平らな深み、緩やかな時間

170.CSN&Y『Déjà Vu』50周年、『ベルクソン』篠原資明について

ロック・バンドのクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(CSN&Y)が1970年に発表したアルバム『Déjà Vu』(デ・ジャヴ)の50周年記念盤が出るそうです。未発表のさまざまな音源や興味深いブックレットがついているようですが、私はもともとのアナログとデジタルの音源を持っていますし、新たな音源をじっくりと聴く時間もないので購入することはないと思います。しかし、若い方の中にはCSN&Yをご存知ない方も多いと思いますし、『Déjà Vu』はポップ・ミュージックを聴く方なら必ず聞いておくべき名盤だと思いますので、若干の紹介をしておきます。
CSN&Yは1970年を中心に活躍したロック・グループですが、その時にちゃんとスタジオで録音したレコードは、この『Déjà Vu』だけです。それにも関わらず、このグループが有名なのは、それぞれのメンバーが別のグループでのキャリアを積み、彼らが集結した時にはすでに注目される存在であったこと、またグループを解消してからも活躍し続けているということもありますが、とにかく『Déjà Vu』が1960年代後半のロック・ミュージックの活況を総括するような、素晴らしい作品だったことが要因だと思います。その作品の中身に入る前に、バンドが結成されるまでのメンバーの経歴を見ておきましょう。メンバーの経歴を追うことが、そのまま1960年代後半の英米のカウンター・カルチャーを追うことにつながるような、そうそうたる人たちなのです。

デヴィッド・クロスビー(David Van Cortland Crosby、1941 - )はバーズ( The Byrds)のメンバーでした。バーズといえば、ボブ・ディラン(Bob Dylan、1941 - )の「ミスター・タンブリン・マン」(Mr. Tambourine Man)をカヴァーして大ヒットさせたことで知られています。フォーク・ロックと言われるジャンルの代表的な曲でもありますので、誰もが一度は聞いたことがあると思います。
https://www.youtube.com/watch?v=4yLsTTaWvbs&vidve=5727&autoplay=1
バーズの曲の中でちょっとミステリアスな、クロスビーの持ち味がよく出ているヒット曲として「Eight Miles High」があります。
https://www.youtube.com/watch?v=J74ttSR8lEg&vidve=5727&autoplay=1
スティーヴン・スティルス(Stephen Stills、1945 - )とニール・ヤング(Neil Young、1945 - )はバッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)のメンバーでした。この二人はグループを組むと対立して喧嘩別れをする、ということを何度か繰り返しています。しかし、スティルスはメンバーの中でも音楽的な才能が高く、ニール・ヤングは個性的なシンガー・ソングライターとしてソロでも大成功していますので、二人が力を合わせた時の化学反応は並大抵のものではありません。そしてバッファロー・スプリングフィールドもCSN&Yと同様に、1960年代のアメリカのロック・ミュージックの先進的なバンドとして、今でも評価が高いようです。
https://youtube.com/watch?v=gp5JCrSXkJY&feature=share
https://youtu.be/wwsBPbktkXE
グラハム・ナッシュ(Graham Nash 、1942 - )はイギリスのバンド、ホリーズ(The Hollies)のメンバーでした。私は「バス・ストップ」(Bus Stop)という曲ぐらいしか知らなかったのですが、山下達郎はホリーズの日本公演を聞いて素晴らしかった、とラジオで言っていました。ちなみにこの曲を作詞・作曲したのが、のちに10ccを結成するグレアム・グールドマンだそうです。いろんなところで繋がっているのですね。
https://youtu.be/VPv3_a_70ag

