平らな深み、緩やかな時間

204.『社会的共通資本』宇沢弘文、『はみだしの人類学』松村圭一郎

今回は、一見すると美術と関係のない本を取り上げます。
学問領域で言うと、経済学と文化人類学ということになります。しかし『社会的共通資本』、『はみだしの人類学』という二冊の本を並べてみれば、一般的な読者向けの著作物だということがお分かりいただけると思います。私の読める範囲のものですから、せいぜい新書やムック本ということになりますが、それでも私には専門的に過ぎるくらいです。彼らの導く結論が私の興味とどう繋がるのか、ということが私にとっての問題です。読み方に勘違いやトンチンカンなところがあったら、ご指摘いただけるとありがたいです。

それでははじめに、宇沢弘文(1928 - 2014)の『社会的共通資本』を読んでいきましょう。
宇沢弘文という経済学者は、たいへんスケールの大きな人だっったようです。NHKの『人物録』というサイトで、生前の宇沢弘文のインタビューを見ることができます。
https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250409_00000
このサイトの紹介文や動画を見ると、斉藤幸平などの若い学者たちがいま問題にしていることと近いことを、すでにこの仙人のような風采の学者が語っていたことに気がつくでしょう。
そして前回、このblogで取り上げた「セドラチェクvs斉藤幸平」の対談で語られたような、資本主義と社会主義を併せ持つような社会や経済の考え方というのが、すでに宇沢によって提案されていたのです。このような〇〇主義にとらわれない柔軟な考え方は、近代社会の一本道を突き進むような思考の果てに行き詰まっているあらゆる分野に関して有効なものなのではないか、と私には思えます。例えば絵画の分野で言えば、近代美術が行き詰まったからといって、芸術の理論をすべて放棄して、アニメのキャラクターを剽窃したような空っぽな表現に走らなくても、もっと内容のある作品が生み出せるのではないか、と思うのです。
それでは、この『社会的共通資本』という本が、具体的に何を言っているのか、覗いてみることにしましょう。

『社会的共通資本』のはじめの章で、宇沢は「ゆたかな社会」とは何か、と問いかけます。そして次のような答えを書いています。

ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。このような社会は、つぎの基本的諸条件をみたしていなければならない。  
(1) 美しい、ゆたかな自然環境が安定的、持続的に維持されている。  
(2) 快適で、清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている。  
(3) すべての子どもたちが、それぞれのもっている多様な資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させ、調和のとれた社会的人間として成長しうる学校教育制度が用意されている。
(4) 疾病、傷害にさいして、そのときどきにおける最高水準の医療サービスを受けることができる。  
(5) さまざまな希少資源が、以上の目的を達成するためにもっとも効率的、かつ衡平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている。
(『社会的共通資本』「序章 ゆたかな社会とは」宇沢弘文)

ちなみにアスピレーション(aspiration)とは辞書で引くと、「志(こころざし)」、熱望・野望・願望および願望の対象などを意味する英語の名詞で、動詞 aspire (熱望する)の名詞形ということです。解説不要だったでしょうか。
宇沢の理論は、この「ゆたかな社会」を実現するために考えられたものです。しかも「すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを充分に生かし」という部分や、「できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会」というところに、資質や能力の多寡にかかわらず、すべての人が幸福であることを願う気持ち、もう少し言えば、いわゆる社会的な弱者と言われる人たちであってもゆたかな生活を営めるように、という宇沢の志のようなものを感じます。
そしてこれらの条件から、この本では「農業」、「都市」、「教育」、「医療」、「金融」、「地球環境」などについて論じられていきます。その根本となるのが、それらの項目を共通資本として専門的な知見を持った人たちで守っていく社会を実現する、ということです。
それでは、宇沢の「社会的共通資本」という考え方を見ていきましょう。

