平らな深み、緩やかな時間

124. 私の好きな画家、ド・スタール

ニコラ・ド・スタール(Nicolas de Staël、1914 - 1955)は不思議な画家です。何が不思議なのかは、あとで書くことにしましょう。
ド・スタールは41歳の若さで自殺をしてしまったのですが、その絵画があまりに魅力的なために、日本でもファンが多いと思います。しかし、日本語の画集は売っていませんし、大きな展覧会が日本で開催されたのも、たぶんもっとも最近で1993年のことだと思います。あれから30年近くが経つのですね。
そんなわけで、もしかしたら若い方たちの中には、ド・スタールの絵画を断片的に見たことがあるものの、この画家のことをあまり知らない方も多いのではないか、と思い、今回は私の好き画家、ド・スタールについて書くことにしました。もちろん、この画家に対する私の私的な評価も入ってきますので、そこはご容赦ください。

それではまず、ド・スタールの作品をご存知ない方は、インターネットで検索してみてください。いろいろなタイプの作品があります。
やや数が少なめですが、極端に厚塗りの、そして茶褐色やグレーを主調とした渋めの抽象絵画がありませんか。おそらくそれは1940年代後半の、ド・スタールが30歳になって数年ぐらいの間の作品だと思います。
それから同じく厚塗りですが、色が鮮やかになり、わずかに風景や静物、花や人物などの具象的な形が感じられる作品があります。それは1950年代のはじめ、画家が30歳後半から40歳になる頃に描かれた作品で、彼が売れ始めた頃の作品です。
そして絵具が薄塗りになり、単純な筆遣いで即興的に描かれた具象的な作品が、たぶんネット上で見られる中でも一番多いのではないかと思いますが、それが彼の短い生涯の晩年の作品、年代で言えば1954年から1955年頃の作品になります。
だいたいこれが、彼の作品の主な様式になります。もちろん、ド・スタールはその前から絵を描いていますので、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の影響が顕著な若い頃の人物画や、厚塗りの抽象画に至るまでに試行錯誤して描いた、それほど絵具の厚くない抽象画もあります。しかし、ド・スタールがド・スタールらしい作風になったのは、やはり1940年代後半のことだろうと思います。

さて、最初に私はド・スタールを不思議な画家だと書きました。その理由は、私がド・スタールの絵画で最も惹かれるのは1940年代後半の作品なのですが、ド・スタールはその作風から徐々に脱し、晩年には数多くの薄塗りの具象絵画を残しました。なぜ、彼はそうしたのか、それがド・スタールの作品を見るときに、いつも思うことなのです。もちろん、晩年の具象絵画にも魅力的な作品は数多くあり、ド・スタールならではと思うものもあります。しかし、彼が30歳代で達した高みは、当時隆盛であったアメリカの抽象表現主義の画家たちに比肩しうるものであったし、あるいはもっと魅力的なものであったのかもしれません。彼らの実作品を見た経験に乏しい私には軽はずみなことは言えませんが、もしもいま、手近なところにド・スタールや抽象表現主義の作品が展示してあって、誰かの作品を一日中ながめていてもいいことになったら、ド・スタールはぜひ時間をかけて見てみたい作家の一人です。そのド・スタールの作品の変遷を考えながら、彼の生涯をたどってみましょう。

『ニコラ・ド・スタールの手紙』(大島辰雄 訳編)という古い本があって、その中に「年譜小伝(主としてA・テュダルによる)」という文章があります。その文章を参考にしながら、彼の生涯について考えてみましょう。それから1993年の『ド・スタール展』のカタログも参照します。