そしてグループの曲になりますが、まずクロスビーとスティルスとナッシュが三人でバンドを組み、『クロスビー、スティルス&ナッシュ』(Crosby, Stills & Nash)というレコードを1969年に発表しています。とにかく、コーラスが素晴らしい作品です。その一曲目は、スティルスの恋人だったフォーク・シンガー、ジュディ・コリンズのことを歌った「青い目のジュディ」でした。この曲を検索してみてびっくり、カヴァー・ヴァージョンが結構あるのですね。少し音がこもっていますが、多分、こちらがオリジナルで間違いないと思います。
https://youtu.be/ZGT0P0XJRFM
そして、もう少しロックよりのバンドにしたい、ということでメンバーを探した結果、スティルスと仲の悪いヤングが加わることになったのだそうです。そしてウッドストック・コンサートにも出演したので、その映像を見たことがある方もいらっしゃるでしょう。ネット上で次のようなページを見つけました。CSN&Yは14位のところに映像があります。この映像では、ヤング抜きで「青い目のジュディ」を歌っています。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/best-woodstock-performances

そして『Déjà Vu』ですが、このレコードでは4人がそれぞれ作曲して個性を発揮した曲を集めていますので、できれば丸ごと全部を聴いてください。
https://music.youtube.com/watch?v=lh67x9iDCjg&list=OLAK5uy_lGdAs568LWnpGUGR4GOrRwH-yhRXbhJAY
とりあえずヒット曲を2曲紹介します。まずは冒頭の「Carry On」です。
この「Carry On」はスティルスが一晩で書き上げたというエピソードをピーター・バラカンがラジオで紹介していました。
それから次の「Teach Your Children」は、日本では「小さな恋のメロディ」という映画のラストで使われていたことで、知っている人も多いと思います。この映画は日本でしかヒットしなかったそうですが、全体がビージースの曲でしめられている中で、なぜか最後だけこの曲がつかわれていました。ペダル・スティール・ギターの音色が印象的ですが、この演奏はグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアだそうです。ガルシアはCSN&Yの音楽に影響されて、デッドの音楽でもコーラスを重視するようになったと言われています。その結果、デッドのサウンドが変わって、レコード・セールスも良くなったそうです。
さらにもう1曲、ジョニ・ミッチェルの曲が1曲だけ入っていますが、それが「ウッドストック」という曲です。ジョニは当時、ナッシュと付き合っていて、一緒にウッドストックに行くつもりだったのが、大変そうだから?結局行かなかったそうです。そして報道などを通じてフェスティバルを聞いていたのだそうです。結果的に、それがフェスティバルの全体像をイメージした曲に繋がったようですから、何が幸いするのかわかりません。ジョニ自身の歌う「ウッドストック」はアコースティック・ギターでゆったりと歌われていますが、CSN&Yのヴァージョンは早いテンポのロック・ギターのイントロで始まります。
話がちょっとずれますが、ジョニは恋多き人で、ヤングとも恋人だった時があったようですし、ジェームス・テイラーとも付き合っていたと思います。そして豊かな音楽的才能の持ち主ですが、音楽ばかりでなく、自分の絵をレコードジャケットに使っていたこともあります。確か『ミンガス』(Mingus)が彼女の絵だったと思います。良い絵です。
https://wmg.jp/joni-mitchell/discography/7266/