したがって、社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。社会的共通資本の各部門は、職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規範にしたがって管理・維持されなければならない。  
社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などである。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど、ふつう社会資本とよばれているものである。
(『社会的共通資本』「序章 ゆたかな社会とは」宇沢弘文)

ここで、「国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり」と書かれているのが、今の社会主義の国のやり方であるように思えます。一方、「利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない」と書かれているのが、資本主義のやり方であり、そのことへの戒めとして書かれているように思えます。
宇沢の考えている「社会的共通資本」というのは、現在の東西の国家が直面している問題を解消する、そのいずれでもない道として提案されているのです。それでは、彼がそれらを具体的に実現するために、どのようなことを考えていたのでしょうか。
例えば、この本の中ではじめに取り上げられている「農業」について、宇沢の考え方を見てみましょう。

農の営みは人類の歴史とともに古い、というよりは、人類を特徴づけるものとして農の営みの意味づけが存在するといってもよい。このような意味における農業は、自然と直接的に関わりをもちつつ、自然の論理にしたがって、自然と共存しながら、私たちが生存してゆくために欠くことのできない食糧を生産し、衣料、住居をつくるために必要な原材料を供給するという機能を果たしてきた。いうまでもなく農業は、その生産過程で、自然と共存しながら、それに人工的な改変を加えて、生産活動をおこなうが、工業部門とは異なって、大規模な自然破壊をともなうことなく、自然に生存する生物との直接的な関わりを通じて、このような生産がなされるという点に農業の基本的特徴を見いだすことができる。
(『社会的共通資本』「第2章 農業と農村」宇沢弘文)

このように、宇沢は農業を工業と横並びの概念として見るのではなく、「農の営み」として意味づけています。宇沢の考え方では、農業を工業のように効率化を図ったり、利潤追求を目指してはまずいのです。結局、その結果が土壌の疲弊や自然破壊を招いてしまい、人間の営み全体としてはマイナスになってしまうというのです。具体的には、1961年に制定された「農業基本法」は、その理念が間違っていた、と宇沢は言っています。

農業基本法の性格を大きく特徴づけるとつぎのようになる。それは、効率性基準を農業にも適用して、農業部門における生産性を高め、利潤性を求めて、工業部門と競争しうる条件を形成しようとするものである。
(『社会的共通資本』「第2章 農業と農村」宇沢弘文)

さらに、国際的な観点からの市場原理が適用されることになるとすれば、日本経済は工業部門に特化して、農業の比率は極端に低く、農村は事実上、消滅するという結果になりかねない。このことはまた、農業基本法の考え方からの帰結でもある。
(『社会的共通資本』「第2章 農業と農村」宇沢弘文)

この本が出版されたのが、今から20年ほど前です。ですから、今の農業政策の現状について私にはわかりませんが、農業を「農の営み」として捉える宇沢の考え方は。とても興味深いものです。近代的な思考方法には、すべてのことに効率化を求め、それぞれの分野の特質よりも均質性を重んじる特徴があると思います。宇沢が指摘している農業の問題は、その近代的思考の危険性や、現実との矛盾をあぶり出すものだと思います。
これは農業だけではなく、人文科学や芸術に対する考え方にもあてはまるのではないでしょうか。宇沢は、それぞれの土地の事情にあった個々の農業経営を大切にし、それらを「コモンズ」と呼ばれる共同的な取り決めのもとに運営されるのが良いのではないか、と提案しています。
芸術や人文科学の分野について宇沢は言及していませんが、例えば絵画を描こうとしている大学生が学校を卒業すると、途端に何も手がかりのない社会に放り出されます。真面目に自分と向き合いながら現代美術を志す作家に対し、その表現活動を「社会的共通資本」のように考えて支えていけないものでしょうか。美術だけではなく、音楽や映画、文学の世界においても、日本はあまりにもサポートが薄いという話を聞きます。
例えばクラシック音楽について言えば、昨年はショパン国際ピアノコンクールでの日本人の活躍が話題になりました。日本人として半世紀ぶりの2位入賞を果たしたピアニスト反田恭平さんが、マスコミでもずいぶんと取り上げられていましたが、彼がコンクールに挑んだ動機の一つには、地道に活動する音楽仲間との演奏に、少しでも脚光を当てたいということがあったようです。
このように、文化的に高度な活動をする若い人たちが、自分たちの努力だけで何とかしなくてはならない状況では、いずれつぶれてしまいます。かといって、国家権力が恣意的に芸術活動に介入することも好ましくありません。宇沢の提唱する「社会的共通資本」や「コモンズ」という考え方を参考にして、よりよい方法を持てないものでしょうか。そうしないと、日本はいずれ(あるいは、すでに)文化的後進国になってしまいます。


