平らな深み、緩やかな時間

272.ウィトゲンシュタインー永井均②、前回の飯沼さんのことの補足など

はじめに、ちょっとうれしい話題です。

少し前の番組になりますが、ピーター・バラカンさんが出演しているラジオ番組「Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM」を聞いていたら、冒頭のバラカンさんのコメントで、黒澤明(1910 - 1998)監督の『生きる』がイギリスで『Living(原題)』というタイトルでリメイクされたということを聞くことができました。

その「Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM」のホームページはこちらです。

https://www.tfm.co.jp/podcasts/museum/detail.php?id=29617

番組が聴取できるポットキャストはこちらです。よかったら、当日のゲストの劇作家、鴻上尚史さんとの会話もお楽しみください。

https://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/museum/museum_vol758.mp3

そして『Living』の情報はこちらからどうぞ。

https://natalie.mu/eiga/news/490031

私のblogを読んでいただいている方なら、少し前に私が黒澤作品『生きる』が、ドイツの哲学者ハイデガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)の著作『存在と時間』を超えているのではないか、と書いたことを憶えているかと思います。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/293427db0917045f97d3c14def20e2f3

その黒澤作品が、なんとノーベル賞作家のカズオ・イシグロの脚本によって、リメイクされているとのこと、バラカンさんも試写会を見て、とても面白かった、と語っていました。番組の終了間際に、鴻上尚史さんが英会話のレッスンを受けているという話題から、この映画の中では聞き取りやすい正しい英語が使われているというバラカンの感想も聞かれました。私にはどんな英語もチンプンカンプンですが、英会話の好きな方にもおすすめできる映画のようです。

 

それでは、今回の話題に入ります。

前回は飯沼さんの展覧会の話題とウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889 - 1951)の『論理哲学論考』と、永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』をリンクさせてみました。おかげで、飯沼さんの作品がとても難解なものに思われてしまったかもしれません。そうだとしたら申し訳ないです。

それで少しだけ、私が何を言いたかったのか、おさらいをしておきましょう。

飯沼さんの作品は、文字のサインのドローイングを重ねていくというユニークな表現方法をとっています。その重なったドローイングは、一筆ごとに色味を変えているので、そこに色彩相互の位置関係が生じてきます。そのように画面上で色彩が位置を占めることを、バルール(色価)と言います。彩度の高い色、明るい色が絵の前面に迫ってくるような感じがするのに対して、彩度の低い色、暗い色が絵の奥の方へと引っ込んでいくような感じがします。このように画面上の色彩は、それ相応の位置を持つのです。その位置は絵の具の厚みや筆の勢いなどにも左右されますので、一概に色彩のみによって作られるものだとは言えません。そういうすべてを含めてその色彩が画面上で占める位置のことをバルール(色価)と言うのです。

先日の展覧会では、この数年の飯沼さんの作品の変化を見ることができましたが、彼女が意識的に、あるいはもしかしたら感覚的に、サインのドローイングを重ねていく中で、そのバルールの関係をさまざまに操作して、試行錯誤していることがわかりました。私は、このことから彼女が、絵画の本質的な要素に手が届いている、と判断するのです。

もしかしたら、飯沼さんはそんなに大それたことをしているわけではない、と言うかもしれません。それは彼女にとって、自然な流れでやっていることだからです。ここが重要なところで、このようにある人にとってはごく自然に思えることでも、他の人にとってはまったくピンとこないことがよくあります。私は絵画にとってバルールを意識して、あるいは感受して表現することは必須だと思うのですが、そんなことはお構いなしで絵を描いている人たちもたくさんいます。例えば、私が平塚市美術館で見た多くの画家たちが、絵画の中のさまざまな要素に目を奪われるあまり、絵画のもっとも本質的な問題であるバルールについて無頓着であることに気がつきました。そこで私は、彼らとはバルールの問題を共有できないのだと気がついたのです。

この私の感想と似たようなことを、永井均さんは『ウィトゲンシュタイン入門』の「はじめに」の中で書いています。永井さんにとって、ウィトゲンシュタインの本を読んだときに、ウィトゲンシュタインが言わんとしていることがとてもよくわかったらしいのです。その一方で「ウィトゲンシュタイン的な問題」とは「無縁」な人たちもたくさんいるだろう、と永井さんは考えたのです。

 