そして、CSN&Yの影響の深さですが、例えば次の2曲を聞いてみてください。
https://youtu.be/3Q3j-i7GLr0
https://youtu.be/nd9sM5TMIA4
はじめの音源はCS&Nの「Woodn Ship」で、後の音源は日本のロックバンドの草分け、「はっぴいえんど」の「12月の雨の日」ですが、ちょっと似ていませんか?「はっぴいえんど」はバッファロー・スプリングフィールド、CSN&Y、リトルフィートなどの当時の最新のアメリカのロックバンドを聞いていたので、その影響が顕著に聞かれると思います。「はっぴいえんど」のメンバー、大瀧詠一、細野晴臣、松本隆、鈴木茂がその後の日本のポピュラー音楽を牽引していったことは、皆さんのご存知の通りです。大瀧詠一のみ、もう故人となってしまいましたが、あとの3人は今も活躍中です。
もちろん、アメリカでのCSN&Yの影響は絶大です。彼らの後に、美しいコーラスを聞かせるロック・バンドがいくつも現れるなど、その影響ははかりしれません。私の青春時代に聞いていたイーグルス、アメリカ、ドゥービー・ブラザースなどのバンドにその影響を感じますが、それを書いていくとキリがないのでやめておきます。
最後に今回の50周年のデラックス・エディションを紹介しているページを載せておきます。デモ・テープのみ製作され、本番では採用されなかった初公開の音源を二つほど聴くことができます。
https://www.musiclifeclub.com/news/20210401_01.html
それにしても、1970年から50周年ということですから、時間の経過に驚きます。私が若い頃に聴いた音楽が次々と50周年を迎えるのですね・・・。

さて、前回と前々回で未消化の感じのあったベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859 - 1941)の続きです。たぶん、私の頭では一生かかってもベルクソンを理解できずに未消化で終わるのでしょうが、今回は篠原 資明(しのはら もとあき、1950 - )の書いた『ベルクソン ー<あいだ>の哲学の視点から』(岩波新書)を手引きにして考えていきたいと思います。

その本の内容に入る前に、ベルクソンの評価について気になることが書かれていましたので、先に取り上げます。ベルクソンというと、前にも書きましたがノーベル文学賞を受賞した名文家であり、その著書はきわめて散文的な書き方をしています。内容としては当時の最新の科学的な成果が含まれていても、印象としては文学的な思想家ということになります。文芸評論家の小林秀雄(1902 - 1983)がベルクソンについて言及していたこともその印象を後押ししますが、篠原はベルクソンの科学的な能力に注目して、次のように書いています。

形而上学といえば、今日では、まことに評判が悪い。形而上学の超克こそが、現代思想の課題であるかのように喧伝されているためか、形而上学に触れるだけで、時代遅れと決めつけられそうなほどだ。そんな中、20世紀にぬけぬけと形而上学を語った哲学者がいる。ベルクソンとホワイトヘッドである。いや、形而上学だけではない。彼らは、創造性を強調し、神と宗教を語ったのである。思えば、創造とは神の特権だった。しかし、創造性についての別の思考を提示することで、彼らは、神についての新しい考え方へと道を開いたのである。このように、創造性を考えなおすにあたって、二人が参考にしたのが、科学革命だった。ベルクソンの場合は、進化論に代表される生物学革命。ホワイトヘッドの場合は、相対性理論に代表される物理学革命である。
これに対して、形而上学を時代遅れと決めつける者たちが依拠する哲学者は、たとえばヘーゲル(1770 - 1831)であり、ニーチェであり、ハイデッガーであるだろう。ヘーゲルについては、ひとまず措く。1831年に亡くなった彼に、十九世紀なかば以降に展開した右記の科学革命のことなど知られようはずがなかったからだ。この点で、笑い話をひとつ差しはさませてもらいたい。学生のころ、ある哲学者がいっていたのだ。ヘーゲルがダーウィン(1809 - 1882)の影響を受けていたと。ダーウィンの『種の起源』の刊行が1859年だという基本的な事実も、当の哲学者の頭にはなかったのである。逆にいえば、そのような重要な科学的事実を知らなくても、いつのころからか哲学者として通用しうるようになったのだろう。ニーチェやハイデッガーについては、少なくとも科学的能力という点では、ベルクソンやホワイトヘッドに比べると、はるかに見劣りがする。にもかかわらず、哲学の世界でも、一般の世界でも、おそらく人気という点では、ニーチェやハイデッガーのほうが、はるかに上だろう。
さきほど笑い話といってしまったが、それは危惧材料でもある。ニーチェやハイデッガーの人気が、自然科学を知らなくてもついていけ、哲学論文も書きやすいというところに根ざすとすれば、どうだろうか。それを危惧するのは、ほかでもない、そのことが形而上学の不人気と深く結びついているように思われるからだ。
(『ベルクソン』「進化と痕跡」篠原資明)

