平らな深み、緩やかな時間

160. 『<責任〉の生成 中動態と当事者研究』國分 功一郎/熊谷 晋一郎について

今回は『〈責任〉の生成 中動態と当事者研究』、國分 功一郎と熊谷 晋一郎の共著を取り上げます。
以前に國分功一郎の『中動態の世界』と森田亜紀の『芸術の中動態』を取り上げたことがありました。その際には、「中動態」という考え方と芸術とのかかわりについて考察しました。今回の『責任の生成』も、倫理や哲学から医療、福祉、あるいは障がいのある方の社会との関わりといった、興味深い話がたくさん書かれて(話されて)いますが、専門外の私には容易に口を出せるものではありません。しかし、「中動態」という概念が芸術表現とどのようにかかわっているのか、という点において、やはり私なりに考察できる部分があると思い、その点にしぼって書いてみたいと思います。
とはいえ、「中動態」とはどのようなものなのか、その基本的なことについて、以前にもこのblogで確認しましたが、ここであらためて説明しておきたいと思います。
「中動態」というのは、私たちが英語の授業で教わった「能動態」と「受動態」という二つの「態」の、そのいずれにもあたらない中間にあたる「態」のことです。
例えば、私たちがたまたま見晴らしのよい場所に来て、ふと見渡すと富士山がきれいに見えていたとします。このような状況を、私たちは「富士山が見えた」などと言いますが、この「富士山が見えた」という言い方は、能動態なのでしょうか、それとも受動態なのでしょうか。私たちは積極的に富士山を見ようとしていたわけではないので、これを能動態だと言われると違和感があります。しかし、それでは富士山を見せられていたのかといえば、それも違います。私たちに富士山を見せようとしたもの、その主体となるものなどありませんし、仮にそんなものが存在したとしても、私たちはその意志に従ったわけでもありませんので、受動態であるとも言えないのです。
このように意志があいまいなままで、ものが見えている現象を説明するのに、能動態と受動態という二者択一では限界があるのです。実はヨーロッパの言語には、昔は中動態という「態」があり、受動態はその一部に過ぎなかったのだそうです。古代ギリシア語などには、中動態としての言葉が残されているそうですが、いつしか能動態に対するものとして受動態が一般的になってしまったのです。なぜ、そうなってしまったのか、そこには人間の行為の意志をはっきりさせようとする、何らかの意図が働いたのではないか、と國分功一郎は推察しています。

能動と受動を対立させる言語は、行為における意志を問題にするようになったのではないかと思うのです。そうすると同じ現象であっても、自分の意志で現れたのか、それとも現れることを強制されたのか、区別しなければならない。
「自分の意志でやったのか?そうではないのか?」と強く尋ねてくるこの言語を、「尋問する言語」と僕は呼んでいます。中動態が消滅した後に現れたのは、そのような言語だったのではないか。つまり、中動態の消滅と意志概念の勃興には平行性があるのではないかというのが僕の仮説なのです。
実際、これは本を書くために調べごとをしている際に知って自分でも驚いたことなのですが、古代ギリシアには意志の概念が存在しないのです。そして、古代ギリシア語には中動態が残っていた。ここに因果関係を見出すことは難しいと思います。ただ、中動態の消滅と意志概念の勃興がどうも平行して起こっているように思えるのです。
ならば意志の概念はどこから来たのか。哲学者ハンナ・アレントは『精神の生活』という本のなかで、意志の概念を発見したのはキリスト教哲学だと言っています。古代ギリシアとキリスト教はしばしばヨーロッパの起源として同一視されてしまうことがありますが、実際には非常に異なっているどころか鋭く対立しています。ギリシアは非常にアジア的であって、その文明の根底にあるのは循環する時間と自然という考え方です。それに対し、キリスト教は直線的な時間感覚を生み出しました。始まると終わりがある時間という考えです。
(『責任の生成』第一章 「意志」と「責任」の生成/國分功一郎の発言より)

