平らな深み、緩やかな時間

301.『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』、クロスビー追悼

はじめに事務連絡です。

3月13日から、東京・京橋のギャラリー檜で個展を開催します。

展覧会の案内状を次のサイトからご覧になれます。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

上記のページに書かれているギャラリーの「3月の予定」を見ていただくか、私のホームページの「pdfファイル」を見ていただくか、いずれの方法でもOKです。

展覧会では、案内状とは別に、いつものようにパンフレットを用意したいと思っています。ちょっと事前に配布するのには間に合いませんが、会場には無料でおくつもりです。内容はこのblogで最近書いていることをまとめたものと、作品の写真です。それもblogやホームページでご覧になれるようにするつもりですが、お時間が許すようでしたら、ぜひ実物の作品を見てください。テーマが「触覚性絵画」なので、その「触覚性」は本物の作品を見ないと実感できないと思います。ということで、よろしくお願いします。

 

それから、また有名な方の訃報です。

デヴィッド・クロスビー(David Crosby、1941 - 2023)さんが、少し前に亡くなりました。アメリカのミュージシャン、シンガーソングライターで、バーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ & ヤング(通称:CSN&Y)などのバンドでの活動が有名でした。つい最近まで、レコードを出したり、ライブをやったり、という情報があったので、80歳を越えても健在だな、と思っていました。だから、ちょっとびっくり、そして残念です。

バーズでもCSN&Yでも、どちらかと言えばシュールな雰囲気の前衛的な、あるいはちょっと渋い曲を作る人でしたが、最近の曲をラジオで聴くと、アメリカのルーツ音楽の要素も適度にブレンドされていて、私にもやっとクロスビーさんの味わいがわかってきたのかな、と思っていたところでした。

クロスビーさんの長い音楽活動の中で、動画で見ることのできる代表的な曲のリンクを貼っておきますので、もしも若い方でクロスビーさんをご存知ない方がいらしたら、聞いてみてください。アーティスティックな味のある方なので、美術の愛好家の方にもおすすめです。

https://youtu.be/4Il9q397lL0

https://youtu.be/LPvOTVVbMko

https://youtu.be/CVW9sOsXAjU

https://youtu.be/TwiTRGKFmpI



さて、今回は前回の最後に触れた『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』についてです。著者のアントニオ・ダマシオ( Antonio Damasio 、 1944 - )は、ポルトガル系アメリカ人の神経科学者です。科学系の人ですが、人間の感情の問題まで解き明かそうとしていることから、哲学者についても言及しているようです。私は読んでいませんが、『デカルトの誤り: 情動、理性、人間の脳』(田中三彦訳、ちくま学芸文庫、2010)という本も出していて、そこでは合理主義者で近代哲学の祖と言われるルネ・デカルト(René Descartes、1596 - 1650)の心身二元論を批判しているようです。逆にデカルトより少しあとの哲学者、スピノザ(Baruch De Spinoza 、1632 - 1677)については高く評価しているようで、それがこの本となって結実しているのだと思います。

ただし、物質としての「脳」がどのように「感情」を生み出すのか、そこには当然のことながら難しい問題があるようで、その科学的な知見をスピノザの哲学と結びつけることについても、いろいろと異論があるようです。しかし、科学者でもない私にとっては、たとえ推論の域を出ないものであったとしても、科学と哲学のだいの部分がもっとも聞きたいところです。けれども、この本の内容は一般的な人向けのはずなのですが、私のような素人以下の人間には難しく、科学用語に関してはチンプンカンプンですが、とにかくダマシオさんの言いたいことの趣旨を読み取って、芸術の分野で参考になることがあれば取り上げていきます。

内容の理解が不十分であったらごめんなさい。

 

さて、この本の中で、私のように科学的な根拠はともかくとして、手っ取り早くその論旨を知りたい人間にとって、コンパクトに内容をまとめた部分がなかなかありません。そこで翻訳者の田中三彦さんの「訳者前書き」の文章を読んでみましょう。

まずはダマシオさんに関する紹介です。

 