ニコラ・ド・スタールは、1914年に帝政ロシアの首都セント=パテルスブルグで軍人の家庭に生まれました。幼い頃に母親から絵の手ほどきをうけたそうです。
1919年に革命によってロシアを追われ、一家はポーランドに移住、二年後に父が、さらに翌年に母が亡くなりました。ニコラは姉、妹とともに母の知人を介してブリュッセル(ベルギー)にいるロシア出身の裕福な実業家であるフリセロ夫妻に引き取られます。つまり8歳にして両親を亡くし、姉妹とともに新しい両親に引き取られたのです。ただ、ちゃんとした教育を受けさせてもらえたようですし、その境遇は恵まれていました。名門校に通い、学業とスポーツともに秀でていて、1933年にはブリュッセル王立美術学校に進学しています。在学中に絵で賞を取ったり、フランス、スペイン、イタリアを旅行したりして、美術の勉強に励んだようです。
1936年にブリュッセルで友人たちと初の展覧会を開き、装飾画家として自立しました。翌年、モロッコで女流画家ジャニーヌ・テスラール(旧姓ギルー)と出会い、1946年の彼女の死まで一緒に暮らします。ジャニーヌには前夫との間に生まれた男の子がいて、1942年には二人の間に娘アンヌが生まれました。若い画家夫婦に子供が二人ですから、当然のことながら生活は苦しかったようです。その一方で、ジャニーヌと暮らしたフランスのニースでは、抽象画家のソニア・ドローネー(Sonia Delaunay, 1885 – 1979)、アルベルト・マニェリ(Alberto Magnelli,1888 – 1971)、彫刻家のジャン・アルプ(Jean Arp, 1886 - 1966)、建築家で画家のル・コルビュジェ(Le Corbusier、1887 - 1965)などと親しくなりました。これらの環境を通じて、ド・スタールの意識は最前線の絵画へと向かうようになり、彼の絵は完全な抽象絵画になりました。ド・スタールが1943年1月に父親エマニュエル・フリセロに宛てて、ジャニーヌのことや自分の暮らしぶりについて手紙に書いているので、その一部を書き写してみます。

ジャニーヌはコンカルノーのブルターニュ女で、父親は海軍少将ギルー、母親はルイーズ・ジュリーです。33歳、器量は十人並みですが本格的な絵かきです。以上の通りで、ぼくは仕合せです。仕事をし、あなたが世のうつけ者と思われるような連中とつき合っています。彼らのうつけ心はすなわち、ぼくにとっては仕事における創造的センスなのです。
ここで会っているのはたとえば画家のドローネー、ジャン・アルプ、マニェリといった面々で、ル・コルビュジェもニースに来たとき、それにオーブレ、誰も彼も強く生き、味気ない材料をひねくり回して何か新しいものをつくり出そうと何分の努力をしているのです。以上の次第で、パパ、ぼくのことはご心配なく、御近況をもっと詳しくお知らせ下さい。ぼくに代わってママンを抱きしめて下さい。情愛をこめて ニコラ
(『ニコラ・ド・スタールの手紙』「年譜小伝(主としてA・テュダルによる)」大島辰雄 訳編)

堅実な養父母に向けて、苦しい生活を取り繕いながら、その一方でけんめいに芸術的な充実ぶりを知らせようとする意図が見えます。就職もせずに、年上の子連れの画家との間に娘が生まれ、あやしい面々とつき合う息子が心配でないわけがありません。実際にド・スタールは家具のニス塗り、建物のペンキ塗りなどをして生活費を稼いでいたらしいのです。
そんな中ですが、どうあってもパリに出なければと思い定め、この手紙を書いた後の1943年9月に一家でパリに向かいます。知り合いになった画商のジャンヌ・ビュシェの援助を受けて家を借り、尊敬していたジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)の知己を得ます。1944年にはカンディンスキー(Vassily Kandinsky、1866 - 1944)なども出品した「抽象絵画展」に出品するなど、徐々に画家として活躍していきます。
そして1946年にジャニーヌが死去しますが、その遠縁のフランソワーズ・シャプトンと結婚し、少しずつ絵が売れるようになっていきます。1947年にド・スタールは広々としたアトリエに移ります。ブラックの家に近く、また上の階には画商テオドル・シェンプが住んでおり、やがて彼をアメリカに紹介する仲立ちをしてくれます。
そしていよいよ、彼の絵画は充実してきているはずです。このころの作品『コンポジション』がニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art, New York 通称MOMA)にあります。
https://www.moma.org/collection/works/78557?sov_referrer=artist&artist_id=1447&page=1
ド・スタールは1948年4月にフランス国籍を取得します。また10月には南米ウルグアイで、初の海外個展を開催します。その時にピエール・クールティオンという人が序文を寄せていますが、当時のド・スタールのアトリエの様子など、とても生き生きと書かれています。文中にあるように、ド・スタールはかなりの長身の青年であり、写真で見るかぎり鼻筋の通ったハンサムな顔立ちです。

