今の若い方は、どんな本を読んで現代美術を学んでいらっしゃるのでしょうか?
インターネットの発達によって、世界的に情報が錯綜している時代なので、何がベーシックなものなのかわからない、という点で悩ましい時代でもあります。しかし、その一方でこれを学ばなければ、というものもありませんので、各自が自由に、そして冷静に学ぶことができます。
私の若い頃は、現在とは様相が違っていました。「ミニマル・アート」や「もの派」に影響された作品が画廊にあふれていて、キャンヴァスに絵を描いた作品を展示していると、一瞥しただけで画廊を出て行ってしまう人がとても多かったのです。初めて東京の駒井画廊で個展を開いたとき、ほとんどのお客さんに素通りされてしまう私を気の毒に思って、画廊主の山岸さんが「近頃は作品をちゃんと見ない輩が多くて、困ったものだな」と声をかけてくれました。そんな困難な状況がある一方で、学生を指導すべき立場にある私の大学の先生方はそんなことには興味がなく、現代美術に関するふつうの会話すら成立しなかったように記憶しています。このようなところに長く居ると、自分自身の美術への好奇心さえも萎えてしまう、とそのときは考えましたが、今になって思えば、学生や研修生の身分というのは(言うまでもなく)学習するのには最高の環境です。私自身がもう少し賢かったなら、指導者の如何にかかわりなく、もっと学びようがあったと思います。いま、現役の学生の方々は、コロナ禍の中で大学に嫌気がさしている方もいらっしゃるかもしれませんが、くれぐれも短気を起こさずに、賢く自分の研究を継続していただくことを願っています。
今回は、そんな若い方々の海図(chart)になるような本をご紹介します。
美学者の谷川渥(1948 - )の書いた『美のバロキスム 芸術学講義』という本です。谷川の広範な知識に支えられた、平明な語り口と、美学や芸術学と言われる範疇の中から若い実作者が知りたくなるような内容が満載の本です。
とりあえず今回は、その第一章「絵画のフォルムとアンフォルム」を読んでみることにしますが、この本、もしくは谷川渥の他の著作をこれからも教科書がわりに活用していきたいと思います。こういうふうに大切なことをざっくりと噛みくだいて書かれた本が私の若い頃にあれば、私だってもうすこしまともな制作活動ができていたのかもしれません、言い訳ですが・・・。
それでは、読み始めましょう。この章の書き出しの部分です。
非常に抽象的なテーマ設定がされています。あえて「フォルム」という、なかでももっとも核心的な言葉を採り上げて考えてみようと思います。抽象的かつ基本的な話になると思いますが、そのことをあらかじめご了解ください。話の筋としてはプラトンからクレメント・グリーンバーグまで、グリーンバーグ以降の現代芸術の問題を最後にお話しようと思います。なぜプラトンからグリーンバーグまでか。グリーンバーグの批評のあり方は「フォーマリズム」という言葉でよく括られるわけですが、フォーマリズムの、その「フォーム」とはいったい何かということの基本的な了解をしておかないといけない。フォームの問題を語ろうと思えば、これはプラトンに遡らざるを得ない。プラトンのイデア論です。それ自体が大変な問題で簡単に扱うことができませんが、絵画との関連でお話します。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
こんなふうに、実にていねいに説明してくれます。
ぜひ原文にあたっていただきたいのですが、ここではそれをダイジェストに読み進めてみましょう。そして、現代の私たちにとって興味深い評論家、ロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )と美術作家、フランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )に触れている部分については、すこしだけくわしく読み込んでみましょう。できれば後日、彼らの著作について別に取り上げてみたいと思います。
その前に、まずはプラトン(Plátōn、紀元前427 - 紀元前347)の「イデア論」から見ていかなくてはなりません。