國分が言っているのは、「中動態」の消滅に際し、人間の行為における意志をはっきりと求めるような意図が働いていたのではないか、ということです。そしてその意図の背景には、キリスト教哲学があった、と推察しています。さらに驚いたことには、私たちが西洋思想史の起源として考えてきた古代ギリシアの文明は、実はアジア的な性格を持っていたのだということです。その証拠として、古代ギリシア語には「中動態」が残っている、そして時間の感覚においても古代ギリシアにはアジア的な循環する時間が根底にあったのだというのです。それに対して、キリスト教哲学では直線的な時間の感覚が生みだされたのだというのですが、これは現代の私たちの時間感覚と共通するものです。つまり近代文明の中で私たちが持っている時間の感覚は、さかのぼると古代ギリシア哲学にあたるのではなくて、キリスト教哲学に行きあたる、ということなのです。
このblogにおいて、これまでも近代以降のモダニズム思想の再検討を試みてきました。そのモダニズム思想は古代ギリシアに端を発する、というのが私たちの前提としてきたストーリーだったのですが、その古代ギリシアはアジア的で、キリスト教哲学こそが西洋近代の発端である、ということになれば、さまざまなことを考え直さなければなりません。いやはや、ものごとを先入観で見てはいけないことを、あらためてここで確認しておきたいと思いますが、だからといってキリスト教哲学を古代ギリシアに置き換えて、新たなストーリーを描くことはやめておきます。古代ギリシアがアジア的な性格を持っていたとしても、それがその後の西洋哲学と無関係であるはずはありませんし、そこには複雑で入り組んだ影響関係があるのでしょう。そのことを、いずれもっと詳しく探究していかなくてはならないでしょう。
さて、ちょっと話が先走りました。
この『〈責任〉の生成 中動態と当事者研究』という本は、國分功一郎(1974 - )と熊谷晋一郎(1977- )の共著となっています。國分はスピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)やドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)の研究で有名な哲学者です。一方の熊谷は医師であり、小児科学を専門とする科学者であり、自分自身が障がい者である立場で「当事者研究」を実践している研究者です。この二人の対話形式の講義をまとめたものが、この著作になります。そして本のサブタイトルにもなっている「中動態と当事者研究」のうちの「中動態」については、先ほど説明しましたが、「当事者研究」というのは、いったい何なのでしょうか。
「当事者研究」というのは、2001年に北海道の統合失調症を主とする精神障害を抱える人たちによって始められた研究だそうです。精神障害は他者から見て分かりにくい障害ですが、生活するうえでは社会的な配慮を必要とします。そこに社会生活を営む上での難しさがあるのです。他者から見て分かりにくい障害を抱えた人たちにとって、自分の努力でどこまで社会での生きにくさを解消できるのか、どこから社会の側での変革や配慮が必要なのか、その線引きがはっきりしないのです。その困難さを当事者の立場から研究するのが、「当事者研究」なのです。
そして「中動態」の探究と「当事者研究」がどういうところで結びつくのかと言えば、両方とも人間の行為がその人の意志によって決定され、その結果の責任を行為者が負う、という一般的な責任論では解決できない事象について考える、という点において共通しているのです。
さらにここで、芸術表現とのかかわりについても言及しておきましょう。これらの考え方がどのようにして芸術表現と結びついているでしょうか。
例えば芸術表現は必ずしも作者の意志の通りに出来上がるものではない、という点において完全に能動的なものだとは言い難く、かといって作者の意志がまったくないような受動的なものでもないのです。このことから、作品制作という行為は「中動態」的なものだと言えるでしょう。それなのにモダニズムの芸術論は、人間のコンセプトや意志決定論に傾きすぎていて、つねに表現者はどのような意図で作品を作ったのか、その結果がどうであったのか、ということの説明を求められる傾向にあります。
