平らな深み、緩やかな時間

319.『絵画の二十世紀』前田英樹を読む ②

前回と同様のお知らせです。

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)に三浦市の諸磯青少年センターでの『HAKOBUNE』という展覧会に参加します。この展覧会のパンフレットのpdfファイルは、私のHPからご覧いただけます。ぜひ、ご一読ください。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

残念ながら、台風が来ていますね。初日の午後には天候が回復しそうですが、状況によっては、事務局の方と連絡を取り合っておでかけください。

 

さて、今回は前回に引き続き『セザンヌ 画家のメチエ』を書いた前田英樹さんの著書『絵画の二十世紀』を読み解いてみます。この『絵画の二十世紀』は、後期印象派の画家セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)以降の現代美術家たちを扱った本です。副題として「マチスからジャコメッティまで」となっていますが、一般の美術史の本のように20世紀の美術を網羅した本ではありません。取り上げられている美術家は、マチス( Henri Matisse, 1869 - 1954)、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)、ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)、ルオー(Georges Rouault, 1871 - 1958)の四人となりますが、その主役はセザンヌです。セザンヌのなし得た仕事を、その後の美術家たちがどのように継承したのかが、この本のテーマとなっています。

そのセザンヌの仕事については、前回までのblog『絵画の二十世紀』①、『セザンヌ 画家のメチエ』①、②ですいぶんと考察しました。ですから、もし今回の文章でセザンヌからのつながりがわからないようでしたら、お手数ですがそれらの文章を参照してみてください。

しかし一応、ここまでの話の要点をまとめておきましょう。

 

セザンヌは、自らの「視覚」が見たものの色を、そのまま画面に移そうとした画家ではありません。セザンヌは、自らの身体や感覚を通して変換された独特の色を表現しようとした画家です。その独特の色は、単なる気分や感情で変換された色ではありません。セザンヌが変換した色には、表現主義や象徴主義などの画家とはちがった論理が働いていて、その色でなくてはならない必然性があったのです。そこにはセザンヌ独自の「感覚の論理」による規則性があった、と前田さんは見ていますし、実際にセザンヌはそのように語ってもいます。

同じ印象派の画家であるモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)とセザンヌとを比較してみると、モネは「視覚」が感受した色を自然と平行しながらも「光=色」というふうに変換できると考えていました。しかしセザンヌはさらにそれを空間の奥行きやモチーフの存在感までも含めた「感覚の論理」によって変換しなければならない、と考えたのです。

整理してみると、モネとセザンヌの表現上の相違として、「視覚」(モネ)と「感覚」(セザンヌ)という表現に関わる器官の認識の違い、あるいは自然からの直接的な変換(モネ)と、「感覚の論理」による変換(セザンヌ)へ、という相違があったというのが前田さんの解釈です。

このようなセザンヌの絵画における特色を理解した上でもうひとつ、二十世紀絵画とセザンヌの絵画を比較検討していく上で、前田さんが提起した問題について触れておくことにしましょう。それは絵画の「モチーフ」の問題です。

セザンヌは「感覚の論理」を駆使することで、「感覚」の受容する世界の「リアリティ」を探究しました。さらにその「リアリティ」を追究するためには、絵画の「モチーフ」の設定が鍵となります。ここでセザンヌの時代の絵画と「モチーフ」の関係について考えてみましょう。

セザンヌよりも少し前の時代の画家、ロマン派のウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)にとって、絵画の「モチーフ」は絵画の主題と大きく関わりがあり、画家が何を主題として選ぶのか、ということが問題でした。ドラクロワは、古典派の画家たちとの違いを鮮明にするために、歴史画の大作よりも激しい動きのある構図や革命の一場面を主題として選んだのです。

しかしセザンヌの時代には、写真技術の発達によって、絵画の映像記録としての役割が薄れてしまいました。肖像画や歴史画を描く多くの画家にとって写真は大きな脅威でしたが、写実的な絵画にまったく興味がなかったセザンヌにとっては、それほどの影響はなかったようです。彼はひたすら「感覚」の「リアリティ」を追究したので、「モチーフ」の問題は「感覚」の「リアリティ」の問題として現れたのです。つまり「モチーフ」(描画対象)として選ばれたものの細部の写実的な表現には興味がなく、「モチーフ」から感受される存在感の「リアリティ」だけがセザンヌにとっては問題であったのです。セザンヌが絵画の平面性の探究や抽象絵画に対して興味を抱かなかったのも、この「リアリティ」の探究と関わりがあるのですが、そのことについては後で見ていくことにしましょう。