プラトンの「イデア」とは何か、と言えば、例えば立方体を例にとりましょう。立方体の「イデア」とは、立方体の完全な概念のようなもので、あらゆる角度から見た立方体の形体そのものが、立方体の「イデア」ということになるのです。その立方体を絵画で描くとどうなるのか、と言えば、その立方体を一視点から見た姿しか描くことができません。だから絵画というのは影絵のような価値のないものだとプラトンが考え、それを「ファンタスティケー(幻影制作術)」と呼んだのだそうです。
このプラトンの「イデア論」ですが、これは私たちが実際に見ることができない「イデア」というものを前提にしています。そんなプラトンの想定に異議を唱えたのがプラトンの弟子のアリストテレス( Aristotelēs、前384 - 前322)だそうです。アリストテレスは、プラトンの「イデア」に対し、ものの本質を表す言葉として「エイドス」という言葉を使いました。アリストテレスはものの本質をつかむには自然を模倣するのが良い、と考えたのですが、その模倣する技術的な活動が芸術活動であり、それを彼は「テクネ―」と言いました。さらに模倣するということを指して、「ミメーシス」と呼んだのだそうです。そして、アリストテレスは自然の模倣を通して本質を掴むことを「エイドス」と言ったのですが、これをラテン語では「フォルマ」と言い、それが英語の「フォーム」、フランス語の「フォルム」という言葉になったのだそうです。やっと「フォルム」にたどり着きました。
このラテン語の「フォルマ」の中には、ものの目に見える形(形相)という意味と、ものの本質という意味の両方が含まれているのだそうです。そのために、「フォーム」という言葉の意味があいまいになってしまったのだ、と谷川は解説しています。このように、語源から遡って考えると「フォーム」「フォルム」とは本来、こういうものだ、というような不毛な論争に消耗しなくて済みますね。
さらに「エイドス」の対概念として「ヒューレー」(質料)という言葉があり、これが英語で言うと「マター」、フランス語だと「マティエール」というのだそうです。この対になる語源を理解しないと現代美術における「フォーム」と「マター」(英語)、「フォルム」と「マティエール」(フランス語)という対概念が理解できないのだ、と谷川は書いています。正確な要約になっているのかどうか、自信はありませんがおおよそこのようなことが、「フォルム」を考察していくための予備知識として書かれています。
そして、この「形」と「質」というような対概念は、西洋絵画においては「線」と「色」という対概念に置き換わっていったのだそうです。そしてルネサンスのころまでは「線」による形や構図の表現こそが絵画の重要な要素である、というふうに考えられるようになりました。アルベルティ(Leon Battista Alberti、1404 - 1472)やヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511 - 1574)などの有名な芸術論は、基本的に「線」の芸術論となっているのです。
ところが、ルネサンス期において、フィレンツェ派とヴェネツィア派というふたつの絵画の傾向が現れます。フィレンツェ派というのは、ラファエロ( Raffaello Santi、 1483 - 1520)に代表されるような線や形を重視した主流派のイタリア絵画のことです。一方のヴェネツィア派というのは、ティツィアーノ( Tiziano Vecellio、1490年頃 - 1576)に代表されるような、色彩を動きのある筆のタッチで表現した色彩重視の一群の画家、作品のことです。実作上ではフィレンツェ派の作品だけでなく、ヴェネツィア派の作品も名画として認識され、その作品も数多く残されているのですが、美術批評や美学の世界では、線や構成を重視する形相的な美的判断があいかわらず優先されました。
カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)の時代においてもその状況は続いていて、谷川はカントについて次のように解説しています。
カントは驚くべき言葉を吐いています。色彩は美にあずからない。絵を見る場合に、色彩はわれわれがそのものを美しいと判断するかどうかということにかかわらない。感覚的に刺激を与えてくれるかもしれないけれど、美にあずからないという議論を展開しています。これば『判断力批判』の主張なのです。アリストテレス以来の、形相と質料、線と色の二元論が非常に極端なかたちで、カントのなかにもまだ残存しているわけです。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
