平らな深み、緩やかな時間

125. ボナールとナビ派について

この数日、さまざまなことがありました。
変わらないのは新型コロナウイルスの感染者数でしょうか。そんな中ですが、私が調べた限りで、美術系の大学は後期に向けて実技授業をキャンパスで行うところが多いようです。6月ごろからやってほしかった対応ですが、まずは後期から芸術を志す若い方々がともに学べる環境になったことに安堵しています。とはいえ、感染がおさまったわけではないので、みなさん、くれぐれも無理をせずに通学してください。とくに近県から東京に通われる方は、学校の時間に捕らわれずに安全な時間帯での移動を心掛けていただければ、と心から願っています。
ところで文科省は今頃になって、新型コロナウイルス感染の差別やいじめの防止について言い立てはじめましたが、突然の登校自粛要請で子供たちを驚かせ、クラスター対策の名の下に「夜の街」などという差別的な用語を使ったのは政治家の方々です。感染の恐怖と感染者への敵意を植えつけられた子供たちが「感染することが悪いことだ」と勘違いしてしまうのは必然的なことです。この混乱の中で行われた不適切な政策について、後出しでものを言っていちいち謝ってほしいとは言いませんが、差別やいじめの責任の一端が私たち大人にあることをせめて認識していただきたいと思います。そうでないと、口先だけで取り繕った言葉では、聡明な子供たちはすぐに見ぬいてしまいます。
それから、この後にまた感染者数が増える事態になっても、新しい為政者の方はぜひ冷静になっていただいて、急な登校自粛要請だけは勘弁していただきたいと思います。学校は整然と授業が行われている限り、それほどリスクの高い場所ではありません。ただ、昼食を取ったり、部活動などをしていたりすれば、それなりにリスクが高まります。もしも自粛が必要になったら、半日での授業や課外活動の自粛など段階的に進めていただければありがたいです。
いろいろと書いてしまいましたが、まずは美術系の大学の関係者の方々の、今後の努力に期待いたします。


さて、先日、このblogで『ピーター・ドイグ展』(東京国立近代美術館)について取り上げました。そのなかで私は、その展覧会のホームページで松浦寿夫(1954 - )が書いた文章を参照しながら、ドイグの絵画の特徴について考察しました。
実はそのときに引用した部分の前には、次のような一節がありました。

たとえば、2006年にパリ市立近代美術館で開催されたボナール展のカタログに収録されたハンス・オブリストによるインタヴューで、ピーター・ドイグもまた、ピエール・ボナールについて語るとき、ほとんど自らの制作の場面で展開する思考を暗黙のうちに示しているかのようだ。この短くも充実したインタヴューで、実際、冒頭からドイグはボナールの作品がたえず自分の発想の源泉となっていること、また自分が彼の影響下にあることを認めたうえで、「自分自身の作品について考えるとき、私はしばしばボナールの作品を見ます」と語っている。いまなお、美術史の記述の体系のなかに位置づけがたく、それゆえに、批評的な抗争の場で毀誉褒貶とともに奇妙な役割を背負わされることが多いにもかかわらず、その作品の射程を正確に踏査されたわけでもないながら、自分の作品が西暦2000年の若い画家たちに届くことを夢見ていたボナールにとって、この率直な告白はささやかであるにしても明確な礼讃でありえているはずだ。
(『#04画面手前で』松浦寿夫 「ピーター・ドイグ展 レビュー特集より」)

