はじめに、私に関する連絡です。
2月12日(月・祝)から17日(土)まで、東京・京橋の「ギャラリー檜e・F」で個展を開催します。ギャラリーのスケジュール表は次のリンクを開いてください。
https://hinoki.main.jp/img2024-2/exhibition.html
なお、私のホームページから、案内のDMと展覧会に向けて作成したパンフレットをPDFファイルの形式で見ることができます。
http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html
もしもDMとパンフレットの現物をご覧になりたい場合は、私に直接メールで連絡してください。ご住所とお名前をいただけましたら、送料等を含めて、すべてこちらの負担で送らせていただきます。
harvestone1@gmail.com
さて、今回は個展のために用意したパンフレットの原稿を転載いたします。図版付きの完全版でご覧になりたい方は、上記ホームページよりPDF形式のパンフレットをご覧ください。とりあえず、文字原稿のみを掲載いたします。
このパンフレットは2024年2月に開催する京橋・ギャラリー檜での個展のために製作したものです。新型コロナウイルスの感染状況下で会場に来られない方のために記録として作っておきたい、と思ってパンフレットを製作して数年が経ちました。状況は改善していますが、しばらくは継続することにします。そして、もしも私の活動に興味を持っていただけたなら、私の発信しているホームページやblogもご覧になってください。何かの参考にしていただければ、こんなにうれしいことはありません。
さて、冒頭に書いたように、私はこの数年間、絵画における触覚性について考え、「触覚性絵画」というテーマで制作してきました。しかし考えてみますと、私は作品を発表し始めた頃から絵画の触覚性を探究してきたのです。今回は、そんな自分の足跡を少しだけたどりつつ、あらためて絵画の「触覚性」について考察してみたいと思います。
それでは、具体的な作品の話に入る前に、絵画の「触覚性」についてすこし説明しておきましょう。
いつも、「触覚性絵画」について説明するときには、次の哲学者の言葉を参照していますので、今回も引用します。
近代文明の視覚の独走、あるいは視覚の専制支配に対して、ずいぶんまえから多くの人々によって、いろいろなかたちで触覚の回復が要求されてきた。視覚の独走は、すでに述べたように、人間と自然、人間と人間との間に見るものと見られるものとの冷ややかな分裂、対立をもたらした。それに対して、人間と自然、人間と人間をそのような分裂や対立から救い出し、ふたたびそれらを結びつける力をもっているのは触覚だ、と考えられたのである。
(『共通感覚論』中村雄二郎)
これは哲学者の中村雄二郎(1925 - 2017)さんが書いた『共通感覚論』(1979)という本の一節です。中村雄二郎さんは、視覚という感覚が突出して優位になった近代文明に危うさを感じ、他の感覚との連動を提唱したのです。その中でもとりわけ触覚が重要だと言ったのでした。
私は学生時代にこの本を読み、感銘を受けました。そして今や、哲学や芸術の世界を超えて、広く社会的にこの言葉の意味の重要性が増していると思います。デジタル化の進んだ現在では、直接会うことのない人たちを映像による情報だけで大量に殺すことができます。中村雄二郎さんは、そんな時代が来ることを予想していたのかもしれません。どんなに鈍感な為政者であっても、目の前で自分の手が触れている人を殺すことにはためらいを感じることでしょう。しかし視覚情報による遠隔操作ならば、躊躇することなく爆弾を落とすことができるのです。視覚情報は、ときに容易に人の命をデジタルな数値に変えてしまいます。
このような状況下で、視覚を補う触覚の重要性が注目されるのですが、その後の研究者からの次のような言及もあります。
伝統的に触覚の特徴として指摘されてきた持続性。常に部分的な認識しか得られず、全体を把握するのに時間がかかるという特徴は、触覚が視覚に比べて劣った感覚であることを示す一つの証拠とされてきました。
しかし、「人の体にふれる」という本書の関心からすれば、時間がかかることは必ずしもネガティブなことではありません。なぜならそれは、ふれる側とふれられる側とのあいだの、触覚的なコミュニケーションの可能性を開くからです。
(『手の倫理』「コミュニケーション」伊藤亜紗)
これは美学者の伊藤亜紗(1979 - )さんが『手の倫理』(2020)という著書の中で書いていることです。伊藤さんは身体的な障がいを抱えている人たちに関する研究を積極的に進めている研究者です。そのことによって、人間にとって「身体性」とは何か、という問題を大きな視点で考えているのです。例えば上の文章の中で、触覚が視覚に比べて「時間がかかることは必ずしもネガティブなことではありません」と書いてあることに注目しましょう。少しでも早く結果を出すことで多くの利潤を得ようとするのが近代社会の仕組みです。早く動くことで相手よりも優位な立場に立つ、という考え方が近代文明を発達させ、変化のスピードを上げてきたのです。しかし、そのことによって、環境破壊などのさまざまな問題が生まれていることはご存知の通りです。そこには「視覚」と「触覚」の問題が関わっていて、伊藤さんの著書は「触覚」を捉え直すことが急務であることを訴えているのです。
