平らな深み、緩やかな時間

14.橘田尚之展、宇佐美圭司のこと

前回まで書いた山田正亮について、美術評論誌『ART TRACE PRESS 02』※に特集が掲載されていたことはお知らせしましたが、同号に宇佐美圭司(1940―2012)のインタビュー記事も載っていました。
※(http://www.arttrace.org/books/details/atpress/atpress02.html
宇佐美圭司はこのインタビューの後、亡くなったそうです。そういう意味で、あるいはそうでなくても貴重な記事だと言えます。宇佐美圭司は、個人的にまったくお会いしたことも、お見かけしたこともない方ですが、学生のころに『絵画論 ―描くことの復権―』という本を読んで、たいへんな衝撃を受けました。
今回はそのことについて、思うことを書いてみたいと思います。


そのまえに、先日見た展覧会についてです。
まったく別な話ですが、3月2日まで、京橋の檜画廊で橘田尚之展が開催されています。
http://www2.ocn.ne.jp/~g-hinoki/index.html
今回は橘田尚之の、立体作品と平面作品の両方を見ることができます。いずれも有機的な曲線を用いた形が印象的で、それが作品の外側へとリズミカルに広がっていくような、生き生きとした作品になっています。
私は橘田作品を見ると、マチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)の晩年の切り紙作品を見るような、楽しい気分になります。特に立体作品におけるアルミ板の表面の使い方や、紡錘形の構造が支え合って大きな立体を形成しているところなど、オリジナリティも抜群で、海外でもこのような作品は見られないのではないか、と思います。
個人的にも、平面がそのまま立体になっているような、その作品の成り立ちに興味があります。立体作品の表面を強調した作品は数多くありますが、薄っぺらなアルミ板がこのようなボリューム感と軽やかさを表現してしまうところなど、おおげさでなく驚異的です。とても独創的で、何度見ても不思議な感じがします。作品の形状と表面に描かれた色や線が相乗してその効果を生んでいるのだと思いますが、視線が空間を浮遊するような感触は橘田尚之にしか表現できないものだと思います。もしもご覧になっていなければ、ぜひ見ていただくとよいと思います。
日本を代表するような現代美術作家だと思うので、いつか大きな美術館での個展とか、これまでの作品やテキストをまとめた画集などが出ることを期待しています。


さて、宇佐美圭司についてですが、残念ながら私は彼の作品の熱心な鑑賞者ではありませんでした。昨年の「大岡ことば館」での展覧会も見ずじまいで、少々後悔しています。(こんなことばかりです・・・)学生のころに彼の本から衝撃を受けた、ということは書きましたが、その後、気持ちの中ですこし距離を置くようにしていた面があります。なぜか、と言えばこういうことです。

