吉田 秀和(1913 - 2012)という人をご存知でしょうか。
吉田が亡くなってからもうすぐ10年になりますから、知らない方も多いと思います。生前の吉田秀和は音楽評論家として日本では第一人者であり、大御所といっても良い人でした。私のようにクラシック音楽に疎い人間でも、吉田が定期的に新聞に書いていたレコード評やコンサート評を読んでいましたので、名前や顔写真までよく見かける馴染みの人でした。
その吉田秀和は美術評論も書いていていました。『調和の幻想』(1981)、『トゥールーズ=ロートレック』(1983)、『セザンヌ物語』(全2巻、1986)、『セザンヌは何を描いたか』『(1988)という1980年代の連続した評論は、私の学生時代とも重なるところがあって、興味深く読ませていただきました。吉田秀和はその後、水戸芸術館の館長になり、音楽ばかりでなく芸術全般における造詣の深さをいかした活動を続けていましたが、美術評論としてはその後、『マネの肖像』(1993)を著したぐらいで、1980年代のような活発な活動はしていなかったと思います。80年代の10年間で、彼が書きたかったものがある程度完結した、ということなのかもしれません。
その吉田の美術評論の特徴は、鑑賞者として作品を見て、感じたことから考える、ということでした。あらかじめ何かの思想や哲学から導かれた結論があるわけではなく、また新奇な作品を取り上げようという野心があるわけでもなくて、あくまで自分の体験から導かれた感動と、そこから生じた問いをくり返して評論の言葉を繋いでいったのです。そこが、美術評論に新たな指標を求めた当時の若い世代であった私の立場からすると、少しもの足りなくもあったのですが、一般的な美術鑑賞者から見れば、わかりやすい文章であっただろうし、ある種の普遍性を含んでいた、と言ってもよいと思います。
吉田秀和が亡くなって10年近くが経ち、専門の音楽分野ではないこともあって、彼の美術批評を振り返るような文章を見ることもなくなりました。しかし、それはちょっともったいないことだと思います。それに、現在の視点から読み返すと、吉田が美術作品への問いを次々と連ねていったことに対して、私なりに若干の答えを差し挟みながら読むことも可能です。
そこで、今回から断続的に吉田秀和の美術評論を読み返すことを、試みていきたいと思います。その吉田の足取りはゆったりとしたもので、いまよりものどかであった当時でさえ、音楽評論家としての絶大な信頼がなければ、このようなスピード感で雑誌(文芸誌『海』)に評論を書き紡ぐことは不可能だったでしょう。美術評論といえば、難しい用語が矢継ぎ早に出てきて、一編のエッセイには必ず結論めいたものが用意されているのが常識となっていますが、吉田の文章はまったくその逆です。彼の教養は隠しようもありませんが、文章はできるだけ自分自身の体験にそくした形で平易に書かれています。着地点を決めないで書かれているので、作品に対する疑問や問いが次から次へと繋がっていって、思わぬ方向へ内容が展開していきます。おそらく、抽象的な哲学談義や、小難しい最新思想への言及は、極力避けられていたのでしょう。その代わりに、美術評論なのに漢詩の解釈が出てきたり、もちろん音楽を例にとった説明も頻繁に見受けられます。美術評論としてはちょっと変わった、稀有な文章を味わうということも、このblogで一緒に体験していただければ面白いだろうなあ、と思っています。
さて、吉田の美術評論のはじまりは、『調和の幻想』という評論になります。この評論が書かれた動機がとてもユニークで、そもそもこんな漠然とした問いから書きはじめて大丈夫なのかな、と心配になるようなものです。まずは書き出しから見ていきましょう。
中国を訪問したものは、そこから強烈な印象を受けずにはすまされない。
急いでつけ加えておくが、私がここで中国と呼ぶのは北京とその近郊のことである。私は中国のほかの土地を知らない。それから、中国は、地球上のどの国から、どの方角から来たものにも、強烈な印象を与えずにおかないだろうが、私は日本人だから、私が受けた印象は、さし当たり、日本人としてのそれと考えてよかろう。
その日本人としての印象というと、大きくいって、二つある。一つは驚嘆、感嘆である。特に中国のもつ大きさ、巨大さに対するそれである。ここには、私のこれまで経験したものにくらべて、桁外れの大きさがあった。もう一つは、訝り、不審のそれである。「どうして、こうなったのか。どうして、こうなのか。」という怪しみである。
こちらは、多少の説明がいるだろう。