それから、もう一つの例として言えば、モダニズムの芸術論では芸術表現に創造性を求めるあまり、作品のオリジナリティーにこだわり過ぎる傾向があると私は思います。その結果、モダニズムの作品は過去とのつながりを切断することに躍起になってしまいがちなのです。これらのことは、表現者にとって不必要な重圧であり、また間違った方向性を示唆してもいるのです。
私の考えでは、芸術表現は作者の思い通りにいかないところにも大きな可能性が潜んでいるのであり、表現者はそのことを感受している必要はありますが、必ずしも言語化できなくてもいいのです。それを言語化し、言葉として広く共有できるようにするのが批評の役目であるのですが、現実にはなかなかそうはいっていません。
それに作品のオリジナリティーということに関していえば、私たちが作るもので過去の作品から影響を受けていない表現などありえません。むしろ過去の作品を深く学ぶことで表現の可能性が広がり、その深度が深まるものだと思います。モダニズム芸術が現在、行き詰っているのは、過去を清算してつねに新しい、オリジナルな表現を求めるという強迫観念に駆られているからであり、その論理はすでに限界にきていると思います。その結果、難しい論理を体現するだけの作品か、あるいは思考を放棄した落書きのような作品になってしまうのか、という両極端に割れてしまっていて、美術ジャーナリズムもそのいずれかの語りやすい作品ばかりを取り上げているのです。
このような現状を批判するのは意外と困難です。その原因のひとつは、私たちの住むモダニズムの世界全体が、能動的であるのか、受動的であるのか、という二者択一になってしまっていて、過去の素晴らしい作品の影響を受けながら、なおかつ自分自身と真摯に向き合おうとする表現を評価する言葉が、圧倒的に不足しているのです。この現状を乗り越えるためには、モダニズム芸術の再検討が必要であり、その点において「中動態」の研究のなかに参照すべき点が多いと私は思っています。
今回の本の具体的な内容に入る前に、思いのほか長い説明になってしまいました。
それでは、ここまでのことを押さえたうえで、この『責任の生成』という著作のなかで行われた講義について見ていくことにしましょう。
まず、この本の第一章では「<意志>と<責任>の発生について」というテーマが掲げられています。そのテーマに関連して、人間の自由な意志について論じられています。薬物依存であるとか、あるいは精神的な障がいがある方にとっては、自分の行為のどこまでが「自由」な意志に基づくものなのか、ということが深刻な問題ですが、これは芸術表現を志す人間にとっても共通のことだと思います。自由に絵を描いていいよ、あるいは木を彫ってごらん、と言われても、少しも自由に描いた感じがしないことはよくありますし、木材が思ったよりも堅かったり、逆にもろかったりして思い通りに彫れない、ということもあるでしょう。「自由」といっても、それまでの自分の経験や技術に捕らわれてしまうことがありますし、外部の人の目が気になったり、あるいは素材が思い通りにならなかったり、などなど、自由であることは実はとても難しいのです。
この「自由」ということに関してスピノザがとても興味深いことを書いているのだと國分は解説しています。スピノザという哲学者は、人間には自分自身であろうとする欲求があるのですが、それにもかかわらずつねに外部からの影響で変わらざるを得ない存在なのだというのです。つまり人間は自由であるどころか、自分自身を維持したいと思っているのに、それすらもかなわずに変化を続ける存在だというのです。このことからスピノザは人間の自由を否定した人であるかのように思われているのですが、実はそうではない、というのが國分の見解です。スピノザが言っていることは、人間がこのような存在であることを理解しなければ、本当の自由については語ることができない、ということなのです。
次の國分の発言を読んでみてください。

