関西を活躍の主な場にしていらっしゃる河合美和さんという作家が、東京・神宮前のトキ・アートスペースで12月4日(日)まで個展を開催しています。
http://tokiart.life.coocan.jp/2022/221129.html
たいへんに美しい作品ですが、風景画のような、抽象絵画のような、ちょっと不思議な作品です。インターネットで検索できる範囲で、彼女の作品の変遷をみてみましょう。
2016年ごろの作品だと思われるのが、次の作品です。
https://arika-artjoy.com/buy/oil/h04kawmi/
木立の風景でしょうか。木の幹や枝の形とそれらが形づくる空間を主題にしているようです。構成的なくっきりとした画面から、木とすき間の空間が同化していくような変化が読み取れます。それにつれて、画面に自由な空気が入り込んでくるようで、好ましい変化だと思います。
2017年ごろの作品だと思われるのが、次の作品です。
http://galleryhaku.com/haku-2017/2s21/2s21.html
先ほどの作品の空間を横に連続させて、自由な構成だからこそ自在に広がっていくことを試しているように見えます。形象のネガとポジの関係が、ところによって入れ替わって見える点が興味深いのですが、その一方で、背景が白く見える部分は、その関係が固定化されてしまっていて、自由度に欠けるようにも見えてしまいます。
2018年ごろの作品だと思われるのが、次の作品です。
https://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/kawai-miwa/
作品の写真が小さいのが残念ですが、先ほど言及した、形象のネガとポジの関係の自由な交錯が、さらに進められたように見えます。色合いも美しく、暖色の中に青緑色の線がかすかに見えるところが効果的です。
2020年ごろの作品だと思われるのが、次の作品です。
https://art.bunmori.tokushima.jp/imgdoc2017/sorezore_worksheet.pdf
これまでの画面に見られていた形象の垂直性が抑えられていて、構成的に見ても画面の自由度が増しました。また、木の隙間の空間が白く抜けるのではなく、抵抗感のある青い色で表現されているのも興味深いです。大きな木の枝ぶりと、その隙間から見える空を描いたのだとしたら、これまでの作品よりも具象性が高いとも言えますが、肝心なことは画面上にどれくらい作者の感性が表れているのか、ということです。具象的な形を描きつつも、ネガとポジの空間を自在に行き来して、画面全体が緊密に絡み合って見えます。
そして、今回のトキ・アートスペースの作品を見ると、一気に画面の自由度と複雑さが増して見えます。とくに先のトキ・アートスペースのホームページで見ることができる作品が秀逸です。作品の抽象性が高まると、得てして細部の表現が甘くなることがありますが、そんなことはありませんでした。水の流れを見ているようでいて、それでいて画面に不思議な手応えがあります。「何かの形を借りるのではなく自然の中で自分が感じる、心地の良い奥行きのある、動きのある空間」と作者が書いている通り、具象的な形象に仮託しなくても、自分の感性が十分に表現できるのだと確証を得ているようなコメントです。
その一方で、木の幹や枝のように見える形象が、強い逆光のようなコントラストで描かれた作品がありましたが、明暗のダイナミックさが増している反面、空間の自由度が抑えられてしまっているようにも見えました。また、大海原を描いたような壮大な作品においても、深遠な奥行きが旧套的な空間を誘発してしまっているような気がしました。絵画というものは、コントラストを強調し、奥行きを深くとればとるほど画面が構成的に見えるという性質があります。個人的には、もう少しコントラストや奥行き感を抑えた方が、絵画空間としての自由な動きが生じるのではないか、と感じました。
