サッカーのワールドカップで日本のチームが善戦しました。
それはうれしいことですが、ニュースを見ると、どの番組もトップニュースでワールドカップを扱っていて、それもかなりの時間を割いています。その一方で私たちが浮かれている間にも、ウクライナでは多くの人が亡くなっていますし、宗教の名をかたった団体の不当な搾取をどう防ぐのか、あるいは国民に最貧の生活を強いながらミサイルを打ち上げる独裁者から私たちの暮らしをどう守るのか、などといった重要な話題がいっぱいです。その対策に手をこまねいていたり、一気に防衛費を引き上げようとしていたりする為政者にとっては、オリンピックやワールドカップがちょうどよい隠れみのになっているという実情があります。こういうときこそ、冷静になりましょう。
そのスポーツも、政治や経済と無縁ではありません。
東京オリンピックの汚職事件に関しては、しっかりと調べていただきたいです。オリンピックの元組織委員長が先日、他人事のように札幌オリンピックの招致活動について「1日も早く事件が解明され、新たな誘致のスタートが切れるようにしなければならない」と述べました。この方には当事者意識があるのかどうか、委員長としての責任は逃れられないはずですし、次の招致活動について「新たな招致のスタート」などと言われると唖然とします。
今回のワールドカップも、開催国では弱い立場の出稼ぎ労働者が酷使されて、多くの人が亡くなっているというニュースがあります。このことについてメッセージを発しようとする参加国がある一方で、FIFAの反応は冷淡で、日本の動きもそれと同調するように鈍いようです。監督や選手、サポーターのモラルの高さが話題になっているのに、上に立つ人たちにはさまざまな思惑があるようで、それが残念です。もっとも、労働者が酷使される問題は、ワールドカップに限らず世界的な経済構造の問題だ、という指摘もあって、たまたまそれが大きなイベントの中で顕在化しただけなのかもしれませんが・・・。
このような状況を見ると、オリンピックやワールドカップがイベントとして肥大化し過ぎているようで、このあたりでもう一度スポーツの意義について、根本的に考えてみてもよいのではないか、と思う次第です。
オリンピックやワールドカップというイベントの話題が先行するなかですが、スポーツは、一部のスポーツエリートのためだけにあるのではなくて、私たちが健康に暮らしていくために必要なものだ、という考え方が、徐々に広がっているように感じます。学校の体育の授業でも、生涯スポーツという視点がクローズアップされるようになりました。過激な運動は事故や怪我のもとですから、私のような年齢になったらウォーキングぐらいがちょうどよいのかもしれません。
しかしそうは言っても、スポーツをするなかで、今までできなかったことができるようになるのは、やはりうれしいものです。それが長じると、競技スポーツの選手として活躍したい、という思いが湧いてくるのでしょう。その思いには、否定しがたい魅力があります。実際に競技に出場して、相手を打ち負かしたい、という欲が出てくると、それはまた別な気持ちの問題になってきますが、スポーツの上達そのものは楽しいものです。
それでは、なぜスポーツの上達は楽しいのでしょうか?