この自閉的・内向的な変状の過程を考えると、外部からの影響を受けつつも、その人なりの反応があるということをうまく説明できる。それがその人なりの必然性ということです。そしてその必然性にうまく沿って行為できることこそが、スピノザにとっての自由にほかなりません。
とすると、自由を論じるためには、中動態的なロジックを理解しなければならないということになる。また、中動態のことがわかれば、難解な『エチカ』の自由論がすんなりと受け入れられるものとして現れてくる。僕がこの本(『中動態の世界』)の最後にさしかかってどうしてもスピノザを論じたかったのは、どうやったら自分が自由になれるのかを考えたかったからなんです。
(『責任の生成』第一章 「意志」と「責任」の生成/國分功一郎の発言より)

私たちは普段、自分が自由な存在なのだろうか、などということをあまり考えません。しかし、何かうまくいかないことがあると、これは自分の自由意志によって行為したことなのだろうか、と考えこんでしまいます。その失敗は自分の責任だろうか、と悩んでしまうわけです。
これが障がい者や芸術表現者にとっては、つねにつきまとう問題になるのです。そしておそらくスピノザという哲学者にとっても、人間存在にとって自由とは何なのか、ということが大きな問題であったのです。それをつきつめた結果、「必然性にうまく沿って行為できること」が自由なのだ、という結論に達した、ということなのでしょう。
この世界に無条件の自由などと言うものは存在しません。つねに外界からの刺戟を受け、それにもかかわらず何とか自分という存在を維持しようとするなかで、何が必然的に起こっているのか、ということを人間は理解します。本当の自由というものは、その必然性とうまく付き合っていく中で、そこに自分を生かす余地を見出すところに存在するのでしょう。
そのスピノザの言っていることの当否を云々する前に、自分で『エチカ』を読んでみなくてはならないと思います。しかし國分がいうように、「中動態のことがわかれば、難解な『エチカ』の自由論がすんなりと受け入れられる」というふうにうまく読めるのかどうかは眉唾です。『エチカ』は、どう読んでも難解です。
さて、次に私が注目したいのは、第二章「中動態と<主体>の生成」の中でフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)について触れている部分です。フッサールは現象学の父祖と言われる人です。ここで私の理解している限りで、その思想を簡単に説明してみます。
フッサールは物事を見るときに、その本質をつかむためには、あらゆる先入観を排して見なければならない、と考えた人です。そのような態度のことをエポケーといいます。フッサールがなんでそんなことを言ったのか、私たちにはわかりにくいのですが、おそらく、ヨーロッパの知識人にとっては何かものを考えるときに、どのような立場に立って、どのような筋道で考えるのか、その学問的な蓄積が重くのしかかっているのだろう、と思います。だから、何かの物事について考えるときに、過去の理論をいちいち参照しないとそれを論じることもできないような、ある意味では不自由な状況にあったのだと思います。でも、そんなものの見方というのは、過去の誰かの考えたものの見方であって、いま自分が目にしている事象を自分で感受し、判断することとは程遠くなってしまっていたのでしょう。そこでフッサールは、そんな予備知識や理論は一度忘れて、純粋に物事を見たらどうか、ということを考えたのだと思います。
私が現象学のことを知ったときに感じたことを正直に言いますと、これは私にとって都合のよい哲学だな、ということでした。なぜなら、過去の哲学のさまざまな論理を勉強する必要がなく、純粋に物事と向き合えばよいというのですから、こんなに楽なことはありません。しかしこの考え方というのは、過去を切り離して偏執的にいま起こっていることにこだわるわけですから、一般的な感覚からいっても、ちょっと変です。そう思っていたら、國分はこんなことを言っています。

ここでフッサールの現象学について少し話をしたいと思います。村上晴彦さんが、フッサールには発達障害があったのではないかという非常に興味深い説を唱えています。村上さんはフッサールの間主観性の議論が発達障害をもつ人々の対人関係のあり方と似ていると述べているのですが、僕はフッサールの時間論についても同じことが言えると思うんです。
どういうことかというと、フッサールは時間の生成についてあり得ないほど細かいことを書いているのです。ここでは「普通」という言い方をしますが、「普通」の人間は自分のなかでどうやって時間が生成したかなど覚えていない。それを全部、うっかりやってしまっている。フッサールがそれについて縷々書くことができたのは、彼自身がそれをうっかりやってしまうことができず、とても苦労して時間感覚を獲得したからではないか。
僕が研究しているドゥルーズにも似たところがあります。彼の他者論は他者というものが自分のなかに内面化される以前について語ったものですが、それをどうして彼が意識的に理論化できたのか、とても不思議に思えるのです。ドゥルーズも他者の内面化に苦労しており、うっかりそれをやってしまうことができなかったのではないか。
(『責任の生成』第二章 中動態と「主体」の生成/國分功一郎の発言より)