このように、美術に関する常識的な考え方が現在とは異なるので、私たちが昔の芸術論や美学の本、例えばここに書かれている『判断力批判』を読むときには、そのことに注意しなくてはなりません。しかし、だからといって古い本を読まなくてよい、というわけでもないと思います。昔の美術の本を読むと、どうしても遠い出来事のような気がして、実感を持って読むことが難しいのですが、この谷川の著作を読むと、それらの考え方が今に繋がっていることが解ります。
先に進みましょう。
それでは、美術批評において色彩を重視するようになったのは、いつ頃のことだったのでしょうか。その最初の人はボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)だと、谷川は書いています。ボードレールは近代芸術を考えるうえでは、本当に重要な人なので、私ももっと勉強しなくてはなりません。谷川はカントと同様に、ボードレールについても手短に、わかりやすくて要を得た解説をしています。
言葉のうえで、線よりも色彩だと最初に言った人は、たぶんボードレールだと思います。ボードレールはドラクロワを非常に高く評価した人ですが、「化粧礼賛」という面白いエッセイを書いています。「絵画は化粧術である」というひとつの比喩が昔からあって、あまり厚化粧するのはよくない、つまり絵具をべたべた塗るような絵はよくない、その人の顔の輪郭を際立たせるための化粧だったらいいけれども、べたべた厚塗りする化粧はよくない、という言い方がギリシアにあるのです。つまり線はいいけれども色はだめだという見方です。一方、ボードレールの「化粧礼賛」はそれをいわば引っ繰り返したエッセイになっていて、化粧の自立性を高らかに謳っています。このあたりから近代が始まると言っていい。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
なるほど、ボードレールの美術批評はそういう意義があったのか、と面白くて納得できる解説です。文中に出てくるロマン派の巨匠、ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)はボードレールよりもだいぶ年長ですから、ボードレールが批評を書いていた頃にはすでに有名人でした。ですから、ボードレールがドラクロワを褒めるのは当たり前のことのように思いますが、「線より色彩」という文脈で美術批評を始めたのがボードレールだと知ってみると、同じ文章でも違った感触がしてきます。
それから谷川は、現代美術の課題と繋がる三人の理論家について言及していきます。
その一人目はハインリヒ・ヴェルフリン(Heinrich Wölfflin, 1864 - 1945)というスイスの美術史家です。ヴェルフリンは「バロックという言葉を積極的な様式概念として使った最初の人」なのだそうです。もともと「バロック」とは、「歪んだ真珠」というオランダ語からきた悪口だったそうですが、ヴェルフリンが「クラシック」の線的な様式に対し、「バロック」を色彩的、絵画的な様式として位置づけた、と谷川は解説しています。このヴェルフリンの「絵画的」という言葉が、アメリカの現代美術の評論家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)によって、英語の「ペインタリー(painterly)」という言葉に受け継がれていきます。グリーンバーグは、例えば「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」という、「抽象表現主義絵画」以降の絵画を言い表す言葉の中に「ペインタリー」という概念を使っているのです。
二人目は哲学者のカントです。カントは「批判哲学」を展開した人ですが、この「批判」という言葉は「クリティーク」というドイツ語の翻訳で、「要するに悪いものと良いものとを分ける」という意味です。そして、カントは「純粋性」ということにこだわった人ですから、ものごとの「純粋性」を見分けて追究していく、という学問的な態度を貫いたのです。これを「絵画」という芸術表現にあてはめるとどうなるのでしょうか。絵画という表現は、その平面性こそが他の芸術表現にはない純粋な特徴である、というふうに考えることができます。