ドイグがボナールを好きだということがよくわかる一節ですが、今日はドイグのことではなく、ボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)について考えてみましょう。例えばこの説明のなかで、「いまなお、美術史の記述の体系のなかに位置づけがたく」と松浦寿夫がボナールのことを書いている部分が気になりませんか?
今回はそのことから、考えてみましょう。
ボナールは、美術史的には19世紀末に活躍した「ナビ派」と呼ばれる動向の一員として位置づけられています。この「ナビ派」ですが、その少し後の時代に活躍したキュビスムやフォーヴィズム、シュルレアリスムなどの画家たちと比べると、美術史的な取り上げられ方が少ないように思います。
そもそも「ナビ派」について、一般的にはどれほど知られているのでしょうか。私は学生時代に、「ナビ派」について知ろうと思って、画集や解説書を探して結構苦労しました。専門書や外国の文献を読めれば、もっとたくさんの資料があったのかもしれませんが、もちろん、私にそんな能力はありませんし、何よりも私は彼らがどんな絵を描いていたのか、ビジュアルな資料を見たかったのです。
今のようにインターネットで検索、というわけにはいきませんので、本屋をマメに見て回ったところ、『週刊朝日百科 世界の美術65』という冊子を見つけました。朝日新聞社から出版されていた安価な一般向けの案内書です。ですが、一般向けに作られているおかげで、すべてのページがカラー刷りになっていて、なかなかありがたい冊子でした。昔はこういう分冊された冊子を特製のバインダーで綴じると百科事典になります、というものがよく売られていました。そんな几帳面なことをする人がいるのだろうか、と思ったものですが、大きな事典で買うと高価なものが、自分の興味のある部分だけがほしいなら安価で購入できる、というのは意外と貧乏学生に向いていました。
この『週刊朝日百科 世界の美術65』も限られたページ数のなかで写真と文字がコンパクトにまとめられていて、「ナビ派」についてもわかりやすく手短に書かれています。それをさらに短くまとめて、私なりに「ナビ派」を紹介してみましょう。

ナビ派が成立したのは1888年の夏のことなのですが、ナビ派の中でももっとも有名な画家であるボナールとヴィヤール(Édouard Vuillard, 1868 – 1940)はその頃、ともに私立の画塾アカデミー・ジュリアンに通っていました。アカデミー・ジュリアンの彼らの画室の級長がポール・セリュジエ(Paul Sérusier, 1864 - 1927)という画家で、彼はその年の春にサロンに入選するほどの腕前でした。そのセリュジェが、1888年の夏にフランス北西部ブルターニュ地方の小村ポン=タヴェンでゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin , 1848 - 1903)と出会います。ゴーギャンは「いまだに陳腐きわまりない紋切り型の肖像画や神話画を制作し続ける古典主義に反対するのはもちろんのこと、印象主義の単純な直感的・視覚的自然主義にも反発する若い画家たち」から英雄視されていました。そしてポン=タヴェンのゴーギャンの下に集うエミール・ベルナール(Émile Bernard、1868 – 1941)らの若い画家たちのことを「ポン=タヴェン派」と言ったのです。セリュジェはそんな人たちとは正反対の古典派の画家たちとポン=タヴェンを訪れていたのですが、個人的にゴーギャンに興味があり、パリに戻らなくてはならない日に思い切ってゴーギャンに声をかけたのだそうです。

普段は気むずかしいゴーギャンであったが、この日どういう風の吹き回しか愛想がよく、一緒に写生に行こうとセリュジェを誘ってくれたのである。ふたりは近くの「愛の森」という景勝地へ行き、そこで近代美術史上最も重要な「伝授」のひとつが行われたのである。
「あの樹はいったい何色に見えるかね。多少赤みがかかって見える?よろしい、それなら画面には真赤な色を置き給え―。それからその影は?どちらかと言えば青みがかっているね。それでは君のパレットの中の最も美しい青を画面に置き給え・・・」
ゴーギャンの教えに従って、セリュジェは葉巻の箱の上蓋に鮮やかな色彩を置いていった。こうして出来上がったのが『ポン=タヴェンの愛の森』である。
(『週刊朝日百科 世界の美術65』「ナビ派」阿部信雄)