そして私の見るところでは、後の時代でそのセザンヌの方向性を正しく認識していた芸術家は、唯一ジャコメッティだけだったと思います。それは前田さんの見立てと、ほぼ共通するようです。

 

こんなところで、前回の話は終わりました。今回は、このセザンヌの「感覚の論理」の問題、そして彼が探究した「リアリティ」の問題について考えていきます。そしてそのことと「モチーフ」との関わりについても考察します。

それでは、彼以降の美術家たちがどのようにそれらの問題に取り組んだのか、あるいは取り組まなかったのかを見ていくことにしましょう。

 

まずはじめに登場するのは、フォーヴィスムの画家であり、ピカソと並び称される20世紀絵画の巨匠であるマチスです。

そのマチスが、セザンヌが描いた『三人の水浴の女たち』という絵を所有していたことは有名な話です。マチスの作品には、セザンヌの影響を色濃く読み取れるものがありますが、同時にセザンヌとの資質の違いも目立ちます。何が二人に共通していて、何が違っていたのか・・・、前田さんの次の文章にはそのことが書かれています。

 

マチスが『三人の水浴の女たち』から、さまざまな時期に汲み上げてきたものは、結局のところセザンヌのこの果てしない絵画への祈願ではなかっただろうか。マチスがこの絵を彼自身の「出発点」にしたということは、彼がここにある生への礼賛の儀式を、密かにセザンヌと共有したという意味だ。

だが、マチスは女の裸体をモチーフとして直接描いた。それは、まず何と言ってもアトリエ内でのデッサンという方法に基づく。マチスは、セザンヌが水浴の裸婦において示す形態の確固とした姿に何度でも驚く。が、デッサンから出発する絵画を憎むこの老画家の偏執は、マチスには縁のないものだった。彼は、線が絵画記号のひとつである、というこの明瞭な事実を、さらにどこまでも明らかに示そうとした。1945年の談話のなかで、彼はこう言っている。「デッサンにおいては、それがただ一本の線で描かれたものであっても、その線が取り囲む各部分に無限のニュアンスを与えることができる」と。

(『絵画の二十世紀』「第一章 「感覚の絵画」の誕生」前田英樹)

 

前田さんは、このようなマチスの絵画の系譜を、古典派の画家アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780 - 1867)のデッサンから、後期印象派のポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin, 1848 - 1903)の面的な絵画へと続いていると考えて、その流れの延長線上に位置づけています。

このような「線」による表現、あるいは「色面」による表現によって達成された絵画空間は、絵画の平面性を強調したものとなります。しかしそのような絵画空間を、セザンヌは決して認めませんでした。セザンヌは奥行きのある空間の「リアリティ」をどのように絵画として表現するのか、ということに取り組んだのです。

したがって、この両者の表現上の相違は、単に画家の趣味の違いではありませんでした。画家にとって最も重要な「リアリティ」の問題なのです。まじめな表現者であれば、自分にとって切実な「リアリティ」が表現上のどこにあるのか、あるいはどこに求めるのか、が最も重要な問題となります。そしてそれは、絵画表現というものをどのようなものとして認識するのか、ということにも関わります。

もう少し前田さんの説明を読んでみましょう。

 

この世で、厚みも変化も持たないものが、記号であり、それはたぶん人間の世界にだけ存在している。絵画上の線や色が持つ「記号」としてのこの性質を、画家がはっきりと意識し始めたのは、マチスやピカソの世代から後だろう。他方、記号でないすべてのものは「質料(マチエール)」ということになる。「質料(マチエール)」は物の厚みや変化を持ち、私たちの身体につながる肌理を持っている。絵画上の線や色を記号としてはっきり意識する、ということは、すなわちこの質料(マチエール)の純粋な在り方をはっきり意識する、ということでもあった。

しかし、19世紀半ばの写真の登場は、すでにいろいろな形でこうした意識を画家たちにもたらしていた。写真は、絵と同じように平面の上に立体に関わる像を作る。けれども、そのやり方に「記号」というものが働く余地はない。写真は、機械による光の遮断を通して、おそろしく瞬間的な像を紙に焼き付けるだけである。写真機は、レンズによるその知覚に何ひとつ付け加えることはできない。ただ、世界から一定量の光を差し引く。そこに像ができる。