少し私見を交えて先走ったことを書きます。カントに学問的な態度を学んだというグリーンバーグは、この絵画の平面性をキーワードにしてアメリカの現代絵画を指導しました。そのアメリカの絵画が世界を主導するようになり、やがて世界の現代絵画全体が「絵画の平面性」をいかに追究していくのか、という袋小路へと突き進んでいくことになるのです。
そしてカントからもうひとつ、グリーンバーグが学んだものがある、と谷川は書いています。それは主にカントが『判断力批判』のなかで追究した「趣味」の問題です。カントは美的なものの判断は人間の「感覚」によるしかない、つまりそれは「趣味」としかいいようがない、と考えました。この考え方をグリーンバーグも踏襲していて、絵画は平面的であればよい、というのではなくて、実際に作品の良しあしを判断するためにはその作品を見て感じるしかない、と考えました。ですから、グリーンバーグは理論的には正しいはずの、完全な平面であるミニマル・アートの絵画を評価しなかったのです。ステラの作品は、グリーンバーグの趣味に合わなかったのでしょう。これも私見ですけど、それも分かる気がします。
それから、三人目はベネデット・クローチェ(Benedetto Croce、1866 - 1952)というイタリアの哲学者・歴史学者です。クローチェは、芸術の良しあしを判断するときに、「直観」を大切にしたのだそうです。先ほどのヴェルフリンと比較してみましょう。ヴェルフリンは芸術を様式的に見分ける一方で、バロックはバロックの、クラシックはクラシックの良さがある、と考えたのだそうです。クローチェは逆に、様式や類型で芸術を判断するのではなくて「芸術か芸術でないか、一瞬で勝負が決まる」と考えたのだそうです。つまり、作品と出会った時の「直観」によって良しあしが決まるのであって、それぞれの様式によってそれぞれの良さがある、という考え方は受け入れられないのです。これはカントの「趣味」判断とも通じるものがある、と谷川は説明しています。
ここまで読んでみると、美学や美術批評の発展と現代美術は無縁ではないことがわかります。さらに言えば、グリーンバーグは新興国であるアメリカの美術を美術史的な考え方の中に位置づけるために、あえて自分はカントから学んだモダニズムの中にいるのだ、と言ったのです。アメリカ美術はたんに新奇なものではなく、過去と繋がったうえでの革新なのだ、というわけです。
しかし、このようなグリーンバーグの考え方と、現実の現代美術との間に、少しずつ齟齬が生じてきます。このいきさつは興味深いので、すこし長くなりますが谷川の文章を引用しておきましょう。
ここにグリーンバーグの問題があります。グリーンバーグは60年代以降、口をほとんどつぐんでしまいました。見るに耐える芸術はないと。フランク・ステラについてもグリーンバーグは口を閉ざしました。もちろんグリーンバーグは健在で、1992年に日本にやって来て、武蔵野美術大学の藤枝晃雄さんを中心に僕も加わって東京都美術館でシンポジウムがありました。そのときも、たいへんかくしゃくとして元気でした。その後二年ぐらいしてグリーンバーグは亡くなりました。ですから、書こうと思えば書けたし、喋ろうと思えば喋れたのですが、60年代以降積極的に書くことはほとんどありませんでした。グリーンバーグは「もう良い芸術はない」と見たわけです。そのグリーンバーグが実は1969年に面白い論文「60年代のニュー・アート」を書いています。これはいまだに翻訳がない。そのなかで、「アセンブリッジ、ポップ、オップ、ハード・エッジ、カラー・フィールド、シェイプド・キャンヴァス、ノン-フィギュラティブ、ファンキー、エンヴァイロメンタル、ミニマル、キネティック、ルミナス、コンピュータ、サイバネティック、パーティシパトリー」という言葉を挙げていますが、これらの言葉のあとには全部「アート」が付いているのです。
グリーンバーグはこう言っています。「こういう動きが60年代に出てきて芸術が多様になったと言っているけれども、私に言わせれば、このアートと称するものは共通の性格を持っている。デザイン、レイアウトがクリア=はっきりしていて、イクスプリシット=明確である。ドローイングがシャープでクリーンである。シェイプやゾーンが幾何学的に単純で整っている」と。色彩が平坦で明るい、明暗とテクスチャーにおいて均質である、途中で色が変化することがない、つまり同じ色を塗っているという考え方です。60年代に登場してきたアートをこのように特徴付けています。ひとことで言えば、「線的」な芸術であるとグリーンバーグは主張しているわけで、これは驚くべき分析です。
