平らな深み、緩やかな時間

250.私の好きな画家ゴーキー、そしてゴダール追悼

フランスの映画監督、ゴダール (Jean-Luc Godard, 1930 - 2022)さんが亡くなりました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220913/k10013816591000.html

91歳ということですので、老衰かご病気かと思っていたら、スイスで「自殺幇助」を受けて亡くなった、という記事です。

ゴダールさんと言えば、革新的な映画制作と過激な言動で、絶えず映画界の話題の中心にいた人ですが、結果的に亡くなる時まで私たちに問題提起をし続けました。「自殺幇助」によって死を選んだということですから、「ご冥福をお祈りします」などという月並みな言葉を受け入れるつもりもなかったのかもしれません。

商業映画に背を向けて、革新的な映画を作り続けたゴダールさんのことをかっこいいと思いつつも、私は就職してから映画を見なくなってしまったので、ここで彼について何かを書くほどのものを持ち合わせていません。

でも、学生時代に見た『勝手にしやがれ』は良かったです。私が子供の頃のフランス映画の大スターといえば、アラン・ドロン(Alain Delon, 1935 -  )さん、ジャン=ポール・ベルモンド(Jean-Paul Belmondo、1933 - 2021)さんでしたが、ハンサムなドロンさんに比べて、ちょっとくせのある顔のベルモントさんが「なんでドロンと並ぶ大スターなんだろう?」と長らく疑問に思っていました。二人が共演した『ボルサリーノ』というギャング映画も見ましたが、子供の私にはやっぱり謎が解けませんでした。それが『勝手にしやがれ』を見て、ベルモントさんの抜群のかっこよさがわかりました。若い方でご覧になっていない方は、是非とも見てください。私の記憶では、評価の高い『気狂いピエロ』よりわかりやすいと思います。(朧げな記憶で書いています、そうでもなかったらごめんなさい。)

https://youtu.be/Mn-mT8g9PEE

なお、この映画の原題は「À bout de souffle」で、これは日本語に訳すと「息せき切って」という意味だそうです。日本題の方が絶対にピッタリはまっていますね。映画のようにいろいろな人が関わる芸術表現だと、偶然にいろいろなことが起こるものです。

 

さて、今回はアメリカ抽象表現主義の画家で私の大好きなアーシル・ゴーキー(Arshile Gorky, 本名ヴォスダニック・マヌーク・アドヤン、1904 - 1948)さんについて書いてみます。私が若い頃(1982年!)に、ゴーキーさんのドラマチックな人生も加味されて話題になり、デパート(PARCO?)で展覧会が開催されたり、本が出版されたりしました。その十年後ぐらいに、ゴーキーさんの実話をもとにした映画が制作されましたが、残念ながら、私は見ていません。

しかし抽象表現主義の時代も遠ざかっていく中で、2012年の「生誕100年 ジャクソン・ポロック」展が東京国立近代美術館で開催されて以降、あの時代のアメリカの画家たちのことが取り上げられることも少なくなったような気がします。とくにゴーキーさんは40代半ばで亡くなったこと、不幸な事故で残された作品が少なかったこと、そしてもうひとつ、後から考察する理由などによって、その作品の素晴らしさに比べて注目度が低いように思われます。

同時代の画家では、日本に収蔵作品があるかどうか、ということも関係していると思いますが、先ほどのジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)さんのほか、ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)さん、マーク・ロスコ(Mark Rothko, 1903 - 1970)さん、モーリス・ルイス(Morris Louis Bernstein、1912 - 1962)さん、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler, 1928 - 2011)さんなどの作品を見る機会ならばそれなりにありましたし、彼らの話題を聞く機会もありました。しかし、これらの画家の中で誰が一番絵が上手いのか、と聞かれれば、私はゴーキーさんがもっとも絵が上手い画家だった、と答えます。それなのに、彼の作品を見る機会が少ないのが残念です。

 

