平らな深み、緩やかな時間

300.國分功一郎の「スピノザ論」と「芸術の終焉論」について②

前回の続きになります。

できれば、前回のblogを読んでいただきたいのですが、一応、その内容を要約してみます。

 

前回は、美術評論家のアーサー・コールマン・ダントー(Arthur Coleman Danto, 1924 - 2013)さんが唱えた「芸術の終焉論」には「芸術の終焉」を言い立てるほどの根拠がないことを確認しました。それよりも、その「終焉論」が流布され、広まってしまったことの方が深刻でした。ダントーさんの「芸術の終焉論」の広がりは、実は時代の閉塞感との相乗効果だったのです。

そこで、その閉塞感を言い当てた、日本のフランス文学者、翻訳家である阿部 良雄(1932 - 2007)さんの『モデルニテの軌跡』という著書に注目しました。

 

「大きな物語」の実効性減退に伴って、美術を論ずる言説(ディスクール)は、二重の危機を体験することになった。一つは、美術史的言説において、過去を一元論的時間構造の相の下に把握・記述することの困難である。もう一つは、美術批評の言説において、時間的に先立って在るものに比べて何か新しい発見や工夫があると指摘することで賞賛の根拠とするパターンが、機能し難くなってきたことだ。

(『モデルニテの軌跡』「あとがき」阿部良雄)

 

この阿部良雄さんの文章から、一元論的に時代を見通すことが困難であることと、常にあらなた「主義(イズム)」によって、前の時代のイズムを乗り越えてきたというモダニズムのパターンがあてはまらなくなってきたことを確認しました。

私はこのことを、哲学者の國分功一郎さんがスピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)を論じた際に書いた次の言葉と符合すると考えました。

 

なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーション・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない・・・。

「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」と言う時、私が思い描いているのは、このような、アプリの違いではない、OSの違いです。スピノザを理解するには、考えを変えるのではなくて、考え方を変える必要があるのです。

(『100分DE名著「エチカ」スピノザ』國分功一郎)

 

阿部良雄さんの美術の現状分析と、國分功一郎さんのスピノザの解釈を合わせると、例えばモダニズムの美術が終わったから、次はポスト・モダニズムだ、というような発想は「アプリの違い」でしかなく、そのような「主義(イズム)」の乗り替えによって語られた美術史的な言説を見直さなくてはならない、ということになります。そして、もっと多元論的な思考をすることが求められているのではないか、それがスピノザの思想の理解につながる「OSの違い」にあたるのではないか、と私は考えました。

その時に私が思い出したのが、「新しい実在論」を唱えたマルクス・ガブリエルさんの『なぜ世界は存在しないのか』という著作でした。そこでは、さまざまな考え方が多元論的に存在する場が想定されていました。そして、そのように多元論的な場を一つの世界として一望のもとに見ることはできない、とガブリエルさんは否定したのです。

つまり、これまで私たちが想像してきたような一元的な「世界」は存在しないのだ、とマルクス・ガブリエルさんは言ったのです。その文章を引用したものが次に部分になります。

 

わたしたちは、けっして全体としての世界を捉えることができません。全体というものは、どんな思考にとっても原理的に大きすぎるのです。しかしそれは、わたしたちの認識能力のたんなる欠陥のせいではありませんし、世界が無限であることに直接関連しているのでもありません(じっさい、わたしたちは、たとえば無限小法や集合論といった形で、少なくとも部分的には無限さえ捉えることができます)。むしろ世界は、世界のなかに現れることがないから原理的に存在しえないのです。

(『なぜ世界は存在しないのか』「哲学を新たに考える」マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳)

 

このように、國分功一郎さんの「スピノザ論」と、「芸術終焉論」の広がり、そして併せて阿部良雄さんの1980年代当時の美術状況の分析、マルクス・ガブリエルさんの「新しい実在論」による世界観、などから私が理解したことは、私たちは一元論的な新しい「主義(イズム)」を追い求めても意味がないということでした。世界を一望できるような一元論的な思想が歴史的に入れ替わるような思想はもはや無効のようです。したがって、その中で現在の美術表現を模索するならば、私たち一人一人にとって必然性のある表現を探究するべきだ、ということになるのでしょう。

