平らな深み、緩やかな時間

419.『パーフェクトディズ』『ルイーズ・ブルジョワ展』『坂本龍一 | 音を視る 時を聴く』について

皆さまへお願いがあります。

私の旧ホームページが7月でサーバー停止となります。つきましては新しいサーバーに移行しました。もしも私のホームページのアドレスを登録されている方がいらしたら、次のアドレスへの変更をお願いします。お手数をおかけしてすみません。

https://ishimuraminoru.web.fc2.com/

さて、本題に入ります。

 

遅ればせながら、映画『パーフェクトディス』を見ました。

映画の内容も、評判も、もう出尽くしている感じがしますが、聞いていた通り、良い映画でした。単調なストーリーなのだろうと覚悟していましたが、思ったよりも次々と物語の展開があって、ああ、ここで終わっちゃうの?という感じでした。

そして、ピーター・バラカンさんのラジオで聞いていた通り、音楽の使い方がとても効果的でした。

 

前評判が高かったのは金延幸子さんの『 青い魚』です。

 

https://youtu.be/YHGjp8csyD0

 

作詞作曲は金延さん本人ですが、編曲とベースギターは細野晴臣さん、ギターは鈴木茂さん、ドラムスは林立夫さんという最強のメンバーです。

 

それから、ヴィム・ベンダース監督はルー・リード(Lou Reed、1942 - 2013)さんがお好きなのでしょうか?「The Velvet Underground」の曲と合わせると2曲使っています。

私はルー・リードさんのファンではありませんし、昔購入したアナログLPの『ベルリン』(Berlin)も、とっくに手放してしまいました。ルー・リードさんはミュージシャンというよりは、詩人としての才能があるのだと私は思います。

映画のタイトルともリンクする『Perfect Day』は、はじめの一節がこの映画の雰囲気と似ているでしょうか・・・。

 

Just a perfect day


Drink Sangria in the park


And then later, when it gets dark


We go home

 

https://youtu.be/9wxI4KK9ZYo

 

このあと、歌詞はどんどん狂おしいような内容に進んでいきます。

 

他の曲も、どれも好きですが、とりわけ最後のニーナ・シモン(Nina Simone、1933 - 2003)さんの『Feeling Good』が、この映画の中でとても説得力のある使われ方をしていたと思います。

 

Birds flying high, you know how I feel


Sun in the sky, you know how I feel


Breeze driftin' on by, you know how I feel

 

It's a new dawn
It's a new day


It's a new life for me, yeah

 

https://youtu.be/oHRNrgDIJfo

 

この映画の主人公のように、日々の仕事を大切にし、何気ない生活の中にささやかな楽しみを見つけて生きている人が、たくさんいらっしゃると思います。自分自身を平山さんに投影して映画を鑑賞された方も多いと思います。

私もそうです・・、と言いたいところですが、私は平山さんほど立派な人間ではないですね。

それから、ホームレスの田中泯さん、写真屋の柴田元幸さん、バーの客のあがた森魚さんなど、見逃してしまいそうなところで有名な方が出演していました。東大名誉教授で翻訳家の柴田さんは、本物のエキストラで出演した町の写真屋さんのようでしたね、お見事でした。



それでは、ちょっと駆け足になりますが、年末に見た展覧会のうち、『モネ展』をのぞく残り二つの展覧会の感想をかんたんに書いておきます。



『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』

2024.9.25(水)~ 2025.1.19(日)事前予約制

会期中無休

森美術館(六本木ヒルズ森タワー53階)

https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/bourgeois/index.html

 

会期末で、これから出かける方は混雑の具合が気になりますよね。

事前予約制ですが、年末の平日に私が行った時には混雑はそれほどではなく、当日券でその時間のチケットを購入することができました。

ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois, 1911 - 2010)さんは、フランス出身のアメリカの美術家です。作品形式はインスタレーション、彫刻、絵画、版画と多岐にわたります。もう、亡くなってから15年が経つのですね。迂闊なことに、私はブルジョワさんの作品をまとまった形ではじめて見ました。

 

率直な感想を書いておくと、展覧会はとても見ごたえがあったのですが、それは例えば前回のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんの作品を見るような意味での見ごたえとは、ちょっと違います。モネさんの場合は、モネさんの作品の造形性や芸術性がモダニズム美術の中でしかるべき位置を持ち、さらに私から見るとそれを超えた価値があると思ったのですが、ブルジョワさんの場合は、そのような造形芸術の流れの中からは外れた位置に存在するような気がするのです。

