ポストミニマリズムの美術家、リチャード・セラ(Richard Serra、1938 - 2024)さんが亡くなりました。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/28697
セラさんは、とくに60年代後半に工業的な板金を用いた巨大な彫刻を発表し、ポスト・ミニマリズムの時代を牽引していった人です。日本では、「もの派」と呼ばれた世代の人たちに、圧倒的な影響を与えた人だと思います。
しかし、その一方で公共の場に設置された作品で、物議をかもしたこともありました。
有名なエピソードとして、1981年にマンハッタンの連邦ビル前広場に設置した巨大な鉄の彫刻《傾いた弧》に対し、人々から苦情が集まったことから裁判となり、8年後に撤去されたことがある。本件はパブリックアートをめぐる景観論争の転換点とされている。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/richard-serra-news-202403
さすがに、セラさんは、やることが大きいですね。
私はやはり、身近な公園にセラさんの巨大な彫刻が設置されて、景観が損なわれた上に傾いた鉄板によって不安を煽られたとしたら、撤去を要求すると思います。
皆さんはいかがお考えでしょうか?
しかし、そうであってもセラさんの表現のパワーには圧倒されます。こういうスケールの大きな人にはとてもなれませんが、その力強さを見習いたいと思います。
ご冥福をお祈りします。
さて、このblogでも著書を取り上げたことのある、哲学者の千葉雅也さんが『センスの哲学』という美術に直接関わる本を書きました。
ちなみに、以前に取り上げたのは、『現代思想入門』でした。よかったら次のリンクを参照してください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/154614497f15db3772fb904a3a1b14af
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/3fead7b4e4bfea228b5e01d0fd1d82ad
そして、今回の『センスの哲学』の出版社の広報は、次のようなものです。
あなたのセンスが良くなる本!
哲学三部作のラストを飾る一冊がついに誕生
服選びや食事の店選び、インテリアのレイアウトや仕事の筋まで、さまざまなジャンルについて言われる「センスがいい」「悪い」という言葉。あるいは、「あの人はアートがわかる」「音楽がわかる」という芸術的センスを捉えた発言。
何か自分の体質について言われているようで、どうにもできない部分に関わっているようで、気になって仕方がない。このいわく言い難い、因数分解の難しい「センス」とは何か? 果たしてセンスの良さは変えられるのか?
音楽、絵画、小説、映画……芸術的諸ジャンルを横断しながら考える「センスの哲学」にして、芸術入門の書。
フォーマリスト的に形を捉え、そのリズムを楽しむために。
哲学・思想と小説・美術の両輪で活躍する著者による哲学三部作(『勉強の哲学』『現代思想入門』)の最終作、満を持していよいよ誕生!
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163918273
まず目を引くのが、最初の「あなたのセンスが良くなる本!」という文章です。「センスが良くなる」と聞けば、これは一体どんな本なのか、と思ってしまいます。しかし千葉さんは、あっさりと次のように書いています。
さて、実は、この本は「センスが良くなる本」です。
と言うと、そんなバカな、「お前にセンスがわかるのか」と非難が飛んでくるんじゃないかと思うんですが・・・ひとまず、そう言ってみましょう。
「センスが良くなる」というのは、まあ、ハッタリだと思ってください。この本によって、皆さんが期待されている意味で「センスが良くなる」かどうかは、わかりません。ただ、ものを見るときの「ある感覚」が伝わってほしいと希望しています。
(『センスの哲学』「はじめに『センス』という言葉」千葉雅也)
そう、この本は「センス」という言葉について考える本です。そして「センス」について理解を深める本なのですが、たとえ理解が深まったところで「センス」が良くなるわけではありません。
このことについて、私は次のように考えます。
例えば私は絵を描いていますが、自分のことを特別に「センス」が良いとは思っていません。むしろ、「センス」が悪い方の人間だと思っています。
たくさんの絵を見て、自分自身もたくさんの絵を描くと、自分の「センス」がどれほどのものなのかわかります。そして、たとえ努力して「センス」を磨いたところでたかが知れている、ということもわかるようになります。さらに言えば、他の人、とくに絵を描いている人の「センス」の良し悪しもわかるようになり、私の周囲には私が逆立ちしても敵わないほど「センス」の良い人たちがたくさんいることもわかってくるのです。
絵を描く上では、「センス」が良いというのはやはり魅力的なことですから、私自身の「センス」の悪さは致命的なものです。しかし私は、「センス」の良さが重要なものだと思いつつも、それが絵の魅力のすべてではない、とも思っています。これは、どういうことでしょうか?
