平らな深み、緩やかな時間

369.宮下圭介展の紹介、ラプソディー・イン・ブルー100周年、他・・

今回はいくつかのお知らせをして、次回につなげたいと思います。

 

はじめに展覧会のお知らせです。

宮下 圭介 展 「面位」という展覧会が、2024年 2月28日(水)〜3月10日(日)の期日で開催されています。会場は、台東区 (Japan・東京都)上野桜木2-15-1の「Sakuragi Fine Arts (櫻木画廊)」です。

https://www.facebook.com/SakuragiFineArts/?locale=ja_JP

 

この展覧会については、次回くわしく触れたいと思いますが、とり急ぎ開催情報だけお知らせしておきます。ぜひ展示をご覧になった上で、この次の私のblogをお読みいただければ・・、と思います。

もしも宮下さんの作品のこれまでの流れをお知りになりたい方は、よかったら私が宮下さんの作品集のために書いたテクストをお読みください。私の文章はともかく、宮下さんのこれまでの営みは、とても勉強になります。

http://ishimura.html.xdomain.jp/text/2013-8宮下圭介・透視する眼差し.pdf

 

芸術表現ですから、当然、作品の好き、嫌いはあると思いますが、そういう好みを超えて、宮下さんが絵画表現に対してアプローチしていることが、絵を描く人、絵を鑑賞することが好きな人にとって、とても参考になるはずです。



それから、昨日(3月2日 土曜日)の夜に、テレビで立て続けに2本の興味深い番組が放映されました。こちらも見逃し配信や再放送の予定があるので、とり急ぎ情報をお知らせしておきます。

 

『戦火の放送局II〜ウクライナ うつりゆく“正義”』

初回放送日: 2024年3月2日  見逃し配信 3月9日(土)午後10:50まで

再放送(NHK  G) 3月7日(木) 午前0:00 〜 午前1:00

「私たちは戦火を生きてきた。以前の自分はもういない」(アナスタシヤ・オブラズツォヴァ記者)-ロシア軍の侵攻直後から私たちが取材を続けてきたウクライナ公共放送ススピーリネ。あれから2年、記者たちが置かれた状況は様変わりしていた。ある者は現場に立てなくなり、ある者はペンを折り軍の任務に就いていた。彼らはどんな現実に直面し、何を考えてきたのか。記者たちの葛藤と選択からウクライナの“現在”を見つめる。

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/2ZL26J29XV/



『膨張と忘却 〜理の人が見た原子力政策〜』

初回放送日: 2024年3月2日(土) 見逃し配信 3月9日(土)午後11:59まで

再放送(NHK  E TV) 3月6日(水) 午前0:35 〜 午前1:25

長年国の原子力政策に関わった研究者・吉岡斉氏が残した数万点の未公開資料「吉岡文書」が見つかった。科学技術史が専門の吉岡氏は1990年代から国の審議会の委員などを務めた。「熟議」や「利害を超えて議論を尽くすこと」を求め続けた吉岡氏はそこで何を見たのか。「吉岡文書」に加えて今回独自に入手した内部文書や関係者の証言などをもとに国の政策決定の舞台裏に迫る。

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/VGXW8QJVNX/



私は政治や歴史について語るべき何物も持ち合わせていないのですが、今回のこれらの番組は、困難な現実に向き合った人たちのドキュメンタリーとして、とても興味深く視聴しました。

例えば『戦火の放送局II〜ウクライナ うつりゆく“正義”』ですが、私は『戦火の放送局Ⅰ』にあたる番組を過去に見ていました。アナスタシアさんという記者が、自分の危険をかえりみずに現場に赴く姿に感動を覚えましたが、その反面、この方のメンタルは大丈夫だろうか、と心配になったことを思い出します。戦争が長期化する中で、やはり残酷な現実がウクライナの報道に関わる人たちに影響を与えていました。また、報道したことが戦局に影響を与えてしまう、というディレンマとも彼らは向き合っています。開戦直後の明白であったはずの「正義」が、今ではとても複雑な陰影をはらんでいるのです。