そこで私は、モダニズムの発展の中で「視覚」だけが知覚の中で優先されてしまったことに注目し、忘れ去られていた「触覚性」を「視覚」の表現である絵画において重視することを考えたのです。後でもう一度触れますが、この「触覚性絵画」が今こそ私たちに必要とされる表現だ、と私は思ったのです。

しかし、「触覚性絵画」に関することはともかくとして、ここまでの話の全体を見れば、これは私たちの立つべき地平を確認したに過ぎません。さらに現代の美術表現について、具体的に踏み込んだ考察が必要だと、私は考えます。そして、できれば言葉の上での上滑りの理解ではなく、感覚的にそのことを納得しておくことが私たちにとって重要なのです。

 

ここまでが前回までのおさらいになります。

前回もリンクを貼りましたが、参照していただきたい私の文章のリンクを再掲載させていただきます。もちろん、私が参照した原著を直にお読みいただくことを強くお薦めします。

 

3.『芸術の終焉のあと』ダントー著と『美学講義』ヘーゲル著

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/c8bace79581bcc80f5f2c0100cd2c540

 

295.阿部良雄、歴史の終焉、モデルニテ、そしてボードレールについて

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/34fc23b187040179dde24c6797e1f37b

 

274.國分功一郎『スピノザ』① スピノザとフェルメール

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/63b09abcbfd14b38c5c6341cd709b53b

 

275.國分功一郎『スピノザ』② 身体性について

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/4d5e14da3b0e19cb374df3842b5d4c1b

 

276.國分功一郎『スピノザ』③と現代絵画の可能性、宮塚春美展

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/d6478fe6d2283e4a3e2690dec5909a27

 

277.國分功一郎のスピノザ論と「もうひとつの現代絵画」

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a1947ba45a00bcc44f8d3edfff124425

 

108.『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエルについて

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7

 

私のテキストを集めたページ

http://ishimura.html.xdomain.jp/text.html

上のページから、次のテキストを選んでいただけると、「触覚性絵画」ということを模索し始めてから後の、私の個展の文書をpdfファイルでご覧いただくことができます。

2020.3 触覚性絵画の試み 『個展』(ギャラリー檜)TEXT

2021.3  『個展』(ギャラリー檜) パンフレット

2022.4  『個展』(ギャラリー檜) パンフレット



さて、それでは今回は、具体的な現代美術の中のことを考えましょう。

ここで、私が美術批評の中で思い出した言葉があります。それは日本の美術史学者・比較文化学者であった持田 季未子(もちだ きみこ、1947 - 2018)さんが、その代表的な著書である『絵画の思考』(1992 吉田秀和賞受賞)の中で書かれていた文章です。その文章は「雲のドラマ―ロスコ」という論文に書かれていました。

 

ロスコを理解するとは、こうした感情が作品のどのような構造から発しているのかを考えることにほかならない。かれの絵の背後に暗鬱な空と海を描いたかつてのロマン派の風景画の残響があってもなくても同じである。私たちは色と形が構成する絵画ということから出発すればよい。しかしロスコはあるインタビューに答えて、じぶんは抽象派ではないと断り、次のように言う。

「私は色と形の諸関係ということには興味がない…私は、悲劇、陶酔、破滅といった人間のベーシックな感情を表現することにのみ興味がある。そして多くの人が私の絵画に対すると、抑え切れずに泣くという事実が、私がこういう人間のベーシックな感情をよく伝えているということを示している」

