平らな深み、緩やかな時間

32.『トスカーナと近代絵画』『さとう陽子展』『橘田尚之展』

夏休みの終わりに痛めた腰の回復状況はまあまあですが、肩痛は石灰性腱炎だとわかり、長引きそうです。あまり遠出ができませんが、今日は思い切って東京に出ました。電車移動や建物の冷房がちょっとつらかったです。そんなわけで、展覧会の案内をいただいても、失礼することが多々あるかと思います。どうかご容赦ください。

そんななかですが、展覧会の情報を見て、気になっていたのが『トスカーナと近代絵画』という展覧会です。さっそく見に行く事にしました。
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index_pitti.html
なぜ、この展覧会が気になったのでしょうか。「トスカーナ」だけなら何とも思いませんが、「近代絵画」と結びつくと、あれっと思いませんか?美術史の本を開いてみれば、イタリアの美術は古代からルネッサンスが中心で、その後はカラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571 - 1610)あたりで記述が消えてしまいます。それ以降となると、モディリアニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884 - 1920)まで待たなくてはなりませんが、それもエコール・ド・パリの画家として評価されているので、イタリアの美術、という印象は希薄です。その後は形而上絵画、未来派、フォンタナ(Lucio Fontana, 1899 - 1968)の空間主義、最近ではアルテ・ポーヴェラやポストモダン風の絵画など、比較的情報が入ってきますが、近代絵画と呼ばれる頃までの一時期が、ぽっかりと空いているのです。トスカーナと言えばフィレンツェがある地方ですから、ルネッサンスの隆盛以降、どういう状況だったのか気になります。展覧会の紹介にも、こんなふうに書かれています。

現在のトスカーナ州とその州都であるフィレンツェは、ルネサンス芸術の発祥地として有名です。しかし、1861年のイタリア王国建設や二度の世界大戦をふくむ激動の19~20世紀においても、この地が重要な芸術活動の拠点となったことはあまり知られていません。本展覧会はピッティ宮近代美術館の絵画約70点によって、フィレンツェとトスカーナに焦点をあてたイタリア近代絵画の展開を日本で初めて系統的にご紹介します。
(展覧会ホームページより)

結論から言うと、上記の趣旨がしっかりと貫徹されている展覧会でした。例えば、私たちがよく知っているフランスの近代絵画との比較などがわかりやすく表示されていて、作品を見るときに同時代の動きとしてどんなことがあったのか、理解できるようになっています。しかし、作品そのものを満喫できたのか、というと微妙なところです。私には、トスカーナの近代絵画の全貌がわからないから何とも言えませんが、約70点という作品では量的に少なかったのかもしれません。同時代のフランス絵画と比較してしまうと、何か物足りない感じがしてしまうのです。
今回の「系統的な」作品紹介による、具体的な収穫について、ひとつ書いておきましょう。例えばフランスの古典主義絵画の巨匠、アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres、1780 - 1867)が、古典を勉強するためにイタリアを訪れていたことは有名ですが、そのアングルの影響を、当時のイタリア絵画が逆に受けていた、ということは知りませんでした。同様に、その後もフランスを中心としたロマン派や印象派の動きと呼応するように、トスカーナの絵画も展開していったのです。それがいずれの時代も、フランス絵画の華やかさとはちょっと異質の堅牢さ、あるいは土臭さを感じさせるところが面白いと思います。例えば印象派のように、筆触をこまかく分割する技法もトスカーナにあったのですが、理論的な色彩分割にまでは至らなかったようでした。こういうところが、その後のモランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)の絵画に見られるような、古典と現代の融合につながったのかな、とも思いました。もっとも、そのモランディはボローニャから出なかった画家だったので、今回の作品には含まれませんでしたが・・・。
このあたりの影響関係は、調べて行くとそれだけで面白そうな題材です。国境や政治的な関係が変われば、とうぜん国同士の情報の行き来の仕方も変わるでしょうし、交通手段の発達によって、時代ごとの距離感も変わってくるでしょう。フランス人ではないけれども、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)の『イタリア紀行』という本もありますね。時代的にはアングルと同時代か、すこし前になるのでしょうが、現代から考えるとかなりの珍道中だな、と思って読んだ覚えがあります。いつか、ちゃんと読み直さなくてはならない本です。
そんなわけで、私のようにイタリアの近代絵画の知識がぽっかりと抜け落ちてしまっている方には、一度見ておくとよい展覧会だと思います。