それでは、そのゴーキーさんの作品を見てみましょう。

 

http://www.artnet.com/artists/arshile-gorky/

 

https://www.wikiart.org/en/arshile-gorky

 

ざっと見ていただいて、抽象的な不定形の形が描かれているものが、晩年の作品です。彼はそういう作品を制作するようになる前に、印象派風の作品、とくにセザンヌ風の作品で素晴らしい絵を描いています。その後キュビスム風の作品、シュルレアリスム風の作品というふうに作風が変わっていきました。シュルレアリスム風の作品、と言ってもわかりにくいかもしれませんが、ミロ(Joan Miró 、 1893 - 1983)を彷彿とさせる作品だと言えば、その影響関係がわかるでしょう。そして、私が見たゴーキーさんの展覧会では、アルメニアの古い木製農機具が展示されていました。その形が、彼の後期の絵に出てくるフォルムと似ているのです。ゴーキーさんの独自の有機的な形は、彼の出身であるアルメニアの風物と関わりがあるようです。

だいたいの作品の変遷はこんなところです。

 

それでは、彼の人生を少し追いかけてみます。先ほど書いたように、ゴーキーさんの人生はドラマチックです。

ゴーキーさんは1904年、アルメニアに生まれました。そして1915年のアルメニア人虐殺によって母親を失い、1920年にアメリカに渡りました。

彼がアルメニア大虐殺の生き残りだというところに、すでにドラマチックな人生をはらんでいることがわかるでしょう。この大虐殺の説明と、この時のゴーキーさんの家族に焦点を当てた『アララトの聖母』という映画について、関連のページをご紹介します。映画のポスターになっている母子の絵、もしくは写真がゴーキーさんと母親の絵、もしくは写真なのです。この絵は、初期の代表作と言えるものです。

 

http://www.nagasakips.com/archives/12846

 

https://eiga.com/movie/51981/

 

さて、ここからは美学者の谷川渥さんの著書『シュルレアリスムのアメリカ』という著書の「シュルレアリスムと抽象表現主義」という章から、ゴーキーさんについて論じている文章を引用しながら説明していきます。この本はアメリカのモダニズム美術が、とりわけそれを先導した評論家のクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)がどのように「シュルレアリスム」運動と対峙したのか、ということを書いた興味深い本です。私はとっくにこの本についての考察を書いたような気がしていたのですが、まだ書いていなかったようです。いずれじっくりと取り組むことにしましょう。

今回はその中からゴーキーさんに関する部分を読んでいくわけですが、ゴーキーさんの芸術が西欧の近代絵画から離脱していく過程で、シュルレアリスムからの影響を、とりわけロベルト・マッタ( Roberto Antonio Sebastián Matta Echaurren、1911 - 2002)というチリ出身の画家の影響を受けていたのです。ちなみにマッタさんの作品はこんな感じです。

 

http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/1029461038.html

 

私はマッタさんのファンではありませんが、ゴーキーさんへの影響関係からマッタさんが美術史上で果たした役割を学び、彼の絵画を見直した次第です。

それでは、ここまでの私の雑駁な説明を参考にしつつ、次の谷川さんの文章を読んでみてください。短い文章の中で、ゴーキーさんのことだけではなく、シュルレアリスム運動と美術の新興国であるアメリカとの関係、その葛藤が見えてくるはずです。

 