ちなみにインターネットで調べてみると、この解説文を書かれた阿部信雄(1948 - )は当時ブリヂストン美術館の学芸員で、後に学芸部長になった方だそうです。そしてその兄がこのblogでも取り上げた『群衆の中の芸術家 ボードレールと十九世紀フランス絵画』の著者、阿部良雄(1932 - 2007)なのです。さらに彼らの父親は英文学者で作家の阿部知二(1903 - 1973年)で、知二は創元推理文庫のシャーロック・ホームズ・シリーズの最初の翻訳者だったそうです。さらにちなみに、兄・阿部良雄の妻はフランス文学・美術研究者・詩人の與謝野文子(1947 - )で、文子は與謝野鉄幹(1873 - 1935)と晶子(1878 - 1942)の孫だそうです。そういえば、私は学生の頃に與謝野文子の翻訳したジョワシャン・ガスケ(Joachim Gasquet, 1873 – 1921)の『セザンヌ』という評伝を、繰り返し読みました。名門の一族というのは、こういう方たちのことを言うのでしょうか。私たちは気づかないうちに、阿部、與謝野一族のお世話になっていたのです。
それはともかく、この『ポン=タヴェンの愛の森』はよい作品です。ご存知ない方は、次の画像を見てください。
https://www.wikiart.org/en/paul-serusier/the-talisman-1888
私はセリュジェの作品を数点見ただけですが、この作品は別格によいです。ナビ派の作品の全体をながめても、ボナールを別にすればこの作品ほどピュアな魅力のある作品を見たことがありません。先に書いたようなゴーギャンの教えの内容も興味深いのですが、やはりゴーギャンに見てもらえているという緊張感と喜びが作品から感じられます。こんな夢のような指導なら、誰でも受けてみたいのではないでしょうか。実技における対面授業は大事だという、一例になると思います。
さて、このようなゴーギャンとの出会いがあり、セリュジェはパリに帰ると早速、アカデミー・ジュリアンの仲間にこの作品を見せます。この仲間というのはボナール、ヴィヤールのほか、のちに『新伝統主義の定義』という論文を著述するなど、ナビ派の理論的な主柱となったモーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870 - 1943)、2014年に三菱一号館美術館で大規模な回顧展があったスイスの画家、フェリックス・ヴァロットン(Félix Edouard Vallotton, 1865 - 1925)、後に自分の美術学校を設立したポール・ランソン(Paul Ranson, 1864 - 1909)の五人だったそうです。この『ポン=タヴェンの愛の森』は、彼らの間で「護符(タリスマン)」と呼ばれたそうです。外国語のこの絵のタイトルも“The Talisman”となっていますね。そしてこの事件をきっかけに、彼らはアカデミックな手法に見切りをつけ、大きな色面を重視した絵を描くという新たな道を歩み出したのです。それが「ナビ派」の誕生のいきさつですが、それでは「ナビ派」の「ナビ」とはどういう意味なのでしょうか。

「ナビ(Nabis)」という言葉はヘブライ語で「予言者」の意味である。ヘブライ語を選んだことについては、ほとんど全員が裕福なブルジョワジーの出身であり、それぞれに高い教育を受けていた若者たちの高踏的な趣味の表れと見てよいであろう。
(『週刊朝日百科 世界の美術65』「ナビ派」阿部信雄)

こういう文章を読むと、100年以上前のちょっとお坊ちゃん風の若者たちが、新しい芸術に触れた高揚感ではりきっている様子が目に浮かんで、ほほえましいですね。いまの若い方から見ると、この「ナビ派」の若者たちの姿をどのようにお感じになるのでしょうか。
私のことで言えば、個人的にはつねにこういう出会いを求めていますが、仲間と組織的にこのような喜びを分かち合ったことはないです。それは時代的な背景によるものなのか、それとも私自身の鈍感さのせいなのか、よくわかりません。私は知性も感性も他の人より鈍いので、仮に私の周囲でこういう動きがあったとしても、仲間には入れてもらえないだろうなあ、と思います。
いまの現代美術を見ると、グループで活動されている方も多いようで、20世紀初頭の「○○派」というのともちがった、共同体としての制作が日常的になっているようです。こういう方々が今後どのように展開していくのか、楽しみでもありますね。
ところが、このような高揚感に満ちたはずの「ナビ派」ですが、その芸術的な結実はグループを離れたところで為されてしまいます。それはどういうことでしょうか。阿部信雄は「ナビ派の意義」について、次のように書いています。

ところでナビ派がまとまりのあるグループとして存在していたのは、1900年ころまでのたかだか10年ほどにすぎない。ボナールやヴィヤール、そして1893年からナビ派と深いかかわりをもっていた彫刻家アリスティド・マイヨール(Aristide Maillol, 1861 – 1944)などは、それ以降独自の道を歩むようになる。そして、のちに大成したのは、ナビ派の「教義」に見切りをつけたこれらの人々であった。セリュジェやラコンブ(Georuge Lacombe, 1868 – 1916)は生涯ゴーギャンの追従者であることから脱け出せなかった。また、ナビ派随一の理論家であったドニも、理論倒れになった感が強い。しかし、「絵画とは、裸婦とか軍馬とか、あるいはなんらかの逸話である以前に、一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な平面であることを想起せよ」というドニの言葉は、いささか言葉だけが独り歩きをしたにしても、現代絵画、とくに抽象絵画の成立の理論的支柱のひとつとなった。そのことは、ドニひとりでなく、ナビ派が名誉として誇ってよいことであろう。
(『週刊朝日百科 世界の美術65』「ナビ派」阿部信雄)

