平らな深み、緩やかな時間

159. Stevie Wonder『Love’s In Need Of Love Today』、『小田原ビエンナーレ』の草稿

ボブ・ディラン(Bob Dylan、1941 - )の『風に吹かれて(Blowin' in the Wind)』、サム・クック(Sam Cooke、1931 - 1964)の『A Change is Gonna Come』、ビリー・ホリデイ(Billie Holiday, 1915 - 1959)の『奇妙な果実(Strange Fruit)』をここまで取り上げてきました。この流れの最後は、スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder、1950 - )の『ある愛の伝説(Love’s In Need Of Love Today)』です。スティーヴィーには『汚れた街(Living for the City)』という社会への怒りを込めた名曲もありますが、ここではあえて愛を求める歌を聴いてみたいと思います。
まず曲に入る前に、スティーヴィー・ワンダーが1970年代にポピュラー音楽を聴いていた人たちにとって、どれほど特別な存在だったのか、ということを書いておきたいと思います。スティーヴィーは、十代のはじめの頃から活躍していた「神童」でした。声変り前の細身の少年であったスティーヴィーが、巧みに歌い、ハーモニカを吹くヴィデオ映像を見たことがあります。そのスティーヴィーに転機が訪れたのが、彼が声変りをして、そして成人になる頃のことでした。スティーヴィーは大人のシンガーとして成長すると同時に、ソング・ライターとして、そして音楽をクリエイトするミュージシャンとして自覚を持つようになります。その時期のスティーヴィーについて、ピーター・バラカン(Peter Barakan、1951 - )は『ロックの英詞を読む 世界を変える歌』の中で、次のように書いています。

50年生まれの彼は71年に21歳になります。それまでは未成年なので親がモータウンと契約を結んでいましたが、成人として契約をし直すことになります。そのときスティーヴィーは自分でレコードをプロデュースし、その全責任を持つ、ということを主張しました。すでにマーヴィン・ゲイも、自ら全面的にプロデュースしたアルバムWhat’s Going Onを出し、成功を収めていましたが、彼の存在も念頭にあったのかもしれません。この独立に関しては、モータウンの社長のベリー・ゴーディは猛反対したのですが、スティーヴィーがレコード会社移籍を匂わせたため、しぶしぶOKしたようです。
その後、彼の創造力は文字通り爆発します。Music Of My Mind(72年)、Talking Book(72年)、Innervisions(73年)、Fulfillingness’ First Finale(74年)は、どれも傑作として言いようのない作品です。しかも大部分はひとりでの多重録音。ポピュラー音楽の歴史において、これだけの短期間に単独でここまでやった人はそれまでも現在に至るまでもいないでしょう。
(『ロックの英詞を読む 世界を変える歌』ピーター・バラカン)

このスティーヴィーが転機を迎えた1972年といえば、私はまだ小学生でした。それでも中学生になる頃には『迷信 (Superstition)』や『サンシャイン(You Are the Sunshine of My Life)』は自然と耳に入っていました。そして私はビートルズやサイモン&ガーファンクルを後追いで聴くようになりましたが、彼らはもう解散してしまっていました。私たちの世代は、60年代の大きなロック・ミュージックのうねりが過ぎ去った後に青春を迎えた世代でした。70年代はカーペンターズやエルトン・ジョン、ギルバート・オサリバンといった耳当りの良い音楽が流行っていた時代で、それらは心地よい音楽でしたが、自分たちは熱い時代に乗り遅れてしまったのだと何となく感じてもいたのでした。
今になって冷静に考えると、70年代は悪い時代ではありませんでした。カーペンターズはアメリカのポピュラー音楽の良質の部分を継承しようとしていましたし、エルトン・ジョン(Elton John1947 - )が作った『Your Song』は、私のもっとも好きなポップ・ソングです。それにギルバート・オサリバン(Gilbert O'Sullivan、1946 - )の初期の歌は、今も聴き飽きることがありません。この時代はポピュラー音楽がある意味で成熟期に達していた頃で、いろんなジャンルの音楽が融合し始めた時期でもありました。フュージョンやクロスオーバーと呼ばれた音楽も、ただジャズを軽くしただけではない意義があったのだと思います。
その時代にあって、ミュージシャンとしてのスケールの大きさという点でスティーヴィーはずば抜けていたと思います。私がラジオで音楽を聴き始めた頃に、ちょうどスティーヴィーの『悪夢(You Haven't Done Nothin')』という曲が大ヒットしていて、彼が大胆に導入したシンセサイザーの音がとても新鮮でした。作曲から演奏までのほとんどをスティーヴィーが一人でやっているということも、当時から有名でした。天才的な人がいるものだなあ、と中学生ながらも感心して聴いていたのです。そのスティーヴィーが『ファースト・フィナーレ(Fulfillingness’ First Finale)』の後、しばらく休止するということを発表し、すごくがっかりした覚えがあります。そして、これだけすごいレコードを立て続けに作ると、さすがのスティーヴィーと言えども才能が枯渇するのかな、と思ったのです。
ところが、その二年後に『キー・オブ・ライフ(Songs in the Key of Life) 』が出て、本当にびっくりしました。シングル・ヒットした『回想(I Wish)』、『愛するデューク(Sir Duke)』以外にも、『可愛いアイシャ(Isn't She Lovely?)』や『永遠の誓い(As)』など、どれも名曲ばかりで、2枚半という大作の中に音楽的な才能が溢れるばかりにつまっていたからです。そして、その『キー・オブ・ライフ(Songs in the Key of Life) 』の冒頭を飾るのが、『ある愛の伝説(Love’s In Need Of Love Today)』です。この曲もシングル・カットはされなかったものの、隠れた名曲とは言えないほどに広く親しまれている曲だと思います。でも、この曲を聴いたことがない方、そして歌詞を確認したい方には、次のホームページをご紹介しておきます。