「センス」というものは、人それぞれに先天的に備わっている部分が大きいものです。意識的に「センス」を磨いて、自分の「センス」を良くすることは可能ですが、それにしたって先天的なその人の傾向までは直せないでしょう。「センス」というのは、言わばその人の個性のようなものなのです。
例えば、私のように「センス」が悪い人間について考えてみると、その「センス」の悪さもまた私の個性であり、私自身の一部なのです。私は、自分の「センス」の足りなさによって、私の絵を見る人が不愉快な気分にならないようにすることならできますが、「センス」の良さが私の絵の魅力になるところには至っていません。それは、これから先も難しいでしょう。
しかし、私はそんなことで絶望してはいません。なぜなら、絵を描くということは、「センス」の良さによってすべてが決定されることではないからです。私の絵の中には、私の思考や私の経験、私の努力、そのときの私の気分など、いろいろな要素が絡まっています。ですから、絵を描くということは、私という人間のほとんどすべてを表出する行為でもあるのです。また、絵を見るという行為は、作者の表出した、言わばその人のすべてを見ることでもあるのです。
そのときに、絵を見る人は何を感じ取るのでしょうか?
確かに「センス」の良い人の絵を見ると、美しくて魅力的ではありますが、それはある意味ではそれだけのことなのです。作者の「センス」の良さが先天的なものであればあるほど、それは美しい自然の風景を見るときと似た経験になるでしょう。
しかし私は絵を見るときに、その人のセンスの良さよりも、その人が何を感じて、何を考えて、何を訴えようとしているのか、その表現方法はどのようなものなのか、などということの方が気になります。ちょっと理屈っぽく感じられるかもしれませんが、私は何も頭でそのようなことを考えているのではありません。直観的に、そのようなことが気になるのです。芸術作品を見ることの本質は、人の営み=表現を感受することにあると私は考えます。それは例えば自然の摂理によって生まれた風景の美しさに感銘する、などという事とは違うのです。
余談ですけど、ついでに書いておきましょう。
人の作った芸術作品と自然の美しさに話が及んだところで、最近話題のAIと芸術の関わりについても一言書いておきます。
AIの能力の可能性について、さまざまな論議がなされている昨今ですが、私は芸術作品をAIに委ねて制作する、などということには、あまり意味がないと思っています。既成の作品の模写や模倣ならば、AIは人間よりも上手くできるのでしょうが、それは単に出来上がった商品を量産しているに過ぎません。仮にAIによって斬新な作品が出来たとしても、それはAIにデータを入力したり、指示を出したりした人が優れていた、ということになるのでしょう。AIは優れた道具であるかもしれませんが、結局、それはAIに指示を出し、プロデュースした人の作品になるのだと思います。何かを表現しようという欲求のないところでは芸術表現は生まれない、と私は考えます。
そういえば、今年になって芥川賞に選ばれた九段理江さんの『東京都同情塔』は急速に広がる「生成AI」がテーマの一つで、記者会見では九段さん自らが「生成AIを駆使して作った」と語ったことが話題になりました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240206/k10014344981000.html
私はこの小説を読んでいないので、あれこれと言う資格はありませんが、インタビューを読む限りでは、AIの使い方はかなり限定的ですし、小説を書くための道具の範疇を出ていないと思われます。
音楽の世界では、AIの使い方はもっと進んでいます。ドラマや映画でお馴染みの『岸辺露伴』シリーズで音楽を手がけた菊地成孔さんは、こんなことを言っています。
技術面では昨今なにかと喧しい〈AI〉を題名に掲げた楽曲を本作は2トラックおさめている。
「1曲はあたかもAIがつくったように聴こえますが一種の韜晦(とうかい/自分の才能、地位、形跡などをごまかしてわからないようにすること/他人の目をくらまし、隠すこと)です。もう1曲はほんとうにAIがつくっています。Maxの音に呼応して反射的に自動生成する機能をつかい、ソフトウェア同士を共演ないし対戦させた楽曲ですね。(AIによる楽曲制作は)ファインデザインとしてはまだむずかしいですが、混沌とした状態とかこわい感じ、怪奇映画であればつかえるなと思いました」
https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/35064
これを読むと、仮に菊池さんがスコアを書いたり、人間が演奏したり、指揮したりしていなくても、やはりこれは菊池さん、もしくは菊池さんの工房が作った作品なのだろうと思います。
皆さんは、どのようにお考えでしょうか?