これを読んで、なるほど、と思いました。普通の感覚ならやり過ごしてしまうようなことをこまかく観察したり、感受したりすることができるのは、特殊な能力であり、裏を返せば発達障害的な感性なのだ、ということなのです。
私の敬愛する画家のセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)は現象学の話でもよく引き合いに出されます。セザンヌは毎日、同じ山を見ながら絵を描いていたのですが、その一枚一枚があたかもはじめてその山を見たような、あるいはその山が突然、地面から隆起して今しがた誕生したような、そんな絵を描いた人です。そして彼も日常生活ではかなりの偏屈な、気難しい人だったようです。優れた芸術家はすべて変な人だった、などという偏見に捕らわれたくはありませんが、セザンヌの表現が彼の生きた時代に単独で行われたことを思うと、それはある意味でとても異常なことだったと思います。たぶん、哲学の分野におけるフッサールについても、似たような事情があったのだと思います。つまり彼らは発達障害であったのか、あるいはそれと紙一重であったのか、ということです。そう考えると、障がいのある方の感覚や思考を理解し、分かち合うための方法論を探ることは、芸術表現を探究するうえでも、とても重要なことなのだと思います。
これと似たような話になるのかもしれませんが、やはり私の好きな画家で中西夏之という人がいます。彼が制作している様子を写した写真がありますが、その中で彼はキャンバスを紐で天井からつるし、さらに長い柄の筆を使って描いているのです。
なぜ、中西はそんな変わった絵の描き方をしたのでしょうか。彼の制作行為には、絵画が重力の作用する世界の中で垂直に屹立しているという、きわめて不自然な存在であること、そしてその垂直な平面に筆で絵を描くということがきわめて人間的な、特殊な行為であることを強制的に意識せざるを得ない状況を作っていたのではないか、と私は考えます。
人間の行為というのは、自然界から見ると特殊であり、異常であるともいえるのですが、私たちはふだん、そんなことを気にもとめません。しかし、とくに表現に関わる人間にとっては、自分のやっていることがどのようなことなのか、自覚することは大切だと思います。國分はこのことと関連するような興味深いことを言っています。

僕がこのペンを使って書くとき、僕はこのペンを支配しているように見えます。けれども実際には僕自身も、このペンを使用するために、ペンに合わせてなんらかの変化を被らなければならない。「このペンを使用する者」としてみずからを構成しなければならない。ペンぐらいだと物も小さいのでその変化はわかりにくいけれども、例えば自転車ならどうでしょうか。自転車に乗るとき、私は自転車を支配しているとはとても言えません。自転車と一体になり、自転車を使用する者へとみずからを構成しなければとても自転車に乗ることはできない。つまり、道具を使うときには道具を使っているというより、道具に使われている側面、あるいは、道具と私が一緒に使用を実現しているという側面がある。では、道具ではなく、自分の身体の器官あるいはその延長にあるものについて考えたらどうでしょうか。
例えば熊谷さんは、電動車いすを使う者へとみずからを構成することで、この電動車いすを使う者へとみずからを構成することで、この電動車いすに乗って移動されるのだと思います。すると、そもそもどこまでが自分の身体なのか、自分の身体の輪郭はどこにあるのかという問題が出てきます。つまりどこまでが自分で、どこからは自分でないと言えるその根拠はなんなのか?
(『責任の生成』第四章 中動態と「責任」/國分功一郎の発言より)

私たちは長らく同じ道具を使っていると、それが半ば自動化してしまって、このような疑問を忘れてしまっています。それとは反対に、けがや病気をすると、今まで意識していなかった身体の器官や部分が急に意識に上ってきて、自分でも驚くことがあります。これが障がいのある方の場合に、次のようなことも起こりえます。熊谷の発言を読んでみてください。