そう思っていたら、今年の3月の『美術手帖』の記事に、美術史家の中嶋泉さんの次のような記述を見つけました。

これは国立国際美術館で開催された「コレクション2 身体———身体」という展覧会で、美術館に新収蔵されたブルジョワさんの『カップル』を中心に考察した記事のようです。

 

国内初公開のブルジョワの《カップル》は、それまで主に大理石や金属、木材を用いてきたブルジョワが、1990年代になって取り入れた「布」で形成されている作品である。アーティストとその家族の古着を着せられ、頭部と下半身を持たない二つのトルソが、互いに腕を回し、床に転がされている。彫刻という領域では伝統的に、身体を台座のうえに垂直に立ち上げり、統合された人間の体として示してきた。しかし衣服につつまれ、ガラスケースのなか横たえられたこれらの抱き合う胴体は、人間的な量感や肌触りを思わせるいっぽうで、愛情や親しみの記憶ばかりでなく動物的な暴力性をも仄めかしている。

https://bijutsutecho.com/magazine/review/promotion/28662

 

この作品の素材と形体の斬新さには驚かされますが、それは今回の展覧会でも同じです。ブルジョワさんの作品が、なぜ「愛情や親しみの記憶ばかりでなく動物的な暴力性をも仄めかしている」のかと言えば、それは彼女が幼少期に目撃した父親と家庭教師の関係から受けたトラウマが表現されてるからだそうです。

そして中嶋さんは、このようなブルジョワさんの作品から、次のように考察を進めています。

 

伝統的芸術ジャンルとしての彫刻は、女性の身体を、統一的で破綻のない近代的身体の象徴として、公共空間に差し出してきた。リンダ・ニードは1990年代、女性ヌードの形式化の原理が「包摂=抑制(confinement)」にあり、それが自己と他者の関係の「分割と秩序づけのプロセス」であることを論じている。彫刻の女性アーティストが、他者の身体とされてきた女性の身体を表すために、自分の経験に立ち戻ったことに不思議はないだろう。彼女たちは、女性たちをかたどってきた伝統的素材や形式、同時代ミニマリズムの均質性に反発するかのように、皮膚や肉体を思わせるような素材や、有機的形態、変則的展示方法を取り入れた。

 

ここで中嶋さんが言うところの「伝統的芸術ジャンルとしての彫刻は、女性の身体を、統一的で破綻のない近代的身体の象徴として、公共空間に差し出してきた」というのは、例えばマイヨール(Aristide Bonaventure Jean Maillol, 1861 – 1944)さんやヘンリー・ムーア(Henry Spencer Moore, 1898 - 1986)さんの手がけたモニュメンタルな女性ヌード像に象徴されるような彫像のことでしょう。これらの伝統的な彫像に加えて、「同時代ミニマリズムの均質性に反発する」というのですから、ミニマル・アートの工業製品のような作品をも否定する、ということです。

それがブルジョワさんの、例えば布のはりぼての、人体としてみなすには不完全で奇妙な作品につながる、ということなのでしょう。これは、このblogでも再三触れているモダニズム芸術の乗り越え、もしくはモダニズムが拾い損ねてきた人間の可能性を見直す試みにもつながる動向だと思います。

これらの作品を鑑賞することは、私たちが思い描く美術鑑賞とは少し異質なもの、例えば心地よく、美しく、心豊かになるものではなく、見るのがつらくて、心が痛むような体験であるかもしれません。しかし、私たちが見てきた美しさが、何かを抑圧することで得られてきたものであるとしたら、それを正視しないわけにはいきません。

 

そして私はブルジョワさんという作家の中に、一般的な造形性ではとらえられない大きな表現欲求を感じます。このような欲求を抱えた作家は、モネさんとは異なる意味での才能を持っているのだと思います。

晩年まで飽くなき表現欲求をあらわにしたブルジョワさんに負けないように、私も年齢とは関係なく創作欲求を持っていたいものだと思います。




『坂本龍一 | 音を視る 時を聴く』

2024年12月21日(土)- 2025年3月30日(日)日時指定なし

休館日;月曜日(1月13日、2月24日は開館)、12月28日~1月1日、1月14日、2月25日

東京都現代美術館 企画展示室 1F/B2F ほか

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/RS/

 

この展覧会は、2023年に亡くなった音楽家の坂本龍一さんが、1990年代からさまざまなアーティストと協働して作ってきた展示空間を再現し、紹介したものだそうです。

内容的には、通常の美術展のように歩き回って見るものではなく、多くの作品が一定の時間、その部屋に佇んで動画などの展示を見ながら音楽を聴く、というものです。できれば、あまり人のいないときに、気ままに座ったり、立ったり、歩き回ったりして鑑賞したい展覧会です。残念ながら、私が見に行ったとき(年末の平日の午後)には、混雑というほどではありませんでしたが、ゆったりと見たり、聴いたり、というわけにはいきませんでした。私は腰痛もちなので、ちょっとつらかったです。

 

さて、作品の中には音を何とか視覚化しようという試みも見られました。

これは古くはウォルト・ディズニー(Walt Disney、1901 -1966)がアニメーションを作り始めたころからの夢だったのではないでしょうか?