ダマシオは1944年にポルトガルのリスボンに生まれ、リスボン大学で医学を学び、医師の資格と学位を取得し、その後アメリカに渡ってボストンの「失語症研究センター」で著名な神経学者ノーマン・ゲシュヴィンセントの指導を受けて認知神経科学の研究に取り組んだ。その後母国の大学病院に戻ったが、ふたたび渡米してアイオア大学で臨床と研究に就き、近年はアイオア大学神経学部のいわば看板教授として大活躍していた。

(『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』「訳者前書き」田中三彦)

 

この後、ダマシオさんと夫人のハナ・ダマシオさんは南カリフォルニア大学(USC)に移ったそうです。夫人も神経学部の教授で、脳の画像化研究で知られた人だそうで、この夫妻のためにUSCは新しい研究所を用意していたそうです。

次にこの本で示されている重要な概念について、押さえておきましょう。田中三彦さんは、先ほど私が触れた『デカルトの誤り』の内容を紹介しながら、ダマシオが提示する三つの概念について説明していきます。

 

鉄道のし敷設工事の最中、発破の予期せぬ暴発で優秀な現場監督が前頭前部を損傷するという悲劇的な実話ではじまるダマシオの最初の著作、『デカルトの誤り』では、ひじょうに重要なことが三つ論じられている。まず「情動」(emotion)と「感情」(feeling)の定義、つぎに「身体」(body)の重要性。もう一つは、これら二つの議論をふまえて提示された「前頭前皮質」の役割と「ソマティック・マーカー仮説」である。

まず、情動と感情。この二つは、「ダマシオを理解する」上でもっとも重要なキーワードであり、正確にその意味を把握しておく必要がある。日常、われわれはこれら二つをほとんど同義語として使っている。事実、心理学事典のようなものを調べても、そのちがいはそれほど明確ではない。たとえば、手元にある、ある心理学事典にはつぎのように書かれている。「・・・情動は、怒り、恐れ、悲しみ、などのように急激に生起し、比較的激しい、一過性の心的作用をさす。自律神経系の興奮による発汗や循環系の変化、あるいは表情の変化などの身体的表出を伴うことが多い」。また感情については、こう記されている。「情動に比較してその強度および身体的表出が小さく、一般には快ー不快の次元に還元できるものをさす」。要するに、急激で強いものは情動、そうでないものは感情、といった感じだ。しかし、この定義で両者のちがいが十分に説明されているとは言いがたい。

ダマシオが言う情動と感情はこれとはまったく異質のものだ。それらは「生命調節」という、有機体のもっとも重要な、そしてもっとも基本的なプロセスの中でいわば因果的につながっていて、情動は「身体」という劇場で、感情は「心」と言う劇場で、それぞれ演じられる。たとえば、われわれが何か恐ろしい光景を目にして恐れの「感情」を経験する場合を考えてみる。その場合、体が硬直する、心臓がドキドキする、といった特有の身体的変化が生じるが、身体的変化として表出した生命調節のプロセスが、ダマシオの言う「情動」(この場合は「恐れの情動」)だ。一方、脳には、いま身体がどういう状態にあるかが刻一刻詳細に報告され、脳のしかるべき部分に、対応する「身体マップ」が形成されている。そしてわれわれが、その身体マップをもとに、ある限度を超えて身体的変化が生じたことを感じ取るとき、われわれは「恐れ」の感情を経験することになる。

ここでとくに興味深いのはその順番だ。普通われわれは、怖いと感じるから、その結果、身体が硬直したり心臓がドキドキしたりする、と考えている。しかしダマシオの考える順番は正反対で、怖いものを見て特有の身体的変化が生じるから、「そのあとに」怖さを感じるのだ。この順番を正しく認識しておくことが、本書を理解する上できわめて重要だ。ダマシオは、つねに生物進化という現実を前提に議論を進める。進化的に見れば、生物が最初に身につけたのは情動であって感情ではない。情動やそれに似た反応は、単純な動物にも見られるが、単純な動物に感情はない。

(『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』「訳者前書き」田中三彦)

 

この田中三彦さんの文章はわかりやすくて、要領を得ています。この内容の説明をするために、ダマシオさんは脳神経系の専門用語を駆使して科学的に語らなくてはならないのですが、私のような者には上の説明で十分な気がします。

もう少しだけ付け加えるなら、なぜ私たちは「普通われわれは、怖いと感じるから、その結果、身体が硬直したり心臓がドキドキしたりする、と考えている」のでしょうか?それは私たちが気づかないうちに「心身二元論」でものごとを考えているからです。「心身二元論」では、心と体が別に存在して、あるいは別に存在するように感じていて、「身体」は「心」つまり「精神」の乗り物のように思われています。私たちは何か怖いものを見て、まず「心」が「怖い!」と感じます。その恐怖が神経を通じて「身体」を震わせたり、心臓をドキドキさせたりするのです。この私の説明に、ほとんどの方が納得するのではないでしょうか?