絵画はそうではない。絵画の像は、色や形の組み合わせ、すなわち絵画記号のコンポジションによってできる。記号を増やしたり、減らしたりは、画家の意のままに行える。ということは、絵画は視覚を超えた感覚の事実を、平面上の記号によって新たに作り出せるということだろう。物の持続とひとつになった奥行きが、そうして創り出される。奥行きは、遠近法が教えるような視覚の所与ではない。誰かが、ある位置から見るから、これこれの奥行きが透視される、そんなこととは違う。奥行き、ヴォリーム、厚みは、物が「在る」ことそれ自体にとって、何かもっと本質的な事柄だ。物が持続し、変化し、時間のうちにあってさまざまな質を繰り広げる、奥行きはそうしたことの直接の表れだ。セザンヌは、そんなふうに考えていただろう。

(『絵画の二十世紀』「第二章 純粋感覚とは何か」前田英樹)

 

セザンヌにとっての「リアリティ」は、奥行きの在る世界をどのように平面上に表現するのか、ということでした。その「リアリティ」を追究するために、彼は「感覚の論理」という概念にたどり着いたのです。

一方のマチスは、先ほども書いたように、絵画における「線」の重要性について考えた画家でした。そのことから、マチスがアングルのデッサンから続く流れに連なるものだと考えられたのでした。しかしその一方で、マチスの絵画はアングルの時代へと逆行するものではありませんでした。マチスはそこに「装飾性」を導入し、その表現を開放的なものにしようと試みたのです。

 

『バラ色の裸婦』(マチスの作品)は、誰が見ても装飾的な絵と感じられる。その理由が、この絵の極端なほどの平面性や、色面の規則的な単純さに在ることもよくわかる。だが、ここにある装飾性は、デッサンによる裸婦のヴォリュームを生々しく包んでいなければ、崩れ去ってしまうものではないか。また、裸婦のヴォリュームは、これらの単純な色面に包まれていなければ、身体の外に向かって、これほどの生きた弾力を、純粋な喜びを開放させることはない。マチスのなかの「装飾」への欲求とは、物の形に閉じようとするデッサンへのこの開放の意志とほとんど同じものである。

デッサンは、なぜ画面いっぱいの色面の装飾性へと開放される必要があるか。おそらく、在るものへの信仰を、感覚の爆発する喜びに変えるために。ここにマチスという画家の天性がある。

(『絵画の二十世紀』「第二章 純粋感覚とは何か」前田英樹)

 

マチスのデッサンの線は、モチーフの輪郭的な形を正確に表現するものではなく、モチーフのヴォリュームを表現しようとするものでした。さらにマチスはそこに「装飾性」を導入することによって、「モチーフ」の存在感を喜びに満ちた開放感とともに描き出そうとしたのです。

ここにおいて、マチスとセザンヌの表現者としてのスタンスの違いが明確になったのですが、20世紀の絵画を振り返ってみると、セザンヌの成し得たことは、マチスの表現へと吸収されてしまい、顧みられることがなかったように思います。

 

次に、一般的にはセザンヌの芸術の正統な継承者として位置づけられる、キュビスムの画家ピカソについて考えてみましょう。

ピカソがセザンヌの正統な継承者として認識されているのは、彼がモチーフの形体を単純化し、そのモチーフが置かれた奥行きのある空間を平面である絵画に置き換えようとしたからでした。ピカソのこの方法を単純化して言えば、立体的な図形を平面的な展開図に置き換え、その展開図をあらためて絵画として再構成したのだと言えるでしょう。

セザンヌは奥行きの「リアリティ」を探究する際に、モチーフの形体を単純化するような方法について語りました。しかしセザンヌがその言葉通りに制作したことはなく、ましてやピカソのような明快な方法は、セザンヌの「感覚の論理」とは相容れないものだったはずです。ですから私は、ピカソがセザンヌの芸術の正統な継承者だという解釈は、大きな過ちであると考えています。

前田さんは、ピカソにはセザンヌとは異なる芸術上の着眼点(ピカソ独自の表現上の「リアリティ」と言ってもよいでしょう)があり、それがこの二人の芸術家の差異であった、というふうに解釈しています。

その前田さんの解釈を読んでみましょう。

 