グリーンバーグが評価した40年代から50年代の、とりわけポロックに代表されるような芸術は、ヴェルフリンの言葉を使えば、「絵画的」な芸術です。グリーンバーグは一度、ポロックに代表される抽象表現主義のことを「バロック」という言葉で呼んだことがあります。ところがポスト・ペインタリー・アブストラクションあたりから少し作品の傾向が変わってきている。モーリス・ルイスあたりになると、ほとんど平面的に行き着くところまで行ってしまったようです。そのあとにいろいろなものが同時並行的に出てきますが、それが先ほど挙げた、いわゆる「アート」です。それを彼は線的な芸術だと言っているわけです。
グリーンバーグはこの60年代の芸術に対して「大したものはない」と言いながら、同時にこれを記述的には「線的」な芸術群としてとらえ、絵画的なものから線的なものに時代が移ったと見ているわけです。グリーンバーグは、線的/絵画的が交互に替わっていくという、ヴェルフリン的な歴史観をもっと時代的なスパンを延ばして考えているふしがあります。ただそこに価値判断を入れないどころか、むしろ60年代の線的な絵画群に対しては否定的な態度をとっている。それがグリーンバーグの問題であろうと思います。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
グリーンバーグは絵画の平面性を強調しながらも、完全な平面になってしまってはいけない、と言います。絵画には「オプティカル・イリュージョン」、つまり視覚的な奥行が必要だと言うのです。平面化に向かいながらも、絵画としての何らかのイリュージョン、幻視的な空間がなければ満足しない、というのですから、たいへんに難しい話です。このような絵画を実現したのは、抽象表現主義の次の動向、「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の画家たちぐらいまでではないでしょうか。そのなかでも、谷川が例にあげたモーリス・ルイス(Morris Louis Bernstein、1912 - 1962)になると、ストライプ状やヴェール状の絵具の染みが画面にあるだけ、という作品ですから、その色の染みが一色に混ざってしまえば完全にミニマルな平面にたどり着いてしまいます。その狭い領域だけしか絵画を認めない、と言ってしまえば「大したものはない」と批評から退くしかないでしょう。
このように、絵画の平面性を強調する中で、次第に表現の領域が狭くなり、グリーンバーグ自身が口を閉ざしてしまったような状況を、グリーンバーグ的な課題として位置づけてみましょう。当然のことながら、この課題をのり越えようとする試みがあったわけで、その事例としてフランク・ステラの作品と、ロザリンド・クラウスの批評が取り上げられています。文頭にも書いたように、この二人のことについては、別に取上げて書いてみたいと思いますが、今回は谷川が示唆してくれたことを手短に紹介しておきましょう。
まずはフランク・ステラについてです。ステラの作品の歩みについて、谷川は次のように要約しています。
ステラがやったことはいまから考えてみると、絵画の四角い空間が持っている向こう側へのイリュージョンをこの平面で止めたということです。それから彼がしたことは、こちら側にひたすら出てくることでした。ステラのこういう制作を理論的に支えたのがマイケル・フリードです。
しかしステラは非常に奇妙な道を歩み始めました。向こう側のイリュージョンではなくて、カラヴァッジォに学んでこちら側にイリュージョンが出てこなければいけないと言っていたら、本当に出始めたのです。レリーフになってきた。文字どおりブラック・ペインティングとして出発しながら、黒い色があらゆる色彩の波長の光線を吸収していたものを外部に送り出したかのようにけばけばしい色を使い、実際に画面のこちら側に突出し始め、ついにはレリーフをつくり始めました。そして現実に手前の空間にでてしまって、オブジェのように床の上に立ちました。そして建築プランなんて言い始める。しかしスポンサーが現れないので未だに実現していません。このようなステラのあり方、これはグリーンバーグ流の批評に対するひとつの抵抗の意味を持っていたのですが、しかしカラヴァッジォを起点に据えながら、あまりにもこちら側に出てしまった。イリュージョンはあくまでイリュージョンでなければならないことを、逆にステラの歩みは教えてくれるような気がするのです。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
