先日のblogの友人から、フランスの文学誌『テル・ケル』のころの評論について、一言アドヴァイスをもらいました。この当時のフランスの芸術評論は、社会的なことと芸術を切り離して論じるような雰囲気ではなかったそうです。
考えてみると、「シュポール/シュルファス」の作家たちを見ても、絵画の脱構築を思想的なメッセージとして実践していると感じられるものから、ヴィアラ(Claude Viallat・1936 - )さんのように、土着的、民俗学的な探究をイメージさせるものまで、何かしら社会的なことと関わっていると感じます。
アメリカの美術が、グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)の主導によってフォーマリズム的な批評、つまり純粋に美術作品だけに目を向けようという批評が主流を占めていたことを思うと、そこには考え方の隔たりがあったのだろうと思います。もしかしたら、複雑な歴史を持つヨーロッパの美術界は、新興のアメリカ美術のピューリタニズム(清教徒的な潔癖主義)を、少し距離を置いて見ていたのかもしれません。
そして日本で暮らす私は、美術批評の現代的な発展といえば、いかに美術を純粋に見ることができるのか、ということの追求だと思っていました。だからフランスの芸術評論の考え方が、社会的な視点を絡めた批評だと言われても戸惑いを感じてしまいます。
そこで今回は、あえてマルスラン・プレネ(Marcelin Pleynet、1933 - )の難解な美術評論を読んでみて、その作品へのアプローチを追体験してみたいと思います。難しい文章のどこまで入り込むことができるのか、私の乏しい理解力では心もとないのですが、とにかくやってみましょう。
それでその試みは、いったいどこから始めたら良いのでしょうか。こういうときに頼りになるのが『絵画の教え』(プレネ著)を翻訳した岩崎力(いわさき つとむ、1931 - 2015)さんの解説です。岩崎さんは、「訳者あとがき」の中で次のように書いています。前回の引用部分と重複するところがありますが、ご容赦ください。
巻頭の一文(「主要矛盾・特定矛盾 絵画の模倣」)は本書を貫く視点を設定し、なぜその視点に立つかを説明しているという意味で、きわめて重要であるといわなければならない。ただ、これは、この種の語彙に不馴れな訳者自身の率直な感想でもあるのだが、従来の《芸術論》や《美術批評》ープレネの言葉をかりれば《全面的にイデオロギーに身をゆだねた敬虔主義的実践》ーを読み馴れた読者は、あまりにも難解・晦渋に感じ、奇異の念さえ抱くかもしれない。叙述が抽象的であるだけに、なおのことそうであろうかと思われる。しかし、訳者の老婆心から一言付け加えさせて頂けば、「マチスの体系」をはじめとする四篇の具体的な主論文を先に読んでいただければ、巻頭論文の抽象的表現が、具体的に理解できるのではないかと思う。識者の憫笑を買うおそれを冒してこのようなことを述べるのは、《絵画》という特定矛盾は西欧社会に限らずわが国にも存在しており、普遍的なプレネのこれらの分析と論考は、日本の心ある読者によって広く読まれ、考察されるに十分価すると信じるからである。
(『絵画の教え』「訳者あとがき」岩崎力)
この「マチスの体系」をはじめとする四篇の具体的な主論文というのは、「マチスの体系」、「モンドリアン・25年後」、「バウハウスとその教訓」、「ロシヤの前衛」の四篇の論文のことでしょう。ここではフランスの現代絵画の直接の祖でもあるアンリ・マチス( Henri Matisse, 1869 - 1954)に焦点を当ててみましょう。
「マチスの体系」という論文の最初の章は「Ⅰ 教訓的順路」というタイトルが付いていて、さらにその最初の部分には、「近い過去としての印象主義」という小見出しがついています。そして読み始めた数ページは、具体的にマチスについて語るものではなく、既成の美術史に対するプレネの考え方が綴られていました。それは、私たちがいかに固定的な美術史の概念にとらわれてしまっているのか、いかに美術史上のさまざまな出来事を視覚的な美術批評の解釈で、通時的に構成してしまっているのか、という話で、プレネはそのことを繰り返し訴えています。例えば次のような文章ですが、プレネの文章は難解であるだけでなく、いささかくどいです。