何だか、痛いところを突かれた気がします。私はもちろん、哲学者ではありませんし、学識者でもありません。だから『進化論』をちゃんと読んだことがなくても、相対性理論をまったく理解していなくても仕方ないことですが、それらが科学の世界だけではなく、私たちの生活のすべてに影響しているということぐらいはわかっているので、自分の無知を後ろめたく思ってしまうのです。
そのついでに告白しておくと、哲学書や思想書の類を読むときに科学的な記述が出てくるとつい読み飛ばしてしまいます。ベルクソンの本もそうでしたし、現象学のメルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の本なども、意外と科学的な裏付けが多いので、その部分を読み飛ばしてしまいます。現在の科学はもっと発達しているだろうし、その時代の科学的な記述をじっくり読んでもあまり意味がないのでは・・・、などと都合のいい言い訳を捻り出したりもしているのです。
しかし、哲学者と言われる人たちが、それでいいはずがありません。それにベルクソンやホワイトヘッド(Alfred North Whitehead、1861 - 1947)が、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 - 1900)やハイデッガー( Martin Heidegger, 1889 - 1976)よりも科学的な能力が「はるかに上」だというのも興味深い話です。ニーチェもハイデッガーも天才的な学者なので、そんなことは超越しているのかと思いましたが、専門家から見ればそうではなかったのですね。科学的な知見が低い(?)彼らの本が読みやすく、ベルクソンやホワイトヘッドの本が読みにくい、ということが哲学者のレベルにおいても、あるのだとしたら問題です。
偉そうに書いてしまいましたが、私はホワイトヘッドの本を読んだことがありません。反省して、近いうちに読んでみることにしますが、文庫や新書で発行されるほどには親しまれていないようですね。古本屋で全集を探すことにしましょう。
それにしても『種の起源』の挿話は唖然とします。私のような無知で迂闊な人間なら時代考証が無茶苦茶だというのも当たり前の話ですが、哲学者がそれでは困ります。ベルクソンを見習ってほしいですね。
さて、本題に入ります。この『ベルクソン』という著作ですが、サブタイトルとして「<あいだ>の哲学の視点から」と付されています。この本の書かれた理由とそのサブタイトルについて、著者はこう書いています。

本書は、アンリ・ベルクソンを手がかりとして、冒頭の問いに大まじめにとりくんだ記録である。なぜベルクソンか。その理由は二つある。ひとつは、ほかでもないベルクソン自身が、この問いに答えることを哲学者としての使命と見なしていたからだ。もう一つの理由は、どのような<あいだ>が問題とされるかによって、冒頭の問いに対する答えも違ってくるということだ。その点で、ベルクソンは画期的な仕事をしたように思われたのである。本書のサブ・タイトルが示すのも、ほかでもない、そのことだ。
<あいだ>について、もう少し言葉を補っておこう。<あいだ>とは、たとえば過去と現在、生と死、人と人などの<あいだ>であり、わたしのいう<あいだ>は、扱う問題次第で、どんなものの<あいだ>をも指す。ともあれ、<あいだ>があるところでは、なんらかの交通が生起する。そして、それがどのような交通であるかに従って、当の<あいだ>のありようも違ってこようし、そもそも、どのような<あいだ>が想定されるかに応じて、そこで生起する交通のありようも区別されよう。そのような基本観念のもとに、わたしは、自分の立場を、あいだ哲学と交通論と呼び、ささやかながら思索を展開してきた。この立場自体、ベルクソンを出発点とするものだったが、この立場を展開するうち、めぐりめぐって、ふたたびベルクソンにたどりついたのである。
(『ベルクソン』「はじめに」篠原資明)