彫刻家のマイヨールの名前が思いがけず出てきました。彼はパリに出てきて画家としてアカデミックな勉強をしようとしましたがうまくいかず、ナビ派の画家たちと出会い、そしてブールデル(Antoine Bourdelle 1861 - 1929)とも知り合い、のちに彫刻家となったのです。絵画から離れたマイヨールはもちろんのこと、画家として名を残したボナールもヴィヤールも、ドニが提唱した「平坦な平面」という言葉に対して、あまり忠実ではなかったと思います。もちろん、彼らの作品にそういう平面性は多分に感じられますし、とくに彼らがグラフィック・デザイン的な仕事をするときには、絵画の平面的な魅力が前面に押し出されています。しかし、ボナールもヴィヤールも、その絵画の特徴はこまかな筆のタッチや絵の具の重なりによる独特の色彩の発色ですから、ベタっと平らに塗る、という意味での平面性とは少し違った表現になっていると思います。
翻って、「ナビ派」きっての理論家であった、ドニはどうでしょうか。彼の作品を見てみると、確かに平面性が強調されていますが、その色彩相互の響きがやや鈍く、色面を調和させようとした意志が無難な方向で作用してしまったのかな、ということを感じてしまいます。画面のどこかの色面が突出してしまうと、絵画全体の平面性が損なわれてしまいますから致し方ない面もありますが、それでは彼らが護符にしていた『ポン=タヴェンの愛の森』を越えることができません。ドニの作品は、実は上野の国立西洋美術館がけっこうな数を所蔵していますので、美術館に行かれた時には常設展もチェックしてみてください。次のうちの何点かは展示されていることと思います。
https://collection.nmwa.go.jp/artizeweb/search_3_artistart.php
※作家名に「ドニ」と入れて検索してみてください。
西洋美術館に行くと目玉となる企画展だけ見てしまったり、あるいは常設展でも印象派の作品を見て満足してしまったり、現代美術の新しい収蔵作品をチェックしたり、ということがありがちだと思います。「ナビ派」は時代的にも、ちょうとその狭間にあって、そのなかでもドニの作品に注目する人はほとんどいないと思います。しかし一つ一つの作品の背景が分かってくると、こういう地味な作品にも愛おしさが感じられると思うのですが、いかがですか?

さて、「ナビ派」の概要が分かったところで、そもそもの話の発端であったボナールについても触れておきましょう。
「ナビ派」の作品が、いまひとつ美術史の中で注目されない状況にあるのですが、ボナールは阿部信雄が書いているように、ナビ派以降、その「教義」に見切りをつけたかのように、独自の芸術を開花させていきます。それは彼の実生活がおおいに影響していたようで、とくにボナールの生涯の伴侶であったマルトという女性がカギを握っていました。ボナールは27歳の時、マルトという花屋で働く17歳の少女と出会い、恋に落ちます。マルトは胸を病んでいたので、ボナールはパリを離れて温暖な湯治場を転々とする生活をすることになります。友人と会う機会も少なく、ホテルの壁にキャンヴァス布をピンでとめて制作する、という日々が続いたそうです。おもなモチーフはマルトと室内と、室内から見た風景とに限られていきます。
このような書き方をすると、とてもネガティブな生活のように読めますが、実際にはどうだったのでしょうか。彼の絵画を見ると、室内と室内から見える風景が、ボナールの絵画に特有の広がりを作り出しています。人物表現を見ても、日常生活の中のマルトの姿は親密さを感じさせるものですし、さらに彼女が頻繁に入浴したということで、その場面を描いた作品はボナールの絵を象徴するものとなっています。キャンヴァス布を木枠に張らずに、壁に直接ピンでとめる描き方も、布の下の壁の抵抗感が独特の筆触となって、ボナールの色彩表現に影響しているのだろうと思われます。さらに言えば、仲間と適度な距離を取った孤独な制作がボナールの絵画を、時代を越えた不思議な位置に置いているのかもしれません。これらのどれをとっても、ボナールの芸術の重要なピースになっていて、ひとつの要素も欠かすわけにはいきません。
このようにボナールという画家は、美術史的には「ナビ派」の仲間でありながらも、その「教義」から外れた位置にあり、さらにその「ナビ派」も美術史の中で重要視されていない、という状況にあります。というふうになってみれば、松浦寿夫が書いたように「美術史の記述の体系のなかに位置づけがたく」ということになってしまうのです。ボナールの絵画を簡略に説明するならば、日常的な親密なモチーフと、理論化しづらいけれども美しい色彩表現と、さりげなくも玄人好みの画面構成によって、素人の絵画愛好家から玄人の評論家や同業の巨匠まで、誰もがその重要性を認めるものなのです。その一方で、その魅力をわかりやすく歴史のなかに位置づける、ということが難しい画家なのです。

