7月に原田マハ(1962- )の『ジヴェルニーの食卓』について書きましたが、その著者がアンリ・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau、1844 - 1910)を題材にして書いた評判のミステリー、『楽園のカンヴァス』を読みました。腰痛はおさまりつつあるものの、肩痛はひどくなってしまい、いまだ仕事以外はあまり動かないようにしています。本を読む以外にあまり出来ることがなく、時間にまかせて一気に読んでしまいました。読後に考えたことと、この機会にルソーについて思ったことをすこしメモにしておきたいと思います。
小説の内容を、ここで書いてしまうのはまずいと思いますが、何もないと話が進まないので、そのさわりだけ書いておきます。
ニューヨーク近代美術館にルソーの最後の大作と言われる『夢』という作品があります。この本(『楽園のカンヴァス』)のカバーに使われている絵です。それとそっくりの絵がひそかに存在していて、その真贋について若き研究者である早川織絵と、ニューヨーク近代美術館のアシスタント・キュレーターであるティム・ブラウンが判断を競い合う、というのが大筋です。なぜ、この二人が競い合うことになったのか、という経緯も複雑で、そこにはのっぴきならない陰謀やら思惑やらが渦巻き、二人の運命も翻弄されていきます。その一方で、その真贋に関係する一冊の本を二人は読むことになるのですが、そこにはルソーが『夢』を描いた晩年の日々が、誰かの手によって克明に綴られています。
小説のなかに、20世紀初頭のルソーに関する謎の物語があり、さらに真贋判定の対決の日々(1983年)があり、それから17年後のティムと織絵の生活があり、というふうに三つの時間が存在します。小説の複雑な構成や、美術界のこみいった諸事情、ルソーを中心とした美術史的な事実、とこの小説の世界に入っていくのにはいくつかのハードルがあるはずなのですが、的確な文章と構成力で、そういう障害はほとんど感じさせません。私は一応、美術に関する基本的な知識がある方だと思いますが、たとえそうでなくても、すーっと読める本だと思います。そして、次々と伏線になる仕掛けが投げかけられてくるので、読み始めると一気に終わりまで行きたくなります。
それから、『ジヴェルニーの食卓』のときにも感じたのですが、原田マハの文章は、ちょっと説明的な感じがしてしまいます。美術史的な事実を踏まえて、ということからそんな文体になるのかな、とも思いますが、この小説でも読み始めた頃には少しくどい感じがしました。しかし、読み進めると物語の大きなうねりのなかで、そんなことも気にならなくなります。それより絵画の真贋鑑定という地味でこみいった題材を、ここまで物語として読ませる、というのは、やはり作者の力量なのだろうと思います。小説の内容が作者のキャリアとも重なるので、細部のつめは十分で、フィクションながら現実味を帯びたスリルを感じます。
最後に、この本のもっとも素晴らしいところを書いておきます。それは、絵画に対する愛情が表現されているところです。この物語の主人公のふたりは、子供のころに絵画に魅入られた経験を持っています。例えば、ティムが『夢』を見たときの経験は、つぎのように書かれています。
少年ティムは、熱にでも浮かされたかのように、その日から追いかけ始めたのだった。「夢」という作品を、アンリ・ルソーという画家を、ルソーとともに生きた芸術家たちを、二十世紀の美術を。
もしもこの作品のタイトルが「夢」じゃなかったら。たとえば「密林」とか「ライオンと女」とか、「幻想」とかだったら。ひょっとすると、自分の興味はもっと違うものに向かったかもしれない。野球とか、ロックとか、女の子とか。けれどもあの日から、自分は、どっぷりと足を踏み入れてしまったのだ。ルソーが作り出した「夢」の世界に。
(『楽園のカンヴァス』原田マハ)