極端な例ですが、とても真面目そうな、そして障害者運動の歴史もよく勉強している介助者候補がいて、これはと思って介助に入ってもらったのですが、それはそれはもうたいへんでした。
とにかく徹底した指示待ちのスタンスを取ったのです。「さてそろそろお風呂に入ります」と私が言うと、風呂場に連れて行ってくれる。しかしそのあとはじっとしたまま動いてくれない。私は、お気に入りのドラマを観たあとにお風呂に入りたいというところまでは自分で決めたいのですが、それ以上の細かいことまで決めたいとは思わないわけです。ところが、彼は動かない。「どうして動かないの?」と聞くと、「どこから服をぬがせたらいいのですか?」。で、指示をする。そしてまたじっとしているので聞くと、こんどは「どこから洗えばいいのですか?」と(笑)。頭から洗うか、それとも、背中からか、いや、おなかから、それとも左手から洗うか。「では、左手かお願いします」と言うと、「左手のどこからですか、ワキからか、肘からか、手の指からですか?」(笑)このようにあらゆる行為を細分化できるわけです。手の指から洗うといってもどの指からなのか、そしてその指の付け根から洗うのか先端から洗うのか。もうこれは永久に終わらないわけです。
よく考えてみると、「健常者」と呼ばれている人たちも、おそらく「よし、今日は左手の付け根から洗うぞ」と決意して洗っているわけではないでしょう。たぶん、昨日と同じように洗っているだけです。そして昨日はどう洗ったのか、そのときの記憶なんて残っていないから、「魂」の指示を待たずに、なかば身体が勝手に動いて、洗ってくれる。それなのになぜ私だけが親指の付け根からなのか先端からなのかを決めなければならないのか。ひそかに憤慨しつつ、そういう現実的な問題に直面したわけです。
(『責任の生成』第二章 中動態と「主体」の生成/熊谷晋一郎の発言より)

これはたいへんですね。このような話を聞いた後で中西夏之のことを思い出してみると、彼は無意識のうちに自動化されてしまっている行為を、意図的に意識に上るようにしているのだと思うのです。それも、絵画という概念にとって重要な部分を取り出して、それを徹底的に、そして意識的に行うのです。そのことによって、中西はきわめてラディカルな絵画を制作できたのです。
しかし、こういうふうに日常的に自動化されて行っていることを意識化することは面倒なことであり、決して効率的なことではありません。國分も熊谷も、「中動態」的な、あるいは「当事者研究」的な考察から、このようなことに気づいたのですが、それは何か意味のあることなのでしょうか。
この本の中で、著者の二人が何回か言っていることですが、中動態的な考え方は、何かの救いになったり、何かを便利にしたりするためのものではありません。むしろそれは、面倒なことだったり、大変なことだったりするのです。しかし、それでもその概念を考察することが重要なのは、例えばスピノザが言っているような、本当の自由や、本来の人間らしさを取り戻すためのものなのです。能動か受動か、その行為の責任は当事者のどちらにあるのか、ということを素早く判定してきたモダニズムの考え方を再検討するということは、あえて面倒なことを引き受けることにもなります。しかしそれは必要なことなのだと、私は考えます。
さて、最後に第一章の中の「意志することは憎むことである」という小見出しの後の、二人の会話をそのまま書き写しておきます。とても面白いやりとりです。