日本の文明が、かつて中国のそれの圧倒的な影響を受けて展開したものだということは、知らぬものはない。文学、宗教、学問、政治の制度等々。その結果、両国の間には多くの共通性があり、類似点ができた。にもかかわらず、日本は中国と、ひどく、ちがう。
中国の土地を踏み、はじめて北京に足を入れての私の最大の感想は、「ここは日本と何とちがうところだろう」ということだった。私は、中国を見るより、ずっと前から、何回かヨーロッパに旅行した人間だが、その私からみれば、中国は日本よりずっとヨーロッパに近かった。「中国旅行とは、ある意味では、第二のヨーロッパに出会う旅行のようなものだった」というのが、私の偽らざる感想である。
もっとも、ヨーロッパでは、いくら大きな建物にぶつかっても、たとえヴェルサイユの宮殿だろうとローマのサン・ピエトロ教会だろうと、あの北京の紫禁城(故宮)から与えられた超絶的巨大さという印象は受けなかった。
(『調和の幻想』「紫禁城と天壇」吉田秀和)
これを読むと、私ぐらいの世代の方はベルナルド・ベルトルッチ (Bernardo Bertolucci, 1941 - 2018)監督の映画『ラスト・エンペラー』のどこかの一場面を思い出してしまうかもしれません。
https://youtu.be/mTTeE1Lhbkg
しかし、上の文を簡単に解説すると、これは吉田秀和が北京の紫禁城に行ったときに、そのあまりの大きさにびっくりした、という話です。その書きだしで日本と中国との影響関係、ヨーロッパとの比較にまで話が及んだ上で、やっと「紫禁城から与えられた超絶的巨大さという印象」が導き出されてくるのです。この後の文章でも、吉田は日中の文明について語ったのちに、次のような結論を書いています。
日本と中国と、どこが類似し、共通していて、どこがちがうか。それを体系的組織的にいうことは、私の能力、知識をはるかに越えた問題である。とても手に負えないものとして、私は、最初から降参する。読者諸氏も、どうかそういうことを期待しないで頂きたい。だが、私は、このことに関し、ある一つのことを自分の目で見たように思う。私は、これから、その見たものについて、だんだんに書いてゆきたいと思う。
「目に見えたものについて、できるだけ正直に、正確に書こうと努力すること」
私は、これを自分が今後よりどころにするだろうところの、唯一の方法としたいと思う。
(『調和の幻想』「紫禁城と天壇」吉田秀和)
日本と中国の文明について、長々と講釈した上で「体系的組織的に」それらについて語ることは私にはできない、どうか期待しないでくれ、と言われると少々拍子抜けしませんか?そして「目に見えたものについて、できるだけ正直に、正確に書こうと努力すること」が「唯一の方法」だというのですから、そこには何か気の利いた展開を期待することなどできません。
この本をはじめて読んだ当時は、そんなことを深く考えなかったのですが、今ならば少し批判的に読むことができます。例えば、この吉田の紫禁城での体験について、現代美術に引きつけて考えるなら、その当時流行っていた「身体論」から考察してみるというのも一つの方法でしょう。
吉田は紫禁城の大きさを「東西700メートル、南北1000メートル余の矩形の城壁を持って囲まれ、その中に、実に700余りの建物を容れている」と書き、この数字からどれだけの人が「その広さ全体を直観する能力を持っておられるか」というふうに書いています。抽象的な数字ではなく、実際に建物の威容を前にした時、私たちは自分の身体の小ささを感じたり、自分の把握できる限界以上の大きさを感じたりします。
その時に基準となるのは、私たちの身体の大きさに見合った感性であって、頭の中ではじかれるだけの数字ではありません。近代科学の考え方からすれば、人間の身体の大きさも一つの数値でしかありませんから、それよりも大きいとか小さいとかいうことに特に意味はありません。
しかし、そういうふうに人間の限界を考えずにはじきだされた数値によって、近代科学は巨大な爆弾を作ってしまったり、大量の有害物質を垂れ流してしまったりしているのです。そういう科学的な思考の問題点を考えるときに、人間の身の丈にあった感覚、身体で感じとる快・不快の感情、大きなものへの畏怖の概念、などが重要になってくるのです。
この本が書かれた1980年代といえば、私の記憶ではフランスの現象学者のモーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)の、人間の知覚や身体性を重視した哲学が注目されていましたし、日本人では市川 浩(1931 - 2002)の『<身(み)>の構造』という著作が出版された頃でした。人間の身体を単なる「もの」として見るのではなく、そこに宿る知覚や感性を重視しなくてはならない、という思想です。