しかしダマシオさんは、人間よりももっと単純な生物が、生命に危機を感じるような場面で身体的な反応をすることに注目しました。つまり「心」が「怖い!」と思ったかどうかは別にして、心臓がドキドキしたり、体が震えるようなことが、生命の危機に際してさまざまな生物において起こっているのです。このような反応を、ダマシオさんは「情動」と言ったのです。だから進化論的に考えて、「情動」が「感情」よりも先に生起するはずだというわけです。

それでは「怖い」という「感情」は生物にとって必要なものではなく、余計な飾りのようなものなのでしょうか?そうではない、とダマシオさんは考えます。それは生物が生命を維持するために、より高度に身につけた能力だと考えられます。より複雑な状況で生命の危険が迫った時、私たちは考えるよりも前に「怖い」という感情によって、素早い反応ができるように進化したのです。

これらを総合して考えると、私たちは生命の危機的な状況に対して、「情動」によって身体的に反応し、その「情動」が「怖い」という感情を生起する役割を果たしているのです。「身体」は「心」の乗り物などではなくて、「心」と「身体」は一体となって外界の出来事に対して反応しているのです。

このような説明に対して、次のように反論したくなる方もいるでしょう。「感情は、生命維持とは無関係に生じるものであるし、場合によっては、むしろ生命維持の邪魔になることがあるのではないか?」この後で触れることになるのですが、私もダマシオさんの説明では物足りないものがありますし、そこに現在の科学で知ることのできる限界もあるようです。しかし、この質問に対するダマシオさんのとりあえずの説明は、「情動」や「感情」の中には人間の進化の過程ですでに役割を終えたものもある、というものです。つまり、現在の私たちの生命維持に直結しないからといって、「情動」や「感情」がそれと無関係であるとは言えない、ということです。それはかつて、人類の生命維持に役に立った「感情」なのかもしれませんし、その記憶を進化の過程で私たちの脳は引き継いでいる、という説明です。

私は個人的には、このダマシオさんの説明に納得する部分はあるものの、それだけではない「何か」が脳のどこかで起こったのではないか、と思います。「生命維持」という当初の役割はとっくに忘れてしまって、それとは無関係の何かが「感情」を突き動かしているのではないか、という気がするのです。しかし、そうであったとしても、「感情」が「情動」から生起するもの、つまり「身体」との関係によって生じているもの、という解釈はとても魅力的なものです。とくに私のように、「絵画」というもの(物質)によって、人間の感情に訴えかけようと考えている者にとって、「心」と「身体」(物質)が密接に結びついている、という解釈は「絵画」という表現手段に新たな光を与えるもののように思えます。それは私の標榜している「触覚性絵画」とも、強く関連しているように思うのです。

このことについて考察を進めるためには、人間にはなぜ「創造」という行為が可能であるのか、そのことについて語られなくてはなりません。単なる快・不快の「感情」がより複雑な感情を生み、それが現実にはあり得ないような「心的イメージ」すら生んでしまう、という人間特有の特徴について、科学的に解明することができれば、これまでの哲学や美学で語られてきたものに、新しい光をあてることにもなるかもしれません。

しかしこの点については、おそらくは簡単に解明されないだろう、という予想がつきます。そして私たちは、脳科学の進歩を踏まえつつ、哲学や芸術的なアプローチで人間の抱く「心的イメージ」や「創造性」についての探究を続けていくしかないのだろう、という予感が私にはあります。

この点について、ダマシオさんは次のように書いています。

 