それでは、この人間にとって重要な知覚である「触覚」は、芸術表現において、とりわけ絵画においてどうかかわっているのでしょうか?そのことに言及したのが、高村峰生(1978 - )さんという研究者です。彼の書いた『触れることのモダニティ ロレンス、スティーグリッツ、ベンヤミン、メルロ=ポンティ』という著書は、芸術と「触覚」の問題に正面から取り組んだ希有な研究書です。表題には小説家、写真家、批評家、哲学者とジャンルの異なる人たちの名前が並んでいて、それだけでも興味深いものです。しかし、ここでは哲学者のメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)さんについて書かれた章を取り上げましょう。メルロ=ポンティさんは、画家のセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 – 1906)さんについて論じたことでも有名ですが、彼はセザンヌさんの絵画に触覚的な表現を読みとっていたのです。
メルロ=ポンティはセザンヌの絵画作品を、触覚的経験から視覚的表現への一種の翻訳として描写している。触覚が原初性と結びついているのならば、画家の仕事は原初的接触を視覚的表現へと翻訳することだ。メルロ=ポンティにとっては触覚による知覚と視覚的表現との順序が何よりも重要だったので、「セザンヌは、形と奥行とを示すべき触感を、色彩によって暗示しようなどとはしない」と彼は主張しなければならなかった。<自然>に触れられることは視覚的表象に先立つ経験であり、したがって、触覚を通じて知覚されるものは色使いによって「暗示」されるものではありえないのだ。言い換えれば、触覚的なものは前―光学的なのである。
(『触れることのモダニティ』「第四章 触覚的な時間と空間」高村峰生)
メルロ=ポンティさんはドイツの哲学者、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)さんの「現象学」を学びましたが、その現象学を探究する中で、セザンヌさんの芸術を論じるうえでの手掛かりをつかんだのです。メルロ=ポンティさんが晩年に書いた『眼と精神』の中の、次の一節はとりわけよく知られたものです。
セザンヌが描こうとしていた「世界の瞬間」、それはずっと以前に過ぎ去ったものではあるが、彼の画布はわれわれにこの瞬間を投げかけ続けている。そして彼のサント・ヴィクトワールの嶺は、世界のどこにでも現れ、繰り返し現れて来よう。エクスに聳える固い岩陵とは違ったふうに、だがそれに劣らず力強く、本質と実存・想像と実在・見えるものと見えないもの、絵画はそういったすべてのカテゴリーをかきまぜ、肉体をそなえた本質、作用因的類似性、無言の意味から成るその夢の世界を繰り広げるのである。
(『眼と精神』モーリス・メルロー=ポンティ著、滝浦静雄・木田元訳)
私にとって、この『眼と精神』の一節は、セザンヌさんの魅力を解き明かす画期的な文章でした。セザンヌさんは人間にとって原初的な、生(なま)な世界と向き合い、それを絵画として表現したのだとメルロ=ポンティさんは言っているのです。「まさにその通りだ、そんな画家は他にいない!」というのが私の感想だったわけですが、ではどのようにしてセザンヌさんはそのような世界を画面に定着させたのか、それは大きな謎として残されました。メルロ=ポンティさんは哲学者ですから、セザンヌさんが到達した境地を語れば済むのですが、同じ表現者である私にはそこから先が重要だったのです。
それを技術的に解き明かした論文としては、セザンヌさんの晩年の作品を集めたニューヨーク近代美術館の『Cezanne The Late Wark』(1977)という展覧会のカタログ中にローレンス・バーネット・ガウイング(Lawrence Burnett Gowing、1918 –1991)さんという、画家であり批評家でもあった人が書いた『組織化された感覚の論理(The Logic of Organized Sensations)』というエッセイがあって、それがなかなか興味深い指摘をしています。
さて、それはともかくとして、高村さんが「メルロ=ポンティはセザンヌの絵画作品を、触覚的経験から視覚的表現への一種の翻訳として描写している」というのは、よいアプローチだと思います。例えば、キュビスムの画家たちはセザンヌさんの影響を受けたと一般的に言われていますが、私は彼らの作品からセザンヌさんのような触覚性を感じることができません。ですから、彼らをセザンヌさんの後継者とは見なすことはできないのです。例外として、初期のピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 – 1973)さんとブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)さんの作品には、セザンヌさんのような触覚性を感じとることがあります。最近見た彼らの作品も素晴らしいものでしたが、残念ながらそのような可能性はその後、失われてしまうのです。