ここで書かれている「冒頭の問い」というのは、次のようなものです。

われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか。この問いは、ゴーギャン(1848 - 1903)による名画のタイトルとしても知られる。
(『ベルクソン』「進化と痕跡」篠原資明)

後期印象派の画家、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の有名な作品については、皆さんご存知だと思いますが、一応リンクを貼っておきます。
http://www.art-library.com/gauguin/where-do-we-come-from.html
この問いは、宗教的な問いと結びついてしまうことと、たいへんに困難な問いであることから、哲学者が距離を置いてしまうと篠原は言います。その困難な問いに答えることを「哲学者としての使命と見なしていた」のが、ベルクソンだというのです。そして、この問いが「あいだ」という概念と深く結びついていることから、この本のサブ・タイトルが「<あいだ>の哲学の視点から」になったというのです。しかし、こんなことを急に言われても、なんのことだかさっぱりわかりません。順を追ってみていきましょう。
まず、「われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか。」という問いですが、これは私たちの存在そのものを問うている問いだと言えます。そして西欧では、この問いはキリスト教の教義と深く結びついているのです。この世界は神によって「無」から創造されたのだ、という教義です。この時に「存在」と「無」という概念が対比的に生成されたのです。ですから、「存在」と「無」という存在論の基本的な問いに答えるためには、「われわれはどこから来たのか」という問いかけに正面から向き合わなければなりません。私たちは神から創造されたものではないとしたら私たちはどこから来たのか、何ものなのか、という問いに答えなくてはなりません。しかし、現代に至るまで、哲学はその問いに向き合わずに来てしまった、と篠原は言います。

20世紀の存在論の代表的哲学者、たとえばハイデッガーは、死との関係から、またたとえばサルトル(1905 - 1980)は、イマージュの分析をとおして、それぞれ、われわれの存在に無が入りこむありようを鋭く分析してみせはした。しかし、彼らにしたところで、われわれはどこから来たのかという問いに答ええていない。それは彼ら固有のというよりは、ある時期以降の大半の哲学者たちに固有の無能さに起因する。いや哲学者たちというよりは、現代固有のというべきかもしれない。それは、自然科学への無知と関わってくる。問題は、専門的知識の有無ではない。当の科学者自身ですら、細分化された専門分野以外については、無知であるほかないという状況が、すでに20世紀に成立してしまっているからだ。
(『ベルクソン』「<あいだ>と生成」篠原資明)

「自然科学への無知」と書かれるとドキッとしますが、これは個人的な問題ではなくてこの時代全体の問題だとも書かれています。それでホッとしていいわけではありませんが、それでは一体どうしたら良いのでしょうか。その鍵を握るのがベルクソンの哲学だということなのです。どうしてそうなるのかといえば、それが著者の提唱する「あいだ」の哲学と関連しているのです。
まずは「あいだ」の哲学が、「存在」と「無」に引き裂かれた普遍的な問題と、どのように関わってくるのでしょうか。篠原はこう書いています。

まず、存在と無との<あいだ>には、途方もない隔絶があるわけだから、そこにはいかなる交通も起こりえないように思われる。いいかえれば、そこには反交通しかないように思われるのだ。しかし、無に存在が賦与されることで、世界が生成した。すなわち、無からの創造がおこなわれたのである。そこには、存在そのものを無へ贈与するというかたちでの一方通行しかありえない。一方通行的な交通を単交通と呼ぶならば、単交通的な生成しかありえないのである。無から創造されたかぎりにおいて、世界とは存在と無との混在であり、存在そのものとしての神との間には、反交通が残り続けよう。世界から神への道は、ある意味では遮断されているからだ。
(『ベルクソン』「<あいだ>と生成」篠原資明)