まず、宇佐美の『絵画論―描くことの復権―』という本について、素描しておきましょう。これも残念ながら、いま手元に本がないのですが、何回か読みなおしたので、ある程度の内容は覚えています。
現代絵画は描くべき主題を失ってしまった、というのが話の前提としてあったと思います。宇佐美圭司がどういう文脈でそう言っていたのか吟味するまでもなく、絵画といえばミニマルな作品ばかりで、インスタレーションやオブジェを並べた作品が画廊にあふれていた時代に、その前提はすでに私の中で了解されていました。美術の世界のことだけでなく、ポスト・モダニズムという言葉が流行り始めたころで、モダニズムの右肩上がりの発展、膨張していく世界観に限界が指摘されはじめたころでもありました。そして、新しい世界観が求められているような気がしましたが、新しい世界観、といっても、新しい○○主義、というような魅力的な代替物があるわけではありません。美術の世界では「絵画の終焉」ということまで言われていた時代です。深刻に考えて描くことをやめるのか、あるいは思考を停止して「ポスト・モダニズムの絵画」と当時称された具象的な、平たく言えばヘタウマ的な絵画を描くのか、若くて単純な私のアタマでは選択肢はあまりありませんでした。(単純な所はいまも変わりませんが・・・。)
そんなころに『絵画論』を読み、その中で語られた「プリヴェンション」という概念に、それまでの美術の本では読んだことがなかった明確な問題意識を感じました。「プリヴェンション」とは、自閉症の少年が行動を起こす妨げになっているもの、たとえば行動を起こす前に必要とされる儀式のような行動様式のことを指していたと思います。何かやるまえに、それとは直接関係のない、一般の人からするとわけのわからない行動を経過しないと動くことができない、というときの儀式的な行動のことです。宇佐美はその「プリヴェンション」を、行動を起こすための起動スイッチとして捉え、描くことの主題を見出せない私たちにも必要なものではないか、と言ったのです。
現代にあって、その「プリヴェンション」、つまり絵の主題や描く動機にあたるものは、画家の内面にあるような独りよがりのものであってはなりません。たとえばデュシャン(Marcel Duchamp, 1887 - 1968)の一連の作品は、それを明確にするための試みとして捉えられます。マチスやピカソ(Pablo Picasso 、1881 – 1973)は、「プリヴェンション」を明確にする革新を進めつつ、途中で引き返してしまった画家として、『絵画論』のなかで捉えられていたように思います。
宇佐美自身は、アメリカの暴動の報道写真から「走りくる人」「たじろぐ人」「かがみこむ人」「投石する人」の四つのパターンを鑑賞者と共有できる普遍的な人の形として規定し、そのシルエットを絵の中に組み入れていました。
当時、私はそれほど多くの本を読んでいたわけではありませんが、宇佐美圭司という実作者が、これほどの広範な知識と明確な論理によって本を書き、絵を描いていることに驚きました。それまでの画家が書いた自叙伝や自作の解説本とは明らかに違っていました。また、そのころ読み始めた思想家の柄谷行人(1941 - )が、『日本近代文学の起源』という代表作の中で、山水画の遠近法の解説として宇佐美圭司の文章を引用していたことも、よく覚えています。
それならば、私も自分なりの「プリヴェンション」を見いだして、作品を作ればいいではないか、ということになりますが、それほど簡単な話ではありません。巷には、ある一定の決まりごとの中で絵を描き、それが鑑賞者にも了解できるように工夫した作品も多々ありましたが、それが絵の質、絵の良さと結びついているのかどうか、私にはいまひとつ実感がわきません。正直に言えば、宇佐美圭司の作品でさえ、そのシステマティックな構造に、私はなじめなかったのです。
いつしか宇佐美圭司という人を、注目すべき画家、著作者としつつも、すこし距離を置くようになっていました。いまならば、すぐれた画家や思想家がすべて自分に直接の影響を持つわけではない、というふうに割り切ってしまうところですが、若いころに感銘を受けた場合にはそうはいかず、やや複雑な思いが残りました。これまでに、宇佐美圭司の作品に触れる機会が多々あったのに、無意識のうちにその機会を逸していた、というのもそんな事情によるものだと思います。
今回の『ART TRACE PRESS 02』のインタビュー記事を読むと、美術に対する情熱や世代の異なる作家としての体験など、宇佐美の話の中には興味深いことが多々ありました。それに、先日たまたま南天子画廊をのぞくと、晩年の宇佐美圭司のドローイングがあり、予想外に自分の中に感じるものがありました。宇佐美の特徴である人型のシルエットが描きこまれていた点では、若いころに見たものと変わりがないのですが、それがほんのディテイルと思えるほど画面全体に大きな動きがあり、システマティックなものを凌駕しようとする意志のようなものを感じました。絵を描くことが困難だとされた時代に、あえて描くことを続けた画家として、継続して作品を見ておくべきだったのかな、と思った次第です。
インタビュー記事の追記として、宇佐美は次のように書いています。

 私が構造主義に固執するのは、構造と時間が絵画表現における空間と時間との鏡像のような矛盾関係にあると思うからである。構造は空間的なパターンを語る。しかしそのパターンは自らの移行と変化として姿をあらわす運動でもあり「歴史」を止めると共にそうすることによって「歴史」の変容を夢みるものであったから。知識ではなく行為を支えるものとして。
(『ART TRACE PRESS 02』「宇佐美圭司インタビュー 追記」)

私はもしかしたら、「構造は空間的なパターンを語る」というところを、かろうじて読んでいただけなのかもしれません。パターンが移行し、変化する「運動」として見る余裕もなく、ただ静止した、スタティックな構造として受けとめていたのです。また、宇佐美はこうも書いています。

 未来を語ろうとして過去に向かっていく逆流する歴史は―はたしてそれが歴史と言えるかどうかは別にして―私が勝手につくりあげた幻想ではない。
(『ART TRACE PRESS 02』「宇佐美圭司インタビュー 追記」)

「未来を語ろうとして過去に向かっていく」というところが、構造主義の思想、あるいはモダニズム以降の思想の特徴なのでしょうか。私は素人なので大雑把な言い方しかできませんが、一直線に続く未来を語ることはもはやできない、ということは自明なことのはずです。それなのに市場が新しい商品を欲しがるように、美術の世界でも新しい○○主義を欲しがっているように思います。今にして思えが、宇佐美はそのことからの覚醒を語っていたのだと思います。山水画からマチスやピカソまで、その芸術の成り立ちを構造的に解明していく見方があって、彼はその一端を示したのでしょう。

作家として宇佐美の模倣をする必要はないし、彼の見出した「プリヴェンション」が他の人間に応用できるとも思いません。そんな即効的な話ではなく、もっと大きな視野で彼の構造主義的なアプローチをゆっくりと検討してみたい、といまは思っています。

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