印象主義が近代絵画にたいしてあたえた最初の躍動を明らかにすること、それは、われわれが即座に近代主義的性急さに投げ込まれてしまう限りにおいて、あるいはまた、あるひとつの複雑な総体に備わる有機的統一性をひとつの様式に還元してしまう限りにおいて、すべてを言いつくすことになると同時に、ほとんどなにも言わないにひとしい。そこで次々にさまざまな疑問が湧いてくる。まず第一に出てくる問題は、印象主義を人がどう理解するかを知ることである。人はそれをただ《描き方》(技法)としてのみとらえるべきであろうか、それとも、文化的変化、イデオロギーの変化の結果として受けとめるべきであろうか?おそらくその二つは相互に不可欠なのであろう。しかし、その変化をひとつの技法に還元することは、はたして、イデオロギーの変化の特性を尊重することになるであろうか?印象主義者たち、なかんづくマネは、この種の還元から当然予想される混乱を流布させることを控えはしなかった。1867年の個展への序のなかで、マネはこう書いているー「ひとつの抗議に似た性格を作品に付与するのは誠実さの結果である。しかし画家は自分の《印象》を表現することしか考えなかったのだ」(このような言説のなかで《印象》という言葉がどんな役割を果たすかはごらんの通りである!)印象主義やキュビズムなど、近代芸術のあれらの運動が、もともとは、それらの区別を可能にした名前にたいする嘲りによって名付けられたものであることを確認するのは、たしかに興味のないことではない。言うまでもなく、このような事実のうえになにかを築こうとしたところで、実のあるものができる気づかいはない。もっともその裏に想像されるイデオロギーの逆行現象を無視するのは、あきらかに遺憾なことではあるが。とどのつまり私がこのようなことを述べるのは、《印象主義》といった用語を私が用いざるをえないのであること、そらにそれらによって演じられる理論的回避の役割をこえて、私がそれらの言葉を用いることによって明らかにしたいと思っているものをはっきりとさせるためである。
(『絵画の教え』「マチスの体系」プレネ著 岩崎力訳)
長い引用で申し訳ないのですが、ただでさえ文意が読み取りにくいので、途中で切ることができませんでした。私なりの解釈を試みてみましょう。
私たちは「印象主義」という言葉から、すぐに点描法によって光を表現した絵画を思い出してしまいます。そしてそれこそが「印象主義」絵画であって、そのあとの時代には、もっと形体表現を強調した「キュビズム」があらわれるのです。その「点描法による曖昧な表現」から「単純化された力強い形体表現」という流れは否定しがたいものであって、私たちは「印象主義」という言葉を発した瞬間から、そのような美術史的なイデオロギーに囚われてしまうのです。その美術史的な考え方の背景には、「あるひとつの複雑な総体に備わる有機的統一性をひとつの様式に還元してしまう」という「還元」主義の弊害があるのだ、とプレネさんは言っているのでしょう。
この「還元」という言葉は、近代主義を考えるときの大きなキーワードです。複雑で語りにくいものを、「還元」することによって考え方をまとめてしまうのです。そしてさらには、異なるもの同士の中から似た傾向の事象を見出して「還元」してみせることで、それらに関係性を付与して、まことしやかに時間的なつながりを紡ぎ出してしまうのです。
そうすることによって、私たちはいちいち細かなことで立ち止まることなく、高速度でいろいろなものを動かしてきました。それは近代社会の発展を支えるものであり、美術の世界においても美術史を動かす原動力となったのです。
しかし、いまになって近代主義にはいろいろな矛盾が生じてきました。どうやら私たちは、あまりにも物事を単純化しすぎて、地球環境さえも大きく変えてしまったのです。私たちはそのことに気が付かなかったのか、あるいはそのことを省みることがなかったのです。これは小手先の問題ではなくて、私たちを突き動かしてきたイデオロギーの問題です。だから科学的な分野であれ、人文的な分野であれ、芸術的な分野であれ、そのあまりに行きすぎた既成のイデオロギーを克服して、新たな世界観を構築する必要があります。それは一方で、穏やかな世界を取り戻すということでもあるのかもしれません。
私はプレネさんがこの著作の中で度々見せる苛立ちや悪舌の文章表現を、そのような気持ちの表れだと読み解きます。そしてそういう点において、私はプレネさんに強いシンパシーを感じてしまうのです。しかし、ここに大きな問題があります。それはプレネさんが、自分自身で感じている苛立ちに対して、なにか解答らしきものを見出し得たのか、ということです。この文章にそくして具体的にいえば、美術史の「還元」主義的なイデオロギーを克服して、どのような批評原理で美術を語ることができるのか、ということです。