もう一本の『膨張と忘却 〜理の人が見た原子力政策〜』は、原子力政策に関わった一人の科学者が残した膨大な文書に関わる番組です。こちらも自分にとっての「理」、これは一般的には「正義」と言い換えても良いと思うのですが、その信念に沿って生きた人が、福島の原発事故をきっかけとして、自分の力の至らなさと向き合い、市民運動などにも積極的に参加するようになった経緯を描いています。そして彼が残した原子力政策に関わる記録と番組スタッフが発見した資料は、政府が原子力の危険性を隠蔽し、原子力開発へと邁進したことを示しています。その政策会議に関わった人の中には、番組が発掘した資料を見て、そういった事情を知らされずに自分が利用されたのではないか、と悔やんでいる方もいました。そして余計なことですが、現在話題になっている「衆議院政治倫理審査会」に関するニュースを見た後でこの番組を見ると、吉岡さんという科学者の100分の1くらいの正義感、責任感が現在の政治家にあれば、という無い物ねだりをしてしまいます。

 

そして現在の私たちは、インターネット上の膨大な情報を短い言葉で感覚的に受け止めることに慣れてしまっています。そこには、たとえ「正義」だと思われることであっても、単純化されてしまう危険性を大いにはらんでいるのです。厳しい現実から目を背けない人ほど、その複雑な困難に苦しむのだ、と2本の番組を見ていて感じました。

それにしても、彼らの苦悩は見ていても辛いです。でも、彼らの思いを共有するには、それは避けて通れないことなのです。一緒に重荷を背負いながら、いつか戦争が終わったときに彼らの営みや判断を軽々しく論じたり、批判したりしないようにしたいものです。



次に気分を変えて、ちょっと楽しい音楽の話題です。

アメリカの作曲家、ジョージ・ガーシュイン(George Gershwin、1898 - 1937)さんの代表作『ラプソディー・イン・ブルー(Rhapsody in Blue)』が発表されて、今年で100周年になるそうです。

若い方々には、この曲はクラシック音楽をテーマにした上野樹里さん主演のドラマ『のだめカンタービレ』(2006)のエンディング曲としてお馴染みかもしれません。私も子供たちと一緒に、家族で見ていました。

 

『のだめカンタービレ』エンディング・シーン

https://youtu.be/ppasyYlG8Dk?si=Ri_zpdkdPMXXJeQc

 

ガーシュインさんは、まだレコードが普及する前の時代にティン・パン・アレーという楽譜を売っていた街角で、客に楽譜の曲を試演する仕事をしていたそうです。その後、兄と組んでジャズのスタンダード曲となるようなヒット曲を連発し、やがてクラシックの曲にも取り組むようになりました。

『ラプソディー・イン・ブルー』はそうした活動の中で生まれた名曲でした。今では音楽が街に溢れていますが、若手の音楽家の実演があちらこちらから聞こえてくる街角というのは郷愁を誘う情景です。「ティン・パン・アレー」というのは、アメリカの人たちにとっては音楽の故郷のようなものなのでしょう。そしてガーシュインさんの曲、とりわけ『ラプソディー・イン・ブルー』はアメリカという新しい国が、ヨーロッパと肩を並べる楽曲を生み出した記念碑的な作品でもあると思います。

そんな名曲なので、私はこの曲のレコード(LP)を持っていましたが、それはアメリカの指揮者、作曲家、ピアニストでもあったレナード・バーンスタイン (Leonard Bernstein、1918 - 1990)さんが指揮し、演奏したものでした。『ウェスト・サイド物語』の作曲者でもあるバーンスタインさんは、この曲を表現するのにもっともふさわしい音楽家なのかもしれません。ネット上でも、次の動画が上位に登場します。

 

バーンスタインさんの1976年ライブ

https://youtu.be/SSKBNiAdlgg?si=4Cm9OyuSApTSpyOK

 

ところで、ガーシュインさんは、この曲を作曲した時にはオーケストレーションに自信がなかったそうです。ですから、この曲はそもそもガーシュインさん自身のピアノと小編成のバンドの曲だったということです。オーケストレーションを施したのは他の方でしたが、素晴らしい編曲だと思います。

ただ、そういう事情からでしょうか、ピアノ演奏でも素晴らしいものがたくさんあります。ここでは、皆さんにとってお馴染みのピアニストの演奏をリンクしておきます。

 

