平らな深み、緩やかな時間

205.『稲 憲一郎 展』ギャラリー檜B・C、『坪田菜穂子展』ギャラリー檜e

稲憲一郎さんの個展が1月22日まで、東京・京橋のギャラリー檜B・Cで開催されています。
http://hinoki.main.jp/img2022-1/b-2.jpg
展覧会が始まる前から、作品と対面できるのを楽しみにしていたのですが、それには理由があります。もちろん私は稲さんの作品をこれまでにも見てきましたし、そのことを文章にも書いてきました。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/77.html
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/61.html
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/41.html
また、稲さんについてはまとまった論文も書いています。
http://ishimura.html.xdomain.jp/text.html
※「2000-3 稲憲一郎論」参照 
ですから、稲さんの作品をこれまでにもつぶさに見てきたのですが、それにもかかわらず、今回の展覧会での彼の作品との出会いが待ち遠しかったのです。
それは、稲さんの作品が毎回楽しみだということに加えて、今回の展覧会に向けて稲さんが書かれた次のような文章があったからです。

画布と向かいあって何に対峙しているのだろう。
 向こう側にある私の外部にだろうか。だとすれば目の前にある画布も私の外部でもあろう。
 さまざまな事柄やものにまつわる定まらぬ記憶のパーツを組み合わせて見ても、画像を結ばないジグソーパズルのような揺れうごく記憶の重なりと成り、そして経験や知識といった諸々の事どもと一緒に、私に連なる眼前の画布を含んだ外部と向かいあう。
 画布に向かい手を動かし線を描き、色を置く。画面は動き出し、それと共に私の外部も揺れ動く。私と私の外部との在りようも変更され更新される。
 やがて画面は終局をむかえ動きを止める。画面はその成り立ちの構造だけを残し、絵画として私の眼差しの前にある。何が見えて来るのだろうか。何が見えているのだろうか。(『稲 憲一郎 展』コメントより)

稲さんの作品を見たことがある方ならば、彼の作品が巧妙な多層構造になっていることは、周知の事実です。その構造は、稲さんの作品の形態が平面であろうと立体であろうと変わりません。彼の作品が立体であるときには、立体の形状と、その立体作品の表面の描画とが、層のような構造になって見えるのです。彼の作品が平面であるときには、支持体の上に直接描かれた描画の層と、その上に重ねられた透明度の高い色の層、さらにその上から描かれたオイル・バーの色の層、とが重ねられた構造になっているのです。
そして私は、稲さんの作品が立体であろうと、平面であろうと、そこに絵画的なイリュージョンを見てきました。何もないはずの平面上に、人は古来から奥行きや立体感を感じてきたのですが、稲さんはそのイリュージョンの強度を推し計るようにして支持体の形状を変えてきたのです。例えば立体的な木の曲面に鉛筆のドローイングを施したときに、人はどの程度までそこに絵画的なイリュージョンを感じるのか、と稲さんの作品は私たちに問いかけてきたのです。