「存在」と「無」の問題を考えるとき、その両者の間には「途方もない隔絶」があるのだと、篠原は書いています。そして、その両者の間を結ぶ交通は断絶している、もしくは「無」から「有(存在)」への一方通行でしかないのだ、と言うのです。
ここで私たちは、前回までに確認したベルクソンの哲学を思い出してみましょう。ベルクソンは心身の二元論を乗り越えようとした人でした。彼は「精神」と「身体(もの)」との間に「イマージュ」という中間項を設定しました。そのイマージュは過去から送り出されてくる「記憶」によって、アクティブに現れてくるものです。その様を篠原はこのように書いています。

すでに述べたところからも、ある程度うかがえるとおり、ベルクソンは、物質を徹底して運動の相のもとに理解しようとする。これは、通常の物質のとらえ方とは食いちがう。というのも、科学のとらえ方を含め、通常は、物質について、それ自体は動かないなにものかを、想定してしまうからだ。物理学でいう素粒子にしても、同様である。物質の最小の構成要素とは、それ自体は不動のものと見なされているからだ。これに対してベルクソンが主張するのは、まさに動くものなき動きそのものなのである。
わたしたちが、運動の基体として、どうしても不動の物体を想定してしまうのには、いくつかの理由が考えられるだろう。まず、なんであれ、あるものに働きかけようとするなら、対象を固定したものと見立てた方が、働きかけやすいという、行動上の便宜がある。たとえば、走る獣を銃で撃つとしよう。その場合、走る動物を動くものなき動きそのものと見るよりは、走る動物のそれ自体は動かない体にねらいを定めたほうが、はるかに射止めやすいのは明らかだ。
さらに深い理由として、知性の根強い習慣がある。知性は、固定し、分解し、再構成するという手続きを踏む。なにを対象とするにせよ、まずは、それを固定したものと見立てずには置かない習性をもつのである。この習性をベルクソンは告発しつづけた。
(『ベルクソン』「<あいだ>と生成」篠原資明)

ここにおいて、ベルクソンという哲学者の特徴があらためて浮き彫りになったと思います。前回までで確認したことですが、ベルクソンには「時間」や「空間」を等質なものと見なす近代科学的な考え方を見直して、それらを「持続」したものとして捉えるという独特の思想を持っていました。そして今回の篠原の指摘から、そこには「物質」を「運動の相」において理解する、という姿勢がその根底にあったことがわかりました。
これを私の興味に引き寄せて考えてみます。モダニズムの絵画は、ここに書かれている「物質」の捉え方と同じ考え方で成立しています。描かれた画面を静止したものとして認識し、それを分析して発展し続けてきたのです。しかしそれでは、私たちが生きていることの実感を表現したことになりません。モダニズムの絵画においては、結局のところ完全に静止した平面性へと至ることが正しいと思われてきたのです。ここに欠けているのは、まさにベルクソンが言っている「運動の相」のもとに理解する、という視点です。私は、このベルクソンの教えのもとに、もう一度絵画表現というものについて考え直さなくてはなりません。どうか、今後の私の探究に注目してください。
さて、ベルクソン自身はその後、その独自の思想からどのような発展を遂げたのでしょうか。篠原のこの著作では、ダーウィンの『進化論』がその鍵となります。次の文章を読んでみてください。

すでに触れたとおり、ベルクソンは、19世紀以降の進化論の特徴を、分岐モデルのうちに見た。生命が枝分かれして進化していくという考え方のうちに、この進化論の新しさを見たのである。これに対して、アリストテレスに端を発する古い考え方は、一直線的な進化モデルをとっていた。この考え方では、方向が違うものを、同じ方向で順ぐりに展開するものと見たのである。『創造的進化』二章から、ベルクソン自身の言葉を引こう。原文では、すべてがイタリック体で強調されている。

アリストテレス以来、継承され、ほとんどの自然哲学をそこなってきた主な誤りがある。それは、植物的生、本能的生、理性的生のうちに、ひとつの同じ傾向が展開していく相つぐ三段階を見るという誤りだ。ところが実のところ、それらは、ひとつの活動が成長につれ分裂していく三つの分岐方法なのである。