谷川が書いているように、ステラの作品はどんどん立体的に、そして巨大になっていったのですが、私が現代美術を学び始めてからの時期は、まさにステラの巨大化の時期と重なっています。ステラの作品が壁から飛び出し始め、とうとう立体になってしまった、という過程を興味深く、ときに期待し、ときに失望しながら見ていたことを思い出します。それに1986年にあの名門ハーヴァード大学からステラの講義録である『ワーキング・スペース―作動する絵画空間』が出版され、それが日本語にも訳されていますから、ステラについて書き出すときりがありません。ただ、ステラについては「イリュージョンはあくまでイリュージョンでなければならないことを、逆にステラの歩みは教えてくれるような気がする」という谷川の一文に集約されるようにも思います。
ステラのレリーフ状の作品が、平面的なイリュージョンの作品となったら、どんなふうに見えるのだろうか、と私はステラが作品を盛んに発表していた当時から思っていたのですが、実はそういう作品があります。それはステラの版画作品です。版画という制約の中で、ステラの自由な形体が平面上を交錯する様は、レリーフや立体にはないスリルがあります。「イリュージョンはあくまでイリュージョンでなければならない」というのは、何も作品を制約することなのではなくて、そこに実現された幻視の空間は現実の立面空間よりもより自由なのだ、とステラの版画作品は教えてくれます。
いずれステラについては別に書くとして、今回はこのあたりにしておきましょう。
最後に取り上げるのは、ロザリンド・クラウスの「アンフォルム」についてです。
「アンフォルム」という言葉ですが、これは美術史家・美術評論家のイヴ=アラン・ボワ(Yve-Alain Bois ,1952 - )とロザリンド・クラウスによって、パリのポンピドゥー・センターで1996年に開催された『アンフォルム』という展覧会から端を発した言葉のようです。そのカタログが、事典形式になった本が『アンフォルム―無形なものの事典』という本で日本語でも出版されています。この本について書くだけでも、blogの何回分かになりそうですが、今回はステラと同様に、谷川の記述を短くまとめてみます。その前に、「アンフォルム」と似た言葉に「アンフォルメル」という美術用語(?)があります。「アンフォルメル」というのは1940年から50年ごろにかけて、アメリカの抽象表現主義と対を成すように発したヨーロッパの「不定形」の抽象絵画のことを指す言葉です。したがって、言葉の意味としては近いものであっても、ここではまったく別の概念になりますので、ご注意ください。
それでは、谷川の説明を読んでみてください。
ロザリンド・クラウスやイヴ=アラン・ボアが言うところの「アンフォルム」は、たとえば、土をそのままぶちまければいいとか、形のないものをそのまま提出すればいいとか、塗料をざっと垂らせばいいとか、そういうことを言っているのではありません。絵画を見るときには制度上、垂直にせざるを得ない。先ほどのポロックの『五尋の深み』に戻りますが、水平にしてこの絵が成立したこと、それからわざと絵の高級性を貶めるような釘だとかボタンとかたばこの吸い殻、ポロックが自分で吸っていたたばこをそのままくっつけているわけですが、そういうことをグリーンバーグはいっさい言わなかった。ポロックはいわば芸術のヒエラルキーを貶めるようなことをやっているわけでしょう。そういうことを考える必要があるのではないかというのが、「アンフォルム」という概念なのです。
ですからイヴ=アラン・ボアが言っていますが、アンフォルムという概念は操作的な概念、オペレイティヴな概念であって、実体概念ではない。実体概念だと誤解すると、たとえば、画廊に土をぶちまければ、これはアンフォルムで、いままでと違ってすばらしいではないかということになりかねない。そういうことを言っているのではないのです。絵画はあくまでもひとつのフォルムです。全体的なフォルムであるのだけれど、フォルムの内なるアンフォルムの問題を考える必要がるのではないか、というひとつの問題提起をしたのだろうと思います。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