しかし、これだけの筆力があると、どうしても壮大な絵画を描きたいという欲求が出てくるのだろう、と思います。才能がある人ならではの難しさなのかもしれません。ギャラリーの入り口付近の壁には、たくさんの小品がかかっていましたが、その中でも奥行きのある空間を抑えた、平面的な作品に魅力を感じました。画面構成が抑制的である方が、河合さんの絵画の熱情や迫力が滲み出てくるような気がしました。
さて、このように絵画と真摯に向き合い、その可能性を探究する作品と出会うと、絵画表現とはどのようなものなのか、と思わず考えてしまいます。これまでも、さんざん絵画について書いてきましたが、今回は現在勉強中のウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)の哲学から考えてみましょう。どんなに高尚な哲学であっても、私たちの表現活動に応用できなければ、ただの学問に過ぎません。それが生きた思想になるためには、私たちの活動とともにあるものでなければならないのです。ともあれ、短絡的に手前味噌のこじつけをしたのでは意味がありません。しっかりと自問自答しながら、検討を進めることにしましょう。
例えば、今回の河合美和さんの作品ですが、一人の経験豊富な作家でありながら、この数年だけでもこれだけ画面の様相が変わります。ギャラリーにあった資料を拝見すると、それ以前にも大きな作品の変遷があった方のようで、どちらかといえば2016年からの作品は、画面の抽象度が上がった時期の作品として、同傾向の中で整理できるようです。しかし、その一時期の中にあっても、この作家は絶えず前進して変化しているのです。
私が注視したいのは、いかにスタイルが変わっても、そのどれもが河合さんという作家の仕事であり、絵画表現を探求している姿勢に変わりはないということです。このように様式の変化にもかかわらず、絵画としての普遍性が垣間見えるということを、私たちはどう考えれば良いのでしょうか。
前回までのウィトゲンシュタインの解説者であった永井均さんに代わって、今回は古田徹也さんという、永井さんよりもだいぶ若い哲学者の『はじめてのウィトゲンシュタイン』という解説書に沿って話を進めることにしましょう。この本は、ウィトゲンシュタインの思想に「はじめて」触れる人に向けて書かれたものですが、そうは言っても中身は難解なウィトゲンシュタイン哲学ですから、内容的には手強いです。それを噛み砕くことができず、文章がわかりにくいものであったならば、それは私の実力不足です。「申し訳ない」とあらかじめ断っておくことにしましょう。
ところで河合さんのような作家の作品を見ると、この作家の目には「世界」がどう見えているのか、あるいはこの作家にとって絵画とはどのようなものなのか、ということが気になります。そのヒントになるようなことをウィトゲンシュタインは、あるいは古田さんは次のように書いています。
世界の存在も、これと同じ意味で「超越論的」である。つまり、宇宙や太陽系や石ころや本や机が存在するのに時間的に先行して、世界が存在するわけではない。それらが存在するときに必ず示されているもの(=それらの存在が必ず反映しているもの)、それが世界の存在である。その意味で、世界の存在は、世界内に様々なものが存在する可能性の条件なのである。
そしてそうであるがゆえに、論理についてと同様、世界の存在についても、我々は語りえない。「世界が存在する」とか「存在する」「ある」というのは、実のところは何ごとも語っていない(=有意味な命題ではない)。「論理」それ自体を対象化して語るという芸当が我々には不可能であるのと同様に、「存在」それ自体を対象化して語ることも原理的にできないのである。
では、論理と存在の関係はどうなっているのだろうか。世界が存在しなければ、世界から様々なあり方をすることもありえない。言い換えれば、論理に従っていない(=論理を前提としていない)。それゆえウィトゲンシュタインは、「論理は、あり方に先立つが、あることには先立たない」と結論づけている。