私の以上の主張に、それもとくに最後の部分に但し書きをつけておくことが重要だ。ニューラル・パターンがどのようにして心的イメージになるのかについてのわれわれの現在の理解には、大きな溝がある。脳の中に、一つの対象や事象と関係するダイナミックなニューラル・パターン(あるいはマップ)が存在することは、その対象や事象の心的イメージを説明するのに<必要>だが十分な根拠ではない。われわれはニューラル・パターンをー神経解剖学、神経生理学、神経化学という手段を使ってー説明できるし、イメージを内観という手段を使って説明できる。しかし前者から後者がどのようにして得られるかは、ほんの部分的にしか知られていない。とは言っても、現時点での知識のなさは、イメージが生物学的プロセスであるという仮定と矛盾するものでもないし、イメージの身体性を否定するものでもない。

意識の神経生物学に関する最近の研究は、多くがこの問題に目を向けている。また、大半の意識研究が実際に心の生成のこの問題に集中している。それは、どのようにして脳にイメージをつくらせ、それらを同期させ、編集し、私が「脳の中の映画」と呼んできたものに変えるかという、意識の問題の一部だ。しかし、それらの研究はまだその問題に答えを用意していない。また私も答えを用意しつつあるわけではないことを明確にしておきたい。

(『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』「第5章 心を形成するもの」アントニオ・ダマシオ著 田中三彦訳)

 

なるほど、私が思ったとおり、「心」と「身体」の関係はかなり多くのことがわかってきましたが、「心的イメージ」がどのように形成されるのか、ということについては「説明するのに<必要>だが十分な根拠」が得られていない、ということです。しかし、「心」、「身体」、「心的イメージ」が結びついていることは、ほぼ見当がついている、ということです。

私はこのダマシオさんの回答に失望していませんし、「心」と「身体」の関係、言ってみれば精神的な世界と物質的な世界が不可分なものである、ということが語られていること自体が、十分に興味深いことです。

ところで、この点についてスピノザはどのように言っているのでしょうか?ダマシオさんはスピノザの『エチカ』を参照しつつ、次のように書いています。

 

たぶんもっとも重要なことだが、ここで定理26を考えてみる。「人間の心は、その身体の変化(刺激状態)の観念によって以外、いかなる物体も現実に存在するものとして知覚しない」。

スピノザは、心は身体と同じ基盤上で実体から完全な形で生まれると言っているだけではない。彼は、その同じ基盤を実現できるメカニズムを推定している。そのメカニズムには一つの巧みな方策がある。身体の中の事象は心の中の観念として表象される、というのがそれだ。表象的な「対応」があり、それは一方向に向かってー身体から心へー進む。その表象的対応を実現する手段は実体の中にある。スピノザが量と強さの双方に関し、観念は「身体の変化」に「比例」するとしている言明は、とくに興味深い。「比例」という概念は「対応」を、いや「マッピング」さえも呼び起こす。私は、彼がある種の構造保持について述べているのではないかと思う。同様に刺激的なのは、人間の心はその身体の変化(刺激状態)の観念によって以外いかなる物体も現実に存在するものとして知覚しない、という彼の考え方だ。スピノザは、事実上、一組の機能的依存を具体的に述べている。つまり彼は、ある心の中の対象の観念は、身体の存在なしには、あるいは対象によってその身体にもたらされるなにがしかの変化なしには、生じえないということを述べている。身体なしに心はない、ということである。

(『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』「第5章 心を形成するもの」アントニオ・ダマシオ著 田中三彦訳)

 

ダマシオさんは、脳科学が発達していなかった時代に、スピノザがすでに「人間の心はその身体の変化(刺激状態)の観念によって以外いかなる物体も現実に存在するものとして知覚しない」という認識を得ていたことを、スピノザの『エチカ』から推察しています。しかしスピノザは、自分がわからないことについて軽々しく語る人ではなかったので、ここで私たちがわからないと確認したこと、すなわち「心的イメージ」がどのように形成されるのか、ということについて語るようなことはしていません。それでは、スピノザを読む意味はないのか、というとそういうことではありません。私たちは、スピノザの哲学が現代の脳科学を先取りするような認識のもとに書かれたのだ、ということを確認したわけですから、彼の哲学が示唆していることについて、もっと積極的に取り組む必要があるでしょう。

このことについて、私がずっと参照してきた國分功一郎さんは次のように書いています。

 