これは絵画空間を色や形の関係で構成していくモンドリアン的な抽象とのちがいを主張している言葉のように読める。モンドリアンの絵画が有限のコードに限定されている。水平と垂直の線、それに三原色と無彩色である。これらわずかな要素から、その位置関係、比例関係を無限に変化させることから、驚くべき多様性と豊かさが産出されるが、基本をなす原則はきわめて限られているのである。これを基本要素の関係がつくる絵画と呼ぶとしたら、ロスコの「悲劇、陶酔、破滅などの人間のベーシックな情念を表す媒介手段」という色彩についての考え方は、むしろファン・ゴッホを思い出させる。「僕は赤と緑によって恐るべき人間の情念を表現しようと努めた」と言ったあのゴッホの色使いを。じっさいロスコの芸術の実質は色の美しさにあるといっても過言ではないのだ。

ロスコの言明はフォーマリズム批評的な接近を拒否するかのようである。自分の芸術は色と形の関係ごときで語りつくせる幾何学的図形じみたものではない、と言わんばかりのロスコの断固たる主張はその意味で重要である。私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう。

(『絵画の思考』「雲のドラマ―ロスコ」持田季未子著)

 

このロスコに関する評価も興味深いところだと思います。私は以前にこの持田さんのロスコ評を取り上げてblogを書いていますので、よかったらご参照ください。

 

88.持田季未子『絵画の思考』『芸術と宗教』―ロスコ論から―

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/0780615501eb25b789606e0d69c7973d

 

そしてあなたが絵画に興味があるのなら、この持田さんの『絵画の思考』を何を置いても読まなくてはならないと思います。私がこの本について知ったのは、美術評論家の藤枝晃雄(1936-2018)さんの『現代芸術の彼岸』を読んでいて、「美術批評の現在」という章で次の一節に目がとまったからでした。

 

持田季未子さんという方は『絵画の思考』という著書のなかのマーク・ロスコ論においてこの画家の《私は色と形の諸関係ということには興味はない。…私は、悲劇、陶酔、破滅といった人間のベーシックな感情を表現することにのみ興味がある》という言葉を引いてこう述べておられます。

《ロスコの言明はフォーマリズム批評的な接近を拒否するかのようである。自分の芸術は色と形の関係ごときで語りつくせる幾何学的図形じみたものではない、と言わんばかりのロスコの断固たる主張はその意味で重要である。私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう》。

これははなはだ不当な批判です。グリーンバーグは色と形の幾何学的な図形じみた絵画に対しては消極的であり、フリッツ・グラーナー-この画家は「関連の絵画(リレーショナル・ペインティング)」というタイトルを持つ作品を描いています―のようなモンドリアンの亜流の幾何学的抽象を高く評価したわけではありません。ただ、モンドリアンは評価していてその絵画のなかの形ではなくその空間構築の諸要素の「等価性」なる特色を見出したのです。

(『現代芸術の彼岸』「美術批評の現在」藤枝晃雄著)

 

実はこの持田さんの著書との出会いの経緯も、先のblog88に書いたのですが、その時に私は次のように書きました。

 

この文章を以前に読んだときは、ふむふむ、そうなのか、と思ったのですが、今回は何かが引っかかりました。何が気になったのでしょうか?

それは藤枝晃雄が批判しているのが、「幾何学図形じみた絵画」をグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)が評価した、と読み取れる部分だけ、のようだからなのです。藤枝晃雄は、持田季未子が言わんとしている「フォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう」という趣旨の全部、あるいは『絵画の思考』という著作全体を批判するところまで言っていない…、というふうに読めたのが、私にとって意外でした。彼は「フォーマリズム批評」を狭義にとらえて批判する人(狭義のフォーマリズム、あるいは通俗的なフォーマリズムの解釈については、2月のこのblogに引用した川田都樹子の文章を参照していただけるとよくわかります)、さらにグリーンバーグを不当に批判する人に対しては、たいへんに厳しくあたる批評家なので、この「持田季未子さんという方」への批判は、何となく抑制がきいているような気がしたのです。もしかしたら持田季未子の著作『絵画の思考』には、「フォーマリズム批評」を批判的にとらえながらも、何か読まれるべきことが書かれているのかもしれない…、これは『絵画の思考』という本を読んでみるしかない…、というふうに考えました。