辻伸之さんのピアノ・ソロ

https://youtu.be/CWTEy9YL-JQ?si=CDEVTt-OlmWYqFMH

 

さて、私はなぜ今年がこの曲の100周年だということを知ったのかというと、ピーター・バラカンさんのラジオ番組を聞いていたからでした。ピーターさんの番組で、バンジョー奏者のベラ・フレック(Béla Anton Leoš Fleck, 1958 - )さんが、『ラプソディー・イン・ブルー』の100周年を記念した新作を発表したということで、次の曲をラジオで流したのです。

 

ベラ・フレックさんの『ラプソディー・イン・ブルー(グラス)』

https://youtu.be/8DHPxRZFWQE?si=qo4SbpKWD1lIOfiN

 

最後が「ブルーグラス」となっているところがダジャレですね。YouTubeでは、ブルーグラス・バンドによるライブの動画もあるようです。ジャズもブルーグラスもアメリカの伝統的な音楽ですので、この曲のブルーグラス版というのは面白い試みだと思います。

また、ベラ・フレックさんのソロの動画も、手の動きが見られて楽しいです。超絶技巧なのに、表情は余裕ですね。

 

ベラ・フレックさんのバンジョー・ソロ

https://youtu.be/Rqov0NRxmQU?si=4K2RFPuLo_vGKUad

 

ところで、若い方にとっての『ラプソディー・イン・ブルー』の映像での体験は『のだめカンタービレ』なのかもしれませんが、私の場合はウディ・アレン(Woody Allen、1935 - )さんが監督、脚本、主演した『マンハッタン(Manhattan)』(1979)という映画のオープニング映像です。

 

『マンハッタン』のみごとなオープニング

https://youtu.be/uyaj2P-dSi8?si=GhMlE3VQL1jP8c6y

 

この当時のアレンさんは『アニー・ホール』、『インテリア』という話題作を立て続けてに発表して、飛ぶ鳥を落とす勢いの才人でした。『マンハッタン』では演技派の俳優が多数共演していますし、あえてモノクロで作った映像もみごとでした。映画をご存知ない方は、次のリンクをご覧ください。

 

『マンハッタン』映画の紹介

https://youtu.be/J5c93q3gU3w?si=qdAIoe9I_HYNVbBx

 

映画紹介を見ただけでも、出演している人たちの輝きがわかると思います。

ただし、ここでこの映画について嬉々として語れない事情があります。それはアレンさんには養女に対する性的虐待の疑惑があるからです。

https://gingerweb.jp/timeless/living/hobby/20210615-book_interview

そのことを本にした著者のインタビューが、上のリンクからご覧いただけますが、その当時のアレンさんとパートナーだったミア・ファローさんの家庭環境は、次々と養子を迎え入れるなど、相当複雑だったようで、私のような平凡な人間にはちょっと想像できません。

それにしても、『マンハッタン』の映像が名曲『ラプソディー・イン・ブルー』と私の頭の中ではかなり強くリンクしているので、こういう事件は本当に困ります。この本の著者は、軽々しくアレンさんを断罪するのではなく、疑惑の多い事件を客観的に記録しようと努めているようです。私はこの本を読んでいませんが、現代は、このような複雑な現実を受けとめなくてはならない時代なのでしょう。性犯罪やハラスメント、女性蔑視、人種差別など、あらゆる分野で偏ったまま発展してきた社会の問題が、いま噴出しています。その問題の根は深くて、まだまだ解消しそうもありません。当分の間、私たちはやるせない思いを抱えながら生きていく他ないようです。

 

『ラプソディー・イン・ブルー』の初演から100年が経ち、私たちは天才的なバンジョー奏者による思わぬ音楽表現に出会うことができました。そしてこの曲と映像との楽しい出会いもありましたが、そこに「虐待」という恐ろしい現実が混入している、という疑惑も体験しなくてはなりませんでした。この話題のはじめに、「ちょっと楽しい話題」だと書いたのは、そういうさまざまなことから100年という月日の長さにあらためて感じ入ってしまうという事情があったからです。本当だったら、「とても楽しい話題」のはずでした。ネガティブな話題の振り方でごめんなさい。音楽には罪はないです。