ある哲学者と問題を共有したとき、それによって世界の見え方が変わり、人生の意味が変わる。だが、世界の見え方も、人生の意味も、一般的に言って変えるべき理由はないし、またとりわけ、ウィトゲンシュタイン的に変えるべき理由は全然ない。どんな哲学も、その真髄は少数の人にしか理解されない、というより、そもそも少数の人にしか関わりを持たない。だが、もしウィトゲンシュタインがあなたに関わりを持つとすれば、それを知らずに人生を終えることは、無念なことではないか。

(『ウィトゲンシュタイン入門』「はじめに」永井均)

 

これは前回も引用した文章です。また引用してしまいましたが、この文章は哲学に限らず、例えば芸術的な「気づき」についても共通する真理を語っています。これからも、何回か引用するかもしれません。

ある人にとっては、人生を変えるほどの意味があるのに、その「気づき」が訪れない人にはまったく縁がない、ということが確かにあるのです。永井さんは、おそらくこれまでに、たくさんの人たちにウィトゲンシュタインの哲学から自分が気づいたことを語ってきたのでしょう。それなのに、それを理解した人はごく少なかった、と言う経験をされたのだと思われます。その経験が「その真髄は少数の人にしか理解されない」という言葉に表れているのだと思います。

 

私は、この永井さんのウィトゲンシュタイに関する体験が、私のセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の絵画に関する体験とよく似ていると思いました。私もセザンヌの絵から「人生を変えるほどの意味」を感じたからです。しかし私は、私の「セザンヌ体験」について多くの人たちと分かち合える、と思っています。そこが永井さんの「ウィトゲンシュタイン体験」と異なるところだと思っています。

しかし今のところ、私の舌足らずの物言いでは、私の「セザンヌ体験」を多くの人たちと共有できているとは思えません。その一方で、言葉で思想を表現する専門家である永井さんが、そしてウィトゲンシュタイン自身が、その哲学的な核心をどのようにして言い表してきたのか、興味があります。そこから私が学ぶべきことが、たくさんあると思うのです。

哲学にしろ、芸術にしろ、その核心となる重要なことは、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからない、ということがよくあります。そして言葉を尽くして説明しても、そのことを共有できる人はごくわずかだ、ということを永井さんは言っているのです。

そのことを踏まえた上でですが、私は芸術に関する重要なことについて多くの方にわかっていただきたいし、私がわかっている程度のことならば、皆さんと共有できると考えています。私は永井さんのように聡明でない分だけ、ものの見方が楽観的なのかもしれません。しかし、それも悪いことではないでしょう。

 

さて、前回はいろいろな方の作品に触れながら、哲学や絵画の重要なことや問題点を共有するというのは、どういうことなのか、主に永井さんの著作から学ぼうとしたのでした。うまく書けていないようでしたら、ごめんなさい。今回は、もう少しウィトゲンシュタインの思想を、永井さんのガイドに従って追いかけてみたいと思います。

 

永井さんの『ウィトゲンシュタイン入門』は、とても印象深い話から始まります。それは「僕はなぜ生まれて来たのだろう」という疑問を、永井さんが子供の頃から持っていた、という話です。もちろん、これは生物学的に「私は両親から生まれてきた」という答えで解ける疑問ではありません。仮に生物学的に考えたとしても、いま命を授かっているすべての生物が、生命の誕生から紡がれてきた命の糸の末端にいるはずで、その長い過程を考える不思議な気持ちになりますよね?それを「偶然」と呼ぶにしろ、「運命」と呼ぶにしろ、それらが気の遠くなるほどに積み重なった結果、今の自分が存在するということなのです。それは考えれば考えるほど奇妙なことです。そのことを考察した、永井さんの文章を読んでみましょう。

 

哲学を学び始めたころ、私は現象学や実存哲学にその答えがあるにちがいないと信じていた。そのころ私は、問題を私と他者(私でない人間)との違いという形でとらえており、むしろ他者の存在の方に問題を感じていた(あるいは感じていると誤解していた)からである。フッサールからメルロ=ポンティにいたるこの系譜の人々の仕事の中に、実は私の問題がまったく扱われていないことを知るのに、それほどの時間はかからなかった。『青本』(後期のウィトゲンシュタインの講義録)と出会ったのはちょうどそのころ、1975年の秋のことであった。たとえば次のような文章である。