1904年にトルコ領アルメニアに生まれ、1919年に母親が餓死したあと、先にひとりでアメリカに逃れた父親を追うように妹とニューヨークに上陸したのが1920年。ゴーキー16歳のときである。当然のように父親とはしっくりいかず、工場で働きながら美術学校に学んだ。本名のヴォスダニック・マヌーク・アドイアンをアーシル・ゴーキーに改名したのが、奇しくもブルトンがパリで「シュルレアリスム宣言」を発表した1924年である。ゴーキーとはロシア語で「苦い」という意味だそうだが、ロシアの文豪マクシム・ゴーリキーを意識してのことらしい。アーシルとは、ロシア語でアキレスのことである。ゴーキーがアメリカの市民権を獲得したのは、ようやく1939年になってからだが、いずれにせよ彼が悲惨な過去を背負い、亡き母に象徴される故郷アルメニアへのノスタルジーに駆られながらも、アメリカという新天地でモダニズムの展開の一役を担うべく試行していたことはたしかである。ゴーキーがマッタから学んだことは否定しえない事実だが、しかしゴーキーがマッタに接近した1942年から43年には、マッタはいよいよデュシャン的様相を強めつつあったときで、両者が形象/非形象の素朴な二元論を超えた薄塗り的な筆使いによる独自の世界を即興的に現出させた点で類似しているにしても、その色彩、空間、ブルトン的にいえば「リズム」は、もはや明らかに別個のものであった。ブルトンは、そのゴーキー論のなかで、「オートマティスム」という言葉を使うことを控えているけれども、外面と内面、過去と現在、記憶と現実、意識と無意識、精神と肉体といった対立を超克するアナロジックなオートマティスムの可能性をそこに見ようとしたことは間違いあるまい。ブルトンはゴーキーをこそ「シュルレアリスムの画家」と呼び、そこに「完全に新しい芸術」の登場を見たのだった。

(『シュルレアリスムのアメリカ』「シュルレアリスムと抽象表現主義」谷川渥)

 

大変な人生を歩んできたゴーキーさんですが、彼の芸術がどのように成熟し、彼独自の表現へと到達したのか、上の文章では端折られているゴーキーさんの初期の表現について考えてみましょう。

ゴーキーさんの初期の作品で、私の見たことがある印象派風の作品は、どれも完成度の高いものです。とりわけセザンヌの作品への理解の深さは、驚くべきものがあります。同時代のセザンヌ風の作品を描いた多くの画家たちとは出来が違うのです。そしてキュビスム風の作品のクオリティーの高さも抜群でした。

アカデミックな絵画の力量で言えば、彼の盟友のデ・クーニングさんのデッサンも見事なものでした。しかし彼の場合には、後年の作品にどこかアカデミックな雰囲気を残していて、そのことがクーニングさんの表現の限界にもなっていたと思います。彼の女性をテーマにした作品群などを見ても、どれだけアヴァンギャルドな描写に見えても、女性像という西欧絵画の伝統を感じさせてしまうのです。それに比べてゴーキーさんの場合は、近代までの芸術を自分の中で血肉化して、その上で自分の表現を展開したように見えます。アカデミズムとの対し方が、クーニングさんとは異なるような気がします。

もう一人、アクション・ペインティングのポロックさんと比較してみます。ポロックさんも若い頃にキュビスムの影響を受けたと思われる作品を描いています。しかし、それらはポロックさんの独特の表現になっていて、それなりに面白いのですがキュビスムから何かを学んだというよりは、刺激を受けたと言ったほうがよさそうです。彼の場合はどうやってもポロック風になってしまうので、絵の巧拙よりも個性が圧倒していると言えます。これはゴーキーさんのように、影響を受けた作品を自分の中に取り込んでしまう、という技術的なやり方とは全く別なものです。それだけゴーキーさんは、器用な人であったとも言えるでしょう。

そのゴーキーさんが自分独自の表現へと至る過程で、シュルレアリスムのオートマティズムの方法論が役に立ったことは間違いありません。そのことについて述べたのが、上の谷川さんの文章になるのです。

そして谷川さんが考察していたマッタさんの絵画との比較ですが、私にはマッタさんの描いた空間と、ゴーキーさんのそれとでは明らかに違って見えます。ゴーキーさんの絵画には、絵画の平面性を深く理解した上での画面の抵抗感のようなものがあるのですが、マッタさんの絵画にはそれがありません。マッタさんの絵画は、どこまでも吸い込まれていくような、ある意味ではオーソドックスなイリュージョンの空間が設定されているのです。マッタさんは年齢的にはアメリカ抽象表現主義の画家たちと同世代ですが、彼は抽象表現主義以前の絵画空間の中で制作していたと言えます。そこが私がマッタさんにいまひとつ興味が持てない理由となっています。

