術を貫き通すこと自体がたいへんなことだったと思います。シュールレアリズムや形而上絵画との接近の後、独自の古典的ともいえる絵画を追求した、という点でバルテュスはモランディとも共通するところがあります。しかし、モランディが禁欲的で生まれた町から離れなかったのに比べると、バルテュスは人生そのものがドラマティックで、少なくとも女性関係については禁欲的とは言えなかったようです。若い頃の模写作品を見ても、決して器用ではないものの、表現の要所を知っているような風格があり、やはり才能があった人なのでしょう。偉大な画家、というよりは、興味の尽きない画家、というふうに思いました。

ところで、私的なことになりますが、この春から異動した新しい職場は、もがけばもがくほど手足がとられるような職場です。私のポジションがそういう不幸な位置にある、ということもあるのですが、職場全体もたいへん困難なところで、周囲の若い熱心な職員も多くが疲弊しています。所属長はそんなことに気づきもしていないようで、どこかの国の首相のように独善的です。私の若い頃は、ベテランの職員といえば、もう少し悠然としていたように思いますが、時代のせいでしょうか・・・。何となく、日本全体を覆う危機感と相乗して、救いようのない気分になりますが、何とかしたいものです。

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