(88.持田季未子『絵画の思考』『芸術と宗教』―ロスコ論から―)

 

どんどん芋蔓式に遡っていくことになりますが、私がこの時に参照してほしいと書いた川田都樹子さんの文章とは次の文章です。

 

通俗的な概説として、フォーマリズムとは作品の内容よりも形式を重視する立場であり、専ら視覚的要素だけに特化して語る姿勢であるとされてきた。ようは、内容を見ない形式主義だという言い方である。そして、この通俗的定義の横行は、モダニズムの終焉とポスト・モダンの台頭という、いまとなっては懐かしくさえある無意味な空騒ぎによって助長された。思えば、芸術の世界に「ポスト・モダン」の語をはじめて導入したのは、1972年のレオ・スタインバーグの「他の批評基準」であったが、そこでは、ドラクロワを評したシャルル・ボードレールの批評が絵の主題を無視せよという禁制を敷いたものとして嘲笑され、クレメント・グリーンバーグがそのフォーマリズムの頂点として攻撃目標にされたのだった。そしてそれ以来、モダニズムの終焉を語るための方便としての「フォーマリズム・バッシング」がはびこった。1993年といえば、まだまだその余燼がくすぶっていた時期であったから、モダニズムの絵画を徹底したフォーマリズムで分析する藤枝の『絵画の現在』が、当時は時流に逆らうように見えたのも、ある意味当然のことだったのかもしれない。

だが、本来フォーマリズムとは、ある一つの時代やある一つの時流にしか適応できないものではない。ましてや、「内容の軽視」とは根本的に無関係なものだと考えるべきである。スタインバーグらの批判に応じたグリーンバーグの次の言葉は、先の藤枝の記事と響き合って、このことを明確に伝えている。「私は、芸術が美的価値や質に関わる言葉以外の言葉で論じられるべきではないなどと言いたいのではない。[中略]私の主張は、<芸術としての芸術>と一切無縁の主題内容のために、美的価値を空虚にしてしまう物たちに囲まれていようとも、芸術の本質を美的価値としていっそう認めようとする意識を保つことなのだ。[中略]美的価値判断、趣味の判定が存在しないなら、そのとき芸術もまた存在しないのである。」すなわち、芸術の存するところには本質的普遍的に存在してしかるべきものとして、フォーマリズムは在る、ということだ。

しかしながら、フォーマリズム批評は、当然ながら誰にでも可能なわけではない。鍛え抜かれた「眼」と、それを語るテクニカルな言葉がどうしても必要になる。これがまた、「エリート主義」として敬遠されてきた理由である。たしかに藤枝の、またグリーンバーグの、個々の精緻な画面分析の語りを読めば、普通にはとうてい模倣できない域のものであることがすぐにわかる。一枚の画面の上を、論者の眼がどの順番で、どのように動き、どの部分を注視し、どの箇所で折り返したか、それらの一連の流れがまず見事に分節化され言語化される。その緻密な記述があって、さらに言語による画面の再構築がダイナミックに展開されていく。読者がその言葉に導かれながら、論者とともに画面をたどりなおし、その構成を把握していくとき、作品の有する美的「質」の正体を認識することができるのである。

(『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』p264-265/「芸術の守護者たち」へ―藤枝晃雄とフォーマリズム批評/川田都樹子)

 

そしてこの文章を、私は先ほど書いたように次のblogでも引用しました。そちらをご覧いただけると、私がこの文章に辿り着いた経緯がわかります。

 

83.『dialogue』展、『藤枝晃雄批評選集』よりゴッホについて

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/cdcab06af85660fe26bd6ba3cd4bc9cd

 

さて、素材が出揃いました。

ここでの話の流れは、國分功一郎さんのスピノザ論がいうところの「アプリの違いではなくて、OSの違い」だという、この「OSの違い」を美術のことに置き換えるとどう展開できるのか、ということです。