<國分> 熊谷さん、ありがとうございます。ここで少し、依存症の話をしましょう。程度の差こそあれ、基本的に人間は多かれ少なかれ依存症であるというのが僕の仮説ですが、もし人間が生きていることと人間が依存症であるというが同義であるとすると、多くの人が過去をある程度は切断して、自分をある程度否定したいと考えるのは当然かもしれない。それは死にたいということではない。しかし、目を輝かせて自分の存在を全部認めて生きたいというわけでもない。
僕は『中動態の世界』の第七章でハイデッガーを論じています。ハイデッガーは意志の概念について批判的なのですが、この概念についてすごいことを言っているんですね。三つあります。まず、「意志することは始まりであろうとすることである」。これは先に説明した「無からの創造」としての意志のことですね。興味深いのはそこから導き出される次の命題で、ハイデッガーは意志について、「意志することは忘れようとすることである」というんですね。
<熊谷> うーん、本当にすごい人ですね。
<國分> ええ、すごいんです(笑)。「意志することは忘れようとすることである」。他の誰がこれを指摘しただろうかと思います。これはつまり、「意志することは考えまいとすることである」という意味でもあります。
最後が、「意志することは憎むことである」。自分が生きている現在というのはどうにもならない。過去によって規定されてしまっている。このどうにもならない過去を前にして、人はそれに復讐したいという気持ちを抱く。意志はこの復讐の気持ちと切り離せない。
<熊谷> 「過去を憎む」という表現はすごいですね。シビれます。
<國分> ええ、僕も。
<熊谷> 途中まではある意味で常識的かと思いますが、最後の「憎む」という言葉がただごとではない。
<國分> そうですね。ハイデッガーは「覚悟」という言葉を使っていますね。意志と覚悟というのはしばしば混同されるんですが、じつはまったく異なるものです。意志が過去の切断だとしたら、覚悟というのは現在・過去・未来を自分で引き受けるということですね。連続体のなかに身を置くのが覚悟であるわけです。ハイデッガーと意志概念の関係はやや複雑で、彼は『存在と時間』からしばらく意志概念に惹かれていたように思われます。それがニーチェの読み直しを通じて変わっていく。ハイデッガーのなかで、覚悟と意志がハッキリと分かたれるようになったと言っていいのかもしれません。
ともあれ、ハイデッガーは言葉遣いが非常に難しいので、なかなか応用するのが難しいですね。ただ、言葉遣いの難しさをクリアできれば、彼は意外とわかりやすい、日常的なことを話しているんですね。彼の結論には納得できないことも少なくありませんが、中動態とか、意志の批判という議論の文脈に置くと、思いのほかすんなり読める感じがします。
・・・・
(『責任の生成』第一章 「意志」と「責任」の生成)

「意志」を示すということは、過去を断ち切ることにもなる、というのは、私たちにも実感できるところだと思います。多かれ少なかれ、私たちはそういう難しい局面に立たされることがあります。そのときに何らかの意志を示し、何らかの判断をするわけです。しかしそこには「過去・現在・未来を自分で引き受ける」という覚悟があったのか、きわめて怪しいと言わざるを得ません。これは自分自身の判断の戒めにもなりますが、最近の政治家にはとくにわかってほしいところです。
そして考えておかなければならないことは、「覚悟」があればそれでいい、というわけではないということです。能動と受動しかない世界においては、意志を示すのか、示さないのか、という判断を迫られるのですが、それは冒頭で國分が言っていたように「尋問する言語」でもあるわけです。そこで私たちには「過去・現在・未来」の連続性を生かす方法もあるはずで、そうしなければならないときも必ずあるはずなのです。そういう局面を語る言葉として「中動態」が存在するのであり、その概念を私たちの思考の中に取り戻すことは急務である、と私は思います。「能動態」でも「受動態」でもない、しかし、だからと言ってあいまいなだけではない判断を表現する言葉、概念が今こそ必要なのです。
とくに芸術表現に興味のある人、それは芸術を表現する人であっても鑑賞する人であってもかまわないのですが、その人たちにとっては二者択一の単純化されていない言葉、概念について考えることがとても重要です。豊かな芸術の世界というのは、何も目新しい表現を探さなくても、もしかしたら私たちが目にしてきた作品の中にもたくさんあるのかもしれません。例えば過去を切り捨てないことで過小評価されている作品が、あなたの周囲にはないでしょうか。
そして、そのような表現に目を向けることと、例えば薬物中毒や障がいについて考えることとがどうやら深いところでつながっているらしく、そこには予期しなかった世界の広がりがあるようで、何だかワクワクします。芸術とか障がいとか、効率重視のモダニズムの世界では周辺にあったものが、いまとても重要なものとして繋がっているのです。

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