哲学者の國分功一郎さんが岩波新書から『スピノザ 読む人の肖像』を出版しました。このblogでも、以前に國分さんの『100分DE名著「エチカ」スピノザ』を取り上げました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/59200a3c5c113d48b1674c8912f69c79
ちょっと脱線しますが、これを書いた頃は、新型コロナウイルスの感染防止のために、なかなか大学が再開しない時期でした。小中高は登校指導を再開し、私の職場でも時間割を変則的にするなどの工夫をして、感染防止策に取り組みながら授業を再開しました。それは涙ぐましい努力でしたが、それなのに大学は・・・、という気持ちが文章に表れていますね。
さらに思い出すと、その頃の為政者は、感染防止のために経済界から文句のでなさそうなところから行動自粛をさせてしまおう、とばかりに学校や文化施設を真っ先に閉鎖してしまいました。おかげで学生は学校に行けないばかりか、図書館で本も借りられない、という悲惨な状況でした。黙って作品を鑑賞する博物館や美術館、静かに本を読んだり借りたりする図書館がスーパーマーケットやコンビニエンスストアよりも感染リスクが低いことは、あの当時からわかっていましたが、政治家として何かやらなきゃ、という焦りがあったのでしょう。
今はゼロコロナ政策にこだわる隣国を冷ややかな目で見る私たちですが、よその国の落ち度を探すよりも、自分の国の非合理な政治をなんとかしないと、いずれ国が滅んでしまいます。どうしたら良いのか、途方に暮れるばかりですが、みんなで考えていきましょう。
私自身は、このささやかなblogですが、何とか読んでくださる方と知的な刺激を共有したいと思い、それまでよりも長めの文章を悪い頭をひねって書いていた時期でした。ですから、先にリンクを貼ったblogですが、かなりの力作です。ぜひとも目を通してから、今回の文章をお読みください。
さて、今回はあわてずに2回か3回に分けて、國分功一郎さんの『スピノザ 読む人の肖像』を読み込んで、あわよくばスピノザの思想について、より深く理解したいと思います。ちなみに、岩波書店がこの本の広報としている文章は次のとおりです。
哲学者とはいかなる人物なのか。何を、どのように、考えているのか。思考を極限まで厳密に突き詰めたがゆえに実践的であるという、驚くべき哲学プログラムを作り上げたスピノザ。本書は、難解とされるその全体像を徹底的に読み解くことで、かつてない哲学者像を描き出す。哲学の新たな地平への誘いがここに!
(岩波書店 広報文より)
なんだかワクワクしますね。
そのスピノザ(Baruch De Spinoza 、1632 - 1677)ですが、オランダの哲学者で、デカルト( René Descartes、1596 - 1650)、ライプニッツライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 、1646 - 1716)と並ぶ17世紀の合理主義哲学者として知られています。また、カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)などのドイツ観念論の哲学者や、カール・マルクス( Karl Marx、1818 - 1883)などの現代思想家にも大きな影響を与えた人です。
スピノザがどんな思想家だったのか、端的にそれを紹介する文章が國分さんの『100分DE名著』の方にありますので、そちらを引用してみます。
私はスピノザ哲学を講じる際、学生に向けて、よくこんなたとえ話をします。
ーたくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学がある。それらをそれぞれ、スマホやパソコンのアプリ(アプリケーション)として考えることができる。ある哲学を勉強して理解すれば、すなわち、そのアプリはあなたたちの頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザ哲学の場合はそうならない。なぜかというと、スピノザの場合、OS(オペレーション・システム)が違うからだ。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS自体を入れ替えなければならない・・・。
「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」と言う時、私が思い描いているのは、このような、アプリの違いではない、OSの違いです。スピノザを理解するには、考えを変えるのではなくて、考え方を変える必要があるのです。