これを読むとわかるように、「アンフォルム」という概念は、グリーンバーグの「フォーマリズム批評」の批判として現れている面があります。グリーンバーグが評価したポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)の『五尋の深み』を例にとると、グリーンバーグはこの作品から自分の理論に適うような視覚的な情報、あるいは方法論のみを取り出して評価します。グリーンバーグは絵画の平面性といういみで、絵画の物質性(マテリアリズム)について言及しますが、それは絵具の材質感までであって、釘、ボタン、たばこなどは含まれないのです。強いて言えば、それは絵具の材質感の一種ということになるのでしょうか。それに対して「アンフォルム」では、意図的に「芸術のヒエラルキーを貶めるような」作品が選ばれているような気がします。例えばアンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928 - 1987)について言えば、彼のポップな作品ではなく『酸化絵画』が取り上げられています。この作品、は、銅製メタリック絵具を塗布した絵画の表面に小便をかけることで、酸化した痕跡をそのまま作品にしたものです。あるいは絵画の垂直性に対して、だらっと垂れ下がったような物質を使ったオブジェやインスタレーションの作品も目立ちます。こちらの例としては、ロバート・モリス(Robert Morris,1931-2018)の作品などがとりあげられています。これらの作品は、いずれもグリーンバーグのフォーマリズム批評では語ることの出来ない作品です。ロザリンド・クラウスは、かつてグリーンバーグのもとで学んでいたそうですが、それだけに「アンフォルム」は「フォーマリズム」の裏返し、という面があるのだろうと思います。
このように現代美術の課題というのは、グリーンバーグの批評が残した課題でもあるのですが、それを谷川は次のようにまとめています。
グリーンバーグが60年代ぐらいまで持っていた理論的な立場というものに対して、現象のうえではいろいろなアートが出てきた。しかしフォーマリズムと呼ばれるもののなかからも、実はいろいろな動きがあった。フランク・ステラがその典型ですが、バーネット・ニューマンもそうだった。グリーンバーグがモダニズムとかフォーマリズムのチャンピオンとして称揚したポロック自体が、ロバート・モリスの言うところの「アンチ・フォーム」という言葉でとらえられるような人だったということに注意しておかなければならない。それはグリーンバーグの言うところのフォーマリズムが、実はある意味でマテリアリズムであったということ、彼の批評のもっているそうしたひとつの逆説が拡大していった、そこに現代芸術の問題があるのだろうと思います。80年代から90年代にいろいろな動きが出てきていますが、この一世紀間の「フォーム」という言葉をめぐる芸術の動きを大体このように整理することができるのではないかと思います。
(『美のバロキスム 芸術学講義』「フォルムとアンフォルム」谷川渥著)
さて、「フォーム」「フォルム」の語源から学び始めて、駆け足で現代美術の「フォーマリズム批評」が提起した問題、その乗り越えの試みまで辿ってきました。こういう、美術批評や美学の文章を読むということは、少し面倒なことなのかもしれません。しかし、これを読めばわかるように、グリーンバーグの批評はすでにその功績と限界が示されています。それを知らずに「フォーマリズム」の範疇で絵を描くことも、あるいはまったく無頓着に絵を描くことも、どこかで壁にあたってしまうのだろうと思うのです。それがどんな壁なのか、すでに分かっているのですから、私たちはそこから出発することができるのです。
くり返しになりますが、もう少し若い頃にこんな本があれば・・・、と思いますが、まだ遅くはないと思いたいですね。私の拙文に興味が持てた方は、ぜひ『美のバロキスム 芸術学講義』を手にとってみてください。文中に登場した哲学者、美学者、批評家たちの本を読むことに比べたら、どんなにわかりやすくて親切な本なのか、それは私が保証します。
最近の「ART」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事