「アプリ」の例えについて、考察してみましょう。

「アプリ」の例えで言えば、モダニズムが隆盛の頃の「アプリ」はアメリカの美術批評家であるグリーンバーグさんが代表的な存在として知られた「フォーマリズム」批評が、その当時の最高の「アプリ」でしょう。そのモダニズムが崩壊し、ポスト・モダニズムの思想が世間を席巻した時に、美術の世界ではこれまでのようにポスト・モダニズムの思想を体現するような「アプリ」があれば良かったのですが、「フォーマリズム」に変わるような「アプリ」はさっぱり現れません。「ニュー・ペインティング」という動向がポスト・モダニズムにおける新しい美術表現、つまり新しい「アプリ」であるかのように扱われましたが、前回の阿部良雄さんの状況分析からもわかる通り、その時に「あれ?」と思った人たちは多かったと思います。「ニュー・ペインティング」は「フォーマリズム」の動向に変わるような批評性を持ち得ない、と気づいた人たちがいたのです。そして、その方たちの知性と感性は正常でした。

それでも無理矢理、ポスト・モダニズムの「アプリ」として「ニュー・ペインティング」の動向を推し進めた人たちがいました。なぜなら、商業美術の世界では、新商品にはその目印となるような新しい「アプリ」が必要だったからです。市場に供給する作品には、新しいキャッチフレーズが必要なことと同じことです。それが「ニュー・ペインティング」とか「トランス・アヴァンギャルド」とか呼ばれた作品群でした。

そういう時流の中で、「フォーマリズム」批評を貫いたのが藤枝晃雄さんだったのです。「モダニズムの絵画を徹底したフォーマリズムで分析する藤枝の『絵画の現在』が、当時は時流に逆らうように見えた」という川田さんの言葉は、その頃に藤枝さんがどう見えたのかを的確に言い表しています。そして川田さんは「芸術の存するところには本質的普遍的に存在してしかるべきものとして、フォーマリズムは在る」とも書いています。私もその通りだと思います。後でもう一度、この言葉を振り返ってみましょう。

しかし、川田さんのこのような言葉にもかかわらず、「フォーマリズム」はモダニズムの時流に乗ったもの、つまりモダニズムの「アプリ」のようなものだと見做されていました。それは一体、なぜなのでしょうか?

私は、藤枝さんやグリーンバーグさんがどんなに否定しようとも、彼らの批評には「フォーマリズム」的な見方以外を許容しない、排他的な雰囲気があったと思います。その言葉の力が、グリーンバーグさんの有名な論文『モダニズムの絵画』以降、絵画は平面性を追求しなければならない、という時代の流れをつくりました。その結果、絵画は完全に平坦なミニマル・アートの絵画にまで至ったのです。いかにグリーンバーグさんが「私は、芸術が美的価値や質に関わる言葉以外の言葉で論じられるべきではないなどと言いたいのではない」と言ったところで、時代は禁欲的な方向へと動き出し、「美的価値や質に関わる言葉以外の言葉」は厳重に閉め出されていったのです。

 

そのような時に、持田季未子さんは「私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではないだろう」と言ったのです。持田さんは、美術史家や批評家の語彙で作品を語るのではなく、徹底的に作品を見て、表現者である作家に寄り添い、その作家自身が言語化できない美術表現を言葉で語ることが批評家の役割だと書いたのです。

その文章を引用しておきます。

 

本書の野心は、絵画の現象学とでも呼べそうな方法で作品をできるだけ厳密にたどり創作の本質をとらえるようにしつつ、テクストに言葉を与え、ディスクール(言説)の次元に引きつける端緒をみつけ、無言のテクストを世界・社会・歴史・人間に向けて開くことなのである。絵画を美術史の言説の内部に閉じ込めておいてはならない。絵画を思想へ向けて開くディスクールが必要である。それは行為者である当の画家たち自身がよく成し得るところではない。ここに批評の出番がある。

(『絵画の思考』「序」持田季未子著)