私はスポーツをやっていると、自分の身体はどうしてこんなにも思い通りに動かないのだろう、という苛立ちを感じます。私は運動能力が低いので、格別にそのことを感じますが、仮に運動能力が高かったとしても、どこかに限界があるはずですから、自分の身体が自由にならない、という思いは変わらないと思います。
そう考えると、スポーツを上達するということは、実はいままで自由にならなかった自分の身体が、すこしだけ自由になる、ということではないでしょうか。自分をとりまく限界が思い通りの方向で更新されることによって、ちょっと気分が良くなるのです。スポーツ好きの方なら、そのことについて延々と話したいところでしょう。
しかし私がここで考えてみたいのは、運動などを通して私たちが身体に不自由を感じたときのことです。それ以外にも、怪我をして身体のどこかが痛くなったときにも、私は自分の身体のその部位について意識をします。身体の外側だけでなく、例えば胃や腸が痛くなったとき、気管支が腫れて喉の奥に違和感があるときなども、身体の内部の器官のことを私たちは意識せざるを得なくなります。ふだんは意識しなかった自分の身体が、スポーツを通じて、あるいは怪我や病気などの障害によって意識に上ってくるのです。
それでは、今回の本題に入ります。
現代美術において、人間の「身体性」がよく話題になります。美術は目で見て鑑賞するものですから、「身体性」と言われても「目のこと?」「視力のこと?」と思ってしまいますが、そうではありません。何だか抽象的で、とても難しい概念のように思われます。しかし、もしもあなたが美術作品を鑑賞する立場なら、作品の「身体性」について、それほど意識する必要はありません。その作品が優れた作品で、あなたの感覚の中の「身体性」を換気する力があれば、見ているうちに自然とそれを感じ取っているはずです。
しかしあなたが作品を批評したり、制作したりしている立場なら、「身体性」と美術作品との関わりについて、少しは意識したほうがよいでしょう。アスリートが自分の身体について意識しているように、あなたはあなたの「身体性」が作品とどう関わり、それがどのようにあなたの見方を規定しているのか、知っておくにこしたことはないのです。
さて、前回からの続きで、オランダの哲学者、スピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)の思想を、彼について書かれた岩波新書の『スピノザ 読む人の肖像』を手引にして勉強していきます。この本の著者は、哲学者の國分功一郎さんです。
さっそくですが、この本には、人間の精神と身体について、次のような興味深いことが書かれています。
(『エチカ』の)第二部のタイトルに、「精神の本性および期限について」とあることから分かる通り、この部の対象は精神である。ただし精神はここで、あくまでも身体との関係において捉えられている。そのことの意味をゆっくり確認していこう。スピノザはまず人間の精神についての三つの原理のようなものを定理として述べる。それに続いて身体の諸々の特性が手短に確認され、その上で精神についての本格的な議論が始まるというのが議論の大まかな流れになっている。
まずスピノザは人間精神についての第一の原理を次のように述べる。「人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念に他ならない」(第2部定理11)。この個物の観念とは、神の中に存在している、各々の人間精神の核のようなものである。あらゆる存在にはそれに対応する観念がその存在の精神として存在している。
(『スピノザ 読む人の肖像』「人間の本質としての意識」國分功一郎)
ここには、「あらゆる存在にはそれに対応する観念がその存在の精神として存在している」と書かれています。つまりスピノザは動物や植物、無機物さえも「あらゆる存在」としての精神を有している、と言っているのです。國分功一郎さんによれば、アンリ・ベルクソンも似たようなことを言っているそうです。しかし國分功一郎さんは、ここでは人間のことについて考えていきましょう、と断った上で次のように進みます。
さて、人間精神とは身体の観念である。つまり、精神としての我々は、我々自身の身体の観念であるということになるわけだが、しかしこれは人間精神が身体を隅から隅まで正確に認識しているという意味ではない。実際、そんなことはありえない。人間精神がたとえば心電図モニターのように心臓の活動を記録した正確なデータを受け取っているわけではない。スピノザははっきりと述べている。人間精神は身体の観念であるが、「人間精神は人間身体を認識しない」(第2部定理題19備考)。ここにスピノザの精神の定義を理解する上での最初の難関がある。人間精神は身体の観念であるのに、身体を認識しないとはどういうことなのか。