これまでに私が知り合った画家はほとんどすべてかなり小柄な人たちだが、この人はいかにも巨人だ。彼らの声は明るかったり鋭かったりだが、ニコラ・ド・スタールほどの重々しさはない。スタールの音声たるや、部屋中に響きわたり、壁を震わせ、そして低音部まで下がると、必ずや不可聴音の未知の声域の中に消えるのである。だが人間のことをいっても何にもなるまい。私は画に近づく。画は目の前にある。キリンやナイルワニでも入れそうなモンスーリの画架なしの厖大なアトリエで壁にたてかけられている。―大きいの、小さいの、とても小さいの、そしてとても大きいのが・・・。殺風景な部屋の片隅には、汚れたテーブルの上に、迷路のようなデッサンがひろげられている。中央には、絵具を満たしたブリキのバケツがいくつか待機している。すなわち筆が突っ込まれ、熱狂的な長い手が中身をこねまわしやがて空にしてしまうのを。熱狂的といったが、それはこれらのどろどろした捏物を見るや、画家は、けちけちと必要なだけを取るどころか、無我夢中に蕩尽するからである。描く悦び!魔法使いの調理場!即座に、ニコラ・ド・スタールは本質的なものに、画家が画家たる所以に及ぶ―触れられ、動かされ、形を変える物質に。
(『ニコラ・ド・スタールの手紙』手紙の解説文より 大島辰雄 訳編)

ド・スタールの絵は、どの時期をとっても集中して一気呵成に描き上げたような勢いがあります。しかし、この厚塗りの時期の作品は、それなりの絵具の層が必要なので、制作にかなりの時間を要したのだろうと思います。しかしこの画家が、下地を塗っては絵具を少し乾かし、その上に絵の具を重ねて・・・、というようなことを一枚ずつ、別々に仕上げていったとは思えません。おそらくは何枚もの絵が並行して描き進められ、つぎつぎと素晴らしい作品が仕掛けられ、その一方で仕上げられていったのではないかと思います。複雑な色調に練り上げられた絵具の塊は、いずれかの絵では下の方に隠れ、別の絵では中間層になり、さらに仕上げの層に用いられ、というふうに大量に消費されていったのではないか、と想像します。きっちりと必要なだけの絵具をこねていたのでは、ド・スタールのような絵は描けません。それはまさに、魔法使いの作業場のようなありさまであったことでしょう。
ド・スタールは1949年にオランダの美術館などを訪れ、1950年にはフランス政府に作品が買い上げられています。それは『コンポジション』(1949)という作品ですが、現在、パリの「ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター」にある次の作品がそれだと思います。
https://www.centrepompidou.fr/cpv/ressource.action?param.id=FR_R-c283fb7b5f543bd5fbcc3dff657e8fb&param.idSource=FR_O-89723dc9f493decb2e33355597eadfe0
また、R.V.ギンデルタールの『ニコラ・ド・スタール』(シーニュ叢書)が刊行された、とありますので、彼に関する本が出たのでしょう。
1951年にはニューヨークのシェンプ画廊で展覧会を開催します。この年の春に、先に見た『コンポジション』がMOMAに買い上げられました。それから、詩人ルネ・シャール(René Char、1907 - 1988)の詩集のさし絵本を発表、この詩人はシュルレアリスム運動に参加し、やがて運動から決別し、カンディンスキー、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881 - 1973)、ジョアン・ミロ(Joan Miró , 1893 - 1983)、アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)など様々な美術家の協力を得て詩集を作っています。残念ながら、私は彼の詩を読んだことがありません。こんど機会があれば、読んでみることにしましょう。
さて、1952年には大きな転機が訪れます。ド・スタールはナイターのサッカーの試合(フランス対スウェーデン)を観戦し、強い印象を受けます。そのときのことを手紙に書いています。