(『100分DE名著「エチカ」スピノザ』國分功一郎)
この話を聞くと、面白そうだなあ、と思いますが、前回のblogでこの『100分DE名著』を読んだ時は、特に後半では私の頭の中が國分さんの解説についていけず、考えが生煮えなままに書いてしまいました。しかし難解な思想書でも、何回か違ったタイミングで、違ったアプローチで考察していくと、あ、わかった、というときが来るものです。ということで、先ほども書いたように、今回はじっくりと進むことにしましょう。
私は、前回までのヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)もそうでしたが、スピノザのようにラディカルな思想家に興味があります。私の考え方の根っこのところからひっくり返してしまいそうな、そんな思想家が好きなのです。そういうタイプの思想家は、芸術の問題について考えたときにも大きなヒントをくれるものです。ラディカル、つまり根源的であるということは、人間の思考の基本的なところまで降りていくということですから、それは学問や芸術などの分野に分かれる前の状態、つまり分野にこだわらない普遍性を持つということでもあるのでしょう。
さて、そのスピノザの思想に入る前に、彼の人となりについて、あるいはスピノザがどういう時代に生きた人なのか、ということについて、知っておきたいと思います。そこで、私たちには馴染みの画家であり、スピノザと同時代人でもあったフェルメール(Johannes Vermeer 、1632 - 1675)との、ちょっと空想混じりの関わりについて書いておきます。生没年を見ると、二人は同じ年に生まれ、フェルメールのほうが2年早く亡くなりましたが、40代半ばで没したことも共通しています。フェルメールの時代をイメージすることで、スピノザについて多少なりとも親しみが湧いてくれば、興味も増してきます。
フェルメールの話の前に、スピノザがオランダのどういう家庭で生まれたのか、押さえておきましょう。
スピノザという人を理解するには、彼がユダヤ人であったことを知っておく必要がありそうです。彼の一家は「マラーノ」と呼ばれた人たちでした。皆さんは「マラーノ」という言葉を知っていますか?「マラーノ(marrano)」とはスペイン語で「豚」を意味する言葉で、かつてスペインにおいてユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人を侮蔑的に「マラーノ」と呼んだのだそうです。これはユダヤ教徒が迫害されたことに起因しているのですが、彼らは改宗したにも関わらず、スペインからポルトガルに逃れることになり、さらにポルトガルからオランダまでたどり着いたのです。スピノザの家族もそのような流れでアムステルダムに住み着き、貿易商をはじめました。アムステルダム生まれのスピノザは、幼少の頃より学問の才能を示し、宗教的指導者となることを期待されていたそうです。しかしスピノザは、ユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとったため、ユダヤ人のコミュニティから破門にされます。そのときのいきさつが、スピノザの人となりをあらわしているようですので、國分さんの本から少し引用しておきましょう。
スピノザは当初から彼らの質問を受け付けなかったが、あまりにしつこくせがまれたので、「聖書の中には神を物体と考えると不都合になるようなことは何一つ書かれていない」などなにひとつ書かれていない。」などと、自らが既に得ていた結論をもって返答とした。そしてその後は彼らと口をきくのを止めた。
<中略>
破門によってスピノザは、家族を含むユダヤ・コミュニティの全成員との接触を禁じられた。破門は罰というより警告に近い意味をもっており、条件さえ整えば撤回の可能性は十分にあった。だが、スピノザが改悛を受け入れることはなかった。スピノザは「弁明書」なる文書をスペイン語で書いてシナゴーグに送りつけたと言われている。冤罪裁判で自らに着せられる偽の罪を認めることを拒否し、自分の信じるところを語って死刑判決を受けた、『ソクラテスの弁明』に描かれるあの哲学者のように、自らの意見を堂々と表明したのである。
(『スピノザ 読む人の肖像』「スピノザの三つの名前」國分功一郎)
自分の思想信条に対して、正直に振る舞いたい、という正義感の強い人だったことが伺われます。しかし、スピノザは無茶なことをやるだけの人ではなく、例えば著書の『エチカ』を世に問うことに関してはきわめて慎重でした。また、自分の筋を通すために人との付き合いを断つことも厭わず行動した人ですが、スピノザは亡くなるまで市井の人として生き、世の中の人たちがもっと自由に生きることを願っていたそうです。