美術の世界においても、この時期までに作品のサイズについて、作品の大きさについて考えさせる動向がいくつかありました。
例えばアメリカの画家、バーネット・ニューマン(Barnett Newman、1905 - 1970)は、1950年代に鑑賞者が見上げるような巨大な色面の絵画を描き、芸術作品における「崇高さ」という概念について考察しました。ニューマンは美術批評も書く、哲学的な画家だったのです。
https://bookmeter.com/mutters/29376665
そして同じアメリカの彫刻家、リチャード・セラ(Richard Serra、1938 - )が1960年代の末以降、巨大な鉄板の彫刻やインスタレーションをいくつも発表しました。セラの作品の大きさを考える上で象徴的な出来事として、1981年にマンハッタンの連邦ビル前広場に設置した『傾いた弧』という作品があります。このセラの作品は公園の風景を遮ってしまうので撤去してほしい、という声が上がり、それが芸術作品における景観論争に発展したのです。結局、8年後に作品は撤去されてしまったのですが、私も一時的な展示ならともかく、恒久的にこのような作品を設置することには反対です。巨大な鉄板で公園に来た人の視野を否応なく遮ってしまうということは、やってはいけないと思います。セラには作家としての言い分もあるようですし、法律的なことはよくわからないので、私の感覚的な意見でしかありませんが・・・。
https://www.artlawworldjapan.net/blog/site-specific-art
話が吉田の著作からだいぶそれてしまいましたが、あと一例だけ、脱線させてください。
このblogでも何回か取り上げたイスラエルの芸術家、ダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930 - 2021)も1980年代には環境を取り込んだ巨大な作品を盛んに制作していました。
https://sdart.jp/archives/487
ニューマン、セラ、カラヴァンらの作品は、巨大でなければただの色面、鉄板、コンクリートの塊であり、自分よりも巨大なものを目にした時の畏怖の念、崇高の概念などが感受できなければ、意味がないのです。
こんなふうに、私のような無学な人間が思いつくだけでも、大きなものを前にしたときの人間の感情が、現代美術や思想にとって重要なポイントであったことがわかります。しかし、吉田秀和はそういった現代思想の方法論を一切使わず、「目に見えたものについて、できるだけ正直に、正確に書こうと努力すること」だけをよりどころにしているのです。この遅々とした歩みが、彼を絵画のパースペクティブの問題へと誘い、果てはセザンヌの絵画にまで辿り着くのですから、その粘り強い探究心は大したものだと思います。
このように、私のような現代美術にしか興味のない人間から見ると、紫禁城の壮大さの話題からどうして「崇高」という概念へと入っていかないのか、などといぶかしく思ってしまうのですが、吉田はここから、中国の色彩の使い方、シンメトリーな建物の構造などの問題を、杜甫や白居易、白楽天などの漢詩の構成や美意識に関連づけながら考察していきます。なるほど、中国の建物の美意識を探究するのに、形式や構成のはっきりした漢詩を参照するのは理にかなっているのかもしれません。しかし、そう思ったところで私のように日本の古典でさえ満足に読めない者にとっては、おいそれと手が出せる領域ではありません。私は吉田の分析を、ただ感心してながめるばかりです。
そして、日本に帰って自宅の庭を眺めながら、吉田は中国で見たシンメトリーの美と日本庭園について想いを馳せます。
私は、自分がこれまで見た、あれこれの日本の庭園を思い出してみる。そうして、詩仙堂では、庭が上と下にわかれているのが大切だったのだなとか、龍安寺の石庭のあの幾つかの石は、一体、どんな原理で並べられていたのだろう、ただでたらめというのでもなかろうが、とか思ってみる。私はまた、いつか醍醐寺でみた宗達の扇面を幾つもはった屏風の光景を思い出してみる。あの扇面は、宗達自身のはったものかどうか知らないが、あれも、私の写真はりと同じように、あっちに一つ、こっちに一つと、方式化することは至難だが、しかし、ある内面の力学とでもいった、目に見えないバランスの感覚に従って、乱れながら、しかも、見るものに喜びを与えるようにアレンジしたものではなかったかしら。そのうち行って、たしかめて来たいなと考える。