 

私は私の独我論を「私に見えるもの(あるいは今見えるもの)だけが真に見えるものである」と言うことで表現することができる。ここで私はこう言いたくなる。「私は『私』という語でL・ウィトゲンシュタインを意味してはいない。だが私がたまたま今、事実としてL・ウィトゲンシュタインである以上、他人たちが『私』という語はL・ウィトゲンシュタインを意味すると理解するとしても、それで不都合はない」と。(中略)しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。

(『青本』117頁)

 

私が何よりも感動したのは、「他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、と言う点が本質的なのである」と言う最後の一文である。私の解するところでは、ウィトゲンシュタインの哲学活動のほとんどすべてが、陰に陽に、この洞察に支えられて成り立っている。むしろ、彼はこの洞察から哲学を開始したとさえ言えるのではないだろうか。それは画期的と言ってもよいが、しかし哲学の歴史に一時期を画すると言う意味でそうなのではない。哲学の歴史などというつまらないものを全部いっぺんに吹き飛ばすほどに、画期的なのだ。少なくとも、私にとってはそうであった。しかしウィトゲンシュタインの専門研究者にさえ、この主張の意味が十分に理解されているとはとても思えないし、現在の私自身にも、その深い意味を十分に解きほぐすだけの力はない。

(『ウィトゲンシュタイン入門』「序章 ウィトゲンシュタインの光と影」永井均)

 

永井さんがウィトゲンシュタインの講義録である『青本』に出会ったのが1975年ですから、24歳の時のことです。すでにその時には、自分の疑問に対してフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)もメルロ=ポンティィ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)も答えていない、と見限っていたのですから、哲学の専門家とはいえ、大したものです。

そして私には、ここで話題になっている「独我論」がどのようなものなのか、あるいは一般的に「独我論」と言われるものと、ウィトゲンシュタインの「独我論」とはどの程度の相違があるのか、まったくわかりません。しかしここでも無謀な私は、ウィトゲンシュタインを画家のセザンヌに置き換えて読んでみたい誘惑に駆られます。

セザンヌは自分の視覚がどのようにこの世界を見ているのか、ということを純粋に追求しました。そのことによって、彼は美術史を超えてしまったと言ってもよいと思います。そしてセザンヌの研究書は山ほどあるに違いないのですが、セザンヌが「本当に言わんとすること」を誰も理解できていないのではないか、と私は考えています。私自身、セザンヌが言わんとしたことを正確に理解するよりも、私がセザンヌの絵をどのように理解したのか、ということを問いかけながら、私のそのときどきの考えを文章で、あるいは絵画で表現した方が有意義だと思っています。

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、まるで詩作品のように短い言葉で綴られています。そこからウィトゲンシュタインの真意を読み取るのは、詩を解釈するように、あるいはセザンヌの絵画を解釈するように、一つの答えが出るのではなくて人それぞれがその真理に迫っていくようなものなのではないでしょうか?そして永井さんは、自分が気づいたウィトゲンシュタインの真理に、誰も手をつけていない、と思ったのでしょう。

私は、私が見ているようにセザンヌの絵画を見ている人たちが、けっこういるのではないか、と思っています。しかし、その視覚的な体験を語るとなると難しいのです。おそらくメルロ=ポンティは最もその真理に近づいた人の一人ですが、彼のものの言い方は現象学的なものの見方にとらわれています。後でわかりますが、これは結構重要なことです。そしてセザンヌに置き換えて考えてみると、永井さんの「ウィトゲンシュタイン体験」のことが、少しは理解できるような気がしたのです。

 

ところで皆さんは、『論理哲学論考』を読んだことがありますか?この本は、先ほども書いたように、詩のような形式で書かれています。その出だしはこんな感じです。

 

1   世界は成立していることがらの総体である。

1-1  世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

1-11   世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって規定されている。

1-12   なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。

1-13   論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

1-2     世界は諸事実へと分解される。

1-21   他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありえる。

2        成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。

2-01   事態とは諸対象(もの)の結合である。

2-011 事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。

(『論理哲学論考』「1〜2-01」ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹訳)

 

いかがですか?