私はそんなことを連想しました。そして、その最も先鋭的な例は、1940年に公開された『ファンタジア』( Fantasia)という映画でしょう。

 

Fantasia - Trailer #12 - 1990 Reissue (35mm 4K)

https://youtu.be/eD8U083gQmY?si=5h51gfI2PohjbdEj

 

その中でも、地味ですけど最初のヨハン・ゼバスティアン・バッハ( Johann Sebastian Bach, 1685- 1750)の『 Tocata y Fuga』に合わせたアニメーションが、音楽の視覚化にもっとも果敢に挑んだ例だと私は考えています。

 

Fantasía: Tocata y Fuga (Johann Sebastian Bach)

https://youtu.be/z4MQ7GzE6HY?si=PB-OqsEqncz28Ait

 

この作品は、アニメ制作者の頭のなかで浮かんだ音楽の映像をアニメ化したものです。

私が今回の坂本さんの展覧会で感じたのは、このディズニーのアニメの後の時代の人たちは、何とかこの空想的な音と形の映像化を、コンピュータなどを使って、もっと確からしいものにしようとしたのではないか、と思うのです。しかし、私の知る限りでは、『ファンタジア』の試みの上を行く例は、なかなかないと思っています。

 

おそらく美術と音楽との相関関係は、密接な何かがそこにありそうではあるのですが、いざ、それを表現に結びつけようとすると、確かな手がかりがないのです。

そのことに言及した例として、前回取り上げた評論家の小林 秀雄(こばやし ひでお、1902 - 1983)さんの『近代絵画』(1958)を読み直してみましょう。

前回も取り上げた、モネさんに関する章です。

 

それと言うのも、光も波だし音も波である限り、波の性質には、共通なものがあるが、これを感受する眼と耳との性質が全く異なるというところに、非常な難点があったからだ。耳が一定の範囲の音波を聞き分けるという場合、耳は、一つ一つの異なった波長の波に対して正確に応ずる様に、言わば、極めてよく整調された分離性のいいラヂオ受信機を幾つも用意して待ち構えている、そういう構造に出来ている。従って、和音は、理論的にも感覚的にも和音なのである。耳は、合成音が、異なる振動数を持つ音から成り立っている事を聞き分ける。音楽を聞く楽しみとは、聞き分ける楽しみである。一つの音が鳴ってもそうだ。耳が全く分析出来ない様な、音叉の純粋音なぞ一向に楽しくない筈だ。どんな楽器の基音も、その様々な倍音を含んで鳴るのであって、例えば、ヴァイオリンが、その音色の点で、非常に優れた楽器であるのも、この楽器の基音は、大変豊かな又均斉がとれて分布する倍音をふくんでいる事を、耳は多かれ少なかれ分析的に感じ得るからである。これが協和音一般の基本を成している事は申すまでもない。勿論、耳は協和音と不協和音とを鋭く分離して快不快をかずる。ところが、眼が光の波を感受する場合には、まるで違った事が起こるので、眼には混合した色の波を、分離して感ずる能力がない。混合した色は融合色として感じられる。光波を受ける眼の受信機は、耳の様に整備されていない。

(『近代絵画』「モネ」小林秀雄) 

 

これは、モネさんが「視覚混合」の理論通りに描こうとしてもうまくいかなかった、ということを言いたいために、小林さんは聴覚と視覚のちがいについて言及しているのです。

例えば私たちは、ヴァイオリンの音色を他の楽器の音と聞き分けることができるし、その一音一音が合わさって美しい和音になっていることを聴いて認識することができます。ところが視覚にとっての色彩は、光の波が合わされば、合わさった色としてしか認識できないので、音楽の和音にあたるような美を認識できないのです。だから美術は音楽のように、理詰めではうまくいかないのだ、というのが小林さんの理屈です。

おそらく小林さんは、作曲家が楽譜上で和音や楽器の音色を理論的に操作できるようには、絵を描くことはできない、と言いたいのでしょうが、これはかなり怪しい理論です。そもそも比較する事象が適切でない様な気がします。

しかし小林さんが、美術と音楽では受容する感覚器官の性格が異なるのだ、ということを懸命に考えて答えを見出そうとしている事には共感出来ます。

 