ひとつの同じ傾向が展開したものと見るならば、知性的な存在、すなわち人間を調べれば、それ以下の存在のことは、すべてわかる。人間以下の諸存在は、人間に備わっているものを、何か欠いた不十分な存在でしかないからだ。では、ベルクソンが呼応しようとした分岐モデルでは、どうなるのだろうか。このモデルを理解しようとするなら、分岐を、痕跡と横断という概念と組み合わせてみる必要があるだろう。
(『ベルクソン』「進化と痕跡」篠原資明)

この文章を読んで驚くのは、ベルクソンの思想についてではなく、ベルクソンが問いかけた「アリストテレス以来」の哲学的認識の方です。生命の進化を「植物的生、本能的生、理性的生」という「相つぐ三段階」の進化として見なす、と書かれていますが、この考え方は明らかに人間を世界の中心的な存在と見なす、誤った考え方です。しかし、私たちの現在の科学的な思考はこのような古い誤りの上に築かれたものらしいのです。
そういえば以前にもこのblogで、私たちの依拠する哲学や思想が男女差別が当たり前であった時代に生まれたものであったこと、その当時の高名な思想家たちでさえ差別意識から逃れられなかったことを確認しました。
そして今回の場合も、人間が直線的な進化の頂点にいる、という差別意識の土台の上に私たちはいるらしいのです。これに比べると、人間の進化を単なる分岐の結果だと見なすベルクソンの思想が間違いなく妥当であると思います。
さて、このように科学的な態度を重んじるベルクソンですが、意外なことにこの本の後半で彼が宗教的な神秘主義と結びついていることを篠原は指摘しています。ベルクソンの神秘主義は、この本の最初の「われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか」という宗教的な問いに彼が正面から向き合ったことと関連しているのです。次の篠原の解説を読んでみてください。

われわれはどこへ行くのか。この問いに対して、かつては、神あるいは仏のもとへ、問いう答えが用意されていたように思われる。しかし、いつのころからか、神仏のもとへ、といいにくい風潮ができてしまった。このような風潮そのものが、実のところ、受け入れがたく思われるのだ。なぜかについては、すでに述べておいた。われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、という問いに、科学革命に呼応しつつ答ええた哲学者のみが、われわれはどこへ行くのかとの問いに答えうるのだ。その名に値する哲学者は、実のところ、まことに少ない。19世紀以降で見れば、ベルクソンとホワイトヘッドという二つの峰を除けば、ほんの数えるほどだろう。そして、ベルクソンもホワイトヘッドも、それぞれのやり方でではあるが、神仏のもとへ、という答えを用意してくれたように思われるのだ。ここでは、その事実をせめてもの拠りどころとして、現代思想をおおう右記の風潮については、ひとまず度外視することにしよう。
神仏のもとへおもむくにせよ、問題は、そのおもむき方をどう考えるかだ。これについては、古来、大きく二つの考え方が用意されて来たように思われる。ひとつは、いつか遠い未来に、という考え方で、キリスト教に代表されるタイプ。いまひとつは、いつでも、という考え方で、密教に代表されるタイプである。前者をタイプ1、後者をタイプ2と呼ぶとして、タイプ1は、キリスト教でいうならば、いつの日か訪れる最後の審判により、選ばれた人だけが神のもと、すなわち天国へ召されるとするだろうし、タイプ2は、密教でいうならば、即身成仏を、すなわち、この身に即して仏になれると、説く。当然のことながら、ここでいう成仏とは、単に死ぬことではない。
(『ベルクソン』「神秘系と機械系」篠原資明)

このように科学的な思考と宗教的な問題意識がベルクソンとホワイトヘッドの間では自然と結びついているようなのです。この点について事細かに読み取っていく余裕がありませんが、この本の結びのところでこの問題についても大まかにまとめてありますので、それを書き写しておきましょう。