画家は、視覚から一般観念に進むのではなく、感覚されるものから絵画記号へと一挙に進む。この経路のなかで、画家には、さまざまな感情(affection)が生じる。が、結局それらの感情は、感覚されるものの絵画記号による「実現」(セザンヌ)に向かって、超えられていくものだろう。ピカソがセザンヌを終生にわたって唯一の師とみなしたのは、セザンヌこそこの方法を自覚的に、しかも徹底して方法的に用いた最初の画家だと、思われたからである。

しかし、感覚されるものは、自然のなかだけにある。社会を形成し、人間に無数の欲望を生じさせる諸記号の働きは、感覚の対象にならない。ところで、人間を描く画家が、こうした働きを捉え、描き出すことに無能力であっていいものだろうか。ピカソは、この問題の存在を、実によく知っていた。いや、そういう言い方は、誤解を招くかも知れない。こう言い直そう。ピカソほど、社会的な現実に直接な眼を向け、それを感覚の表現に置き直そうと努めた画家は、実に稀であると。ピカソのこの資質は、セザンヌには決してなかったもの、彼とはほとんど相容れない能力だったと言ってもいい。

(『絵画の二十世紀』「第三章 見えないものに向かって」前田英樹)

 

これは例えば、ピカソの大作『ゲルニカ』の強烈な表現力を評価した言葉なのでしょう。ピカソは、極端なことを言えば若い頃の『アヴィニョンの娘たち』やその後の分析的なキュビスムと呼ばれる作品群から、絵画の方法論としては一歩も進んでいません。ピカソはその後、先進的な表現を追求することをやめて、自分の開拓した領域の中で芸術を謳歌した画家だと思います。そのような姿勢をどう評価するのか、人によって違うのでしょうが、前田さんはそのようなピカソのことを「社会的な現実に直接な眼を向け、それを感覚の表現に置き直そうと努めた画家は、実に稀である」と肯定的に評価しているのです。私もその評価について妥当であるとは思うものの、やはり若い頃のピカソに比べて晩年のピカソは特別に興味深い画家ではなくなってしまいました。

 

さて、後二人の芸術家が残っています。この『絵画の二十世紀』では、この後でジャコメッティが取り上げられ、最後のルオーのことが書かれています。ルオーも良い画家ですが、正直に言ってセザンヌ以降の絵画を語るにあたって、四人の画家の中にルオーが含まれていたのは意外でした。ルオーの古いステンドグラスのような重厚な絵画は確かに魅力的ですが、その宗教的な題材も含めて20世紀の絵画としてルオーをどう評価するのか、人によって意見が分かれる画家だと思います。

そのルオーについて、前田さんは次のような文章でまとめています。

 

ルオーは宗教的な画家だと言われる。彼の絵の主題には、なるほど、キリスト教に関わる物がたくさんある。けれども、それは何やら生まれつき宗教的傾斜を持った人間が、気質に合った絵を描いたということではない。ルオーの信仰は、何よりも絵の外に「在るもの」への驚き、畏れ、希求、信頼といった感情から成り立っている。この信仰心が、「私は在る」という名前の神さまに、神さまの化身に、突如出くわしただけのことだろう。たぶん、道化師が休んでいたあの道端で。以後彼は、この化身を絵の神さまとして感覚の中心に持ち続けた。ルオーにとって、キリストという「在るもの」の化身が、尽きることのない主題の源泉だったとは、そういうことを意味する。そうだとしたら、彼の信仰は、絵と絵の外に「在るもの」との関係によって描くあらゆる画家に共通の信仰を基礎にしていると言った方がいい。

(『絵画の二十世紀』「第四章 絵画は何のために在るのか」前田英樹)

 

以前にも書いたことですが、私は自分の絵画の問題として、「主題」や「モチーフ」と絵画表現との関わりについてこれから考察していこうと思っています。それだけに前田さんの著作は興味深いのですが、このルオーの評価について言えば、前田さんの思考に若干の飛躍があるように感じます。

それは例えば「以後彼は、この化身を絵の神さまとして感覚の中心に持ち続けた」という一文です。ここでは宗教としての「神さま」が、いつの間にか「絵の神さま」に化身しています。あるいはその後の文章では、「キリスト」という存在を描くことが「在るもの=存在一般」を描くという意味に置き換えられています。そして最後の文章では、「在るもの」を表現する画家たちは「共通の信仰を基礎にしている」というふうに書かれているのです。私自身、ここで書かれているような「在るもの」との関係を描こうとしている画家の一人であると自負していますが、それを「信仰」という言葉で語られることには違和を感じます。