ウィトゲンシュタインが「世界」と呼ぶものは物理的な概念ではないらしい、ということはすぐにわかりますが、それにしても読みにくいですね。文章や内容のくくりとして番号と、さらに枝分かれした番号が付されていますが、手がかりはそれぐらいでしょうか。哲学的な訓練をしてから読まないと、何のことやらよくわからない、というのが本音のところです。あるいは詩人の言葉のように味わうか・・・。

それで、永井均さんの『ウィトゲンシュタイン入門』が手がかりになるかな、というふうに考えたのですが、永井さんはこの部分について、次のように書いています。

 

事態とは、諸対象(事物、物)が特定の仕方で結びついてできたものである。事態には、現に成立している事態と、現に成立していないが成立可能な事態があり、現に成立している事態が事実と呼ばれる。また、要素的な事態が結びついてできた複合的な事態は状態と呼ばれる。そして世界とは、対象ではなく事実(成立している事態)を全部集めたもののことである。事態には成立している事態と成立していない事態があるが、事態は相互に独立であるから、ある事態が成立している(いない)ということから、他の事態が成立している(いない)ということを推測することはできない。また、対象が対象でありうるのは、他の対象と結合して事態を構成しうる限りにおいてでしかない。

このような主張が何の根拠もない独断にすぎないように思われたならば、『論考(論理哲学論考)』が超越的(先験的)な哲学書であることを思い出す必要がある。つまり、ウィトゲンシュタインは、世界は事実このようにできている、と独断的に主張しているのではないのだ。そうではなく、およそわれわれの言語が確定した意味を持ち、世界についてなにごとかを語りうるためには、世界はこのようにできているのでなければならない、と主張しているのである。『論考』は、叙述の順序とは逆に考えられている、と見なさなければならない。言語が意味を持つためには、それはある一定の構造を持たねばならない、したがって、世界が言語の中に反映されうるためには、それは言語と同じ構造を持たねばならない、というようにである。言語と世界は論理形式を共有しなければならない、とはそういうことである。

(『ウィトゲンシュタイン入門』「第2章 前期ウィトゲンシュタイン哲学」永井均)

 

永井さんの解説も、ウィトゲンシュタインに負けず劣らず難しく感じられますが、しかし驚きの文章です。『論理哲学論考』の最初の1ページと、永井さんのこの解説があれば、私たちは絵画における考察の遥か彼方にまで行けそうです。そして、セザンヌの絵画に対して、私たちはどう向き合えばよいのか、ここにその手がかりが示されています。私なりに解釈してみましょう。

 

ウィトゲンシュタインの中には、自分が見て感じている「世界」があるとします。彼はそれを言葉で言い表そうとするとします。その時、言葉として発せられる「世界」には、言葉と共有する構造が備わっていなければならない、というのです。

これは、セザンヌが自分の見ている世界を絵に描こうとした時に、彼の描いた世界は彼の絵画が持っている構造を含んだものになっている、ということと同じでしょう。セザンヌはバルールを漸次的に変化させながら世界のありようを表現するのですが、そこに描かれた世界には絵画的な構造が含まれているのです。何をあたりまえのことを言っているのだと笑われそうですね。しかし、これはあたりまえのことではありません。

セザンヌ以前の画家で、セザンヌのような課題に向き合った画家はいません。多くの画家たちは、その時代の絵画様式の中で十分に世界が再現できると考えていました。ルネッサンスの画家たちは、成立したばかりの透視図遠近法の秩序の中で、十分過ぎるほどに世界が再現できている、と悦にいったことでしょう。バロックの画家たちは、さらにその世界を自在に歪めることで、自分の内面をも世界に反映させる方法を身につけたと思ったことでしょう。ところがセザンヌは、そういう絵画様式を超えて、普遍的な表現方法で世界を表現した、と私は考えました。それほどに、セザンヌの表現方法は剥き出しの生なものだったのです。それは茫漠とした生(なま)な世界を表現するための、ギリギリの方法だと私は思いました。そう考えると、セザンヌ以降はセザンヌ以上に世界に肉薄する表現方法がないことになってしまいます。私にとってのセザンヌとの出会いは、「世界が変わってしまう」ほどのものだったので、セザンヌを超えて世界に肉薄するにはどうしたらよいのか、それは大きな壁でした。しかし、永井さんが「はじめに」で書いていたことですが、ウィトゲンシュタインと問題を共有した者はウィトゲンシュタインを越えることはできない、・・・セザンヌも同じなのです。それでは、どうしたらよいのでしょうか?