私は、こうして、庭から建物にゆく。桂離宮の建物は、はじめに全体像があって、それから部分をつくっていたのとは逆に、あれこれ、機に応じて、部分に部分をつけ加えていった結果に相違ないが、そこに少しも不調和が感じられなかったではないか。あれはなぜだろう。
要するに日本の庭や建物は「調和と均衡を得るには、シンメトリーの存在が不可欠だというわけではない」という事実を証明している標本のようなものだ。庭ばかりではない。日本では詩も、絵画も、音楽もそうではなかろうか。
(『調和の幻想』「対句とアシンメトリー」吉田秀和)
上の文で「私の写真はり」というのは、中国旅行の写真を自分のアルバムにはった時の、自分の貼り方の癖について言及したものです。そんな私事の些細なことや自宅の庭から宗達(江戸時代初期の画家、俵屋宗達のこと)の扇面屏風へ、さらに日本の建築や庭園へと話が及ぶのですが、この飛躍はやはり一時代前の教養人ならではのものだと思います。もしも私が自分の描いた絵から日本人の美意識について論じはじめたら、「そんなことは関係ないだろう!」と怒られそうです。ちなみに扇面屏風は次のようなものです。
https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP024/NP024.html
実際に吉田は醍醐寺におもむき、自分の直感を確認します。そこでさらに宗達の舞楽図に話が及び、その人物の配置が印象派のドガ(Edgar Degas 、1834 - 1917)の構図との比較へ、と発展していきます。
https://media.thisisgallery.com/works/sotatsu_06
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b327491178
さらに西洋と日本のパースペクティブの比較から『源氏物語絵巻』、葛飾北斎(1760 - 1849)が召喚され、ドガはここでも引き合いに出されています。それにスイスの象徴主義の画家、ホドラー(Ferdinand Hodler、1853 - 1918)と明治期の日本画家、菱田春草(ひしだ しゅんそう、1874 - 1911)も比較の対象となります。
https://www.wikiart.org/en/ferdinand-hodler/autumn-evening-1892
https://artscape.jp/study/art-achive/1215494_1982.html
もちろん、ホドラーの画面構成はシンメトリー(対称)に近く、春草の画面はアシンメトリー(非対称)である、という比較なのですが、それ以外にもホドラーの強固な西洋的パースペクティブに比べて、春草は日本的なパースペクティブについて探究したこともよく知られた話です。
こんなふうに吉田の文章をつまみ食いのように紹介していくと、いかにも教養人の思いつきのように読めてしまいますが、一つ一つの事象について自分の観察や体験を第一義に考えるという原則は曲げていません。そして広くて深い知識から語られる言葉は、確かに面白く、説得力もあります。もっともらしい学説に基づいて構築されたエッセイではないので、私たちも作者と一緒に漂流しているような気分になるのですが、それも心地よいものです。
そしてこの本が、セザンヌへと至る吉田の長い道のりの端緒となるのですが、そのむすびに近い部分で次のように彼は書いています。
古典的パースペクティヴの枠におさまらず、それをはみ出したヨーロッパの絵画、それは、マネ、ドゥガからのち、さらにロートレック、ゴッホ、ボナールといった世代の制作に至って、一層、その非古典性を尖鋭化する。そこでは、絵画がそれをみたあと「爽快な気持ちになって、また仕事に戻ってゆく」ような働きを発揮することなど、めったなことでは、望めなくなる。科学的パースペクティブは、それ自体が、理想主義的内容をもっていたとはいえないにせよ、そのパースペクティヴにより、均衡のとれた肖像とか、一つの調和により美しく完結された風景とかが生まれ得たことは事実であり、パースペクティヴに歪みや変貌が加えられるに従い、画面の均衡は、内側からつき崩されたり、腐敗し、空洞化されはじめる。そこに虚偽を見、そこから発する悪臭に耐えきれなくなったロートレックのような画家は、アシンメトリーをさらに尖鋭化させたり、一枚の絵であって、しかも二重の方向に走るパースペクティヴを持つといってもいいような作品を描きはじめる。それからゴッホの場合も、主観的には、疲れた人の心を爽やかにして生活の場に戻してやるような芸術の創造を、彼くらい熱望している芸術家はいなかったかも知れないのに、その彼の創り出した絵画は、まるでちがったものになる。彼が魂の平安への祈りを強化すればするほど、画面には、不安、でなければ恐怖、でなければ渇望、でなければ絶望が、ますます濃い影をおとすことになる。こういう人たちが、マネやドゥガのあと、日本の絵画と強くかかずらうようになったのは、偶然であるはずはない。