スピノザ哲学を使ってそのような状態を変革する解決策がすぐに提示できるわけではありません。しかし、これまでに勉強してきたスピノザのさまざまな概念、すなわち、組み合わせとしての善悪、力としての本質、必然性としての自由、力の表現としての能動、主体の変容をもたらす真理の獲得、認識する力の認識・・・、これらの概念を知るだけでも、この社会の問題点を理解するヒントにはなるはずです。

現代社会は、近代の選択した方向性の矛盾が飽和点に達しつつある社会だと思います。そんな社会を生きる私たちにとって、選択されなかったもうひとつの近代の思想であるスピノザの哲学は多くのことを教えてくれます。

近代のこれまでの達成を全否定する必要はありません。しかし反省は必要です。スピノザはその手助けをしてくれます。

(『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』「第四章 真理の獲得と主体の変容」國分功一郎)

 

この文章のはじめの「そのような状態」というのは、現在しきりに心配されているAIの問題のことです。AIが人間の知能を超えてしまって、人間の仕事がなくなってしまう、ということが、とくに教育の世界では問題になっていますが、國分さんは「心のイメージ」のことを取り上げて、「イメージ」がどのように形成されるのか、というメカニズムがわかっていない以上、AIが「心のイメージ」を持つことはない、すなわちAIの知能が人間を超えてしまうことはないだろう、と言っています。これはダマシオさんが書いていることと合致します。

しかし深刻な問題は、人間の方がAIのようになってしまうことだ、と國分功一郎さんは言うのです。例えば仕事のマニュアル化が進み、レストランの接客などはかなりAI化しています。このことに関する國分さんの文章を読んでみましょう。國分さんは、働きながらスキル・アップしていくような、人間的な働き方が疎外されつつあることを心配しているのです。

 

そこでは労働を経ながら、労働の主体が少しずつ変容するというプロセスは無視されてしまいます。「熟練」という言葉は死語になりつつあります。

またマニュアル化は徹底されていて、現在の接客業では情動レベルにまでそれが浸透しています。たとえばどんな場合にどんな風に笑いなさいということまで決められています。社会が人間に「アルゴリズムになりなさい」と命じているような状態です。

そのような労働を強いられている人たちであれば、自分たちの仕事がAIに取って代わられるかもしれないと無意識に危惧を抱いても不思議ではありません。

(『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』「第四章 真理の獲得と主体の変容」國分功一郎)

 

ちょっと横道にそれますが、教育の世界では本気で「AIに負けないような創造性を持った子供を育てないと、将来の仕事がなくなってしまう」と心配されています。「なんと愚かな!」と思いませんか?そもそも、そんなふうに人間の仕事を奪い、子どもたちの将来を不幸にするようなAIなど作らなければ良いでしょう。たとえばAIによって商店がすべて無人化しても、誰がその商品を買うのでしょう?仕事がなくて、生活に困る人ばかりになっては、商品を作って売ることも成り立たなくなります。

子供たちに「AIに負けるな!」とプレッシャーをかける前に、どうしたら子供たちに豊かな未来を用意できるのかを考えるのが大人の義務ではありませんか?そんなこともわからない人たちが現在の政治を担い、教育行政を推進しているのです。そして教師にさまざまな無茶な要求ばかりをして、あげくのはてに教員不足に困っているのです。このあまりの馬鹿馬鹿しさに言葉もありません。

しかし、この愚かさも國分功一郎さんが書いている「近代の選択した方向性の矛盾」ということになるのだと思います。この問題などは、明らかに回避することができます。「もの」や「お金」を信奉して、子供たちを不幸にしてまで利潤を追求するという考え方を改めて、どうしたら人間が豊かに、幸福になれるのか、という「考え方のOS」に入れ替えれば良いのです。それは、きれいごとに見えるでしょうか?そんなことはありません。お金やもの、あるいはそれを得られる社会的地位を得ても、一時的な満足感しか得られずに、自分の老後や自分の子供たちを不幸にしてしまうのです。その単純な事実が、すべての人に理解できれば良いのです。誰だって、そこまでしてお金儲けをしたくはないでしょう。

 

その「考え方のOS」の入れ替えのために、芸術が果たす役割は小さくない、と私は考えます。むしろ、どんな分野よりも芸術分野が果たす役割は大きいのかもしれません。そう信じて、私はこれからも頑張ります。

 

ということで、ぜひ、私の個展にも足を運んでください。

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