さて、こんなふうに世界には単純に割り切れないことがたくさんあります。

そして、世の中の出来事を単純化し、わかりやすく理解するということは、むしろ危険なことでもあるのです。そのことに関連して思い出したことがあります。

それは1990年代のことになりますが、「複雑系」という言葉が流行ったことです。この「複雑系」を辞書でひくと次のようになります。

 

<複雑系>

〘名〙 (complex system の訳語) 多くの要素が複雑に絡み合って成り立っているシステム。従来の要素還元の方法ではとらえられない経済・生命・地球環境などのシステムのこと。

 

一般的に私たちは、上の文章で言うところの「要素還元」主義的な方法でものごとを考えます。私は科学者ではないので、詳しいことは分かりませんが、例えば何かを科学的に実験するときに、なるべく条件を制限し、実験対象を明確にし、繰り返し検証ができるように環境を整えて実験を行います。そのようにして近代科学は発達し、その恩恵の中で暮らす私たちは、自然と何かを突き詰めて考えるときに「要素還元」主義的な方法を取るのです。

しかし、その方法で突き詰めても「経済・生命・地球環境などのシステム」は解き明かせない、ということがわかってきました。そこで「複雑」なものを複雑なままに考える「複雑系」という方法が、おそらく科学の分野から発せられ、それが思想や哲学にまで及んだのです。それがたぶん、1990年から2000年頃のことでした。私が就職して間もなく、その手の本が本屋さんで並んでいたような気がします。記憶が曖昧ですが、だいたいの時期は合っているでしょう。

しかし、複雑系の本は私のように理系の知識がまったくない人間からすると難し過ぎて、その一方で何でもかんでも「複雑系」という言葉で語ってしまうことができるので、いつの間にか世間的には「複雑系」という言葉が日常語の中に雲散霧消してしまったような気がします。

しかしこのところ、芸術にしろ、社会にしろ、政治にしろ、あらゆる分野での混迷している状況を見るにつけ、「複雑系」をちゃんと見直さなければならないのではないか、という気がしています。何よりも、私自身が「触角性」という概念を持ち出して、近代的な「要素還元主義」を見直しているところです。先日、私の個展を見に来てくださった作家の方とも、自然と「複雑」さについて話が及びました。

 

ということで、最後に次回の予告として、そのことに関連した二冊の本を紹介しておきたいと思います。次回は、宮下さんの制作方法と、それらの本を参考にした「複雑系」あるいは「複雑さ」という概念について考えてみたいと思います。ですので、よかったら皆さんもその本をのぞいてみてください。

一冊目は『「複雑系」入門 カオス、フラクタルから生命の謎まで』(金重明 著)という本です。

この本は「複雑系の科学はなぜ新しい科学なのかを、日本数学会出版賞を受賞した著者が、数式をほとんど使わず、文系の読者にも平易に読み進められるように書いたものです」というものです。「文系の読者にも平易」かどうか、これはちょっと怪しいですが、頑張って読み解いてみることにしましょう。

もう一冊はもっと一般的な本で、『「雑」の思想 : 世界の複雑さを愛するために』(高橋源一郎+辻信一 著)という本です。

これは「 “雑"なる対話から広がる魅力的な世界」とほんの宣伝で謳われている通り、作家、研究者の対話に、さらにゲストが加わって「雑」について語り合う、というものです。「複雑系」あるいは「雑」という概念が、私たちの生活にどのように結びついているのか、ということを考える上でのヒントになりそうなものです。

 

私たち芸術に関わる者は、なんとなく直感的に「要素還元主義」の行き詰まりを感じ取っています。そして私は、おそらくは宮下さんも、自分の作品が「要素還元主義」的なモダニズム絵画にならないように制作し、その一方で旧套的な絵画に後戻りしないように注意もしているのです。そこで私たちの手順は、ときに有機的に、ときに無機的になるのです。

そのようにして出来上がった作品は、この複雑で混迷した時代を映し出す鏡のようなものであるのかもしれませんし、あるいは私たちが向かうべき方向を照らす一筋の光になるのかもしれません。

誇大妄想のように聞こえますか?

でも、これが芸術の存在する意義なのだと私は思います。

 

それでは、次回もこのblogを読んでくださるようにお願いします。

そしてそれよりも、一人でも多くの方に宮下さんの個展に足を運んでいただきたいです。

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