この違和感は、前田さんのピカソの評価とも繋がるものでしょう。私たちは信頼できる批評家に出会ったからといって、その人のすべての考えを受け入れる必要はありません。もちろん、前田さんのルオーの評価もピカソの場合と同様に、否定するものではありません。ルオーという画家がその宗教性と絵画的な表現が密接に結びついた画家であることに異論はないのです。しかし、今のところ私はルオーのような表現を目指すつもりはありませんし、ピカソのように社会的な問題をモチーフにするつもりもありません。それは絵画表現の重要な「主題」のひとつではありますが、「あらゆる画家に共通の信仰を基礎にしている」とまでは言えないのではないか、というのが私の意見です。

 

それでは最後になりますが、前田さんはジャコメッティをどのように評価しているのでしょうか。前田さんはピカソと比較しながら、ジャコメッティについて語り始めます。

 

哲学者、矢内原伊作(やないはらいさく)は、ジャコメッティのピカソ評をめぐって面白い談話録を手帖に残している。それは1960年8月11日付のメモにある。

「悪いモネ、悪いコローは決して存在しない。いい画家が悪い絵を描くことは考えられない。ピカソはモネでもコローでもない。ピカソの場合、いい絵にも悪いところがあり、悪い絵の中にもいいところがある。これは危険なことだ。」

この言葉は、ピカソを語るより以上に、この現実主義の巨人を前にした時のジャコメッティの苛立ちを語っているだろう(もっとも、この日、彼は妻アネットとの痴話喧嘩でずいぶん苛立っていた模様だが)。

アルベルト・ジャコメッティにとっては、おそらくピカソがその感覚の胃袋に流し込む「現実」のほとんどは、絵画の対象ではない。彼がピカソの絵の中で「いいところ」というのは「自然」の純粋な位相、感じられるままの姿が統一されて現れた部分のことだろう。たとえば、自分の子供のパウロやマヤを描く時、そこにピカソほど、自然に対する無邪気な、澄んだ感嘆の念を表している画家はいない。こういう時、彼は「人間は自然の道具である」ことをはっきりと感じながら描いている。ところが、そこにも必ず「悪いところ」が入り込んでくる。それによって、子供の顔は奇妙に陰り、時には歪む。なぜそういう要素を持ち込まずにはいられないのかと、ジャコメッティは訝る。

ピカソの絵のなかに必ずある「悪いところ」というのは、明らかに彼の絵が持つ本質的な要素であり、これを捨ててはピカソはないのだ。彼が持つ「悪いところ」は、分裂し、歪んでいる。それは、彼の感覚を歪ませ、分裂させるものが、現実の側にあるからであり、この強大、旺盛なリアリストは、その場所にどっかりと腰を据えて生きる。人間社会の現実は、自然への感覚を引き裂く無数の記号作用によって縦横に貫かれている。そのことから眼をそむけるリアリズムなど、ピカソにはありようがない。

「私は探究しない、見つけるのだ」とピカソは言っていた。いつか運よく拾えるかもしれない財布をきょろきょろ探している男に、誰が関心を持つか、と。これに対して、ジャコメッティは、まさしく「探究する人」だった。むろん、彼は財布など捜しているのではない。眼の前にある対象が、その対象となる言わば最後の理由に向かって、彼は制作し続ける。その「理由」は、直接見えるものでなければ、制作には何ら役立たない。この場合、見るとは、やはり見えることを超えて、そこに「在るもの」を感覚すること、感覚の通路からそれを身体のなかに流入させることである。ジャコメッティもまた、セザンヌの恐るべき子供だった。

(『絵画の二十世紀』「第三章 見えないものに向かって」前田英樹)

 

ちなみに矢内原伊作(1918 - 1989)さんはジャコメッティのモデルを務めたことで有名な哲学者です。彼のジャコメッティに関する著作は貴重なものなので、読んだことがない方は、ぜひ読んでみてください。それは美術批評というよりは、直にジャコメッティと接した人の第一次資料としての価値があります。

さて、ここで興味深いのは、ジャコメッティが「直接見えるものでなければ、制作には何ら役立たない」という態度でモチーフに立ち向かった芸術家だということです。彼が初期において、半ば抽象的な、あるいはシュールな作品を作っていて、そのクオリティにおいて飛び抜けた芸術家であったことは誰もが認めていることです。そのジャコメッティが具体的なモデルを前にするようになると、マッチ棒のような小さな彫刻を作ったり、針金のような線を重ねたデッサンやタブローを描いたりしたことは、それだけでも興味深い事実です。