さて、話を戻します。
千葉さんのこの本は、「センス」の良し悪しについて言及するものではなく、もっと根本的に「センス」というものがどのように芸術に関わっているのか、ということを具体的に語ろうとしているようです。そしてその語り方が、手慣れた美術批評と違って、もっと原理的であり、もっと一般的なのです。そこがこの本の面白いところです。
そんなことを軽く頭に入れて、この本を読んでいただけると、この本の価値がよりわかりやすいかもしれません。この本の理解の手助けになりそうなところを、少し拾い読みしていくことにしましょう。
例えば、難解な芸術作品を前にしたときに、私が「こんな作品、わからないよ!」と言ったとします。しかしその作品は、「センス」の良いあなたにとっては、とても素敵な作品に見えます。このような違いは、どのようにして起こるのでしょうか?
そもそも芸術作品を「わかる」ということはどういうことなのか、そして、そこには「センス」がどのように関わっているのか、千葉さんは次のように書いています。
直観という概念は古くから使われてきましたが、その意味には振れ幅があります。現在でも、直観をどう定義するかで、学問において最終的な一致はないと見受けられます。
その背後にどんなプロセスがあるかは脇に置いて、「深く考えずにわかること」を広く意味するもの、として直観を捉えることにします。
生活は、自然な動きの連続です。深く考えずともそれなりにやれている。誰だってそうです。さまざまな障害を持っている場合もありますが、それもなんとかカバーして生活している。
芸術や、難しい仕事に「パッとわかる」ことを求められると、そんなことできるか!という声が上がると思うのですが、日常の大まかな流れとしては、誰もが直観的に動いている。これを再確認した上で、そこから芸術などの話につなげていきたいのです。
「わかる」というのを、「判断、判断力」と言うことにしましょう。センスとは、「直観的な判断力」です。あるいは「理解」でもいいでしょうし、「分別」や「識別」とも言えますが、判断力という言い方を代表者にします(これは、カントの『判断力批判』という著作を念頭に置いています)。
ところで、服のセンスが良くても音楽選びのセンスはいまいちだ、などと言われることがあります。これまた、センスのトゲの話ですね。「あの人、服はカッコいいのに音楽のセンスはなあ」とか。「あるものについてセンスが良ければ、他のことでもセンスが良くていいはずなのに・・・」という期待があるのかもしれません。なにか「すべてに共通するような判断力」を持っている人、というふうに、総合的に褒めるときにセンスがいいと言われることがあります。すなわち、センス:直観的で総合的な判断力、というわけです。
この本は「センスが良くなる本」だと言ったわけですが、それはまさに、総合的にセンスを広げていくことを目標にしています。音楽、ファッション、インテリア、美術、文学・・・などなどにまたがって、「直観的にわかる」を広げていきたいと思うわけです。それが生活や仕事にもつながってくる。
(『センスの哲学』「はじめに『センス』という言葉」千葉雅也)
とても興味深い文章です。
そしてこの中にはさりげなく、イマヌエル・カント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)さんの主著『判断力批判』の解読の糸口が盛り込まれています。
ちなみに、『判断力批判』の書店の紹介文は次のようなものです。
『純粋理性批判』『実践理性批判』につづく第三批判として知られるカントの主著.カントは理性と悟性の中間能力たる判断力の分析を通じて自然の合目的性の概念と普遍的な快の感情の発見に到達し,自然界と自由界の橋渡しを可能にするこの原理を確認して壮大な批判哲学の体系を完成した.