(『スピノザ 読む人の肖像』「人間の本質としての意識」國分功一郎)
とても難しいことを書いているようですが、これは先ほどまでの私の与太話と同じことを言っているのではないでしょうか?たぶん、私たちの身体に私たちの精神が宿っている、ということは多くの方に了解していただけると思います。しかし、私たちはふだん、自分の身体のあちこちについて特に意識しているわけではありません。ところがスポーツをはじめてうまくいかなかったり、身体が痛くなったりするようなことがあると、とたんにその体の部位が気になるのです。つまり、私たちが身体について意識するのは、私たちの身体に何らかの「変状」があったときだ、ということになるでしょう。
そのことについて、スピノザは次のように言っている、と國分功一郎さんは解説しています。
身体のどんな特徴と外部からの刺激のどんな特徴とが、いかなる相互作用をもって変状をもたらすのか、精神にはそれを知ることは困難である。精神に与えられるのは、変状という結果だけだからだ。それゆえ、スピノザは身体の変状の観念を「前提のない結論のようなもの」と言っている(第2部定理28証明)。
これは我々が、自らを取り囲む外部の事物や事実について、まずは混乱した観念しか獲得できないことを意味している(第2部定理25)。そして自らの身体について認識を得るのも変状を通じてであるのだから(第2部定理23)、自らの身体についても、我々は、まずは不確かな観念しか獲得できない。これが我々が精神としては身体の観念であるにもかかわらず、身体の妥当な観念を有していないことの意味するところである。
(『スピノザ 読む人の肖像』「人間の本質としての意識」國分功一郎)
いかがでしょうか?難しい文章ですが、私の与太話を思い起こせば、理解することはそれほど難しくないでしょう?私たちは、自分の精神が宿っている自分の身体についてさえ、ろくにわかっていません。なぜなら、何か身体に「変状」がないと、身体を意識することすらないのですから・・・・。
それにしても、こんなあたりまえの話を、こんなふうにもって回った言い方で告げる必要があるのかな?といぶかしく思います。しかし、ここからがスピノザのすごいところです。続きの部分を読んでみましょう。
いま見たとおり、身体の変状の観念は「前提のない結論のようなもの」と言われている(第2部定理28証明)。いかなる原因が身体にどのような差異をもたらしたのかを選り分けて知ることは困難であるため、精神は少なくとも初期状態では、まるで前提なしで結論だけを与えられるような状態にあるわけである。ここからスピノザは、『エチカ』においてある意味で最も有名なテーゼを導き出す。自由意志の否定、あるいは意志の自由の否定である。
論証は次のように進む。虚偽の観念は何かそれを虚偽たらしめる積極的なものをもっているわけではなく、観念の混乱や欠損のゆえに虚偽である(第2部定理33、35)。人間は自らの自由意志によって行為しているという「意見」こそ、そのような虚偽の一例に他ならない(第2部定理35備考)。意志の自由という考えは原因についての認識の欠損にもとづいているからである。「そうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識する(conscius)が彼らをそれへ決定する諸原因を知らない(ignarus)ということにのみ存するのである(第2部定理35備考)。
一つの行為は無数の原因によって引き起こされるものである。言い換えれば、私のもとで一つの行為が実現している時、それらの原因が私の身体に変状をもたらしており、私はその変状によってその行為を行うよう決定されているわけである。ところが私が「意識する」のはこの変状という結果だけである。私は行為の原因を知らない。自身の身体についての妥当な観念を有していない。だからその変状が引き起こしている衝動を自由な意志だと思い込んでしまう。意志が何の前提もなく自然発生したかのように思ってしまう。同じことが第1部の付録でも指摘されている。「彼らは自分の意欲および衝動を意識しているが彼らを衝動ないし意欲に駆る原因はしらない」(第1部付録)。