さて、そのスピノザが市井の人として、どのように生きたのか、何を生業にしていたのか、國分功一郎さんはそのあたりの事情も、ちゃんと書いています。スピノザは、フェルメールと結びつきそうな、少なくとも2つの職業をもっていたようです。その職業のひとつは画家でした。國分功一郎さんの文章を読んでみましょう。
コレルスによれば、「スピノザは学問のあるユダヤ人として、研究のかたわらある技術すなわち手仕事を習得しなければならないという昔のユダヤ人教師の掟と忠告を十分心得ていた。スピノザは「闇の期間(破門されて記録が残っていない期間)」の間にどうやら二つの技術を身につけたようである。その一つがデッサンの技術である。
レンブラントの近くで多感な時期を過ごし、オランダ絵画の黄金時代を生きたスピノザが絵画に関心を持っていたとしてもすこしも不思議ではない。また、後に紹介するように、スピノザは生涯最後の14年間をフォールブルフとハーグで過ごすことになるのだが、彼がそれぞれの街で間借りした部屋の家主、ダニエル・テイドマンとヘンドリック・ファン・デア・スペイクは二人とも画家である。これは単なる偶然とは思えない。コレルスはスピノザが種々の有名な人物を描いたスケッチブックを所有していたらしい。残念なことにそのスケッチブックは失われてしまったが、そこには彼を訪ねたことのある有名な人物たちが描かれていたという。もしかしたら、レンブラントが描いたあのテュルプの姿もそこに見られたかもしれない。
(『スピノザ 読む人の肖像』「スピノザの二つの技術」國分功一郎)
この文章の後で、國分功一郎さんはスピノザが革命家に扮した自画像を描いていた、という伝承を紹介しています。自由を求める活動家に共感したのか、その真意はわかりませんが、レンブラントが多くの自画像を残していることを考えると、スピノザが自画像を制作していたとしても不思議ではありません。現代思想家のジル・ドゥルーズは、アムステルダム美術館に収蔵されているスピノザを描いた版画が、その自画像の複製であろう、と言っているそうです。その現物が、どこかにひょっこりと残っていないものでしょうか。
フェルメールとスピノザが同じ年に生まれた画家仲間だったと考えると、スピノザが一気にこちら側に近づいてきた感じがしますが、実はフェルメールとの関係で言うと、もう一つのスピノザの職業の方が鍵を握っています。それはレンズ職人としてのスピノザです。レンズ職人というと、なんだ、街のメガネ屋さんだったのかな、と思ってしまいますが、そうではないようです。スピノザが生きた時代は、顕微鏡と望遠鏡が飛躍的に進歩した時代だったようで、街のメガネ屋さんの奥でひっそりとレンズを磨く、半分隠居したような人物を思い描いてはいけません。國分功一郎さんの解説を聞きましょう。
スピノザのレンズ磨きはこの哲学者のエピソードとして最もよく知られているものの一つであり、彼の孤独で地味な生き方の象徴のように捉えられてきた。だが、上の事実(顕微鏡や望遠鏡の発達のこと)からも分かる通り、当時、レンズが最新のテクノロジーであったことを忘れてはならない(現代のIT技術に準えると想像しやすいだろうか)。なお、スピノザのレンズ磨きの腕は相当なものだったらしく、誰もが競ってそれを手に入れようとしたとコレルスは書いている。
(『スピノザ 読む人の肖像』「スピノザの二つの技術」國分功一郎)
それでは、その高度なレンズ職人とフェルメールが、なぜ結びつくのでしょうか?そのことを考察する上で、次の『新潮美術文庫 フェルメール』の解説の文章を読んでみてください。
フェルメールは、窓と壁にかこまれた部屋の一隅に向けて、「カメラ」をセットしている。後退していく窓枠の線で水平になるところが「カメラ」の高さである。彼は街頭に出ていくカメラマンではなしに、スタジオ写真師のように「カメラ」を据えて、そのファインダー・グラスに写る視野を舞台にして映像をつくっているといえる。比喩的にも実際上も徹底した風俗画家であり得なかったのは、カメラをぶらさげて出歩かなかったからではなかったか。
(『新潮美術文庫 フェルメール』「光の窓=光の成就」黒江光彦)
この文章は、フェルメールがおそらく「カメラ・オブスクーラ」(暗箱)という装置をつかって作画をしたであろうことから、書かれたものです。「カメラ・オブスクーラ」とは、次のようなものです。
https://www.rakunew.com/items/76459?t=c_gadgets%2Bc_camera%2Bc_camera_tripod
フェルメールが使ったものがあるとしたら、どんな形状だったのでしょうか?それはともかく、続けて黒江光彦さんは次のように書いています。