われわれは何であるのか。われわれは、ありなし間から来た、直線的進化の頂点としての人間ではない。われわれは、いまかつて間から来た、分岐的進化の一先端としての人間であり、他の進化線の痕跡に横断されたものとしての人間である。知性的生命体として、人間は、機械や道具を作り使うホモ・ファーベルでありながら、本能の痕跡に横断されたものとして、物語る生命体でもあり、芸術というかたちで知覚の拡張へと開かれた生命体でもある。そのかぎりで、開いた動対応への途上にあるもの、それが人間である。
開いた動対応への途上、それが、開いた社会への途上となるとき、われわれは、すでに神仏への途上にあるとともに、すでに神仏の世界にいる。なぜなら、神仏とは、愛そのものであるとともに、創造的エネルギーそのものでもあり、そういった意味での神仏こそが、閉じた社会を踏みこえた人類愛を創造させ、開いた社会を生起させるからである。神仏の世界が、あの世だとすれば、開いた社会とは、この世のただ中の、あの世であり、すなわち、密厳浄土である。
ただ、開いた社会は、完全なかたちでは存在しえない。人間社会の進歩は、機械系と神秘系の二重狂乱というかたちで行われる。機械系が、閉じた社会のためにのみ進行しないよう、微妙な舵とりを人間は運命づけられているのだ。神秘系を忘れないこと、それが、開いた社会が、とびとびにながら実現されていく、最低限の条件であろう。それは歴史マンダラというかたちで、神仏が生成していく道でもある。人間は、神秘家を生みだすかぎり、そして内なる神秘家を感知するかぎり、そのような神仏の生成とともにあるのであり、また、それこそが生命体として生きつづけうる道なのである。人が即身成仏するとは、つまるところ、そのような意味でなのだ。
(『ベルクソン』「おわりに」篠原資明)

西欧の偉大な思想家、ベルクソンに関する解説書とは思えない結びの文章ですが、ここでなぜ「神秘主義」が語られているのか、考えてみなくてはなりません。一見、科学的に見える現代の思想の多くが、実は人間を特別扱いにする「直線的進化」の誤った信仰の上に成り立っている、ということを私たちは認識しなくてはなりません。そして自分の成り立ちを客観的に、科学的に見れば見るほど、私たちは「知性的生命体」でありながらも「本能の痕跡に横断されたもの」であることがわかるのです。
そして私たちの社会が「開いた社会」だとするならば、それはまだ「途上にある」ものなのです。私たちは「機械を操作する」存在であるが故に世界全体への影響力が大きく、そのために「微妙な舵とり」をこなさなくてはならない運命にあるのです。私たちはだからこそ、そこで過ちを犯さないために「科学主義」だけではなくて、「神秘系」の認識も忘れてはならないのだと、篠原は言っています。
このように、どちらの方向へも突っ走ることができない私たちは、そんな自分自身の存在をときに歯がゆく思い、あるいはそんな世界のありようを難解なものだと思ってしまうこともあるのかもしれません。しかし逆に言えば、私たちにはどちらの思想にも飲み込まれることなく、私たちの判断を行使できる「自由」があるのです。どうやらベルクソンは、その「自由」の重要性を言い続けた思想家であるようです。そして彼の絶大な影響を受けたのが、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)であったようですが、私はそんな文脈を理解しないままにドゥルーズの本を読んできました。反省して読み直さなくてはなりません。それから、ベルクソンと同様に重要な思想家として何度も名前の出てきたホワイトヘッドのことも気になります。
実はベルクソンの本を読む前から予感していたことですが、その予想通りにベルクソンからはいろいろな宿題をもらいました。そして私の予想を遥かに超えて、ベルクソンは私たちの探究すべき方向性と、深く結びついていました。ですから今後も、私のペースでゆっくりと彼の思想に取り組んでみることにします。

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