平らな深み、緩やかな時間

15.岸田劉生と宇佐美圭司

あれはたしか、大学一年生の時だったと思います。私は哲学の授業を選択して、二見 史郎(1928- )先生の講義を受講していました。
私は高校を卒業したばかりで、哲学の本など読んだこともありませんでした。二見先生が『マチス 画家のノート』を翻訳した方だということも、受講して数カ月が経ってから友人から教えられました。
ですから、たとえば「時間」について考える、という講義内容の日があったのですが、そのときに何を先生が話されたのか、まるで憶えていません。もったいないことをしたな、と今になって思います。卒業してから、これほど絵と時間との関係について悩むことになろうとは、当時は思いもしませんでした。
そんな中で、何かのついでのように、岸田劉生(1891 - 1929)について先生が話をされました。正確には憶えていませんが、次のような内容だったと思います。
劉生は初期のころ、おおらかな筆触で自然主義的な絵画を描いていた。ところがほどなく、デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)などの影響から、細密な写実主義的な絵画に変わってしまった。美術史の上では、劉生のこの変化は独自の写実主義絵画の探究として高く評価されているが、本当にそうだろうか。初期の絵画がもっていたさまざまな可能性を考えると、劉生はもっとスケールの大きな仕事ができたのではないだろうか・・・。
もう35年くらい前のことですから、本当に二見先生がこういう話をされたのか、確信は持てませんが、そのときまで劉生の美術史的な評価について、私はまったく疑問を持っていませんでしたから、たぶん間違いないでしょう。
明治時代以降、日本の画家が西欧の絵画を学んで、若いうちからたいへんな成果を上げる、という話はめずらしいものではありません。そしてその後に日本独自の、あるいは自分独自の道を探るうちに、入り組んだ隘路に入り込んでしまう、ということもよくある話です。ただ、劉生の場合は、その後の絵画が高く評価されていますから、二見先生の解釈をどう考えるのか、意見が分かれるところだと思います。
私は個人的には、先生の解釈が妥当なものだと考えています。劉生は技術も才能もあった画家だと思いますが、写実に対する考え方が、かえって絵の楽しみを狭くしているように感じます。

さて、急に劉生のことを思い出したのは、前回も書いた宇佐美圭司の、若いころの作品を画集で見ることができたからです。昨年開催された、大岡信ことば館の「制動・大洪水」展のカタログを取り寄せてみました。(山田正亮の府中市美術館での展覧会のことといい、展覧会を見逃しては、後から画集で確認する、という愚かなことを繰り返しています。)
画集を見て驚いたのは、宇佐美の若いころの重厚でダイナミックな表現です。
たとえば『反建物』という1958年の作品は、建物を描いた具象絵画ですが、とても興味深い作品です。遠近法が微妙にゆがんでいて、建物に沿って奥に行こうとする視線の動きを、懸命に食い止めているように見えます。渋めの色彩は、部分的には明暗のコントラストを見せながら、画面全体としては均質化をはかってもいるようです。そんな矛盾した要素が、荒々しい画面の中であやういバランスを保ちながら同居しています。
その後の1960年の『ヴィリジャン、群れをなして』というシリーズは、初期のポロックを思わせるような抽象絵画です。暗い色の中で、波のようにうねる形が描かれています。あまりに明度が低いので、ちょっと色味を抑え過ぎかな、と思いますが、それすらも力強さになっているように思えます。
いずれにしろ、私が知っていた1980年代の宇佐美の絵画とは、ずいぶんと印象が違っています。宇佐美はその画集の中で、次のように書いています。

 『絵画論』(1980年刊)にも書いたが、私は線遠近法に対抗して画家になった。「建物・反建物・めぐり」と題した画家としてのはじまりのドゥローイングを「めぐり」としたのも、止められた時間がそこから溢れ出すような不可能を夢みたからであった。
 20世紀初頭、西欧近代だけが「止められた時間」に対抗して表現活動の変革を試みた。クレーが主張した「動力学」もデュシャンの「当時私たちをとらえていたのは、一にも“還元”二にも“還元”だった」という言葉も、あるいはモンドリアンの抽象的表現への行きつ戻りつの両義的な躊躇もそのあらわれであったろう。半世紀遅れで歴史に参入するという強い思いが私の出発を支えていた。
(『制動・大洪水のこと』)

最初から、このような問題意識をもって出発した、ということが、私のような者にとっては驚きです。『反建物』は18歳の頃の作品ですから、早熟な人でもあったのでしょう。とくに「線遠近法に対抗」することが、「止められた時間」に対抗することでもあった、という認識が素晴らしいと思います。空間と時間との関係に思い至るまで、私は何年かかったことか・・・。
ただ、初期の宇佐美の作風は一定しません。
1964年には人体の形が表れます。首から上のない、ボディーだけの形が、後年の作品を予感させます。しかし、それでもまだ決定的な方法論が見出せず、模索していた時期だったのでしょう。「プリヴェンション」=四つの人の形による装置が組み込まれた絵画は、その後に登場することになります。理論家としての宇佐美圭司は、そこでひとつの結論を得ることになります。「線遠近法に対抗」する方法論を、明確な形で表現し、また語ることが可能になったのです。
前回も書いたように、この時期の宇佐美の絵画に、私はどうもなじめません。絵として楽しむ前に、説明的な図として見えてしまうのです。こんなことを書くと、所詮、現代絵画のわからない人間だ、と思われてしまうのでしょうが、自分としてはどうしようもありません。

さて、ここまで読んでいただけると、もうおわかりだと思いますが、私には、初期の宇佐美の絵画と方法論を確立した後の宇佐美の絵画の関係が、劉生のそれと重なって見えます。
もしも宇佐美の絵画が、「プリヴェンション」という方法論によらずに、初期の矛盾を抱えたままで探究されていたなら、どんな絵画になったのでしょうか。そんな問いはナンセンスだし、作家に対して失礼だとも思いますが、それだけ今回の画集に見る初期の宇佐美の絵画は、私にとって興味深かったのです。
晩年になって、宇佐美の絵画は再び初期のころのようなダイナミックな動きを見せています。もちろん、そこには四つの人の形が組み込まれているのですが、それが絵のdetailを形成する要素として、画面の中でこなれているようにも思います。そうすると逆に、はたしてこれは人の形である必要があるのだろうか、と私はつい考えてしまいます。これが単なる筆触の痕跡であったり、色の塊であったりしてはいけないのか、というわけです。「プリヴェンション」という概念すら必要のない、絵画制作の強い動機、主題を宇佐美は確保していた・・・私にはそう思えます。もしも宇佐美が、若いころに「プリヴェンション」という方法論をとらなかったら、もっとストレートに晩年の作品に至ったのではないか、とそんなことを想像します。いずれにしろ、知的に抑制されていた宇佐美圭司という画家の体質、あるいは身体性のようなものが、晩年になって再び現れて、それが初期の頃とつながっているのではないか、と思います。

岸田劉生も宇佐美圭司も、人生のどの地点においても絵画制作への意欲を強く感じます。そして中途半端ではない、はっきりとした結果を出してきたからこそ、賞賛されたり批判されたりするのでしょう。
もっともつまらない作家は、はっきりとものを言えない、批判に値しない作家だろうと思います。私も作家のはしくれだとするならば、批判に値しない作家だと自覚しています。せめて、何だ、これは、と批判されるような作品を描かなければ、と思ってはいるのですが・・・。

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