(『スピノザ 読む人の肖像』「人間の本質としての意識」國分功一郎)
例えば、私たちは私たちの行為のどこまでが純粋な私たちの意志によるものなのか、どこまでが偶然性によるものなのか、というような話をすることがあります。ミステリードラマなら、偶然だと思っていたことが、実は誰かに操られていた、などというパターンの筋書きはありふれているでしょう。
しかしスピノザのこの「自由意志の否定」は、もっと根本的です。私たちの身体にもたらされる「変状」すら、私たちは意識することができない、だから精神はつねにその「変状」に不意打ちをされているのであって、そこから起こす行為は、私たちの「自由意志」によるものではない、と言われているのです。これでは、私たちが自由に意志する隙間がまったくありません。だからこそ、このスピノザの解釈は衝撃的なのです。
これは、私たちのような創作者にとっては、かなり切実な問題です。とにかく私たちは子供の頃から、何かを創作するのなら自分の「自由意志」による「創造性」が大切だ、と言われて育ってきました。人の真似をしてはいけない、とか、オリジナリティーがとても重要だ、とかいうことです。しかしスピノザによれば、その前提が崩れてしまう、ということなのです。
その一方で、私たちはスピノザが指摘したようなことについて、薄々は感じていました。まったく無垢な「創造性」などありえない、と創作者なら、誰もが一度は感じたことがあるのではないでしょうか?しかし深く考えるとわけがわからない状態になってしまいますから、考えるのをやめてしまうのが一般的な反応です。つまり「創造性」を否定する予感を気持ちのどこかで持ちながら、私たちは「創造性」が大切だ、と言っているのです。
しかし、それは自分を欺いている、というのとは違っています。もっと誠実に、そしてまじめに私たちはそうしているのです。この私の態度は不徹底で不真面目なものでしょうか?私には、そうは思えません。もう少し考察を進めてみましょう。
國分功一郎さんは、「自由意志の否定」というスピノザのテーマについて、私たちがどうしても馴染めない気持ちになるのは、そもそも「意志」というのは人間が「自由」に決めるものである、というイメージがあるからだと言っています。「自由意志」という言葉には、「自由」と「意志」という二重の意味の重なりがあって、そこに違和感があるのではないか、と解説します。それほどに「意志」という言葉には純粋に人間が何かを選択する、という意味合いがあるのです。しかしスピノザによって、それが考察の不徹底によるものだ、ということが指摘されてしまいました。それでは、私たちは「自由」にものごとを決めることができない、不自由な存在なのでしょうか?
ここで、先ほどの「身体性」のことを思い出してみましょう。私たちの精神は、自分たちの身体に対して意識を持てない存在であって、身体に「変状」をきたした時だけ、「身体」の存在が意識に上ってくるのです。しかし、どれほどの「変状」が生じると、私たちはそれを意識することになるのでしょうか?私たちは、気づかないうちに怪我をしていたり、重篤な病におかされていたり、ということがよくあります。
そう考えると、私たちが何かを「意識する」ということがどういうことなのか、よくわからなくなります。國分功一郎さんは、次のように書いています。
スピノザの用語法を離れてこんな風に説明することもできるだろう。無数の原因が我々の心身にミクロな刺激を数え切れないほど与えている(最近の生理学的研究は内臓の動きが感情に大きな影響を与えていることを明らかにしつつあるという)。そうしたミクロな刺激がまとまって一定のマクロな結果をもたらす。我々はそのマクロな結果を意志として、あるいは行為として意識する。どの程度のまとまりになると意識されるのかは人それぞれであろうが、いずれにせよ、ある程度のマクロなまとまりが生まれた時、意識はそれを意志として感じる。
(『スピノザ 読む人の肖像』「人間の本質としての意識」國分功一郎)
だいぶ話が立て込んできてしまいましたが、もう少しだけ先に進みましょう。
この続きの話になるのですが、スピノザはこの不可解な「意識」のメカニズムを探究するために、「目的」という概念を取り上げているようです。私たちは、何かを「意識」するのは然るべき「目的」があるからだ、と言いたくなりますが、そのように「目的」を「意識」の原因にしてしまうことが正しいのかどうか、ということです。そもそも私たちの「意識」は、つねに何かの「目的」をもって働くほど一元的なものでしょうか?