さて、次に『はみだしの人類学』を見ていきましょう。
松村圭一郎(1975 - )は文化人類学者ですが、私はこの人の著作について、メールで連絡を取り合っている友人から教えてもらいました。
「文化人類学」というと1980年前後に学生時代を過ごした私のような人間は、山口 昌男(1931 - 2013)の「中心と周縁」理論や「トリックスター」などの言葉を思い出します。あるいは、クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)がブラジルをフィールド・ワークして書いた『悲しき熱帯』という著作あたりでしょうか。国境や学問分野を越境した、なんだか面白そうな学問だ、という漠然とした思いがありますが、松村圭一郎は「文化人類学」について次のように書いています。

文化人類学は、一九世紀末から二〇世紀前半にかけてヨーロッパやアメリカで確立された学問です。大航海時代をへて、西洋諸国がアジアやアフリカなどを植民地にするようになった時代に生まれました。なぜ人類にはこれほど多様な文化があるのか? その差異はどのように生じたのか? 異なる他者とどう関係を築けばよいのか? いずれもグローバル化が進む現代の世界で、いまなお考えなければならない重要な問いばかりです。
(『はみだしの人類学』「はじめに」松村圭一郎)

なるほど、山口昌男にしてもレヴィ=ストロースにしても、文化の異なる他者との出会いからすべてが始まっています。しかし、松村のこの本は「はみだし」という言葉が入っています。これはどういうことでしょうか。
松村は、この本のキーワードは「つながり」と「はみだし」だと言います。
まずはその「つながり」から見ていきましょう。
松村は、近代社会の根幹には「個人主義」があるのだと言います。「個人主義」によって、例えば封建的な抑圧社会から「平等な個人」という概念が生まれてきました。そしてそれは「奴隷」や「男女差別」などの概念で縛られた人たちを解放するために、重要な役割を果たしたのです。しかし現在に至って、その「個人主義」が自己責任という重圧を人々にもたらし、それが社会の分断を招いています。
その「社会の分断」という考え方は、個人という確固とした輪郭があって、それらのつながりが切断されたイメージから生まれてきたものです。しかし松村は、そもそも個人の輪郭はそれほど確かなものだろうか、という問いを投げかけます。私たちは周囲の人たちとの関係によって、自己を形成していきます。つまりいくら「個人主義」といっても私たちは互いに繋がっている存在であり、社会的分断というものも、実は「つながり」があるからこそ、そこに軋轢が生じているのではないか、と考えます。
実は、このような考えに至ったのには、サイード(Edward Wadie Said, 1935 - 2003)というパレスチナ系アメリカ人の研究者が、1978年に発表した『オリエンタリズム』という著作の影響があります。

「オリエント」というのは、おおまかに中東から北アフリカにかけてのアラブ世界のことを指します。ヨーロッパでは、長いあいだ、オリエント地域が芸術や文学の題材とされ、科学的な研究対象にもなってきました。しかし、そこで提示されて北オリエントは、たとえば宮廷のハーレムに代表されるような、キリスト教世界から見ると猥雑で道徳に反した、西洋世界とは対極にあるイメージでした。
(『はみだしの人類学』「第1章 「つながり」と「はみだし」」松村圭一郎)