フェルメールについてほとんどなんの事実もわかっていないのをいいことに、想像たくましくしているという風に読めるかもしれないが、しかし光学装置がオランダでかなり発達していたということは厳然たる事実である。そしてフェルメールが暗箱を使ったということは、かなりの確度をもっている。ガリレオ・ガリレイの使った天体望遠鏡のレンズは低地地方のレンズ研磨工が磨いたものである。スピノザはレンズを磨きながら深遠な思索にふけったのであるが、レンズを通してものを見た人間は、迷信をはらいのけることに成功し、宇宙の解明に寄与している。1610年頃、ケプラーがそうであり、ガリレオがまたそうであった。オランダではクリスチャン・ホイヘンスが光の波動説を出し、ライデン大学には天文観測の施設ができあがった。世紀半ばには顕微鏡が開発されて極微の世界にも新たな探究が向けられていた。フェルメールと同時代の同じデルフトの住人アントン・ファン・レウウェンフックは、市の吏員をしながら顕微鏡の組立てに没頭していたのだ。オランダで20年の歳月をすごしたデカルトは、実体を視覚するという人間の行為を科学的に解明しようと試論を発表している。「視る」ということが世界像を拡大し、古い像をひっくりかえすほどの力をもった時代が、17世紀であった。
(『新潮美術文庫 フェルメール』「光の窓=光の成就」黒江光彦)
素晴らしく、熱い文章ですね。私はこの本を学生の頃に買って、繰り返し見ていますが、この解説がこんなにも当時のオランダの熱気を伝えるものだとは、認識していませんでした。それに、恥ずかしながら当時のオランダの絵画も、私はぼーっとみていました。それこそ、レンブラントとフェルメールは別格ですから本物の作品があれば、穴が開くほど見てしまいますが、それ以外の画家の作品は漠然と見ていました。科学技術の発展とともに視覚が一気に開かれた時代だったと思いながら、この次の機会には見てみる事にしましょう。
そして、いよいよフェルメールとスピノザの関係ですが、奇しくも黒江さんのフェルメールに関する文章にもスピノザが登場しました。國分功一郎さんは、その関係をどう見ているのでしょうか?
フェルメールがあの精密な絵画を、レンズを用いて描いていたことはよく知られている。そのレンズをフェルメールはスピノザから入手したのではないかという説を、フランスの哲学者ジャン=クレ・マルタンが唱えている[マルタン 二〇一一]。
スピノザの書簡集には一通、今では身元の分からない人物に宛てられた書簡が収められている。ヨハネス・ファン・デル・メールなる人物を宛先とする一六六六年の書簡である(書簡三八)。「私はこの田舎で独りぼっちの生活をしている間に、あなたからいつか出された問題を考えてみました」と始まるこの書簡で、スピノザは賭け事における確率の問題を延々と論じている。マルタンはこの人物がフェルメールではないかという。実はフェルメールはもともと、ヨハネス・ファン・デル・メールという名前だった。
フェルメールの絵画に一六六八年制作と言われる『天文学者』がある。この絵はもともと「哲学者」と名づけられていたらしい。同時期にフェルメールは『地理学者』という絵も描いている。どちらも同じ人物をモデルにしていると考えられており、そのモデルはしばしばレーウェンフックだと言われているのだが、マルタンの言う通り、絵の人物はこの生物学者には全く似ていない。しかし――誰もがそう思うであろう――スピノザにはそっくりである。
(『スピノザ 読む人の肖像』「スピノザの二つの技術」國分功一郎)
フェルメールがスピノザのレンズを使って絵を描いていたとしたら、一気にスピノザが美術の世界に参入することになりますね。そうだとしたら、本当に素敵です。
そして、『天文学者』、『地理学者』のモデルはスピノザでしょうか?インターネットで見ることのできる画像を確認してみましょう。
まず、スピノザの肖像です。
次は天文学者です。
https://artmuseum.jpn.org/mu_tenmon.html
次は地理学者です。
ちなみに生物学者のレーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek、1632 - 1723)です。
これらの画像で見る限り、確かにレーウェンフックはちょっといかつい感じで、『天文学者』や『地理学者』の端正な感じとは違うように見えます。それらがスピノザかどうかはわかりませんが、レーウェンフックよりは絵のモデルに近いような気がします。
ちょっと興味本位のような話になってしまいましたが、こういう雑学がやっぱり楽しいですよね。次回は、ガッツリとスピノザの思想に取り組んでみます。できれば美術のことにも敷衍して考えてみたいと思います。というか、自然とそうなってしまうと思いますが・・・。