さて、ボナールの芸術について、もう少しだけ深いところに切り込んでみましょう。
まずは、20世紀以降のモダニズムの芸術と、ボナールの作品を比較してみます。20世紀以降の美術は、時代の先端を行く新機軸を次々と打ち出すことでモダニズムの運動を支えてきました。一目でわかる目新しさが肝要であり、さらに言えばそれがショッキングなものであれば話題になり、批評やジャーナリズムにも取り上げられやすいので、言うことがありません。
ところが、ボナールの絵画には目新しさというものがほとんどなく、一目でわかるようなショッキングなメッセージも皆無です。その逆にボナールの絵画は長い時間ながめることで、その魅力がじわじわと伝わってくる、という構造をしています。例えば、ボナールもどきに色彩のきれいな絵なら、皆さんの周りにもたくさんあると思うのですが、それらの作品がいかにボナールと異なっているものなのか、は言葉で説明するよりも、ただ時間をかけて対峙してみればよいと思います。じきに見慣れてしまって新鮮さが無くなってしまうのが通常の絵の場合ですが、ボナールの作品は見飽きることがなく、いつまでも新鮮で、さらにあなたが注意深い人ならば、見れば見るほど新たな発見があるはずです。
私は言葉足らずで、この私が感じていることをうまく書けないのですが、作家の辻邦生(1925 - 1999)がボナールについて、次のように書いています。

ボナールの絵は、この例(『食卓の一隅』)が示すように、見ただけで直ちに輝かしい大胆な色彩に魅了され、一気に「親密な幸福感(アンティミテ)」を感じてしまう故に、この画家が、冒険的に試みた大胆無比な、前代未聞の、破格な構図も、何か絵画的な自然の現象として、すんなり受け入れてしまいがちだ。むろん破格なものを何の抵抗もなく受け入れさせるのは、ボナールの絵画技巧の素晴らしさの証明だが、そうかといって、そこに、彼がのめり込んでいった視覚的冒険を見落としたら、やはり「親密な幸福感」の享受は、底の浅いものになるほかない。
ボナールが試みた視覚的な冒険として、われわれは鏡を頻繁に使って、空間の独特の歪みを描いた化粧室の裸婦シリーズを挙げることができよう。また室内の窓(戸口)を通して眺めた庭園の構図も、ボナールは繰り返して描いたが、ここにも遠い空間と近い空間を一体化させ、いわば空間を円環的―前後的、というべきかもしれない―に結びつけようとする意図が見てとれる。ここでは遠景の細部をはっきり描き、色彩的にも遠景に強いを用いている。つまり遠近が1枚のタピスリのように平面化して織り上げられているのである。
ボナール自身の言葉で言えば、「芸術作品、それは時間の停止」なのだ。「自然の美しい瞬間を狙って描くこと。すべてに美の瞬間はあるのだ。美とは視覚(ヴィジョン)の満足なのだ。視覚は単純さと秩序によって満足させられる。単純さと秩序は、意味を持つ表面の分割と、共感的な色彩のグループ化などによって作られる。
「美の内部感情が自然と出遇うこと、それが重要な点なのだ」。
「生を描くことが問題ではない。絵画を生き生きとさせることが問題なのだ」。
こうしたボナールの言葉を読むと、温かい<ばら色の人生(アンティミテ)>のなかで描いたかに見えるこの画家が、時代の課する絵画的課題、視覚的困難に正面から立ち向かい、精魂を傾けて<美>を画布に実現していたことが分かる。もし彼の幸福感というものがあれば、それはただ画面のなかだけにあった。生活とは、この絵画の世界のもとに踏みにじられていたといっていい。
「幸福であると人が言った瞬間、人はもう幸福ではないのだ」というボナールの言葉は、彼と絵画との関係をよく物語っている。彼は画面から「視覚の満足」という幸福を喚び起こしたが、絵画の外では、幸福など問題としていなかった。少なくとも「幸福である」と思うことなど意に介していなかったのだ。
芸術家とは革命家や思想家と同じく時代状況の困難に進んで直面し、その止揚に挑む存在である。
「人はすべてを忘れるとしても、自我は残る。だが、それでは十分ではない。つねに、主題を持つことが必要なのだ。たとえばどんなに小さくても、だ。つまり大地に足をつけることが必要なのだ」。
ふわふわの快い毛糸のような鮮やかな色彩の魔術が、地上に在ることの深い自覚を喚び起こすのは、彼のこうした言葉を読んだ瞬間だ。絵画が偉大なものに変貌するのもまさにこの瞬間と言っていいだろう。
(『現代世界の美術9 ボナール』「あるintimiteについて」辻邦夫)