ややとりとめのない話になってしまいましたが、現代における「触覚性」の重要性と、その「触覚性」をいかに絵画表現において実現するのか、という課題について少しでも認識していただけるとありがたいです。あまり豊富な実例でお示しできませんでしたが、結局この困難な課題は自分自身で探究していくほかないのです。
そこで今回は、自分自身の軌跡を展示することで、絵画の「触覚性」について少しでも明らかにしてみようと考えました。それらの作品は、制作した当時から現在のような明確な問題意識があったのかと問われれば、そうではありません。しかし何とか画面に手を触れようとして、悶々としている自分自身を感じることができます。
それでは、年を追って作品を見てくことにします。まずは左の作品を見てください。
この作品は私が絵画の表面と描画する行為のかかわりについて考えているときの作品です。
この頃、私はパターン模様がプリントされた生地の上に絵具やコンテなどの描画材で、ひたすら色や線を描いていました。描画面にプリントされた模様は、どこまでも平面的なパターンを繰り返しますが、その上に描画の行為を施すと、これまでの絵画とは違った絵画空間が表出するはずだ、と考えたのです。この作品は、それを小品のなかで試みたもので、プリント生地の代わりに千代紙を素地として使っています。
現在の私から見ると模様の上から画面に触れる自分の手つきが気になります。模様の上から描画すると、画面上を横に、あるいは上下に滑るような手つきになります。そうすると、意外と平面性を重視する現代絵画としての体裁が整うのです。
しかし私は、それでは少し物足りなくなっていました。
それでは、右の作品を見てください。
これは静物を描いた版画(ドライポイント)の上から彩色した作品です。静物画のモチーフは、ランプ、ビン、コップ、コーヒーミル、透明なガラスの球、壺状の器などです。静物を描くときに過剰な奥行を生まないように、とくに斜め方向の描線や暗めのトーンを抑えました。イメージしたのはセザンヌさんのデッサンや版画です。
しかし私の拙いデッサンと慣れない版画の技術では、そう言うのもおこがましいです。そして、その静物の図像の上から、図像を意識しつつ、そこから自由に筆を動かして彩色するように試みました。先ほどの模様の上の彩色と比べ
ると、描画と彩色との違和感は明らかですが、その違和感こそ、私が求めていたものです。
左の作品を見てください。
この作品では前の作品のように版画による風景デッサンの上から彩色していますが、描画された空間をより強く意識しています。ただし普通に絵を描くように、例えば下地の色から、あるいは広い色面から塗っていくというようなことはせずに、自分が触れたいと思ったところを選んで色を置いています。画面全体の空間を把握しつつ、遠いところも近い所も同じように手で触れるように色を置いていくのです。
描いているうちに、セザンヌさんもこのように絵を描いていたのではないか、と思うようになりました。
しかしその一方で、たとえセザンヌさんを深く理解できたとしても、私たちはセザンヌさんを超える表現を模索しなければなりません。不可能であっても、そうすべきだと思います。
そんなことを考えながら、左の作品を見てください。
水彩絵具が画面上で広がっていく感触を確かめながら、制作しています。その分だけ、細部表現などがつぶれそうになったので苦心して描いています。
この風景は奥行きと陰影が入り組んでいて、それが絵画の平面性との両立を難しくしています。そこで、もう少しせまい空間の風景をモチーフとして描くことにしました。
それでは、下の作品を見てください。箱庭のような空間を描いたものです。それほどの奥行きのない風景ですが、さらにその中の奥行きにあたるところを白く塗りつぶして、手で触れるほどの表面的な位置にまで画面を引き戻しています。また、部分的に細部描写を残すことで描写された物の物質性と触覚性も、同時に意識しています。
私は、絵画空間の奥行と平面性を自在にコントロールし、必要に応じて細部描写やコラージュなどによって画面上の物質性を意識できるようになると、表現者として習熟度が上がると思っています。このような画家としての力量は、現在では軽視されがちですが、やはり表現者としては重要なのではないでしょうか?
私はこのような画家としての力量を、例えばジャズ・ミュージシャンのそれと比較したくなります。優れた演奏力を持ち、どのように即興を入れ、どこまで曲を構成し、どこまで演奏を統率しておくのか、そのように手先のテクニックばかりでなく、表現のすべてで力量が問われるのがジャズという芸術だと思います。そしてジャズの世界では、かなり明瞭にその力量が問わると思うのですが、美術の世界ではどうでしょうか?あまりに観念的な、あるいは拙い作品が目立ちませんか?