(『はじめてのウィトゲンシュタイン』「第四節 語りえないものたち②ー存在」古田徹也)
「世界が存在する」とはどういうことか、という問いに対する説明の一部ですが、途中からの引用なので、何を言っているのかわかりにくいですね。私なりに補足説明をしましょう。
前回も確認したように、ウィトゲンシュタインは、私たちが「世界」を認識する以前から、「世界」という存在があって、それを私たちが見て、感じて、言葉にして表現する、という順序で物事を考えません。そんなことを言っても、宇宙は遥か昔から存在し、その後に地球が誕生し、その後に人類が生まれて・・・、という順番で「世界」は成り立っているのではないか、と反論したくなります。しかし、そのような科学的な知見については、哲学の認識論における「世界」の話とは、また別になります。
というのも、そのような科学的な知見を私たちは直接、確認することができないからです。科学の世界においては、確からしい推論であれば、それを事実だと認定しています。また、一般的には私たちもその考えに同意しています。しかし考えてみると科学的な事実とされているものは、新たな発見があるとその都度修正されてしまいます。つまり、事実だと思われていたものが、日々更新されてしまうのです。だから科学的な事実は嘘だ、ということではなく、科学的な確からしい推論というものは、科学の分野における事実なのだ、ということなのです。
そしてウィトゲンシュタインの言っていることを、私なりに絵画の問題に置き換えると、こうなります。
画家は目の前の「世界」を見て、感じて、その感動を絵画として表現します。画家はものを見た通りに絵を描くわけではありませんが、自分が見ている「世界」に影響されない画家はいないでしょう。それならば、私もあなたも同じ「世界」を見ているはずだ、やっぱり「世界」は認識に「先行」して、存在するのではないか、と言いたくなります。
しかし、例えばあなたと私がハイキングに行って山歩きをしたとしましょう。あなたが木や花や野鳥にとてもくわしい方だとしたら、微妙に私とは見ている「世界」が違っていることでしょう。実は私はそういうことに無頓着で、その上にぼーっとした人間なので、どこの山の中を歩いていても、あまり印象は変わらないかもしれません。一方、あなたは山の標高や季節の移り変わりに敏感に反応して、その山に特有の木や花を見て、とても豊かな気持ちになることでしょう。今回の作品を見ると、河合さんは私のような人間ではなくて、後者のような人に見えます。
つまり、私は私の見ている世界についてしか語ることができませんし、あなたはあなたの見ている世界についてしか語ることができません。あなたと私とでは、世界について語り合うとしても、その前提条件が異なるのです。あなたの知識や感受性に裏付けられた豊かな経験を、私の乏しい知見と交換することはできません。だからウィトゲンシュタインは「世界の存在は、世界内に様々なものが存在する可能性の条件」なのだ、と言ったのです。どのように「世界」について語るのか、その可能性は私たち次第なのです。
それでも、私たちが認識している「世界」は違っているとしても、もともとあるはずの私たちを取り囲む「世界」は、あなたも私も同じではないか、とさらに食い下がって言いたくなります。しかし、そのような「世界」について、私たちは語ることができるでしょうか?それはできないのです。その「世界」を絵として表現することも不可能です。ウィトゲンシュタインは、これも前回確認したように、「語りえぬものについては語らないことだ」と言いました。語りようがないものを語っても仕方ないのです。
それでは、そういうことなら誰もが自分なりの「世界」を語るしかない、だから勝手に「世界」を語れば良いのだ、ということになってしまうのでしょうか?例えば、いま話している相手のことなど考えずに、どうせ私の見ている「世界」のことしか語れないのだから、何かを共有できることを期待して、「世界」の存在について語っても仕方ないではないか、ということになるのでしょうか?