この文章をセザンヌに応用すると、セザンヌが表現した世界は、セザンヌの描いた絵画とその構造を共有しています。これはとても重要なことで、私たちは、誰もが同じように見ている茫漠とした世界があって、それを画家は画家の能力に見合った方法で、その世界を再現しているのだと思っています。しかし、そのような茫漠とした生な世界など存在しないのです。セザンヌは漸次的なバルールの変化で湧き立つような世界を描きましたが、セザンヌが見ていた世界はその絵画と構造を共有しているものなのです。だとすれば、セザンヌから少し時間が経過した時代に生きている私たちは、絵画の表現方法において、その表現の変化を見てきました。セザンヌが生きていた頃とは、絵画の構造も微妙に変わっていると思います。私が描くべき世界の姿は、私の絵画と構造を共有しているはずですから、私が私の方法で極限にまで世界と近づいた結果は、セザンヌの絵画とは違っているはずです。私はセザンヌとは、構造の異なる世界と出会っているからです。

私はそう考えて、日々制作に励んでいます。これは私が数十年かけて苦しんだ上に実感できたことです。ところが1995年に発行されたこの『ウィトゲンシュタイン入門』の中に、たった2ページの記述としてあっさりと書かれていました。繰り返しますが、私とセザンヌは、同じ世界を見ているわけではありません。それぞれの時代の絵画の構造に見合った形で、世界を見ているのです。だからこそ、私はセザンヌに学びながらも、セザンヌとは異なる表現にたどり着くはずなのです。セザンヌがその時に可能な極限にまで世界の表現に迫っていたとするなら、私は現在における同様の表現を目指します。

 

このはじめのページをそのように解読して読むと、『論理哲学論考』で最も有名な文章を含む最後のところが、何となくわかるような気になります。その最後の部分とは次のようなものです。

 

6-522 だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。

6-53   語りうること以外は語らぬこと。自然科学の命題以外はーそれゆえ哲学とは関係のないこと以外はー何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はそのひとを満足させないだろう。ー彼は哲学を教えられている気がしないだろう。ーしかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。

6-54  私を理解する人は、私の命題を通り抜けーその上に立ちーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)

私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

(『論理哲学論考』「6-522〜6-54」ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹訳)

 

これを短絡して読めば、「わかったようなことを言うんじゃないよ!」という落語に出てくる長屋の怖いおかみさんか、ご隠居さんが言いそうなことです。しかし、冒頭の部分を頭に置いて読むとこうなります。

おそらく私たちの世界の中で、何か新たに見えてくることがある時には、それは言葉の構造とともに現れるのではないでしょうか?だから、わかっているけどうまく話せない、と言うことはありえないので、その時には黙っているしかない、ということなのだと思います。もちろん、私たちにはわからないことが山ほどあって、それは「神秘」としか言いようがない、とウィトゲンシュタインは言っているのだと思います。この文章の一字一句をとって、これはどういう意味だ?と聞かれると困りますが、全体としてそう言っているのではないでしょうか?

しかし、これは言葉で言い表すことに長けた哲学者の話です。私のような凡人には、気づいているはずなのに言葉が出ない、選べない、ということがたくさんあります。ましてや、絵を描いていると、絵画では何とか表現できたけれども、これは言葉で説明できないなあ、ということもたくさんあります。そのたびに「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」とピシャリと言われてしまうと困ってしまいます。芸術を批評する上では、「語りえぬ」と思っていたことを、粘り強く「語りえる」ことに変えていかなくてはなりません。頑張りましょう。

 

さて、『論理哲学論考』はウィトゲンシュタインの前期の代表作です。その後、一時は哲学から身を引いたウィトゲンシュタインですが、再び学問の世界に復帰して、その講義がノートとして残されていたり(『青本』)、『哲学探究』という後期の代表作を著したり、ということがあるようです。できれば、永井さんの『ウィトゲンシュタイン入門』以外にも、もう少し平易な解説を探し出して、ウィトゲンシュタインという興味深い思想家について学んでみたいと思います。彼の思考の普遍性は、芸術の領域においても十分に有効です。その程度のことは、このblogでも書けたのではないか、と自負しています。

さらにウィトゲンシュタインの学習が面白くなりそうでしたら、また報告します。

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