前田さんは、この本の結びの部分でもジャコメッティを取り上げて、次のように書いています。

 

画家は私たちの知覚からこぼれ落ちるものすべてを、感覚の論理と技法とによって拾い集める。画家は、人間が知覚によって為し得ないことを、感覚によって為す。知覚だけでは足りない、とは、生きるだけでは足りない、行動のために考えるだけでは足りない、という意味である。自然とは、生とは、人間とは何かが、問われなくてはならない。ジャコメッティが言った通り、そういう問いがなければ、結局絵画は成り立つことができない。それどころか、こうした問いを正確に出す能力が、実は「感覚」にあることを。画家たちの仕事は示してやまない。また、そういう彼らの問い方が、すでにどれほど多く、人間の文明をその自滅から救ってきたかということに、私たちはもっともっと気付いた方がいいのだ。

が、もう議論はやめておこう。彼らが描くものを見れば、それはわかる。「在るもの」への信仰によって、ただそれだけによって、絶え間なく再開されてきた彼らの絵の中で、無数の顔が、物が言っている。「私は『私は在る』という者だ」と。見る者に、このことを知らせるために、絵画は在る。画家たちは、みなモーセである。

(『絵画の二十世紀』「第四章 絵画は何のために在るのか」前田英樹)

 

このように絵画について語るときに、その表現の動機となることに重点を置いた批評は、現在ではあまり見られないのではないでしょうか。かつてはセザンヌやジャコメッティの作品の素晴らしさもろくにわからない老批評家が、何やら独善的な言い方で「画家が絵を描く動機はこうあるべきだ・・・」というようなことを言っていました。そのような質の低い批評に対して、たとえば藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 -2018)さんのフォーマリズム批評は、絵画の内容そのものに眼を向けて、論理的で質の高い批評を展開した点で画期的であったと思います。

しかし、これらの批評を読んできた私たちは、さらに批評の言葉を進化させていくために、たとえば批評として最も語りにくい「感覚の論理」について、少しずつ言葉にしていく必要があるのではないでしょうか。そしてこの「感覚の論理」が、画家が自分にとっての「リアリティ」を追究していく過程で作動するものだとしたら、画家が「リアリティ」を求める理由=動機について考察する必要があるでしょう。

そのことを示唆した点で、前田さんの『セザンヌ 画家のメチエ』と『絵画の二十世紀』はもっと広く読まれるべき著作だと思います。しかし、ここで引用した結びの文章の最後の段落はいただけません。「もう、議論はやめておこう」と前田さんは書いていますが、議論をやめるわけにはいきません。「彼らが描くものを見れば、それはわかる」は、その通りかもしれませんが、「それ」をどのようにわかったのか、その理解した内容を語り合うことに芸術を鑑賞する楽しみがあります。「画家たちは、みなモーセである」という結びの言葉について言えば、画家が表現者としてモーセのように何かを訴える人だということなら納得できますが、「画家たち」が「モーセ」のような聖人であるということなら、それはそうではありません。セザンヌでさえ、ただの人間です。だからこそ、彼らがどのようにして表現の高みに達したのかが興味深いのです。

 

最後になりますが、もう少しぼやいておきます。

前田さんが『絵画の二十世紀』を書いた意図としては、セザンヌの芸術を引き継いだ人として、マチス、ピカソ、ジャコメッティ、ルオーを等しく語ることであったのかもしれません。しかしその一方で、前田さんはマチス、ピカソ、ルオーがセザンヌとは異なる資質を持った芸術家であったことを正しく分析しています。

ジャコメッティだけが、何を「モチーフ」としたのか、そこにどのような「リアリティ」を求めたのか、という点でセザンヌと共通した芸術家だったのです。そのことは、前田さんの文章を注意深く読むとわかります。前田さんの著作から、私はセザンヌとジャコメッティの芸術について、よりはっきりとしたイメージを抱くことができました。そして、「モチーフ」と「リアリティ」の問題については、今後は自分の創作を通じて考察を深めていくことにしましょう。

もしかしたら、『HAKOBUNE』に出品した作品から私の探究の深化が少しわかっていただけるかもしれません。これから一ヶ月程度の展示期間がありますので、ちょっと(だいぶ?)遠いところですが、もしもご覧いただけたらとてもうれしいです。

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