さて、このような試みの後で、私は絵画の「触覚性」の問題に、より集中して取り組むため、画面上の手触りを強調した表現に移行します。作品のタイトルも「触覚性絵画」として、自分のコンセプトをはっきりとさせました。
左の作品は少し前のものです。
このときは、具体的なモチーフを設定していません。画面上の触覚性と視覚的な奥行との間で、試行錯誤を繰り返していました。画面上の触覚性を強調するために、あるいは自分自身が触覚性を実感するために、草花や落ち葉などの具体的な物質を画面上に貼り付けてみました。草花は枯れれば変色し、画面上のバルール(色価)が変わってしまいます。しかし、それよりも物質的な触覚性を優先すべきだと考えているのです。
さて、このように現代の絵画について真剣に考えると、それはつねに矛盾した表現要素の間の葛藤(かっとう)に陥ります。
例えば絵画のイリュージョン(奥行)と平面性、画面上のフォルムとそれを描く画家の行為(筆致)、同じく画面上のフォルムとそれを形成する描画材の物質性、などの間の葛藤です。いずれも、どちらかに注視すればどちらかが後退するという関係にあり、一見すると両立しないように見えます。そしてそれらは、絵画の「視覚性」と「触覚性」の関係、その葛藤の問題でもあるのです。
モダニズムの思想は、それらの矛盾を解消することが芸術の発展であるかのように考えました。その結果、モダニズムの絵画は完全なる平面であるミニマリズムの絵画や、画家の行為だけを取り出したパフォーマンスのアート、あるいはまったくの無作為な物質であるレディメイドやオブジェなど、いずれかの要素の方向性を極端に推し進めた表現へと発展していきました。
しかし、それらは果たして絵画の、あるいは美術の発展だったのでしょうか?
そもそも絵画は何もないはずの平面にイリュージョンを見出してしまう、という人間の感覚の特性によって成立した芸術です。太古の人たちは、洞窟の壁の凹凸に牛や馬の姿を見て、思わずそこに色のついた土で描画したのかもしれません。絵画はそもそも矛盾した要素によって成立し、それらの緊張関係によって発展してきたのではないでしょうか?モダニズムの思想が行き詰っている今だからこそ、私たちは絵画表現が含むさまざまな要素を「矛盾」として斥けるのではなく、それらが共時的に在ることの豊かさを発展させなければなりません。
私は今回、ある知り合いの画家からの指摘を受け、「触覚性絵画」というタイトルに加えて、具体的な表題を付け、実際にその言葉が表すモチーフを設定して制作しました。例えば左の「しだれ柳」という作品は印象派のクロード・モネ(Claude Monet, 1840 – 1926)さんの晩年の同名の作品をモチーフとして私なりに表現してみたものです。
次に、タイトルに複数のモチーフを表記した作品があります。これは二つのモチーフを重ねて描いた作品です。そもそも私の作品は、絵画の平面性と奥行、絵画の色や形と描画材の物質性や描画の行為性など、錯綜した要素が矛盾を孕んだままに制作したものです。今回は、そこにさらに複数の風景のモチーフを重ねる、ということを試みているのです。最後のページに私が制作したときに参照した風景の写真を掲載しておきました。それらをご覧いただければそれぞれのモチーフが何の変哲もない風景だということがお分かりいただけるでしょう。最終的にはそれらのモチーフは跡形もなくなっているように見えますが、問題は、何でこんなことをあえてしたのか、ということです。
いま、充分なお答えをすることはできないかもしれませんが、その点について最後に少しだけ触れておきます。
矛盾した要素をあえて作品の中に取り込む方法として、作家の大江健三郎(1935 – 2023)さんが提唱していた「異化」という手法があります。これはロシア・フォルマニズムの方法論で、違和感のある要素を作品に取り込むことで、自動化していた人間の意識を覚醒させるというものです。
この「異化」については、私もかなり前から意識的に活用しています。私の絵画の画面にさまざまな矛盾した要素が混在しているのは、「異化」という方法論の結果でもあります。
しかし、違和感が違和感のままでは進展がありません。眠っていた意識が覚醒することで、そこに何が生まれるのか、ということが問題です。私はある程度、その効果について実感していますが、それが顕著に見られる例を、とりあえず二つほど書き留めておきましょう。
その一つは、ジャズ・ドラマーのエルヴィン・ジョーンズ(Elvin Jones,1927 – 2004)さんのポリリズム(polyrhythm)という手法です。