天と地のあいだ、赤や青の草の上で、1トンの筋肉が、まったくありそうもないほどに盛りあがっていくすごい存在感をもって、我を忘れきって跳び回る。何という喜びだ。ルネ、何という喜びだろう。いまぼくは、フランスとスウェーデンのチームにとりかかったわけだが、それがほんの短い間にせよ動き出すのだ。ゴーゲ街のように広い場所を見つけられたら、200点ほどの小さな作品を描いて、国道のパリの出口にあるポスターのように色を鳴りひびかせるのだが・・・
(『ド・スタール展 カタログ』ルネ・シャール宛の手紙 1952年4月)

ド・スタールは、夜のサッカー場でサッカー選手が躍動する作品を、何点も描いています。このときから具象的な主題が中心になり、風景、花、静物、船などあらゆるものがモチーフとなります。タピスリーの下絵や彫刻、ルネ・シャールやピエール・ルキュイールとバレーの原案も試みています。この時期の作品で、とりわけ有名なのが、ポンピドゥーにある『楽士たち―シドニー・ベシェの思い出』という作品でしょう。
https://www.centrepompidou.fr/cpv/ressource.action?param.id=FR_R-876030caf6a31f73a893485a8d4f724&param.idSource=FR_O-152dd427045a94a379e42113c3048dc
これは同じモチーフの作品がワシントンのフィリップス・コレクションにもあるそうで、ジャズマンのシドニー・ベシェ(Sidney Bechet、1897 - 1959)に敬意を表して描かれたものだそうです。ベシェは1949年から活動の拠点をアメリカからパリに移していて、そのままパリで亡くなりました。私はジャズを聴かないわけではないのですが、ベシェのレコードは聴いたことがありません。私同様に彼のことを知らない方のために、YouTubeの音源をご紹介します。
https://www.youtube.com/watch?v=8_ORo7xI3PY&list=PLxF0G6I-f0AoMchkWN-opIlw0l-NOjOUL&index=2
当時、ド・スタールがどんな音楽を聴いていたのか、その一端が分かります。今聴くと、古き良き時代の音楽、という感じがしますが、ヨーロッパのクラシック音楽に比べると、リズムやアドリブの躍動感が際立って聴こえたことでしょう。
この時期にド・スタールは、ストラヴィンスキー(Stravinsky, Igor Fyodorovich、1882 - 1971)、メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen, 1908 - 1992)、ブーレーズ(Pierre Louis Joseph Boulez、1925 - 2016)とも親交があり、オーケストラをモチーフにした絵もたくさん描いています。
1953年にド・スタールはイタリアを経由してニューヨークに行き、展覧会を開催したり、セザンヌの『大水浴』を見たりしています。そして1954年になると、ド・スタールはそれまでのようにナイフでは描かず、絵筆を用いるようになります。9月に家族を残して、一人でアンチーブの海沿いのアトリエに移り、10月にスペインに旅行して、ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 - 1660)の魔法のような筆触に影響を受けます。ますます絵具は薄く、流麗になっていきます。
ちなみに、彼の具象絵画への回帰は、その当時から抽象絵画への裏切りであるという評価と、新しい具象絵画の誕生である、というふうに意見が分かれていたようです。
1955年には、展覧会が二つ予定されており、ド・スタールは精力的に制作します。その一方で2月には「ぼくを工場だと思わないでくれ、これでもできるだけはやっているのだ」という手紙を知人に書いていますので、制作に追い込まれていたことがうかがい知れます。
彼が亡くなる前日から当日まで、年譜にはこう記されています。