https://www.iwanami.co.jp/book/b246741.html
カントさんは「理性」と「悟性」の中間能力として「判断力」を位置付けています。そして千葉さんは「センス」というのは「直観的な判断力」だと書いています。つまり、他の人には難解な絵に見える現代絵画が、「センス」の良い人には直観的にその良し悪しが「わかる」ということなのです。それはセンスの良い人が「直観的な判断力」に優れているということを示してもいるのです。
カントさんの『判断力批判』は難解な本ですが、そこに「直観的な判断力=センス」ということを念頭におくと、意外とわかりやすくなると思います。
例えば、次の『判断力批判』の文章を読んでみてください。
というのも、美的な判断はそれだけでは事物の認識にはまったく貢献しないが、こうした判断は認識能力だけが下すものであり、この認識能力は何らかのアプリオリな原理にしたがって、快と不快の感情に直接にかかわっていることが示されていることを証しているからである。ただしこうした判断において使われる原理を、欲求能力を規定する根拠となりうる原理と混同してはならない。欲求能力はそのアプリオリな原理を、理性の諸概念のうちにもっているからである。
しかし自然の論理的な判断において、何らかの事物がある法則にしたがっていることが経験によって示されたものの、感性的なものについての普遍的な知性概念では、もはやこの合法則性を理解することも、説明することもできないことがある。このような場合には判断力が働いて、わたしたちが認識することのできない超感性的なものと、自然の事物を関連づける[何らかのアプリオリな]原理をみずからのうちから取りだすことができる。そして判断力はこの原理をみずからの立場からのみ、自然の認識のために使用しなければならない。というのも、こうしたアプリオリな原理は、世界のうちに存在するものを認識するために適用することができ、適用しなければならないし、それと同時に、実践理性にとって好ましい展望を開くからである。
(『判断力批判』「序文」カント著、中山元訳)
先ほども書いたように、この文章の中の「判断力」を、場合に応じて「センス」だと思って読むと、難解な文章が意外とわかりやすくなります。
例えば、「センス」は「事物の認識」つまり理性的なものの見方には、まったく貢献しないということが書かれています。「センス=直観的な判断力」は、理性とは違った次元にあるものなのです。そして「センス」について考えるときには、「超感性的なもの」と「自然の事物」を関連づけることによって、そこに何らかの原理を見出すことができるのではないか、とカントさんは考えたのです。カントさんはそのように考えて、言葉にしづらい「センス=直観的な判断力」について、あえて言葉を連ねてその原理を探り、『判断力批判』という本にしたのです。カントさんは、「理性」と「悟性」という認識能力だけを語ったのでは、人間の認識の全体像が掴めないと考えました。そこに気付いたところが、カントさんの素晴らしいところです。
ただし、カントさんは18世紀のケーニヒスベルクという街で一生を過ごしたので、優れた美術作品と接する機会がそれほど多くなかった、と私は考えます。現在のようにカラーの画像が世界中を飛び回る時代ではなかったし、各地域の名作が企画展としていろんなところで展示される時代でもありませんでした。ですから、「センス=直観的な判断力」について語った大御所でありながら、カントさんの「センス」はあまり良くなかったのではないか、と私は考えます。彼の「センス」に関する思考は超一級ですが、彼自身の「センス」はそれほどでもなかったと思うのです。
このことを頭に入れておくと、『センスの哲学』の読み方もわかってくると思います。私は、この『センスの哲学』という本が、千葉さんにとっての『判断力批判』なのだと思っています。千葉さんもそれを意識しているでしょう。論理的に語りにくいものについて、自分の知性や感性に問いかけながらそれを丁寧に言葉にしていく、ということを実践してみせたのです。
そして千葉さんが書いている通り、『センスの哲学』は「総合的にセンスを広げていくことを目標」とした本なのです。それはどういうことかといえば、例えばカントさんの『判断力批判』を読んだからといって、その次の日から服のセンスが良くなるわけではありませんが、少なくとも美しいものを接する時の考え方や理解が深まっていくことは確かです。そのように、『センスの哲学』を読んだことで、主に現代絵画や現代美術の見方が広がり、また深まっていくのです。
さて、本を読み進めていくと、千葉さんは、難解な現代美術を「わかる」とはどういうことなのか、あるいはそれらを「わかる」ようになるにはどうしたら良いのか、ということを丁寧に説明していきます。そのことによって「センス=直観的な判断力」とはどういうものなのか、その能力を広げていくにはどうしたら良いのか、ということについて語っていくのです。
ここまで書いたところで、随分と長くなってしまいました。いろいろと寄り道をしてしまったので仕方ありません。
具体的な現代美術の見方については、次回以降で引き続き書くことにします。興味がある方は、次もお読みください。