そうではありません。私は私の見ている「世界」をできるだけ誠実に、「虚心坦懐」に語ること、それを絵に描くことが、実は必要なのです。ウィトゲンシュタインの、あるいは古田さんの語ることを聞いてみましょう。
世界がほかならぬこの私の世界であることは、どこまでも語りえない。むしろ、世界の具体的なあり方をいわば虚心坦懐に、あるがままに語ることにおいて、むしろそこで一切語られないものとして、独我論が言わんとする形而上学的な主体(哲学的な自我)の存在が自ずと示されることになる。つまり、この私は、世界のあり方全体が反映しているもの──それゆえ、世界のなかに現れることが決してできないもの──としてはじめて自らを示すのである。それはちょうど、ある風景画がそれ全体で、その絵を描く画家の存在を反映しているのと同様である。
(『はじめてのウィトゲンシュタイン』「第四節 語りえないものたち②ー存在」古田徹也)
ちょうど風景画の話が、事例として出てきました。ここで語られているのは、こういうことです。
確かに私たちは、私たち自身が見ている「世界」を語るしかない、あるいは描くしかないのです。しかし、それでも私たちが感じるがままの「世界」をできるだけ誠実に、「虚心坦懐」に語るならば、自ずと私たちが語ることのできない「世界」も裏返しのようにして見えてくるはずです。それに私の感じる「世界」と、あなたが感じている「世界」とを付き合わせてみれば、そこに共感できるものとそうでないものが見えてきて、そのことによってある程度の普遍性を持った「世界」を感じることもできるでしょう。
そのことが実感できたなら、あなたの表現手段が言葉であれ、絵画であれ、少しでもあるがままに表現したい、という欲求を感じるはずです。その表現は、表面的に写実的であれば良いというものではありません。写真のように描いた絵画が、あなたの感じている豊かな自然の姿を表しているとは限らないからです。そこであなたは、さまざまな試行錯誤を始めることでしょう。
ここまでのことを頭に入れて、河合さんの作品の変化のことを考えてみましょう。
それでは、河合さんの絵画はどうして変化したのでしょうか?この変化が、人物画を描いていた人が、急に気が変わって風景画を描くようになった、ということならば、あまり論じる意味がないでしょう。しかし、彼女の絵画は具象的な表現にしろ、抽象的な表現にしろ、おそらくは彼女が見ている世界の豊かさをそのまま絵として表現したい、と願っているが故に起こっていることなのです。
何かの形を借りるのではなく自然の中で自分が感じる、心地の良い奥行きのある、動きのある空間。
(展覧会の作家コメントより)
このように河合さんは書いています。だから彼女は、自分の見ている世界の一部分を切り取って体裁の良い絵にするのではなく、彼女の視覚が感受している豊かな世界をそのまま表現したいのだと願っているはずです。
私の見るところでは、2016年ごろの木のシルエットがはっきりとした構成的な作品は、彼女の見ている世界を断片的に表現しているに過ぎなかったのではないか、と思います。絵の良し悪しはともかくとして、彼女の見ている世界の一部を切り取った表現がそこにあるような気がするのです。写真で言うならば、見栄えの良いところをトリミングしたような感じです。もちろん、そういう絵でも良いのですが、河合さんのその後の変遷を見ると、彼女はもっと自分の感性をあるがままに表現する方法があるはずだ、と模索したように見えます。
そのときに、河合さんの絵画には何が起こったのか、これが興味深いところです。彼女の絵は、抽象、具象を超えて絵画の構造そのものが変わったのです。画面上の形象をネガとポジの意識で区別するのではなく、それぞれが互いに影響しあい、時には見え方が入れ替わるほどに風通しの良い、自由な空間構造に変わったのです。
この場合に注意しなければならないのは、そこに描かれている形象が「木」であろうが、単なる抽象的な線や図形であろうが、関係ないのです。「木」でも「図形」でも、その内側と外側を区別して、構成的に描いてしまえば、それは旧套的な画面構成になってしまいます。そこに描かれているのが「木」であり、「枝」であっても、その内部と外部が自由に交感していることが大切なのです。
ただし、それが「木」であり、「枝」であれば、自ずとその形象の見え方には制約が生じてくるでしょう。「木」や「枝」は上に、横に伸びていくものですから、そういうものを描けば自ずと形象もそのように規定されるのです。2020年ごろの作品と、今回の作品の、ホームページで見ることのできる作品との違いは、そのあたりにあるのではないでしょうか?すでに画面全体を自由に行き来する空間意識を身につけていた河合さんですが、さらに上や横方向に伸びていく空間だけではなくて、もっと水の流れのように捉えどころもなく漂うような、そんな空間を描いてみたくなったのではないでしょうか。