 

私は、この文章を何回も引用していますが、読み直すたびに感動を覚えます。

あの藤枝晃雄さんが、持田さんのフォーマリズム批判に対し、「これははなはだ不当な批判です」と書いていながらも、その後にモンドリアンを例にとって丁寧に誤解を解こうと説明しているところが印象的です。以前に書いたように、持田さんのロスコーの作品と向き合った上での批評の言葉を読んで、藤枝さんなりに持田さんの批評に対するリスペクトの感情があったのではないでしょうか。

 

さて、少し話が脱線したので元に戻します。

こんなふうに「フォーマリズム」の批評をモダニズム芸術における「アプリ」のようなものだと見做してしまうと、私たちは「フォーマリズム」という「アプリ」を使い続けるのか、それともそれは過去のものだと見做して捨ててしまうのか、という二者択一を迫られてしまいます。しかしこのような考え方こそが、國分功一郎さんが言うところの、デカルト以来続いている「アプリの違い」によって歴史を進めていく考え方なのです。そうではなくて、デカルト的な思想からスピノザ的な思想に見直してみましょう。「アプリ」ではなくて、「OS」ごと入れ替えるのです。そうするとどうなるのでしょうか。

そうなれば、「フォーマリズム」批評をいまだに継続して探究していても、それはごく自然なことと見なされます。ただし、「フォーマリズム」批評が私たちの時代の唯一の「アプリ」ではありません。持田さんが書いた通り、「フォーマリズム批評をいつまでも踏襲すべきではない」というのも真実なのです。

ここにマルクス・ガブリエルさんの「場」の理論をイメージしても良いでしょう。作品本位である優れた「フォーマリズム」批評ならば、その後も読み継がれていけば良いでしょうし、そうでない考え方の美術の動向も、批評も存在して構いません。そういったさまざまな思考による表現が、同じ時間の「場」に存在していても良いのです。

こう書くと当たり前のことを言っているだけだと思われるかもしれませんが、そうではありません。肝心なことは、「自分の考えの正当性を主張するために、他の考え方を否定する必要はない」ということです。今の時代に、唯一有効な「主義(イズム)」は何なのか、などと考えてはいけません。また、作家の〇〇は時代遅れだ、とか、批評家の□□の時代は終わった、などと軽々しく考えてはいけません。その人たちがマンネリズムに陥っていて、自己模倣を繰り返すようなことをしているなら、そのことを批判するのは良いと思います。しかし、その人たちの表現様式の新旧だけで、その人たちの仕事を判断してはいけないのです。

このように、時流によって軽々しく他者を批判する態度は、実は私のような年寄りの世代には馴染みのことなので、その感覚を改めなくてはなりません。

そのような理解のもとに、例えば私の83.blogをお読みになると、次のような藤枝晃雄さんの言葉に出会います。

 

ファン=ゴッホの風景画にはオランダ絵画の追憶が残存しているものもあるが、抽象の局面という点では、具象的なイメージの有無を問わず1910年代、20年代の抽象の過程をおのずから、一挙に超越している。この意味でファン=ゴッホの芸術が、デ・クーニングよりもはるかに重要なのは、「場の絵画」と連関を有しているということである。

(『藤枝晃雄批評選集 モダニズム以降の芸術』p293)

 

19世紀の印象派の画家、ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)の方が、20世紀の抽象表現主義の画家、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)よりも「はるかに重要」だというのです。抽象表現主義の画家たちを最大限に評価したのが「モダニズム」批評ですから、これには少なからず驚きがあると思います。しかし考えてみると、この言葉は作品の「目利き」である藤枝さんらしい言葉なのです。

私がこのblogでご紹介した藤枝さんのゴッホ論は、本当に素晴らしい文章です。しかし残念なことに、藤枝さんという評論家はこのような広い視野を持った人として受けとめられていません。もっと偏狭な形式主義者だと思われているのが、現実だと思います。