プレネさんはそのことを語ろうとして、その素材としてマチスをはじめに選んだのです。それでは、プレネさんはどうしてマチスという画家を取り上げたのでしょうか?おそらく、その理由は次のようなものです。
筆者がわれわれの画家の伝記と修行時代の年々の重要性をあれほど長々と強調したのは、最初から、そしてこれから分析する必要のある理由によって、彼の実際体験の企画領域が非常に複雑であることがわかったからである。すでに見たように、マチスはその複雑さを決して還元しようとはせず、むしろそれをひとつの非合理的体系として確立しようと努力する。彼が近代絵画のさまざまな流派や運動を通りぬけた過程に、それはとりわけ明瞭に感じ取れる。
(『絵画の教え』「マチスの体系」プレネ著 岩崎力訳)
この文章を読むと、私はこれとはまったく逆のマチスの評価をした本を思い出します。それは宇佐美圭司さんの『絵画論』です。そのなかで宇佐見さんは、マチスが還元主義的な作品に至ったときに、マチスはそこから引き返してしまったのだ、と解釈します。なぜなら、それ以上還元主義的になってしまうと、マチスという作家が消えてしまうからだ、というのです。
このときに宇佐美さんが事例として挙げていたのは、マチスの作品の中でも最もシンプルな作品の一つである「形」という切り絵です。宇佐美さんは、あまりに作品がシンプルになってしまうと、巨匠であるマチスの作成した切り絵と、素人が切りとった色紙との差異がなくなってしまう、だからマチスはそれ以上シンプルな切り絵作品を作らなかったのだ、というのが宇佐美さんの見方です。
読者もマチスが「形」で試みたように自分自身で作ってみられるとよい。一枚の白い画用紙と少しニュアンスのちがうブルーの二枚の色紙ですべての材料は整う。技法はちぎってはりつけるだけであり、誰もそれほど上手へたがあるわけではない。もちろんマチスほど上手くないかもしれぬ。しかしあなたはそこに自分自身の一つの表現を作ることができるだろう。そしてそれがなぜマチスよりまずいのだろうか。それはたんに思いすごしであるかもしれないではないか。もし自分のちぎった色紙が気に入らなければ、あるパートを子供にちぎってもらって交換してもよい。
同一の条件から発生した十点の作品を持ちよるとき、そこに何が見えるか。マチスが消えるのである。各個人にとっての好みの順列はあるだろう。しかし十点の作品は一系列のバリエーションであり、おたがいの間に価値にヒエラルキーは存在しない。相互交換できるほど表現が均質に近づいているともいえるのである。マチスの「緑のすじのある肖像」は誰にもまねできない芸当である。しかし表面性の強調=抽象化を推進したマチスの表現が、もっとも単純な「形」に還元されたとき、マチスの絵は、マチスという特殊な個性からはなれ、無名な状態、いわば材質の状態に近づいたということができよう。「形」はその中に「ダンス」や「室内」を描き込むいちばんはじめの下塗りのキャンバスに近いのである。もちろん彼にこのような作品が多いわけではない。マチスが消えてしまうような作品を作り続けるわけにはいかぬだろう。それは近代絵画の巨匠にふさわしくない。
(『絵画論』「マチスの悪夢」宇佐見圭司)
プレネさんの文章と読み比べると、なんとわかりやすくて明解な文章でしょう。
それはともかく、この宇佐美さんの解釈には、実はちょっと強引な絵の見方が潜んでいます。それはマチスの芸術の極点として、シンプルな切り絵を選んでいる点です。マチスには、シンプルな作品から複雑な作品、ゴージャスな作品までいろいろとありますが、その中で彼の切り絵作品の、その中でも一つのフォルムを表現した作品を選ぶというのは、「形」こそ近代の還元主義の極点だと宇佐美さんは解釈したのです。これはプレネさんに言わせれば、近代主義のイデオロギー的解釈そのものでしょう。
このような宇佐美さんのような還元主義的な解釈は、説得力がありますし、批判するのが難しいのです。しかし今では、これも一つのイデオロギーであるとわかります。そしてプレネさんの「マチスはその複雑さを決して還元しようとはせず、むしろそれをひとつの非合理的体系として確立しようと努力する」という解釈に、納得できるのです。
さらに読み進めてみましょう。