この文章のはじめで話題になっている『食卓の一隅』という作品ですが、次の画像で見ることができます。文字が表面に入っていてすみません。気になる方は絵のタイトルで検索して見てください。
http://www.wpsfoto.com/items/B4797
ボナールはマメにスケッチをする人で、スケッチ手帖には膨大なデッサンが残っています。この『食卓の一隅』にもそのもとになるデッサンがあって、そこからいかにボナールがタブローを制作していったのか、ということを考察する好例として、この絵について語られています。引用部分はその後のところからになるのですが、試しにこの絵を少し見てみましょう。
この絵を見ていくと、上から俯瞰して見たような構図なので、テーブルの向こう側に当たる左上の位置に椅子の背もたれが横向きで見えています。しかしその右側に置かれた取っ手付きのかごを見ると、ややこちら側の横向きから、つまり俯瞰した視点よりやや低い位置から見て描かれているので、その視線の向きが食い違ってしまって、互いに違和感をもたらしているのです。
これは画面全体を眺める視点が固定されずに、曖昧であるために起こっていることなのですが、実はボナールの絵画においては、こういうことがよくあります。ボナールは画面上に遠近法的な奥行と、平面的な広がりとを同時に表現しようとするので、細かく見ていくと不思議な構図になってしまうのです。これはスケッチ帳に描かれた瞬間的なひらめきを、いかに大切にしながらボナールがタブローに定着していったのかを示す好例となっています。確かにスケッチでは上から見下ろしたように椅子が横向きで描かれていますが、テーブル上のものの向きは曖昧です。でも、ボナールはこの俯瞰した視点とテーブルの奥行きのある広がりが描きたかったのでしょう。スケッチとしてはそれほどの違和感もなく描かれた構図ですが、タブローとして細部を詰めていくとその視点の置き方に矛盾が生じてしまいます。ボナールはそれを修正することなく、むしろさらに大胆に表現してしまうのです。結果的に椅子の形がスケッチよりも小さくなり、そのことによってテーブルの上の台面がさらに大きな広がりを持つことになりました。そのことを指して辻邦夫は、「冒険的に試みた大胆無比な、前代未聞の、破格な構図も、何か絵画的な自然の現象として」すんなりと私たちに受け容れさせてしまう、と書いているのです。それこそが「ボナールの絵画技巧の素晴らしさの証明」だと、彼は書いています。
ただし辻邦夫は、ボナールの絵画の美しさをただ心地よく享受するだけでは十分ではない、と言っています。だからといってそのボナールの工夫を見逃してしまっては、彼の芸術の楽しみ方として「底の浅いものになるほかない」と言っているのです。だからこそ、ボナールの絵は時間をかけてながめてみたいのです。このことはボナールが「芸術作品、それは時間の停止」なのだと言ったことと、矛盾して感じられるのかもしれませんが、そうではありません。この言葉の意味は、芸術作品は美しいものの瞬間を印象として捉え、それを作品の中に封じ込めて永遠に新鮮なものとする、という意味なのです。そのことについて言及した文章がありますので、次にご紹介します。