これらのことから、私たちが現代美術においてスピノザ的な「OS」を手に入れるためには、あらゆる先入観をなくして、例えばグリーンバーグさんや藤枝さんの優れた批評を読む必要があるのかもしれません。そして彼らの「狭義のフォーマリスト」らしからぬ文章に触れて、彼らでさえも時代や様式を超えて美術について語っていたことを、感覚的に知るのです。そうすれば、優れた批評がさまざまな形で、それも同じ時間の同じ場に存在できるということを、感覚的に実感できるのです。

 

そして最後に、私自身のことも書いておきます。

私のテクスト集を見ていただくと分かる通り、私は2020年の個展から「触覚性絵画」という絵画の概念を打ち出してきました。それをこうして継続していくと、毎年のように私の考察の妥当性を裏付けるような知見と出会うことができます。私の「触覚性絵画」は、「視覚」偏重のモダニズム美術から「触覚性」を取り戻す試みなのですが、今回取り上げたスピノザ的な「アプリの違いからOSの違い」へという考え方にも合致するものだと、私は考えています。

そして私は、モダニズム美術の「フォーマリズム」的な考え方が、作品の内容について論じる方法として有効な役割を果たしたと考えています。それが「形式主義」として狭義に解釈されてしまったことは不幸でしたし、その点について「フォーマリズム」の論者にも少なからず責任があったと思います。しかし、川田都樹子さんが書いていたように、フォーマリズム的な作品へのアプローチは、いつの時代になっても必要だと私も考えています。

そして例えば、フォーマリズム的な作品のアプローチを視覚的な感性によってではなく、触覚的な感性から探究したらどうなるのでしょうか?私がこの数年間の個展のパンフレットで綴ってきたことは、そのような探究の萌芽であったと思います。この「視覚」から「触覚」へという変換こそが、現代美術における「OS」の変換の一つの事例になるだろうと思います。視覚的な芸術である絵画を、画家があえて触覚的に表現し、それを鑑賞者が感受するとなると、その感性は容易に形式化できるものではありません。常にそこには作者と鑑賞者の実感を伴う作品へのアプローチが必要です。型通りに作品を作れば良いというものではありませんし、それは見る側も同じことです。作品の「モチーフ」や「主題」や「来歴」などよりも、内容を重視する「フォーマリズム」的な絵画の鑑賞方法が、実は「触覚性絵画」を鑑賞する際にも効果的なのではないか、と私は思っているのです。作品の様式ではなくて、画面から実感できる「触覚性」に重点を置いたときに、「フォーマリズム」的な批評は魅力的な言葉を紡ぐことができるのではないか、と想像すると楽しくなります。

そして、「触覚性」を伴うそのような作品とのやり取りは、持田季未子さんの言葉にあった「絵画の現象学」とでもいうべきものを、自ずと招き入れるものです。目前の一枚の絵画に注目し、その画面が引き起こす現象に対して先入観のない無垢な目で見るということは、まさに「絵画の現象学」を体現するものです。私はその不思議な現象に、これからの絵画の可能性を感じています。

絵画の見方を「OS」ごと入れ替える、ということについて、さらにもう少し追いかけてみることにしましょう。



さて、ここからは予告です。

ここまで見てきた國分功一郎さんのスピノザ論ですが、さらに新たな知見を私に提示してくれました。それは次の一節にさらっと書かれていて、さらにそこに注意書きとして見逃してしまいそうなほど小さな文字で書かれていたことでした。

次の引用文では*の後が注意書きの部分になります。

 

スピノザは精神と身体の関係について徹底して考えた哲学者です。今回は全く触れられませんでしたが、現代の脳神経科学や医学からもスピノザの主張の正しさが証明*されつつあります。スピノザはAIを考える上でも参考になるはずです。それは結局、人間について考えることに帰着するでしょう。というのも、人間について、まだあまりにも多くのことが分かっていないからです。