エルヴィン・ジョーンズさんは二つのリズムを同時に叩くことで、単一のリズムでは得られない独特のうねりを表現するのです。ネット上に解説の動画がいくつかあるのですが、それを見ても素人ではよくわかりません。しかし、ジョーンズさんのドラミングが単純なリズムのノリではないこと、そこに独特のうねりがあることならば、かろうじて感じ取ることができます。私の作品にも、そのようなうねりが欲しいところです。
もう一つは日本の和歌の掛詞という手法です。小野小町(平安時代の歌人)さんの有名な和歌に次のようなものがあります。
「花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに」(『古今和歌集』より)
この歌では、「ふる」が「降る」と「経る」、「ながめ」は「長雨」と「眺め」、という掛詞になっています。そして、この歌の中には「長雨が降る」という情景と、その雨を「眺めながら経る歳月を思う」女性の姿と、二つのイメージが表現されているのです。どちらかの意味に注視すればどちらかのイメージが現れ、どちらかが後退するという不思議な力関係がそこに存在します。この二つのイメージが、同じ言葉の二重の意味によって成立していることで独特の緊張感を生んでいる、と私は考えます。この不思議な緊張感を絵画表現において実現するにはどのようにしたらよいのか、まだ手探りの状態ですが、いつか自分のものにしたいものです。
エルヴィン・ジョーンズさんにしても、小野小町さんにしても、モダニズムの合理的な思考では読み解けない表現に私は魅力を感じます。矛盾を孕んだ要素をあえて取り込むことで、不思議なうねりや緊張感が生まれるのです。私の試みは、その探究のささやかな一歩です。この困難な、モダニズムの思想が行き詰った時代においても、それを乗り越えるきっかけは、このように古今東西の芸術や哲学、思想のいたるところにあると私は信じています。これからも探究を続けていきますので、よかったら私のblogを時おり覗いてみてください。そしてもちろん、作品を見ていただいて感想を聞かせていただけるとありがたいです。
<作家のプロフィール>
(harvestone1@gmail.com)
1960 愛知県名古屋市生、東京都板橋区~練馬区に育つ
1985 愛知県立芸術大学大学院絵画研究科修了
<個 展>
1984 ギャラリー・ラブ・コレクション/名古屋 駒井画廊/東京
1987 真木(※92~真木・田村)画廊/東京
(以降、89、90、92、93、94、95、96、99)
1997 ルナミ画廊/東京(以降、98)
2002 ギャラリー檜/東京
(以降、03、04、17、19、20、21、22、23、24)
<評論、講演等(選)>
1995 評論「絵画表現における重層性について」
第11回名古屋文化振興賞(作品集所収)
1999 評論「終わりなき『意識のさわり』の営み」/かわさき
IBM市民文化ギャラリー『飯室哲也・宮下圭介』展
2000 評論「稲憲一郎論」/『月刊ギャラリー』公募評論入賞
2001 評論「倉重光則論」/『月刊ギャラリー』公募評論入賞
2009 評論「藤井博論」/芸術評論佳作賞(美術出版社)
2011 講演「絵画における『時間』について」愛知県立芸術大学
2012 blog「平らな深み、緩やかな時間」 (継続中)
2014 評論「透視する眼差し」沼津市庄司美術館『宮下圭介』展
2014 講演「絵画特論Ⅱ」沖縄県立芸術大学
2020 評論「Dan Nadaner 宮下圭介」展/櫻木画廊
2022 評論「表現の深化について」 稲 憲一郎展 /アトリエ
<グループ展等(選)>
1983 愛知県立芸術大学卒業制作展 愛知県立美術館
(作品買い上げ)
1983 上野の森絵画大賞展 上野の森美術館
(佳作賞 作品買い上げ)
1984 「空間・遊」名古屋市博物館
(以降、85 N-1ギャラリー・ウェスト)
1991 「平らな深み、緩やかな時間」 真木画廊/東京
1992 「眼の座標」代々木アートギャラリー
(以降、93、96、00、02、03)
1995 「未来の予感 -韓国現代美術交流展」韓国 清州
1995 現代アーチストセンター展 東京都美術館
(以降、00、02、13)
2005 「東-南、投影と変質」 ギャラリー檜/東京
2015 小田原ビエンナーレ展 飛鳥画廊/小田原
2016 dialogue(with 稲 憲一郎) ギャラリー檜/東京
2018 dialogue(with 5人の作家) ギャラリー檜/東京
2021 小田原ビエンナーレ展 ツノダ画廊/小田原
2023 HAKOBUNE 放射されるアート
諸磯青少年センター/神奈川県三浦市