かんたんに言えばヨーロッパの文化というのは、それ以外の世界を見下すことによって成立していたのです。そして文化人類学でさえも、オリエント世界のような異文化を劣った異質物として見なすことで成立してきた、ということが明らかになったのです。松村は、このサイードの指摘が文化人類学にとって最大の危機であった、と書いています。
このような植民地主義的な「支配/被支配」という構図を乗り越えるためには、お互いの文化に「つながり」があり、ヨーロッパ文化は異文化によって自分の姿を知ることができるのだ、という視点を持たざるをえないのです。

そこには「つながり」しかない、と言えるのかもしれません。「つながり」の両端に「わたしたち」と「かれら」が生まれる。ヨーロッパがオリエントとの比較を通して自分たちの姿を描いたように、「かれら」との差異のなかで、はじめて「わたしたち」の姿が浮かび上がる。
こうして文化人類学は、異文化の研究から「異文化」と「自文化」とのつながり方を考える営みへと大きな変化をとげたのです。
(『はみだしの人類学』「第1章 「つながり」と「はみだし」」松村圭一郎)

このような反省からでしょうか、松村圭一郎のフィールドワークは、エチオピアなどのそれぞれその土地の人たちの暮らしに入り込むことから始まったようです。そこで暮らしてみると、それ以前に予想していたこととは違ったことと出会い、そのことによって研究の方向が変わっていくのだそうです。それはすなわち、自分自身を形成している輪郭が変わっていくことでもあります。その変化は、異なる民族がそれぞれ、お互いの「つながり」によってかたちづくられていることを示しているのです。
もちろん、そこには「自己同一性」と言われるような、変わらない自分も存在しますが、しかし、どうしても相手によって変化する「はみだし」の部分が生じてしまいます。それはごくあたりまえのことで、個人主義的な自己というものを想定したとしても、そのすべてが固定的なものではないのです。
そういう風に自分というものの理解が進んでくると、異文化を理解するということが、固定的な自己が異なる文化を観察するということだけではなく、異文化と互いに繋がることによって、それぞれの「はみだし」の部分を変化させる、ということでもあることがわかるのです。その理解を深めることによって、異文化との無用な摩擦や軋轢に対しても、もっと賢く対応することができるのではないか、と考えられます。

いまの世の中をみていると、「わたし」や「わたしたち」という檻に閉じ込められて苦しむ人が少なくないように思います。そんな息苦しさを感じる状況に陥ったとき、そうではない複数の「わたし」や「わたしたち」の可能性はひとつの希望になります。
(SNS上で顕著な)共感も共鳴も、どちらも生きていくために必要なつながり方です。本書が考えてきた二つの「つながり」、そしてそこで生じる「はみだす」という動き。それらについて考えることは、私たちがいかにして差異にあふれた世界をともに生きていけばよいのか、その方法を身につける思考のトレーニングなのです。
(『はみだしの人類学』「第4章 差異とともに生きる」松村圭一郎)

このように私たちは、ときに状況に合わせて柔らかく生きていかなければなりません。
松村はそのことに対して、魅力的なモデルを紹介しています。松村が紹介するのは、イギリスの社会人類学者にティム・インゴルド(Tim Ingold, 1948 - )という人が書いた『ラインズ』という本です。インゴルドは、「線」にはあらかじめ決まった始点と終点とを定規で結ぶような直線と、どこに行くか定まっていないフリーハンドの曲線との二種類がある、といっているのだそうです。