このところ、稲さんの作品の形態は平面であることが続いています。それは一般的には「絵画」と呼ばれる表現形態であり、彼の問いかけはその安定した表現様式の中で、何かしら落ち着いた様相を見せるはずでした。しかし稲さんの作品は、そんな常識的な予断を覆して、相変わらず見る者の視線を惑わし、その焦点をはぐらかすような作品を描き続けているのです。
なぜ、稲さんの作品は見る者の視線を惑わすのでしょうか?それは描画の層と重ねられた色の層との二重構造のせいでしょうか?
それはそうに違いないのですが、しかしその程度の二重構造の作品なら、稲さんの以前にもたくさんあったし、あまり上等ではないトリッキーな絵まで数え上げればきりがないほどです。それでは、稲さんの作品が稲さん独自のものである理由はどこにあるのでしょうか?
それが、先ほど引用した稲さんの文章の中に原因があったのだと思い当たりました。稲さんにとって、すでに絵画のイリュージョンを推し計るというような技術的な問題は自明のことで、それよりもその表現によって見えてくる世界がいったいどのようなものであるのか、ということを探究することが重要なのです。
私たちは、何気なく外の風景を見ていると思っていますが、それは本当に外の風景でしょうか?あるいは、外の風景の反対側には私たちの内なる世界があるはずですが、でもその内なる世界とはいったい何でしょうか?
私たちは一般的には、眼という感覚器官を通じて、外的な世界を見ています。
だから、稲さんの作品のベースとなっている風景や植物などの「もの」の描写も、外的な世界を描いたものだと理解できるでしょう。
しかし、その上に描かれた色彩の層はどうでしょうか。これは作者の内面からあふれ出たもの、という言い方もできるでしょう。ということは、この透明な色彩は稲さんの内面の世界を反映したものでしょうか?あるいはそうではなくて、ベースとして描かれた外的な風景描写に触発されてペイントされたもの、つまり外的なものの一部に属するものなのでしょうか。私には、いずれの見方も成り立つと思います。つまりそれは、完全なる内面表現だとも、外的な描写だとも言い難いのです。
しかし、そもそも絵を描くためのキャンバス、つまり画布は私たちの外部にある物質です。物理的に、あるいは科学的に考えれば、それは疑いようもなく外部のものだと認識できるでしょう。でも、それにしたって、どこまで確からしいことなのでしょうか。
例えば、私たちの体を覆う皮膚の内部にあるものは、私たちの内部であり、その外側にあるものは外部となる、と仮定してみましょう。しかし、そのときに私たちの皮膚そのものの外側は、外部でしょうか、内部でしょうか?もしも、それが私たちの体の一部だから内部だと考えるなら、いったいどこから外部が始まるのでしょうか。
くだらないことにこだわっているように聞こえるかもしれません。しかし、著名な美学者と哲学者の対話の中で、その美学者が次のように語った部分があります。