【和訳/歌詞】Love’s In Need Of Love Today
https://fudego.net/loves-in-need-of-love-today-stevie-wonder/

それでは、またピーター・バラカンの『ロックの英詞を読む 世界を変える歌』を紐解きながら、歌の内容を見ていきたいと思います。

Good morn or evening friends
Here’s your friendly announcer
I have serious news to pass on to everybody
What I’m about to say
Could mean the world’s disaster
Could change your joy and laughter to tears and pain
・・・・

みなさんおはようございます、場合によってはこんばんは
おなじみのアナウンサーの私です
みなさんに深刻なニューズがあります
これからお伝えするのは
世界の破滅を意味することかもしれません
もしかしたらみなさんの喜びと笑いが、
涙と痛みに変わってしまうかもしれません

1行目のmornは、詩でよく使われる単語で、もちろんmorning(朝)のことです。2行目にはアナウンサーが登場しますが、つまりここで想定されるのは、ニュースのオープニング。5-6行目の、could mean, could changeの主語は、what I’m about to sayです。

*It’s that
love’s in need of love today
Don’t delay
Send yours in right away
Hate’s goin’ round, breakin’ many hearts
Stop it, please
Before it’s gone too far
・・・・

*つまり
今日、愛は愛を必要としている
待ったなしです
あなたの愛を直ちに送ってください
憎しみが蔓延しています
多くの心が痛めつけられています
いきすぎないうちに止めてください

1行目と2行目は、普通の文にするとIt’s that loves is in need of love todayです。4行目のyoursはyour loveのことです。

The force of evil plans
To make you its possession
And it will if we let it
Destroy everybody
We all must take
Precautionary measures
If love and peace you treasure
Then you’ll hear me when I say
(*Repeat)
・・・
悪の威力は
あなたを餌食にしようと企てている
その悪の力は、そのままにしたら
みんなを滅ぼしていってしまう
みんなでそれを未然に防ぐ措置をとらなければならない
もしあなたが愛と平和を尊ぶならば
私の言葉をきっと聞いてくれるだろう
(*繰り返し)

歌詞ということで、韻を踏むために不自然に改行しているところに注意してください。本来であれば1行目のplansは2行目のtoと割らないでplans toと表記すべきです。3~4行目もlet it destroy everybodyというようにつながります。3行目のit willのあとには、make you its possessionが繰り返しを避けるため省略されています。
7行目は、普通の語順なら、If you treasure love and peaceですが、韻を踏むためこのような語順になっています。Treasureは、名詞の「宝」という意味はご存知だと思いますが、このように動詞で「大事にする、尊ぶ」という用法もあります。このあと曲は、トータルで7分にわたってアドリブを交えながら繰り返しのフレーズを歌い、フェイド・アウトしていきます。
(『ロックの英詞を読む 世界を変える歌』ピーター・バラカン)