事実、すでに見たように、マチスは盲目的に、なんの見境もなく近代性に賭けるような画家ではなく、マチスの実践が変化を見せるたびごとに(その変化の徹底性についてはもはや立証の必要はない)、画家がその実践を絵画の歴史の古今の顕示と対決させたのは事実としても、多くの面で積極的であったこの検証の動きも、他の面では曖昧さを残していたと言わなければならない。言うまでもなくこの検証の動きは、量的変化から質的変化への転換の法則が弁証的構造の中で占める決定底な役割を明らかにする。しかしわれわれはここでまたしても、科学的準拠と主観的効果を隔てる距離(後者は彼に、それを制御しえないまま、その距離を考えることを許す)のなかに入り込んだ曖昧さを考慮せざるをえない。したがって、マチスにあって彼の実践を、ほとんど全世界的といってよい絵画の歴史にたえずかかわりあわせようとする執拗さは、性格的な次元の問題でもあると言うことができよう。
(『絵画の教え』「マチスの体系」プレネ著 岩崎力訳)
うーん、ここまでくると、ものは言いようという気もします。マチスという画家は作品にムラがあって、晩年のアカデミックな作品を見ると、年相応に気持ちが弱るときもあったのかな、と私は思ってしまいます。その一方で、線を数本引いただけの木炭デッサンのなかに、これはすごいなあ、と感嘆させるものもあります。もしもプレネさんの言葉の「絵画の歴史の古今の顕示と対決させた」とか、「ほとんど全世界的といってよい絵画の歴史にたえずかかわりあわせようとする執拗さ」という評価のなかに、保守的なタブローが含まれるのなら、マチスが「盲目的に、なんの見境もなく近代性に賭けるような画家」ではないことを強調するために、マチスを全肯定的に見過ぎてしまったのではないか、と懸念されます。皆さんはどのようにお感じになるでしょうか?
最後にもう一つだけ、気になることを書いておきます。
プレネさんの『絵画の教え』にしろ、「シュポール/シュルファス」の運動にしろ、美術の現状への「異議申し立て」という意味では、とても大きな役割を果たしましたし、興味深い仕事でもあります。しかし美術のその後のこと、絵画のその後の動向を考えるときに、「異議申し立て」の後に何が残ったのか、と考えると複雑な思いになります。
例えばマチスを離れて、前回も紹介した東京都現代美術館の『シュポール/シュルファスの時代』展のカタログから、プレネさんが「シュポール/シュルファス」の作家の一人、マルク・ドゥヴァドの作品について語った部分を読んでみましょう。
- マルスラン・プレネ
ドゥヴァドにはふたつの時代がありました。ひとつ目はノーランドの影響が明白に見られる時期、つまりアメリカのフォーマリズムから得た経験と、(その後パンスマンがそうであったように)ビショップの作品、そして何より中国の芸術への関心ー中国への関心は政治や文学にとどまりませんでしたーとがぶつかりあった時期です。それに彼は身体上の特殊な事情もありました。たいへん身体が弱くて、その結果としてかなり風変わりな作品を作っていたんです。第一の時期は、完全にノーランドの影響下にありましたが、彼はノーランドがたいへんな大画家であることをよく知りませんでした。ドゥヴァドは独学のアーティストで、後になってから絵画をはじめたんです。しかしこの時期にも彼の作品には優れた感性や知性が見られます。わたしが思うに、シュポール/シュルファスの他のどのアーティストも、彼の仕事の特殊さがわからなかったのでしょう。皆彼の言うことに耳を傾けましたが、それは、言葉のもっとも厳密な意味において、実存的な経験が決定的な役割を果たしている作品でした。他のアーティストたちの作品ではそれがこれほどまでに強烈だったことはありません。たぶんドゥズースを除くならば。
(『シュポール/シュルファスの時代』東京都現代美術館カタログより)
ドゥヴァドとドゥズースと、私が見た限りでは、その後の絵画の展開につながるような作品には見えません。彼らの成し遂げた仕事の意義は認めますが、それはやはり「異議申し立て」としての意味が大きく、その後につながる作品というわけではないような気がするのです。彼らの作品を見る機会が豊富にあったわけではないので、確定的なことを言うわけにはいきません。個人的な感想です。
しかし、プレネさんの投げかけた問題である既成の美術史にとらわれない絵の見方、近代の還元主義を相対化して見るという批評のあり方は、とても参考になります。その見方を、次の時代の絵画へとつなげていくのは、私たちの役割ということになるのでしょうか。いつも思うことですが、全てを先達に求めてはいけません。先達が全てを成し遂げているように感じたなら、きっとそれはあまり意味のない仕事です。私たちはここから、自分たちの力で歩んで行かなくてはならないのです。
さて、難解な『絵画の教え』を二回にわたって読み解いてみました。前回も書いたように、もう少し理解が深まったなら、あるいは今回のように何かの示唆をもらえたのなら、またチャレンジしてみたいと思います。