*脳神経科学・・・スピノザの主張の正しさが証明

スピノザの心身並行論が現代の脳神経科学からみて妥当であることを論じたものに、脳科学者アントニオ・R・ダマシオの『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』(ダイヤモンド社)がある。

(『100分DE名著「エチカ」スピノザ』國分功一郎)

 

この『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』は人文的な思想書ではなくて、脳科学の本です。現在、読んでいるところですが、その内容を理解できるのかどうか、いささか疑問です。何かわかったことがあったらご報告したいと思っているのですが、とりあえず、その入り口の部分だけをメモ程度にご報告します。

この本の第1章に次のような一節があります。

 

この先私が論じていく上でひじょうに重要なことは、心と身体はまさに同じ実体の平行的属性であるとするスピノザの考え方だった。少なくとも、スピノザは心と身体を別々の実体に据えることを拒否することで、心身問題についての当時の主流の見解に反対の意を表明していた。彼の不同意は突出していた。しかしもっと興味深いのは、〈人間の心は人間の身体の観念である〉とする彼の考え方だ。これは注目すべき問題提起だった。スピノザは、心と身体という平行的発現をもたらす自然のメカニズムの原理を直観で理解していたのかもしれなかった。

(『感じる脳ー情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳)

 

この本の著者であるダマシオさんは、人間の「情動」と「感情」を次のように分けて考えています。

「情動」は人間がさまざまな刺激に対して身体的に反応する動きを言うのだそうです。例えば痛い時に声をあげて顔を歪めたり、気持ちが良い時に心地よくて口元が緩んで笑ったり、というのが「情動」です。

それに対して「感情」は、例えば快・不快による「情動」があったときに、それと連動して心の中で湧き起こる動きのことを「感情」と言うのだそうです。

いずれも人間にとって不可欠なもので、互いに関連しています。デカルトの心身二元論は、その不可分な「情動」と「感情」を分けてしまうことになるので誤りであると考えられ、スピノザはその平行性に気づき、「心と身体を別々の実体に据えることを拒否」したというのです。

私はダマシオさんの学説についても、スピノザの心身に対する考え方についても、その妥当性について私には云々することができません。しかし、美術表現について考えた時に、このダマシオさんの本は新たな示唆を与えてくれるような気がします。

私は美術作品という物質的な刺激に対して、人間の心がどうしてこんなにも感動してしまうのか、不思議に思ってきました。そのことについて、科学的に明らかにした本を私は知りません。しかし、「情動」と「感情」が連動して働く、という考え方に立つならば、作品分析に関してこれまでとは違った地平が開いてくるのかもしれません。

特に現代美術の作品は、人間の「知性」に働きかけるものを優先しがちですし、「感情」に訴えかけるものを通俗的なものだと評価しがちです。そして確かに、鑑賞者の「感情」に訴えかけようとねらいを定めて制作された作品は、その手法が通俗的であることが多いのです。私はそれにもかかわらず、もっと高い次元で人間の「感情」の動きを引き起こすことが可能であるはずだと考えますし、実際に優れた作品の前では、それが現代美術の知的な作品であっても「感情」を揺り動かされることがあります。

ここからは当てずっぽうの話ですが、私は絵画における「感情」の動きに関しては、色彩の力が大きいのではないか、と感じています。3月の個展の作品では、これまで以上に作品の主調となる色彩に変化を与えています。できれば、ゴッホやボナールの作品のように、センチメンタルな感情の対極にあるような豊かな「感情」を揺り動かすような作品が描けたらいいなあ、と夢見ながら制作しているところです。

そして、もしも私の作品や批評が、心身二元論を超越していくための一つの事例になるとしたら素晴らしいと思っています。それは芸術の分野に限らず、これからの私たちの生き方そのものを変えていくことにもつながるでしょう。そう考えると、とても大それたことではありますが、それだけに楽しみなことでもあります。

いずれにしろ、この探究はまだ端緒に着いたばかりです。これから先、実りの多い報告ができるように勉強していかなくてはなりません。

 

とりあえず、こんなところでしょうか。またご報告します。

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