長い引用ですみません、英語が分からない私には、勝手に端折ることができませんでした。例えばピーター・バラカンが解説してくれているように、It’s that loves is in need of love todayとか、If you treasure love and peaceというふうに普通の文章にしてくれれば何とか意味が取れますが、歌詞のままの語順だと、私のような中学生英語のレベルの人間だと太刀打ちできません。
それにしても、比較的おだやかだと思われていた1970年代の半ばに、これほど性急に愛を求める歌をスティーヴィーが歌っていたのだ、とあらためて驚いてしまいます。そしてこの愛を求める歌は、いまの時代にこそ聞かれるべきなのではないか、と思うのです。スティーヴィーの歌は、それだけ普遍的なメッセージを持っていた、ということになるのでしょう。そのことについて、ピーター・バラカンは次のように書いています。

この“Love’s In Need Of Love Today”で幕を開けるアルバムSongs In The Key Of Life(76年)はその時期の集大成的な作品です。この曲のメッセージは比較的単純なものといえます。「憎しみが蔓延する前にあなたの愛を送ろう」というメッセージを少しナイーブなものに感じてしまう人もいるかもしれません。しかしこの単純で誰にも分かりやすい言葉は、なかなか言えるものではありません。もしそれが実現できれば、戦争なんか起きはしないし、きっと世界は変わるはずなのです。残念ながら、それを言わない口実を作ることにみな忙しいようです。
グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアの(ファンの間では)有名な発言に、“Everybody, just try to be nice to everybody else, OK?”(みんな、お互いに親切にするように努力しよう、ね)というのがあります。「愛」という言葉が少し重すぎるなら、こんなジェリーの言葉を実践することから始めてもいいのかもしれません。
(『ロックの英詞を読む 世界を変える歌』ピーター・バラカン)

もちろん、スティーヴィーは自分の歌詞がナイーブに過ぎるということぐらい、わかっているでしょう。言葉としてはナイーブでも、このように素晴らしい音楽にのせて歌われれば、説得力が生まれてくるものです。そこが文学としての詩と、音楽としての歌詞との違いだと私は思います。スティーヴィー・ワンダーは、そのことをよく知っている芸術家なのだと思います。
それからピーター・バラカンが最後に触れていたグレイトフル・デッドについてですが、たしかこのblogでも書いたことがありましたが、グレイトフル・デッドは自分たちのコンサートの自由な録音とその交換を、営利目的でないかぎり許可しました。そのことが彼らのレコード・セールスを阻害することはなく、むしろ彼らのファンの底辺を広げていたのではないか、という分析を聞いたことがあります。寛大な心を持つことが、とかく愚かで損なことだと思われがちですが、グレイトフル・デッドのこの逸話は、なかなかよい話だと思います。リーダー格だったジェリー・ガルシア(Jerome John "Jerry" Garcia, 1942 - 1995)が亡くなって25年以上が経ちますが、いまだにライブ音源が発掘され、人気を博している興味深いバンドです。
音楽の話題の最後に、ピーター・バラカンが「すでにマーヴィン・ゲイも、自ら全面的にプロデュースしたアルバムWhat’s Going Onを出し、成功を収めていました」と書いていたマーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye、1939 - 1984)についても触れておきます。その『What’s Going On』のタイトル曲を紹介しているサイトと、歌詞を紹介しているページのリンクを貼っておきますので、よかったらご覧ください。
Marvin Gaye - What's Going On
https://www.youtube.com/watch?v=H-kA3UtBj4M
【和訳/歌詞】What’s Going On ホワッツ・ゴ―イン・オン Marvin Gaye マービン・ゲイ~何が起こってるんだ?
https://fudego.net/whats-going-on-marvin-gaye/
このアルバムは全体として組曲のように聴くことができますが、『What’s Going On』を単独で聴いてももちろん、素晴らしい曲です。マーヴィン・ゲイは本当に歌がうまいと思いますが、この曲はそのメッセージにも胸に迫るものがあります。「いったい、何が起こっているんだい?」というマーヴィン・ゲイの問いかけは、社会のあらゆる矛盾を告発しているように聞こえます。マーヴィン・ゲイとスティーヴィー・ワンダーが所属したモータウン・レコードは、ブラック・ミュージックの中でも商業的に大成功したレーベルです。その中で、ここで取り上げたような名曲が生まれたことに驚きますが、それはマーヴィン・ゲイとスティーヴィー・ワンダーが、多くの人たちの思いを歌に込めることで芸術性と商業性を両立させた、ということだと思います。マーヴィン・ゲイは『What’s Going On (ホワッツ・ゴ―イン・オン)』を世に出すまでに、会社の方針に逆らいながら大変な苦労をしたそうですが、この名盤がお蔵入りしなくて本当によかったです。