河合さんの絵画構造には、この数年で見る限りでも二つの大きな変化があって、構成的な画面からネガとポジを持たない画面へ、さらに画面内の動きが自由な画面へ、という変化です。これは旧来の絵画の構造を突き崩すような変更であって、単に画面構成の向きがタテとヨコからナナメへと変わった、ということではありません。根本的に河合さんの、絵画というものの構造への考え方が変わったのだと思います。絵画というのは単なる矩形の平面ですが、その中でもこれだけ劇的に構造が変わるのですから、興味が尽きません。
ここで、先ほどの古田さんの文章の最後の一節を思い出してみましょう。
それゆえウィトゲンシュタインは、「論理は、あり方に先立つが、あることには先立たない」と結論づけている。
(『はじめてのウィトゲンシュタイン』「第四節 語りえないものたち②ー存在」古田徹也)
ここでは、「論理」という言葉を「(絵画の構造を支える)論理」だと思って読んでみてください。河合さんの絵画の変化は、その「構造」とそれを支える「論理」の変化なくしてはありえなかったでしょう。絵画の構造が変わったから、河合さんの絵が変わったのではありません。しかし、絵画の構造の変化がなくしては、河合さんの絵画の変更はありえないのです。どちらが先だというのではないのです。
このように、絵画の見え方が、絵画の「構造」ごと、あるいはその「構造」を支える「論理」ごと変わってしまう、ということが、絵画と真摯に向き合っている作家には起こり得ることです。その変化を理論的に導き出す作家もいますし、感覚的に絵画を探究していて、気づいたらそうなっていた、という作家もいるでしょう。河合さんはそのどちらでしょうか?
「山道を歩いて、素敵な風景に巡り会うような」とコメントで書かれていますので、河合さんは感覚的に変化が起こるのをじっと待っている人のようにも読めますし、「二次元である画面の中にそんな世界を表現したい」という言葉の中には絵画の「構造」と「論理」についても自覚的な作家であるようにも、読むことができます。感覚で動く作家ではあるけれども、その変化を論理的に受け止めるだけの経験がある作家、というところでしょうか。河合さんとはお会いしていないので、あまり踏み込んだことを勝手に書いてはまずいでしょうが、絵画と文章からはそんな作家像が読み取れます。
さて、ここまで理解できると、この『はじめてのウィトゲンシュタイン』の次の文章を理解するのは、それほど難しくはないでしょう。
世界とは、ほかならぬこの私が知覚している世界である。世界はこの私に対して開かれている。また、世界の可能性も、この私がどのような命題を語りうるか──どのような像をこしらえうるのか──ということに依存している。その意味で、世界は私の世界である。
(『はじめてのウィトゲンシュタイン』「第四節 語りえないものたち②ー存在」古田徹也)
ウィトゲンシュタインの語る哲学は、一見気難しそうに見えますが、実は私たちの生きることに関する肯定的な認識を含んでいます。
彼が言うように、「世界」とは、私たちを覆っている手の届かないほどの広大なものではありませんし、私たちはその中のちっぽけな一部分でしかない、ということでもありません。その「世界」がどのような姿で立ち現れるのか、つまり「世界の可能性」はひとえに私たちに依存しているのです。
そして「命題を語る」ことを、「絵画を描くこと」として読み替えてみましょう。「世界の可能性」は、まさに私たちの「絵画を描くこと」によって、変わってくるのです。河合美和さんという一人の画家が、自分の感受している自然との豊かな関係を絵画として表現しえたときに、「世界の可能性」は間違いなく広がっているのです。もちろん、それは河合さん一人に起こったことでは、ありません。私たちが彼女の絵から何かを感受し、さらに私たち自身の「世界の可能性」を広げることができるなら、こんなに素晴らしいことはないのではないでしょうか。
この展覧会に立ち会うことは、まさにその起点に私たちが立ち会っている、ということなのです。今回は河合さん、古田さん、ウィトゲンシュタインさんから、そんなことを教わりました。河合さんご自身は、この起点からさらにどの方向へと進むのでしょうか?願わくは、構成的なドラマチックな表現を捨象して、さらに絵画表現の自由な高みへと駆け上がっていくところを見せていただきたいものです。