現実には、美術研究者、キュレーターと言われる人たちは、さまざまな動機があって、その職業を選んだことでしょう。しかしこの物語では、主人公の二人に作品への愛着がなければ、エンディングがおさまらないのです。科学的な検査を一切排除した真贋判断、という現実的にはナンセンスな設定も、すべてがルソーの描いた絵画への愛着、という一点に集約されています。甘い話だ、という捉え方もあるでしょうが、この愛情がなければ単なる頭の体操的なミステリーになってしまいます。美術市場がグローバルになればなるほど、美術作品は投資の対象でしかなくなってしまう、そんな現実を踏まえた上で、あえて書かれた物語だと思いますが、どうでしょうか。
さて、アンリ・ルソーについてですが、正直に言って、特別に興味のある画家、というわけではありません。しかし、好きな画家の一人であることはたしかで、展覧会場で作品を見る機会があれば、足を止めてじっと見てしまいます。
この小説のなかでは、ルソーという画家をどう評価するのか、が物語のひとつのポイントになっています。よく知られているように、ルソーは正規の美術教育を受けていません。40歳を過ぎて画家を目指したので、日曜画家とか素朴派とか言われ、いまでは「アウトサイダー・アート」の元祖のように言われています。しかし、小説中で織絵は次のような論文を書いたことになっています。
ルソーはとにかく遠近法のひとつも身につけていないアカデミズムとは無縁の「日曜画家」だと言われ続けていたが、織絵の持論は違った。正式な美術教育を受けなかった、という点は動かしがたい事実ではあるが、ルソー独特の表現手段は、あるときから画家が「確信犯的に」選び取ったものである、というのだ。画家として卓越した技術を身につけられなかったわけではない。あえて「稚拙な技術」「日曜画家」と言われ続ける技法で勝負した。それは、ピカソやマティスなど、二十世紀美術に変革をもたらす芸術の風雲児たちの登場と少なからず関係している―。
(『楽園のカンヴァス』原田マハ)
小説のなかの学説なので、意図的に極端な説を取っていることは確かでしょう。「確信犯的」という言葉がいかにも挑発的です。私もルソーを単なる素朴な画家として捉えることには反対です。それはルソーの絵具の使い方、色彩表現、画面全体を把握する力などをみれば、一目瞭然です。彼には高い技術があり、それは純粋な感性や瞬発力で表現する素朴派的な絵画とは、明らかに異なります。
しかし、形体の表現、たとえば遠近法とか立体的な描写方法とかについては、当時の西欧の常識から言えば、稚拙だと言われても仕方ない側面があったと思います。もしかしたら、織絵が言うように、その気になりさえすれば「卓越した技術を身につけられなかったわけではない」のかもしれません。しかし、そんなふうにルソーの能力を推し測ってみても、それほどの意味はないように思います。ただ、言えることは、ルソーにとってそのような「卓越した技術」は必要なかった、ということです。たとえば彼の絵画の澄みきった色彩表現は、なかば平面的で、なかば立体的な独特の形体表現と表裏一体のものです。正確な遠近法や陰影描写を使ったならば、ルソーの絵画の魅力を壊してしまうことでしょう。そのことに、ルソー自身がどれほど自覚的であったのか、あるいは意識的であったのか、は私にはよくわかりません。「確信犯的」という言葉のなかには、意識的であった、という意味合いがあると思うのですが、画家はえてして感覚的に、もしくは身体的に判断します。ルソーが、自分には「卓越した技術」を身につける必要がない、と意識的に判断したのか、あるいは何となくそうしたのか、はよくわかりません。そのあたりの真実をつかむことは、もしかしたら研究の上で必要なことなのかもしれませんが、とりあえず私にとっては、ルソーが自分の表現力を最大限に発揮する方法を身につけた画家であった、という事実で十分です。試しに、いまどきの流行のイラストまがいの絵画と、ルソーの作品を比較してみてください。ルソーの絵のなかに、アカデミック!と言いたいほどの確かな技術があることがわかると思います。
さて、来週あたり、少しは自由に動けるようになっているとよいのですが・・・。仕事上も困りますし、そろそろ展覧会にも出かけたいと思っています。
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