さて、美術の話題も少し書いておきます。
私事ですが、7月に『小田原ビエンナーレ』に参加します。私の予定は7月15日から27日まで、ツノダ画廊での展示になります。個展が終わったばかりで制作はこれからですが、できればこの三年間の作品から、今回の個展での反省事項にそった作品を並べて、最新作と比較して見てみたいと考えています。その反省事項というのは、絵画における時間性を、どのように豊かに表現するのか、ということです。その点について、ビエンナーレのパンフレットに作品写真とともに小文を掲載する予定なのですが、その文章の部分だけをここに掲載しておきます。もしも画像の入ったpdf原稿をご覧になりたい場合には、次のアドレスから私のホームページを開いてみてください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/work.html
それでは、とりあえずパンフレットの文章をお読みください。

私は「触覚性絵画」というテーマをかかげて、このところ制作を続けています。それはモダニズム以降の絵画が、視覚を優先するあまりに 行き詰ってしまっている、と感じているからです。
かつて哲学者の中村雄二郎は、視覚優先の近代性を打破するために、「共通感覚」という古代ギリシア哲学にまでさかのぼる考え方を提唱しました。その上で触覚の重要性をいまこそ認識するべきだと書き残したのです。    
その「共通感覚」とは人間の五感を統合するような感覚のことです。ふだん私たちは五感を関連付けながら生きているのですが、いつしかそのあたり前のことが、なおざりにされてしまいました。そして近代科学の発達とともに、私たちは物ごとをバラバラに分析
して、それを操作して活用することばかり重視してきたのです。その結果、私たちの生活は格段に便利になりましたが、失われたものも大きかったのだと思います。
視覚を重視したモダニズムの絵画は近代科学と同様に分析的に絵画を扱いカント風に言えば「自己批判的」な考え方によって目まぐるしくその形を変え、発展してきました。しかし、すでにその方法論は限界に達し、暗い袋小路に入ってしまいました。
私はそのようなモダニズムの絵画の世界を逍遥した経験から、中村雄二郎の「共通感覚論」の考え方を見直すことにしました。そして彼がとりわけ触覚を再認識せよ、と言ったことを手掛かりにして、「触覚性絵画」を制作しているのです。
そしてさらに私は、触覚を重視した絵画を制作するためには、絵具の物質性や手触り感に加えて、絵画制作における「時間性」にも注意を払わなくてはならないと感じています。私は美術作品における「時間性」は、現実の生活の中で私たちが感受している時間を超越したものでなければならない、と考えています。
例えば絵画を制作するに際して、画面上に私の手順通りの時間が見えてしまうのではだめなのです。絵画における「時間性」は、現実の時間とは独立した、自由な時間でなくてはなりません。私は必要に応じて、時間を自由に行き来し、ときには過去をまさぐり、ときには現在を過去へと送り返しながら制作しなければなりません。
今回の展示においては、私はこの三年ほどの作品の中から「絵画における時間性」という問題にふさわしい作品を選び、新作とともに並べてみたいと思っています。そしてこの「時間性」の問題は、現代芸術における批評の問題としても、取り上げていくべきだと考えています。それは私の blog「平らな深み、緩やかな時間」の中で継続していきますので、ときどきそちらをご覧いただければありがたいと思います。
(『小田原ビエンナーレ』 パンフレットより)