「皮膚というのは物質的な皮膜ではないというのは、内側を覆うものであると同時に外側に開かれているからですね。感覚器官としての多様性をたくさんもっている。ほかの感覚器官はすべて局所に限定されていて、視覚は眼、匂いは鼻、聴覚は耳なんだけれども、触覚だけは、指先がいちばん敏感だとしても全身に広がっている。それから、呼吸をしているし、発汗しているし、匂いも出すし、あらゆる感覚器官の対象になる。さらに視覚的な対象でもあって、たとえば人種差別なんていうのは皮膚の色で差別するわけでしょう。自らいろいろな機能をはたしていると同時に、それがある種の感覚の対象にもなる。だからメタファーとして非常に可能性がある。
ただ、先ほどおっしゃったように、皮膚を物質的な皮膜として考えすぎると、皮膚論なんかの影響を受けて、皮膜みたいなものをただ飾ったりするような美術作品が出てくるわけですよ。そういう、物質的な皮膜を再現したみたいなものはあまりおもしろくないわけです。認識論的なメタファーとして皮膚を使うことと、物質的に再現することを混同してもらっては困るという感じはあります。」
(『鏡と皮膚』「表層のエロス」谷川渥/鷲田清一との対談の中で)

谷川 渥(たにがわ あつし、1948 - )と鷲田 清一(わしだ きよかず、1949 - )と言えば、日本を代表する美学者と哲学者です。その二人の対話の中で、谷川は「皮膚というのは物質的な皮膜ではないというのは、内側を覆うものであると同時に外側に開かれている」と語り、「メタファーとして非常に可能性がある」と言っています。
それはまさに、稲さんが作品を通じて問いかけているものと重なるのではないでしょうか。稲さんの作品の二重構造は、互いに関連しているようでいて、いつまで経っても一致しません。それは稲さんの視覚の外側の世界を描写したものと、内面からあふれでたものと、あたかも皮膚のメタファーのようにどっちつかずで引き裂かれているのです。もしかしたら、稲さんの作品のキャンバスそのものが稲さんの皮膚のメタファーであり、その表面は外側なのか、内側なのか、と絶えず私たちの目の中で互いを主張しあっているのです。
この稲さんの作品に見られる自分自身の輪郭が曖昧になるような居心地の悪さ、というものをしっかりと覚えておきましょう。
というのは、ここまで書いてきて、私は前回のblogで取り上げた松村圭一郎の『はみだしの人類学』のことを思い出したのです。よかったら、前回のblogにも目を通してみてください。そこには、個人主義が前提とするような確固とした自己というものに疑問が付され、人と人は互いに「つながり」あっているのではないか、そしてそのつながり合う相手によって変化する「はみだし」の部分があるのではないか、と書かれていたのです。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。
「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみだしながら、浸透しあう柔軟なもの。そうとらえると、少し気が楽になりませんか?
もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても、文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられているという自覚があります。
(『はみだしの人類学』「第3章 ほんとうの『わたし』とは」松村圭一郎)

稲さんの作品には、この人類学者のいう「つながり」や「はみだし」を推し測る定点観測のような趣(おもむき)があります。
稲さんのコメントの「私と私の外部との在りようも変更され更新される」という部分と、松村圭一郎の文章の「他者との『つながり』によって『わたし』の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から『はみだす』動きが変化へと導いていく」という部分などは、ほぼ同じことを言っているように見えませんか?
とくに今回の作品は、「現代美術」という構えをとり払って、もっと自由に稲さんの感覚を表現することに集中しているように見えました。それだけに、純粋に「私と私の外部との在りよう」を見ようとする、稲さんの姿勢が際立って見えたのです。
作品の美術表現としての見え方も、軽快なリズム感が感じられて、それはセザンヌの絵画に見られるような心地よいものでした。この多層的な平面作品を継続して制作することで、表現上の夾雑物が削がれてきて、視覚的なリズムがそれに乗じてあらわれて来たのではないか、と私は考えました。
稲さんの、真摯な作品との向き合い方が、美学や哲学、人類学などの多岐にわたる知の探究とリンクしてきたのだと思うと、私はとても勇気づけられました。絵画表現が、このように人間にとって重要な未来を照らし出すことがあり得るのだ、と思うとうれしくなりませんか?


さて、今回はもう一つ、同じく京橋で1月22日まで開催されている、坪田菜穂子さんのギャラリー檜eでの個展について、少しだけ書いておきます。
http://hinoki.main.jp/img2022-1/e-2.jpg
坪田さんの作品は、紙(ときに方眼紙)の上にペンや鉛筆、水彩絵具などで描かれた比較的小さな作品です。繊細なタッチで描かれた作品ですが、そこには大らかな風景が内包されていて、作品そのもののスケールは、なかなか雄大なものです。
作者自身は、この展覧会に「記述、全体の量を把握する」という副題をつけた上で、次のようなコメントを寄せています。

日々眠り、文字数を数え、画像の重さと読み込み速度を確認した。
高層ビルのガラスが反射する太陽光に反応し、あと何分で薬缶の水が沸騰するかを推し量ろうとした。
外気温と野菜が傷んでいく速度。
電波が届かない位置と洗濯物の乾く時間。
その中に一枚一枚が挟まっている。

折り返しの電話番号をメモしたボールペンは、翌日方眼紙の上にもあった。
今描いているのは一部であり一角だが、全体の総量を見ながらそこに触れている。
明日の目覚ましを三回分かける。
(『坪田菜穂子展』コメントより)