(1955年)3月14日、大作『コンサート』―ピアノとコントラバス、譜面台などを描いた超大作(3.5×6.0m)で、ついにこれが絶筆となった―にとりかかる。極度に神経をすりへらしている。数週間というもの、眠ろうとしても眠れないのだ。
(1955年 3月)15日、描けない。郊外に出かけて緊張をほぐそうとするが、なんの甲斐もない。
24時間後、夜、彼はアトリエの窓から8メートルほど下の街路に死体となって横たわっていた。
(『ニコラ・ド・スタールの手紙』「年譜小伝(主としてA・テュダルによる)」大島辰雄 訳編)

私は抽象絵画、具象絵画の差異は問わないのですが、ド・スタールの晩年の絵画には、少し色彩が甘いものがあって、それが気になっています。美しい色の響きというものは見る者の目を幻惑するので、絵画としての質が見えにくくなってしまうのです。私はド・スタールの晩年の作品のなかには、彼の思い通りにいかなかった作品が比較的多かったのではないか、と疑っています。
しかし、ここに書かれている遺作となった『コンサート』という大作は、図版で見るかぎり悪くないと思います。赤く塗られた背景がきれいですが、他の部分の色彩が抑制されているので、ただ単に美しいというものではないと思います。絵の大きさを考えると、それは色合いとしてのきれいさではなく、マチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)の絵画のように赤という色が持つ固有の魅力が味わえるのではないか、と期待してしまいます。それは若い頃の厚塗りの絵具の層では表現できなかった、別な絵画の可能性に達したのではないか、と思うのですが、どうなのでしょう。

さて、ざっとド・スタールの生涯を紹介しましたが、その気になる点について、触れておきましょう。
それは彼の作品の変遷に関することです。「年譜小伝」のなかでも触れたように、彼の制作の前期と後期の移り変わりは、彼の生前から賛否を招いていたものであり、さまざまな評価を生んできました。
『ド・スタールの手紙』を編訳した美術評論家の大島辰雄(1909 – 1983)は、この本の「あとがき」に次のように書いています。

彼の前期(抽象)・後期(具象)の別は、能楽における前シテ・後シテの関係を思わせないだろうか。ヒーローは同一人物である。そして彼は前後をつなぐ橋掛かりを往復するのである。スタールほでのシテがそれを踏みはずすわけはない。いや、彼自身、その超時空の中で橋掛かりと化すのである。つまり主体的「存在証明(アイデンティティ)」を実現するのである。彼の「自殺」はそうしたレアリザシオン(自己実現)にほかならない。
(『ニコラ・ド・スタールの手紙』「あとがき」大島辰雄)」

参考までに、『能楽用語集』には、次のように記載されています。
「シテとは、主人公のこと。
また、主人公を演ずる者を、「シテ」(して)と呼びます。
演目によっては、主人公が途中で舞台から下がる場合があります。
たとえば、前半に人間の女として現れ、後半に鬼となるような場合です。
このとき、前半を「前シテ(まえして)」、後半を「後シテ(のちして)」と呼びます。
ちなみに、前半は「前場(まえば)」、後半は「後場(のちば)」と呼ばれます。
能と言って思い浮かぶ、面(おもて)をつけて扇を持ち、舞っているのは、このシテの姿です。
狂言の主役もシテと呼ばれます。こちらは、狂言方が担当します。」