これまで私が書いてきた文章と内容が重複しますが、はじめて私の作品や文章をご覧になる方もいるので、そのあたりはご了承ください。小田原ビエンナーレでは、「触覚性絵画における時間性」の問題に焦点をあてて考えてみます。作品もそのことを意識して制作してみますので、もしもご覧になられるようでしたら、そこに注目していただいて感想をいただけるとありがたいです。
しかしそうはいっても、絵画という表現方法が「時間性」とどのような関係づけられるのか、はじめてこのblogを読まれる方には戸惑いがあると思います。また、パンフレットの文章は字数の関係もあって、短くまとめて書いてありますので、ここで少し補って書いておきたいと思います。
まず、絵画に「時間性」がある、ということについて説明しておきます。実は、私はこのことについて何回か書いてきましたし、今から25年前には、そのことについて評論まで書きました。
「1995 絵画表現における重層性について」
http://ishimura.html.xdomain.jp/text.html
この論文を読んでいただけるとうれしいのですが、それも面倒だという方のために、とりあえず絵画と時間の関係について端折って説明しましょう。
絵画は動かない、止まったままの芸術表現ですが、そのなかには時間が流れています。それはどういうことかと言えば、例えば絵の中に描かれた馬が、まるで走っているかのように見える作品があるとします。それは、その馬の一瞬の姿が写真のように正確に描かれているからではなくて、画家が馬の走っている姿をうまく解釈して描いていることによります。次のルーベンス(Pieter Pauwel Rubens、1577 - 1640)の『レウキッポスの娘たちの略奪』(1617頃)を見てください。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rape_of_the_Daughters_of_Leucippus
もしもこの「略奪」の瞬間を写真で撮ったとしても、このようにきれいなポーズで群像がおさまることはないでしょう。これは明らかに、構成的に作られた絵の一場面ではあるのですが、その臨場感は写真以上だと私は思います。これで、絵画の中には動きがあるという事はお分かりいただけると思います。
それでは、人や馬の姿がない、抽象絵画の場合ではどうでしょうか。抽象絵画においても、画家は絵の中の形象をうまく構成して、心地よい動きを演出します。カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866 - 1944)の『コンポジションX』(1939)を見てください。
http://stat.ameba.jp/user_images/20150220/14/seuratsan/47/be/j/o0500033513223583776.jpg
まるで、紙吹雪が舞っている中で、不思議な形が踊っているように見えます。このように絵の中に動きがあるということは、その動きを感受するだけの時間が存在するということです。つまり絵の中には時間的な厚みがあって、その時間的な幅の中で私たちは馬の姿に動きを感じたり、意味のない形象が踊っているように感じたりするのです。
それでは、さらに問い詰めてみましょう。例えば絵の中に明確な形象のない、アメリカ抽象表現主義のような絵画の場合はどうでしょうか。その場合でも、そこには画家が絵を描こうとした行為性が表現されていて、画面上には時間性があります。それが優れた画家の作品であるならば、画家の行為の痕跡がそのまま画面から見えてくるのではなく、画家の生き生きとした動きそのものが錯綜した画面から感じられることでしょう。ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)の『秋のリズム』(1950)を見てみてください。
https://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/1167dcf9da5441a13659e3756802ced5
私たちはポロックの描く行為を追いかけるようにして絵の中に視線を走らせますが、それはポロックによる演出です。ポロックは、あたかも目の前で絵が描かれているような表現をしているのですが、これが下手な画家であるならば、描いた痕跡がそのまま絵具の染みや残骸のように見えてしまうのです。
http://tunodajyuku2.blogspot.com/2013/10/1954-capetians-everywhere.html
このように描く行為を時間性として表現するということは、実はポロックよりも以前に、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)によって、すでに成し遂げられていました。彼の『サント=ヴィクトワール山』の作品をご覧ください。
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/160
私はセザンヌを題材として論文を書きました。そして画家の描く行為が、筆のタッチの重なりから見えてくるようなセザンヌの表現のことを「絵画表現における重層性」という言い方をしたのでした。
これらが、「絵画における時間性」の表現の主なものですが、いまの私の課題は先ほども書いたように、「絵画における時間性を、どのように豊かに表現するのか」ということです。私は先の個展で油絵具とアクリル絵の具の二つの素材による作品を並行して描き進めてみましたが、そのいずれにおいても時間性の表現という点で納得していません。ただ、アクリル絵の具の方が、どうしても乾燥が早い分だけ時間の重ね方が単調に見えてしまう傾向がありました。これを何とかしたいと思っています。そして、油絵においてはもっと明快に、私が時間性に関して考えていることを表現したいと考えています。
それにしても、振り返ってみれば、絵画の触覚性の問題、時間性の問題は、『絵画表現における重層性について』という論文を見ても分かる通り、私は30年ぐらい、あるいはもっと以前からそれらの問題を追いかけてきたのです。ということは、つまり絵を描き始めた頃から私はそれらの課題を解決できずにいるのです。それがここにきてやっと、それらのことに正面から向き合う意識を持ち、そのための方法論をつかみつつあるのです。
ここで逃げ出したら、死ぬまでの間にそれらの課題と取り組む時間はないでしょう。せめて数枚でよいので、自分の納得いく絵画を制作してみたいと思います。それだけの時間が私には残されているのでしょうか。わかりませんが、いまはただ進むだけです。

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