本当は「意識」をしていないところで(國分功一郎さんが書いたように)「ミクロ」なたくさんの刺激に出会って、その結果たどり着いたものを「目的」と言っているのではないでしょうか?つまり、原因と結果をいつの間にかすり替えてしまっているのです。
そしてこのような考え方は、その後のフロイト(Sigmund Freud、1856 – 1939)の「無意識」の問題につながるのではないか、と國分功一郎さんは指摘しています。フロイトもスピノザも、「意識」では説明しきれないことを語ろうとしているからです。200年後の革新的な「精神分析」の考え方を、スピノザは先取りしていたのですね。
このように、一つの問題意識がどんどん掘り下げられて、繋がっていきますが、今回はこれくらいにしておきましょう。
最後になりますが、現代美術における「身体性」について少しだけ考えておきましょう。
現代美術における「身体性」というと、例えば巨大な絵画を前にして、自分自身の見上げるような視線を意識するときに、私たちは自分の身体の大きさ(小ささ)を感じます。あるいは、林立する立体作品の間を歩き回る時に、私たちは自分自身の身体の動きを感じます。そういう特別な作品に対して感受する「身体」の意識が、現代美術における「身体性」だと思われがちですが、そうではありません。
例えば、私は画布に向かって絵を描く、というアナログな方法で今も制作していますが、その時に私は、私の知性と感性と身体性のすべてを使って、懸命に絵を描いています。その時に私は、どこからが私の知性の働きであり、どこからが感性で、どこからが「身体性」で、などと考えません。頭に思い描いた作品とまるで違う絵になってしまうことが多いのですが、それは私の知性や感性に、身体性がついていっていないからかもしれません。それは私の作品制作を縛る一つの要素ではありますが、そうは言っても「身体性」を切り離した作品というものを、私は見ることができません。
しかし、私はそれで良いのだと思っています。私の作品は、まだまだ未熟なものではありますが、そのような「身体性」に縛られた表現というものは、未熟さとはまた別なものです。おそらく私の作品が成功しているならば、私の作品から私の「身体性」を感じてもらえるはずです。もしも私の作品から、私の「身体性」を感じてもらえるのならば、それは私を縛るものではなく、私の個性とか、オリジナリティーだと言って良いものでしょう。
そして私が他の作家の作品を鑑賞する時には、その作家の「身体性」が感じられないと、何か物足りない感じがします。作品を見る行為というのは、ディスプレイの中の作品の映像を見る体験とは決定的に異なっています。その鍵を握るのが「身体性」だと私は思っています。
知性と感性と身体性と、それらは深く関係し合い、ある意味では互いに邪魔しあっているとも言えそうです。「自由意志」というものが私の知性に依存するものだとしたら、それは私の感性と身体性に妨げられています。しかし、その全体が私の作品であって、「自由意志」というものは、その時にはどうでも良いものになっています。どうしてそうなってしまうのか、今回スピノザを勉強してよくわかりました。それは「自由意志」というものが、スピノザが指摘したように、実は不徹底な考察によるものであり、その根拠があいまいなものだからです。
私たちが気をつけなければならないのは、そのあいまいな「自由意志」という概念に振り回されて、作品を硬直させてしまうことでしょう。「創造性」についても同じです。思い通りにならない、スピノザ流に言えば「意識」が十分に届かない「身体性」に妨げられた作品は、「創造性」に欠けるのか、と言えば、そんなことはありません。思い起こせば、モダニズムを標榜する抽象画家を自称する人たちには、中途半端な思考による「自由意志」や「創造性」にこだわるあまり、作品を硬直させている人たちがたくさんいます。得てしてそういう人たちは、真面目に作品に取り組んでいるように見えますし、知的で正しい道を歩んでいるように見えますが、それだけに厄介です。そういう人たちの作品が現代美術を展示する美術館の壁面を占有しているために、美術がつまらないものだと思われてしまうのです。美術館に行くと、子供のような拙い絵か、硬直した退屈な絵か、そのどちらかしかないとしたら、一般の方たちから敬遠されてしまうのも無理はありません。
そんなことを言いながら、私はそのことについて、根拠を持って語るだけの言葉を今は持っていません。スピノザを勉強すると、これらのことについて語る言葉を得られるのかもしれません。
しかし本当に大事なことはそんなことではなくて、スピノザを学習することで、より多くの問題を抱えることができるということです。ラディカルにものごとを突き詰めていけば、芋蔓式に次々と問題点が上がってきます。問題を解消するつもりが、どんどん深みにはまってしまうのです。
しかしそれは、素晴らしいことではないでしょうか。