最後に、ボナールの芸術と時間の感覚について言及した文章を紹介しておきましょう。『新潮美術文庫34 ボナール』の解説で、美術評論家の峯村敏明(1936 - )が書いた文章です。彼はボナールを、最初の印象を大切にする画家として解釈し、やや後の時代の巨匠であるマチスと比較しています。後輩のマチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)が最初の印象からモチーフや構想がどんどん転移していくことをよしとした画家であるのに対し、ボナールは最初の着想に戻ることを目ざした画家だというのです。

この点は、ボナールの後輩にあたるマティスを引き合いに出すことで、よりいっそう明らかになるだろう。二人は互いに敬意をもって相手の仕事ぶりを注目し合っていた間柄であるが、端的にいって、ボナールが最初の印象に固執するのに対し、マティスは生成にかけるタイプであった。マティスは言う―「花束をテーブルに置きます。はじめは、経験のある庭師が見たら花の種類がみんなわかってしまうような具合に描きたいものだと、ごく単純に思うのですが、途中で、何がどうなっているのか、自分でもわからなくなってしまうのです。それは乙女たちの輪舞になったり、詩の方へ行ったり・・・」。マティスは、このようなモティーフや構想の転移を、むしろよしとしていたのだった。だが、ボナールは逆だ。「テーブルの上のふっくらとしたばらの花束を、じかに念入りに描こうとして、細部にのめり込んでしまいました。・・・すぐにわかったのです。自分はもたついている、もう出られないほど迷い込んでしまいました。最初の着想も、私を誘惑したヴィジョンも、出発点も、もう取り戻せないだろうとね。でも、最初の誘惑が見つかれば、またやり直せると思います。身近に興味深いものを見ることはよくありますが、描きたくなるには、そこに特別な誘惑がないといけません」。
では、このような最初のサンサシオンないし最初の誘惑ということが等しく強調されるからには、ボナールは印象派との差がほとんどないところまで遡ってしまったのだろうか。否。ボナールは、印象派の直接制作の原理とは対照的に、「ひとりアトリエで描き、アトリエでいっさいのことをやる」のを常としていたのだった。しかも風景画の場合、現場ですばやくスケッチすることと、アトリエで長時間かけて色を(しばしば指先で)置いてゆく作業とが分離していたという彼のやり方には、たんなる物理的、技術的な理由からではない、内的な必然性がひそんでいたのだった。「彼が何かに夢中になっても、すぐさませかせかとパレットに向かう気にはならなかったし、むしろ、選択まで手間取ることをいつも心得ていたのだった。もっとも、記憶で仕事をするのだから、手間取るといっても見かけだけのことであるが。だから、あとでアトリエで拡大するはずの作品を、いま写生し始めたとしても、明日になれば、ついさっきまでのんびりと空想していた夢幻劇を、記憶で描き始めるかも知れないのである」(リュシー・クーステュリエ)。
ボナールを印象主義から隔てるポイントは、まさしくこの「手間どる」(遅れる・時を失する)ことのうちにあったということができよう。純正の印象主義ならば、第一印象を画布に直結させる。その点に関してモネも同様だった。ところが、ボナールはあえて遅れるのである。時を失するのである。
(『新潮美術文庫34 ボナール』峯村敏明)

まずは、マチスとボナールの比較が面白いですね。私はどちらかといえばマチスを手本にしてきました。その一方で、先日見たピーター・ドイグはボナールと同じタイプの画家なのでしょう、それが松浦寿夫の批評の根幹になっています。ここまで学習して、ボナールと同時に、ドイグという画家も見直してみなければなりません。そして自分自身の制作も少し振り返って、反省してみます。個人的なことですみません。
それはともかくとして、何ごとにもスピードが重視される20世紀のモダニズムの中で、ボナールの方法はいかにも居心地が悪いものです。彼が絵を描くのに「手間どる」ように、その絵を見る私たちも、本当に彼の絵の良さが分かるには「手間どる」必要があるのです。
そしてさらに興味深いことを峯村敏明は書いています。この「手間どる」という時間の遅れの問題は、一人ボナールという芸術家だけが背負った問題なのではなくて、20世紀の初頭を飾る代表的な小説『失われた時を求めて』のプルースト( Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871 - 1922)と共通する問題なのだ、と彼は書いているのです。