さて、画廊での展覧会では、湘南台画廊の『さとう陽子展』を見に行きました。
(http://www.shonandai-g.com/art/home.html)
このブログをアップする頃には、もう最終日近くになってしまいますが、とても楽しい展覧会でした。彼女の作品は、一般的には色彩豊かな抽象画、ということになるのでしょうが、一点一点の作品のアプローチが違うので、初めて見るとすこし戸惑うかもしれません。現代美術というと、作家によっては方法論が決まっていて、そのときに展示してあるどの作品を見てもあまりかわり映えがしない、ということがよくあります。さとう陽子の作品はまったくその逆で、鉛筆や絵具など、絵によって素材が違うし、ストライプ状の構成の絵があるかと思えば、夜空の星のような点描の作品もあります。一枚の絵のなかでも細部まで綿密に描いた部分があるかと思えば、途中で放棄したように塗り残している部分もあります。それが、いい加減、というのではなく、どの作品も作家の描く息使いをヴィヴィッドに感じさせるから、見ていてとても不思議な気分になります。
そんな作品が集まっているのに、会場全体を見渡してみると、意外なほどバラバラな印象がありません。なぜかと考えてみると、ひとつにはやわらかな色使いが、どの作品にも共通しているということがあります。また、大づかみに画面を構成する意識が希薄で、絵の奥行きも比較的あさいところで仕事をしていることも共通していると思います。
あえて分析すればそういうことなのですが、要するに無垢な子供が目前の紙をお気に入りの素材で夢中で塗りつぶしていくような、そんな画面の触り方が共通しているのです。ただし、子供であっても何枚か絵を描けばマンネリ化するし、しまいには飽きてしまうことでしょう。そうならないためには、どうすればよいのでしょうか?さとう陽子の作品を見ると、絵を描く上で実感するそんな根本的な問題に、作家が真摯に向き合っていることを感じます。


もうひとつ、画廊の展覧会を見ました。gallery21yo-jで開催している『橘田尚之展』です。
(http://gallery21yo-j.com/)
橘田さんの作品については、今年の2月24日の日付けで、そのころ檜画廊で開催していた個展について、このブログでもコメントしました。基本的な作品の構造は変わっていないので、私の文章も、そのコメントの延長として読んでいただけるとありがたいです。だいぶ前のことになるので、ここに転記しておきます。

今回は橘田尚之の、立体作品と平面作品の両方を見ることができます。いずれも有機的な曲線を用いた形が印象的で、それが作品の外側へとリズミカルに広がっていくような、生き生きとした作品になっています。
私は橘田作品を見ると、マチス(Henri Matisse, 1869 - 1954)の晩年の切り紙作品を見るような、楽しい気分になります。特に立体作品におけるアルミ板の表面の使い方や、紡錘形の構造が支え合って大きな立体を形成しているところなど、オリジナリティも抜群で、海外でもこのような作品は見られないのではないか、と思います。
個人的にも、平面がそのまま立体になっているような、その作品の成り立ちに興味があります。立体作品の表面を強調した作品は数多くありますが、薄っぺらなアルミ板がこのようなボリューム感と軽やかさを表現してしまうところなど、おおげさでなく驚異的です。とても独創的で、何度見ても不思議な感じがします。作品の形状と表面に描かれた色や線が相乗してその効果を生んでいるのだと思いますが、視線が空間を浮遊するような感触は橘田尚之にしか表現できないものだと思います。もしもご覧になっていなければ、ぜひ見ていただくとよいと思います。
日本を代表するような現代美術作家だと思うので、いつか大きな美術館での個展とか、これまでの作品やテキストをまとめた画集などが出ることを期待しています。
(2月24日)

今回は天井が高く、開放感のある会場で、展覧会の中心になる立体作品の上昇感も、より強まった感じがします。作家の話によると、いままでで一番大きな作品だということでしたが、とくに上部の構成物に広がりがあるように思います。上が重たくなると、作品の重圧感が増してくるのが普通なのでしょうが、橘田作品の場合は上に伸びる力が倍増しているところが不思議です。
このオリジナリティと高いテクニックは、やはりどれだけ高く評価されても過ぎることはないと思うのですが、いかがでしょうか。
会場には、大小含めて数点の平面作品も展示されていましたが、こちらも個性的でユニークです。アルミ板のコラージュの部分と、独特の絵具(?)で描いた部分が呼応して、画面のなかを視線がまわる感じがするのですが、そのためには何も描かれていない空白の部分も重要なのだ、ということに気がつきます。振り返って立体作品を見てみると、作品のなかの空洞の部分や、周囲の空間までも作品がとりこんでいることを、あらためて実感します。作品に近づいて、その面の移り変わりに視線を委ねることも楽しいのですが、少し離れてみて、作品の周囲の空間まで視野に入れてみると、また別の楽しみ方ができます。


二つの個展とも、会期が長いのに終了間近での記載となってしまいました。充実した展覧会だったので、もう少し早く書ければよかったですね。次はもう少し努力します。

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