このように、マッタさんのオートマティックな絵画空間の作り方を取り入れながら、モダニズムの画家として独自の表現を獲得していったのがゴーキーさんです。そのゴーキーさんの作品を、フランスの詩人、文学者、シュルレアリストであるアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896 - 1966)さんがどのように評価していたのか、確かめてみましょう。彼は次のようなことを書いています。

 

後者(ゴーキー)は最近のすばらしいデッサンのなかで、蝶や蜂の欲望と合体したのかと思われるほどユニークな、しかもあくまで確実な曲線のおかげで、花々の芯、とくに三色すみれの芯から、「昂揚した水」を汲みとりに行ったかのように思われる。ゴーキーの絵画作品は、マッタのそれとはまったくちがうリズムにしたがって展開されているものだが、近い将来、すこぶる熱烈な関心をよびおこすはずである。

(『シュルレアリスムのアメリカ』「シュルレアリスムと抽象表現主義」谷川渥)

 

詩的な表現で何を言っているのやらよくわからない、という気もしますが、ゴーキーさんのオートマティックな線描が、虫や花の有機的な自然のもののイメージを喚起することを言いたかったようです。

このように、ゴーキーさんはシュルレアリスムの手法から独特のイメージを紡ぎ出し、さらには「マッタのそれとはまったくちがうリズム」を獲得したのです。このブルトンさんの感想は、ゴーキーさんの画面がマッタさんの影響を受けながらも、モダニズムの絵画らしい平面的な強さを持っていたことを指して言っているのではないか、と私は思います。

 

さて、シュルレアリストのブルトンさんから評価されたゴーキーさんですが、アメリカのモダニストの眼から見たら、どう見えたのでしょうか?『シュルレアリスムのアメリカ』という本は、(ブルトンさんに代表される)シュルレアリスムが、(グリーンバーグさんに代表される)アメリカのモダニズムの評論家にどのように受け止められたのか、ということが大きなテーマになっています。結論から言えば、グリーンバーグさんは偶然性や無意識を重視したシュルレアリスムの芸術を認めなかったのですが、その一方で実際のアメリカの画家たちはシュルレアリスムに大きな影響を受けていました。つまり、理念と現実に矛盾があったのです。その事情について、谷川渥さんは次のように書いています。

 

ゴーキーを高く評価する点で、ブルトンとグリーンバーグは交叉する。前者はアメリカで出会った最高のシュルレアリストとして、後者がシュルレアリスムの影響下から脱け出ようとしながら、新しい「アメリカ型」絵画を創出する可能性のある者として。

(『シュルレアリスムのアメリカ』「シュルレアリスムと抽象表現主義」谷川渥)

 

グリーンバーグさんは絵画の目利きであったので、しばしばその感性が自分の理論とぶつかります。ゴーキーさんの芸術においては、その作品に魅かれながらも彼がシュルレアリスムの影響下にあったことが気になっているのです。だから、ゴーキーさんはいずれシュルレアリスムから脱け出して、グリーンバーグさんの理想とする絵画、例えば1950年ごろのポロックさんの絵画のような表現に達することを、願っていたのだろうと思います。

しかし、ゴーキーさんはスタジオが火事で焼けてしまい、その後も癌を患ったり、事故で首に怪我を負って利き腕が麻痺したり、妻が子供を連れて家を出たりという不幸が続いて、1948年に44歳で首吊り自殺をしてしまいました。ゴーキーさんが自殺をした年の『ネイション』という雑誌に、グリーンバーグさんは次のような批評を書いたそうです。

 

ゴーキーは、私の見るところ、まだ彼の最も偉大な絵を描かなければならない。いずれにせよ彼は彼自身の世代のどんな場所のどんな画家にも匹敵する者である。

(『シュルレアリスムのアメリカ』「シュルレアリスムと抽象表現主義」谷川渥)