確かに、このように彼の生涯を辿ってみると、その短い人生の中で前半と後半が見事に分かれていて、伝記として完結しています。若い夭折の画家が突然に消えてしまった、というのではなく、短い時間の中できっちりと芸術家の一生としての醍醐味を味わうことができます。それを能の演目のように解釈することも可能でしょうし、美術評論家らしい見方であると思います。
しかし私は、自分自身が何も定まらずに絵を描いている人間なのですが、それでも実作者として別の見方をしたいと思います。彼は一貫して、絵とは何なのか、その核心にあるものをつかみとりたい、と思っていたに違いないのです。
ド・スタールはその豊かな才能のために、若くして抽象絵画の核心に触れてしまいました。普通の人間ならば、人生の終わりにやっとたどり着けるのかどうか、というところに一気に駆け上がってしまったのです。その時彼は、自分の用いた絵の具の層や色彩、画面構成を一度とり払い、これまでの画家がやってきたようなやり方で絵画の核心を握れるのかどうか、もう一度挑んでみたかったのではないでしょうか。私から見ると、そこにとどまってもやれることはあったはずだし、何だかもったいないな、と思うのですが、彼は立ち止まってゆっくりと考える時間を自分に許さなかったのではないかと思います。若い時に無我夢中でつかみ取ってしまったものが本当の自分のものだとは思えない、自分が本物の画家ならば、伝統的な絵画の方法でアプローチすることで一層絵画の核心に近づけるはずだ、と彼はそう思ったのではないでしょうか。

それでは、それほどに彼が描こうとした、彼の具象絵画とはどのような絵画だったのでしょうか。
それは説明的な描写をいっさい許さない、一瞬にして絵画の構造があらわになるような絵画であったと思います。そしてどんな困難なモチーフであれ、絵画にしてみせなければならい、という画家としての使命感もあったような気がします。そのモチーフは見えるものばかりではなく、音楽のリズムやハーモニー、スポーツの躍動感など、図像として示すことができないものも含みます。そういう意味では、ド・スタールの絵画はたんに個性的であっただけではなく、絵画としての普遍的な表現を目ざしたがゆえの個性だと言っていいと思います。それほど潔く、厳しい条件を誰も自分に課しはしなかったのですから、そういう意味で個性的なのです。
そして、そんな晩年の絵画の魅力にもかかわらず、私は前半の彼の絵画に、より一層の興味を感じます。彼の抽象絵画の絵具の厚い層には、彼が行為を積み重ねた絵画の時間性の問題が潜んでいますし、油絵具の特性を生かした絵画の物質性の問題、それに私がいま、もっとも重要に感じている絵画の触覚性の問題もそこにはあります。それは油絵具という透明性のあるメディウムを通じて、私たちの視覚に直接訴えてくるのです。それは絵画でしか表現できないことですし、私はこの時期の彼の絵画の実作を見るたびに、その重層的な絵画の醍醐味に打ちのめされてしまうのです。

最後に、彼の残した重要な言葉について、考えておきましょう。

絵画空間とはひとつの壁だ
が そこには世界中の鳥という鳥が
自由自在に飛んでいる 奥の奥まで
(『ファブリ世界名画集 100 ド・スタール』大島辰雄)

このド・スタールの言葉を解釈してみます。
「絵画空間とはひとつの壁だ」というはじめの部分は、「壁=平面」というふうにも読めます。ちょうど同時代にアメリカでは、美術評論家のグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)が次のような理念で抽象表現主義の画家たちを先導しました。

しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範であった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち持っている規範もしくは手段であった。平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。
(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ著 藤枝晃雄編訳)

「平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だった」というのが、イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)を最初のモダニストだと考えるグリーンバーグが、その批判哲学の方法からひねりだした結論だったのです。私は先ほど「壁=平面」というふうにも読める、と書きましたが、そう考えるとド・スタールとグリーンバーグは同じことを言っている、と言えるでしょう。しかし、「壁」という言葉にはいろいろなイメージや解釈が入りこむ余地があるのに対し、「平面」は「平面」でしかありません。それゆえに、モダニズムの絵画が本当の「平面」になってしまったとき、(それはアメリカを中心としたミニマル・アートの絵画において実現されたのですが)グリーンバーグはその動向を支持せずに、こう書きました。