だが、その跡を追うことはこのつぎの話である。
(『調和の幻想』「北斎」吉田秀和)
このように書いて、予告通り、吉田はつぎにロートレックを中心とした美術作品を追いかけることになります。
この40年ほど前に書かれた本を読んで、私自身、時代の大きな変化を感じます。それはしきりに吉田が日本的なもの、西洋的なもの、中国的なもの、というふうに国や民族に関わる美意識を、時に歴史を遡りながら探究していることに対し、この本をはじめに読んだ時の私は、深い共感を覚えたものでした。
しかし、今はそういうことに、それほどの意味を見出せなくなっています。世界は信じられないほどグローバルになり、現在のパンデミック下においてもインターネットでつながりあうことに、さらに貪欲になっているように見えます。今や世界のどこにいても、美意識という点では、それほど変わらないのではないでしょうか。
例えば少し前には、銀座や秋葉原で爆買いしていた現代の中国の人たちに、漢詩の美意識が根付いているとは思えません。それは中国の人たちのことを悪く言うつもりではなくて、私たち日本人だって同じなのです。日本の代表的な美術品である浮世絵は、私たちにとって馴染みのものですが、それが私たちの美意識にどれほど深く根付いているのか、と外国の方に問われれば、苦笑いするしかないでしょう。
私はこれまでの美術の歴史の中で、国や民族による美の傾向が違っていたことに興味がないとは言いませんが、それがどこまで現代の私たちに繋がっているのか、と考えると懐疑的にならざるを得ないのです。おそらく、吉田もすでに、同じような複雑な思いを当時から抱えていたのでしょう。彼は次のように書いています。
それにしても、過去において、こんなに違う歴史と伝統をもった日本とヨーロッパの間で、その大きな相違にもかかわらず、深い関係が生じ得たというのは、そこに深い共通性があるからだろう。その共通性を追求することも、これからの人間の仕事になるであろう。
(『調和の幻想』「北斎」吉田秀和)
以前は、最後の挨拶文程度にしか読んでいなかった文章ですが、今読み直すと、大きな宿題をあずけられた気持ちになります。現在の私たちは「その共通性を追求すること」を、ちゃんとやっているのでしょうか。何となく、日本、中国、西欧の美意識が違っていると感じつつ、現代の人たちはそんなに違わないんじゃない?などと、場面に応じて都合よく話を転がしているだけなのではないでしょうか。吉田の宿題は、手がつけられずに放置されたままなのです。
吉田秀和のような巨視的なものの見方のできる教養人は次第に姿を消し、その後は蛸壺的な学者たちが、先代の教養人たちの揚げ足をとって得意になっているように私には見えます。しかし、さらにその後の世代の若い学者たちの中には、世界はこのままではダメになる、とばかりに専門分野を超えるような著作や活動をしている人たちがいます。現代思想なんてつまらない、と思っている方がいたら、私と一緒に吉田のような教養人から現代の若い学者まで、偏見を持たずに学んでみませんか?私はこの世界に絶望していませんし、私の子供たちの世代のことを考えれば、絶望したまま何もしない、なんてことは許されません。吉田の宿題も、ゆっくりと手をつけていきましょう。
さて、最後にちょっと先走った話を書いておきます。
いま、私たちが生きていて、物を見たり、感じたりするところからしか始められない、ということを私はセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)から学びました。その点では、僭越ながら吉田秀和と私は共通するものをセザンヌのなかに見ていたのかもしれません。だから私は、吉田秀和の美術探究がセザンヌ論に達したのは必然だったのだと思うのです。
そんなわけで、吉田の足跡をこれからも断続的に見ていきましょう。
最近の「ART」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事