そもそも『失われた時を求めて』の作者の思想の原点には、印象への信仰があった。しかもその思想は「対象と意識とのあいだの関係の神秘に、つねに不可避的に立ちかえる」(ブーレ)ことを求めるものであった。印象に対するこの逆説的な態度は、プルーストをしてまさしく文学における「遅れをもつ印象主義者」たらしめずにはおかなかったのである。その遅れが、この小説家においては、絵画の及びえない回想という領域に窓を開いたものであったにしても、失われた印象の間歇的な蘇りと、そのようにして蘇ってくるものを時間の外で確認するよろこびに芸術的虚構がかけられていたという点では、ボナールと同じ精神の働きを示していたのだった。
(『新潮美術文庫34 ボナール』峯村敏明)

プルーストに関しては研究書が山ほどありますので、私などが何か言えるものではありません。
実は私が学生の頃、『失われた時を求めて』は20世紀でもっとも重要な小説だから必ず読まなくてはならない、と誰かから言われました。また、それと同じくらい重要な小説だと言われていたのがジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882 – 1941)の『ユリシーズ』だったのですが、いずれも古い全集でしか翻訳がなかったので、なかなか読むことができませんでした。図書館で借りて、返却期限が来て挫折する、ということを何回か繰り返したことを憶えています。それがいまでは、『失われた時を求めて』に関して言うと、どの人の翻訳が正確だとか、読みやすいだとか、文庫版で本が選べるのですから夢のようです。
それはともかく、峯村敏明が書いていることは、「印象」を大切にするということは「印象」を蘇らせることだ、というのです。そう言われてみると『失われた時を求めて』が壮大な記憶をテーマにしていながら、その描写がみずみずしいということの理由が、少しわかったような気がします。「記憶」というと古い、硬直したものを想起しがちですが、「記憶」を「印象」の蘇りとして捉えるなら、まったくイメージが変わってきます。プルーストが「遅れをもつ印象主義者」だとは、何とも素晴らしい指摘です。そしてこの「印象」を蘇らせるという解釈において、ボナールとプルーストが繋がってくるというわけです。この新潮美術文庫は何回も見返しているのですが、恥ずかしながらこんなふうに丹念に言葉を拾ったことがなかったので、今まで全然気がつきませんでした。今度は新しい気持ちで、『失われた時を求めて』を読んでみることにしましょう。
そして峯村敏明は、このボナールに関する解説の最後を、次のような文章で締めくくっています。これもなかなか素敵な終わり方です。

プルーストがその畢生の大作の最初の巻『スワン家のほうへ』を出版した1913年は、ボナールが決定的に「遅れのある印象主義」の道へと踏みこんだ年でもあった。そして死の半年前、ル・カンネで数枚の最後のタブローに手を入れながら、79歳のボナールが読み返していたのは、マラルメの全作品とともに、プルーストの『失われた時を求めて』であった。
(『新潮美術文庫34 ボナール』峯村敏明)

さて、最初の取っ掛かりに戻りましょう。
ボナールは「いまなお、美術史の記述の体系のなかに位置づけがたく、それゆえに、批評的な抗争の場で毀誉褒貶とともに奇妙な役割を背負わされることが多いにもかかわらず、その作品の射程を正確に踏査されたわけでもない」という松浦寿夫の文章がありました。今回のような簡単な探究であっても、ボナールが美術史のなかで「位置づけがた」い画家である、という事情が分かったような気がします。
しかし後半部分の「その作品の射程を正確に踏破」するということは、実際にやってみるなら並大抵のことではないでしょう。実際に今回、突然にも私たちと同時代の画家ピーター・ドイグへの影響がわかってしまったわけですから、その「射程」は計り知れないものでしょう。だから、ドイグは現代のイギリスにおいて「画家のなかの画家」と呼ばれているそうですが、ボナールはもっと長い「射程」の、例えば20世紀以降の永遠の「画家のなかの画家」だと言えるのかもしれません。

実は私は、学生時代に、ボナールの絵を下敷きにして、大きなタブローを制作したことがあります。なんとボナールの絵から色彩の要素を還元してしまうとどうなるのか、という無茶苦茶な試みでした。でも、とても楽しかったですね。いまなら、もっとやりようがある、という思いもあります。いつかチャレンジしてみましょうか・・・。そして私自身も、できればボナールのように、時代における位置づけや意義よりも、見る人を永遠に喜ばせるような絵を描きたい、と心から願うものです。

 
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