モダニズムの芸術の原理を大筋で示すにあたって、単純化したり誇張したりしなければならなかったことを理解されたい。モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない。絵画平面における感性の高まりは、彫刻的なイリュージョンもトロンプ・ルイユももはや許容しないかもしれないが、視覚的なイリュージョンは許容するし許容しなければならない。表面につかられる最初の一筆がその物理的な平面性を破壊するのであり、モンドリアンの形状も依然としてある種の三次元のイリュージョンを示唆している。ただ今にして見れば、それは厳密には絵画としての、つまり厳密に視覚的な三次元性なのである。古大家たちは、人がその中へ歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない。つまり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである。
(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ著 藤枝晃雄編訳)

要するに、絵画というのは完全な「平面」ではありえない、モダニズムの絵画は、それ以前の絵画とは異なるイリュージョンを持った絵画なのだ、と言っているのです。ただ、この文章が示唆しているのは、旧套的な絵画の奥行を許さない、という意志であり、目によって感受できるわずかな凹凸のようなイリュージョンだけが許されるのだ、というある意味では非常にネガティブなメッセージです。ここから読みとれるのは、隙間のようなわずかな奥行の中で表現できるような絵画しか描いてはいけない、という厳しい教えであり、そのことで抽象表現主義以降の画家たちは苦しんできたのです。このことは何回となく、このblogで書きましたから、ちょっとしつこかったですかね。
一方の、ド・スタールの言葉はどうでしょうか。
「絵画空間とはひとつの壁だ」という言葉の中には、グリーンバーグと共通するモダニズム絵画への認識があったと思います。しかしド・スタールは「平面」ではなくて「壁」と言ったところに、そこにはイメージの豊かなふくらみがあったと思います。さらに「そこには世界中の鳥という鳥が自由自在に飛んでいる、奥の奥まで」というところが、みごとだと思います。ド・スタールは、グリーンバーグと違って、絵画の「平面性」と絵画的なイリュージョンが相反するものだとは思っていないのです。グリーンバーグが「平面性」とイリュージョンは相反するけれど、わずかな凹凸程度のイリュージョンなら許してあげる、と言っているのに対し、ド・スタールはそれらが相反するものだとは思っていないので、「鳥が自由自在に飛んでいる」ということを平気で言っているのです。この私の言い方が、高貴なグリーンバーグの文章を貶めた言い方になっているのならお詫びしますが、これぐらいのことを言わないと、グリーンバーグの影響からは脱せられないと思います。

さて、そんな言葉も噛みしめながら、ド・スタールの絵画を見てみましょう。初期の抽象絵画においては、渋めの色調に統一され、壁のようなマチエールになり、まさに「壁=平面」になりそうな感触もありますが、しかし彼の壁のような絵の具の厚みの中にはさまざまな色彩が潜んでいますし、統一された色調の中にも考え抜かれた構図があります。それはオートマチックにオールオーヴァーな画面になることを目ざした絵画ではありません。そしてそこには視覚的な要素に還元しようというのではなくて、物質的な要素、触覚的な要素、さらに行為を重ねた時間的な要素が入り混じっていて、絵画を豊かなものにしていこうとする意志を感じます。モダニズムの時代を生きながら、どうしてこのような表現がド・スタールには可能であったのか、さらに考察してみる必要を感じるところです。
例えば私は、ド・スタールがブラックを慕っていたことが気になっています。ジャコメッティもブラックを尊敬していましたし、ブラックという人は優れた表現者であると同時に、優秀な指導者であったのかもしれません。そう思ってみると、ブラックの絵画には革新者としての先駆性と同時に、ヨーロッパ的な伝統を感じます。それはド・スタールの絵画やジャコメッティの彫刻にも共通するものです。いくら見ていてもあきない、底の深さを感じます。

第二次世界大戦後の美術というと、もっぱらアメリカが中心に語られがちですが、モダニズム以降の混迷した今の時代において、ド・スタールの個性的な作品がますます重要になってくると思います。もう少し彼の実作品を見る機会があれば、しっかりと論じてみたい作家ですが、彼の貴重な作品を日本に集めることは不可能でしょうね。ヨーロッパやアメリカを旅行するような余裕は私にはありませんし、困ったものです。

さて、下手な作家紹介でしたが、いかがだったでしょうか。何かの参考になれば幸いです。

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