そして、このような理屈にも関わらず、小林さんはモネさんの絵画の前で音楽を想起せざるを得ない自分に気が付きます。視覚と聴覚は違うのだと、これほど強調したのに、モネさんの絵の前で、なぜ音楽を思い浮かべてしまうのか・・・。

そこから、小林さんはさらに次のようなわかりにくいことを言い出します。

 

点描主義者は、色のオルガンを作ろうとする技師のように失敗した。併し、印象主義者によって解放された光の新しい意識は、画家達を、今迄はっきり感じた事のない、音楽と絵画との相関関係の意識に導いた事は否めない。光を浴びた「ルアンの寺院」は、時刻によって、化物の様に姿を変える。時刻によって、大気の裡に、オレンヂとか青とかの主導的な色があらわれるのであるから、風景を描くとは、この主導的な色彩の反映を展開させる事だ。それは丁度音楽家が、ソナタの或るテーマを展開させるのと同じ性質のやり方である。従って、音楽家にとって、音楽の観念とは音のハーモニーを持った展開自体を指す様に、画家にとっては、絵の観念即ち色の展開である。はっきりした表現の対象を持たぬ音楽家には、そういう音自体が意味を持っているという考え方は自明で自然な事であったが、画家は、色自体が意味を持つという考えには慣れていなかった。光は物象を壊しはしないが、光の壊れ方を追求する絵かきの視覚にとっては、物象は次第に壊れて来た。この事が、音楽家が音を考える様な具合に、画家が自ら色を考える様になる大変好都合な条件になった。

(『近代絵画』「モネ」小林秀雄) 

 

なぜ、小林さんはモネさんの絵に音楽的なものを感じたのでしょうか?

それは小林さんが、モネさんの絵のなかの色彩に、それが寺院であるとか、積み藁であるとかという物象(形象)ではなく、そこに抽象的な色のハーモニーを感じたからだ、と彼は気づいたのです。

そして、画家はそのような色のハーモニーを感じ取ったときに、そのハーモニーを表現しようとして、寺院や積み藁の形象を壊していったのだ、と小林さんは考えました。そのことを小林さんは、「光の壊れ方を追求する絵かきの視覚にとっては、物象は次第に壊れて来た」というふうに、あたかもそれが自然現象であるかのように解説しているのです。このような現象は、視覚と聴覚の相違を超えて、自然現象のように湧き起こることなのだ、と言いたいのでしょう。

これを小林さん特有の強引な理屈である、と見過ごしてもよいのですが、私は音楽と美術の双方に深く魅入られた小林さんが、モネさんの絵を前にして、どうしても音楽を語るように語りたくなったのだ、と考えます。そして、そんな小林さんの気持ちに共感するのです。

どうやら芸術の世界に深く分け入ると、文学、音楽、美術というふうに、ふつうなら分野ごとに理路整然と表現したり、語ったりすればよいのに、人はどうしてもそれらを超えたところで語ったり、表現したりしたくなるのです。

 

さて、この音楽と美術を融合し、表現したり、語ったりしたい衝動は、現代においては坂本龍一さんのなかにも宿っていたようです。このような試みの難易度は高いものの、坂本さんが亡くなった後も、きっと誰かによって同様の試みが続いていくのだと思います。そういえば、ジャズの大友良英さんも、同じようなことを試みていますね。

そして私も、自分の絵の中にリズムやハーモニーを感じたりすることがありますし、美術を語るうえでほかの芸術の分野で感受したり、勉強したりしたことを生かしていきたい、という思いを持っています。今のところは、漠然といろんなことを手当たり次第に見聞きしているだけですが、いつかは具体的な形にしてみたいものです。

 

そして、この展覧会を見ると、坂本龍一さんは何でもできた人のように思えますね。

しかし最近、『音楽は自由にする』という坂本さんの著書を読みましたが、ここでは天才的な音楽家ではあるものの、さまざまな音楽との出会いに驚き、悩み、楽しむ等身大の坂本さんが記録されています。坂本さんは私よりも少し上の世代の方ですが、高校時代は私と似たようなところをうろうろとしていたようで、ちょっとうれしくなりました。興味がある方は、ぜひ読んでみてください。

 

最後になりますが、もしもこれから坂本龍一さんの展示をご覧になるなら、天気の良い日に出かけられるとよいと思います。それから、少し濡れてもよいように、しっかりと防寒して行きましょう。最後の「坂本龍一+中谷芙二子+高谷史郎《LIFE–WELL TOKYO》霧の彫刻 #47662」は、せっかくですから霧の中に入らないともったいないです。

雲の上にいるような気分を味わえますよ!

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