 

そして、ゴーキーさんの死後、グリーンバーグさんはゴーキーさんのことを次のように総括しました。

 

ゴーキーはこの国とこの時代が生んだ最も偉大な画家の一人となったが、しかし彼は何かを始めたというよりむしろ何かを終わらせたのであって、彼よりも若い画家が彼に続こうとすれば、新しい種類のアカデミズムに陥るのは必至である。

(『シュルレアリスムのアメリカ』「シュルレアリスムと抽象表現主義」谷川渥)

 

うーん、これは私から見るとかなり偏りのある評価だと思います。グリーンバーグさんが主導したモダニズムが行き詰まってしまったことは、このblogでも何回も触れています。今の時代から見ると、ゴーキーさんの芸術を「新しいアカデミズムに陥るのは必至である」と見做すのは、いかがなものかと思います。新興国アメリカのモダニズム美術を主導したグリーンバーグさんから見れば、ゴーキーさんが影響を受けたシュルレアリスムはヨーロッパ美術の前衛そのものであって、それこそグリーンバーグさんが乗り越えなければならないものだ、と考えたのでしょう。

しかし、今の私たちはグリーンバーグさんの芸術論さえも、乗り越えなければならない対象として見做しています。ですから、今の時代にふさわしい、新しい視点からゴーキーさんの絵画を見直してみるのも有効なことだろう、と思います。

 

最後になりますが、ゴーキーさんがあまり話題に上らなくなってしまっていることの原因の一つには、このグリーンバーグさんのゴーキーさんへの評価が影響しているのかもしれません。考えすぎでしょうか?

そして、こんなことで引き合いに出すのは申し訳ないのですが、例えばアメリカ型モダニズム美術の思考をギリギリまで推し進めた作家として、前々回のblogで取り上げたソル・ルウィット(Sol LeWitt,1928 - 2007)さんがいました。彼の壁画の作品と、ゴーキーさんの一枚のタブロー、あるいはドローイングと、どちらを見たいのかと問われれば、私は迷わずゴーキーさんの作品を選びます。ただ単に絵が好きだ、というだけではなく、彼の作品を鑑賞することで何かを学べる気がするのです。

ゴーキーさんの作品の中には、故郷のアルメニアの風物やその後の彼が見てきた新しい世界のすべてが詰まっている、と言えばロマンチックにすぎるのかもしれません。しかし、一人の人間がぎりぎりの極限状態で表現したものには、意図しなくてもその人のすべてが滲んでいるはずだと私は考えています。私はそういう作品こそ見たいのであり、それを削ぎ落とすことがモダニズムだとしたら、そんな芸術は見直さなくてはなりません。

ゴーキーさんの盟友のデ・クーニングさんがゴーキーさんについて語った素晴らしいインタヴューがあります。その最後の発言を書き写して終わりたいと思います。これを読んでいただければ、ゴーキーさんがどんなに重要な画家であったのか、彼の作品の中にどんなことが表現されていたのか、わかっていただけると思います。

 

彼(ゴーキー)は民族芸術のもっている現代性に心をひかれていたのだと思う。ゴーキーはアルメニアで学校に行ったわけでもなく、アメリカに来てからも学校を通りこしていきなり教壇に立っている。これだけでも驚きだが、アルメニアの秘密という以外の説明のしようがない。彼は、だれからも学ぶことなく神がかりのような目をもっていて、その目が絵描きとしてのいのちをあたえた。ジョン・グレイアムが言っていますが、「ゴーキーはものがよく見えてしまうという魔力にとりつかれている。」もちろんそんな魔力を持った人の人生が楽なわけはありません。鋭敏で繊細な「見る力」ーぼくは、そのような「見て・選ぶ」ことを彼から学びました。すばらしい男でしたし、彼の名は歴史に刻まれる価値があります。

(『アーシル・ゴーキー』「デ・クーニング インタヴュー」カーレン・ムラディアン)

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