最初の直線は、目的を決めて、それに向かってまっすぐ進むような生き方に重なります。おそらく結果を重視する受験勉強やビジネスの世界などにあてはまるでしょう。試験に受からないと意味がない。ものが売れなければ仕方がない。受かるためには、売れるためにはどうしたらいいか。何があっても、その目標を効率的に達成したい。日々、そういう思い出生きている人は少なくないと思います。でもインゴルドに言わせれば、そこには落とし穴がある。
まず定めた目標以外のことを考えなくなる。ある種の思考停止に陥る危険性があります。何かを成し遂げるにはどうしたらいいか、という問いの立て方からは、なぜ私たちはそうしようとしているのか、というそもそもの問いが排除されています。
(『はみだしの人類学』「第4章 差異とともに生きる」松村圭一郎)

直線にはこのような落とし穴と同時に、目標達成の過程で起こった出来事をどうでもいいものとして考えてしまう傾向があります。それは、目的地に到達することだけを考えて旅をするようなものだ、と松村は書いています。
それでは、フリーハンドの線の方はどうでしょうか?

それに対して、フリーハンドの曲線はどうでしょうか。インゴルドは、それを徒歩旅行にたとえています。歩いている人は、進むにつれて変化し続ける眺望や、それと連動して動いている道の行き先に注意を払う。その途中で起きることをちゃんと観察しながら進んでいる。だから偶然の出来事に出会っても、それを楽しむ余裕がある。
その道すがらに出会う予想外の出来事は、とりあえず時刻表どおりに電車に乗って、計画どおりの日程をこなすことばかり考えている人にとって、旅の邪魔だと感じられるでしょう。しかしインゴルドは、フリーハンドの線にこそ、人は生き生きとした生命の動きを感じられるはずだと言います。
(『はみだしの人類学』「第4章 差異とともに生きる」松村圭一郎)

このblogを読んでいる方なら、ここでインゴルドが言っている「フリーハンドの曲線」こそが、芸術を制作すること、鑑賞することとリンクしていることに気がつくでしょう。思いがけない出会いのない芸術作品の制作や鑑賞に、どんな意味があるのでしょうか。私がコロナ禍においても、できるだけ美術館や画廊に足を運ぶのは、実物の作品に触れることでインターネット上の画像ではわからないものが発見できるからです。その発見こそ、少し大げさに言えば、この本における「異文化との出会い」にあたるものなのです。インゴルドという学者が、そこにこそ「人は生き生きとした生命の動きを感じられるはずだ」と言っているのなら、それは素晴らしい見解です。学問の世界においても、芸術と同様の感性が働いているのだと私は思います。

さて、このような畑違いの本の紹介ですから、その分野の人が読んだらピント外れで、ざるのように抜け落ちているところがたくさんあると思います。
しかし、この二冊ともに人間としての豊かな生き方を希求しているところが、私たちの求めるものと共通していると思います。いずれにしても、この世界を均質なものとして固定化し、その効率性や最短の時間や道のりばかりを追求しているのでは、結局、人として幸福になれないのです。人としての「ゆたかさ」が必要としているのは、ゆとりや遊びのようなものです。この世界がもう少しそのことに気がついてくれるなら、芸術や人文科学の必要性についても理解が進むでしょう。
最後に、『はみだしの人類学』の結びの言葉を引用しておきましょう。

文化人類学は、つねに「わたし」を起点に世界を考えてきました。それは「わたし」の枠組みに自分を押し込めるのではなく、他者との境界を越えた交わりに「わたし」が開かれるような営みです。これがあたりまえだ、この考え方が正しい、といった固定的な「わたし」へのこだわりが他者との出会いによって覆される。そして、またあらたな「わたし」の輪郭を手探りで見つけだそうともがく。その変化する景色を「おもしろい!」と好奇心にかられるまま歩んだ曲がりくねった道のりが、私にとっての文化人類学だったような気がします。
この本が、固定的な「わたし」や「わたしたち」という檻に閉じ込めようとする力を揺さぶり、閉ざされた扉を少しでもこじ開ける手助けになってくれることを願っています。
(『はみだしの人類学』「第4章 差異とともに生きる」松村圭一郎)

とても共感できる言葉です。皆さんは、どう感じますか?

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