ここにも、稲さんと同様に、何かを観測しようとする表現者のつぶやきが聞こえませんか?
それも、その観測の始点となっているのは、作者の日常的な視線です。そこには表現者として一歩一歩、何かを確認しながら歩もうとする、誠実な姿勢が垣間見えます。
彼女の作品は、周囲の風景からインスピレーションを得た、構成的な作品です。今回の展覧会の紹介として、(おそらく彼女は)こう書いています。
「日常の風景を描き起こした素描他を組み合わせ、見たものを解体し再構築する試み。」
確かにその通りですが、その「見たものを解体し再構築する」というところが重要です。というのは、それをどのように「再構築」するのか、によって作品の質が変わるからです。
私は彼女の作品から、二人の先達の作品を想起しました。
一人はリチャード・ディーベンコーン(Richard Diebenkorn,1922 - 1993)です。
https://diebenkorn.org/
ディーベンコーンも、日常的な風景描写から抽象的な構成作品に移行しました。しかし、私は彼の作品が完全に構成的になったところで、興味を失ってしまいました。それはただ単に抽象的になった、ということではなくて、何か構成物の一つひとつに質的な変化が生じてしまったような気がするからです。内実の伴わない、空疎な構成物がそこにあるような気がしてならないのです。
そしてもう一人は、佐川 晃司(1955 - )さんです。
https://www.kyoto-seika.ac.jp/edu/faculty/sagawa-koji.html
http://www.2kwgallery.com/sagawa2.html
佐川さんも、風景描写に基づきながら絵画を制作しています。佐川さんの絵画の奥には樹塊(じゅかい)のデッサンが透けて見えます。そして彼はたんに幾何学的な構成絵画にならないように、というよりも、そんな美術史的な絵画の発展とは違う地平に立ち続けて、いまも制作しているのです。
佐川さんは関西を拠点に活動しているので、私にはなかなか本物の作品を見ることが出来ないのですが、これまでに見た彼の作品の、そのこまやかな筆致を思い起こすと、彼の空間意識が単純化された形体の内部と外部との間で地続きになっていることがわかるのです。それが佐川さんの作品に、独自の広がりを与えています。

彼らはすでに重厚で大きな作品を制作した大作家ですが、坪田さんの作品は紙の上に描かれた小品です。しかし、構造的には彼らの作品と同様のものを内包しています。
彼女のペンのタッチが、空白の空間に点々と触れられているとき、そこには空疎な構成とは正反対の内実のある空間が現れます。そういうふうに画面上の空間に触れながら制作することが、彼女の書いている「総量を見ながらそこに触れている」という意味なのでしょう。
私はそのような彼女の制作方法の中に、たんなる幾何学的な構成絵画を超えた、新たな絵画の可能性が秘められていると思います。それは目新しい絵画ではないかもしれません。しかし表現者である彼女の空間意識が、それまでの旧套的な空間意識とは違ったものであれば、自ずとその絵画は新鮮に見えるはずです。
私の若い頃に、すでに絵画はあらゆる可能性をやりつくされて、終焉した表現だと言われていました。しかし、そんなふうに絵画を見ることの方が、古い意識にとらわれているのです。私たちが日々生きているように、絵画表現もつねに息づいています。そのことを確認するように、坪田さんは日常的な視点から表現行為を考え、素描的な絵画の原点に立ち返って制作をしているのです。それは何か新しい息吹を絵画に吹き込んでいることにちがいなく、その現場に立ち合えることは、鑑賞者にとってとても貴重な体験です。
そんな坪田さんの作品を見ていると、彼女のさらに発展した絵画を見てみたい、という思いと、彼女の中に必然性が生じてくるまでは、あせらずにいまの制作を続けてほしい、という思いが交錯します。とにかく、彼女がここに立ちどまっているはずもないので、今後どのような活躍をされるのか、注視していきたいと思います。


新型コロナウイルスの感染が、また広がってきていますが、新春の画廊には美術に触れたいと思っている人たちが、次々と顔をのぞかせていたようです。
穏やかに絵を見る行為そのものは、感染拡大とは無縁のものだと思います。画廊が開いている限りは、体調に注意して出掛けたいものです。

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