平らな深み、緩やかな時間

188.高島芳幸とさとう陽子、絵画の成り立ちについて

このところ、『タルコフスキーとキーファー』、『ビル・エヴァンスとサイ・トゥオンブリー』、そして現役の作家、宮下圭介とポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)、リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )と、分野、時代の異なる芸術家を並べて論じています。とくに宮下さんとポロックやリヒターとの比較は、名だたる巨匠と現在進行形の作家ですから、比較対象としてアンバランスにも見えるかと思います。私自身、私がピンと来ない芸術家と私が尊敬している芸術家を同列で書かれている評論と出会えば、そもそもこの評論家はものの価値がわかっているのか、作品の水準というものが理解できていないのではないか、といぶかしく思うことがあります。
しかし、それは結局のところ、その評論が読む人を説得できるものなのかどうか、という点にかかって来るのだろうと思います。その評論を読んで、読んだ人の価値観が変わることもあるでしょうし、そうでもないまでも、この観点から見ればこういう比較もあり得るのだな、と納得できればその評論を読んだ甲斐があったというものです。私の文章も、できればそういう力を持ったものでありたい、と思いつつ、少々無茶振りの発想であっても、思い切って文章化しています。
そして、現役の作家と既に巨匠となった作家たちを比較するに際し、私自身が譲れないと思っていることがあります。それは、私が制作する立場に立った時にこれだけは気概として持っておこう、と思っていることでもあります。
それは、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)であれ、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)であれ、マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)であれ、ポロックであれ、彼らがどんなに偉大であっても、私たちは過去の彼らが成し遂げた成果の後で、いま、生きて制作しているという事実を忘れないようにすることです。私たちは彼らの成果からさまざまなことを学ぶことが可能ですが、そこに現在の私たちの視点を加えていくことが当然、求められています。過去の巨匠たちの選んだ制作の方法論は、既に過去ものものとして参照できる状態にありますから、その後で制作する私たちが、方法的にそこから退行することは許されません。意図的に伝統的な制作手法を会得するような場合でさえ、そのような伝統技法を価値あるものとして評価するという、現在の視点が差し込まれているはずです。
そして、批評の立場からすると、作品の方法論を論じるにあたっては、巨匠であろうが、私のような三流の画家であろうが、分け隔てなく論じることができると思っています。AさんよりもBさんの方が才能がある、とか、作品の芸術的な価値が高い、という判定をすることも批評の大きな役割だとは思いますが、それだけが批評の仕事ではありません。今を生きる私たちは、つねに過去の作品を参照できる立場にあるのですから、少なくとも制作上の方法論としては、前を向いていることが必要なのです。
私の尊敬する美学者の持田季未子(1947 - 2018)は、作家は無自覚に創造行為を実践しているので、そのことを言葉にするのが批評家の仕事だ、という趣旨のことを書いています。過去の芸術家を参照しつつも、必然的にその作家の現在の視点がそこに加わっているのに、当の作家がそのことに無自覚である、ということが得てして起こりがちなのですが、その実践に気付き、誰もが意識化できるような客観的な言葉で指摘することが必要なのです。
私の稚拙な文章では、なかなかそこまでは到達できないのですが、いつもそういう批評を書きたいと思っています。読み手の方には、言外の私の気持ちまで察していただかないと、とてもそういうふうには読めないということがまだまだ多いと思いますが、引き続き努力しますので、もしも私の文章を読んでいただける機会があるなら、今度ともよろしくお願いします。
ということで前回の私のblogの仮説は、宮下さんの作品の方法論である「面位」が、ポロックやリヒターを含めたそれまでの絵画の「時間性」の問題点を更新するものである、ということなのです。宮下さんのように新たな概念を開拓しながら作品を制作するタイプの作家にとって、私の仮説はそれほど大胆なものではないと思います。
前置きが長くなりましたが、今回もいま展覧会を開催している高島芳幸さんとさとう陽子さんの作品から絵画の成り立ちについて考察しますが、そこでアメリカと日本の偉大な評論家、グリーンバーグと宮川淳を批判対象として引き合いに出します。その内容が納得できるものなのかどうか、私の文章からご判断ください。

さて、まず高島さんの展覧会ですが、今回は二人展になります。

高島芳幸 x 山岸俊之 展 芸術的化学反応
2021年 10月4日(月) ~ 10月16日(土) 日曜休廊
12:00p.m.~7:00p.m. (最終日 5:00p.m.)
SPC Gallery スピリットプロダクツ株式会社
https://spc.ne.jp/spcblog/20211002140952-2281/

続けて、さとう陽子さんの展覧会です。

さとう陽子 - じげん -
2021.10.8(Fri) - 10.17(Sun) 会期中無休
12:00 - 19:00 *最終日17:00まで / The last day until 17:00
Contemporary Art Gallery - スプラスアーツ
https://www.splusarts.com/yokosato2021

それでは、高島さんの作品から見ていきましょう。
今回のギャラリーのblogから見ることができる画像は、たぶん以前の作品のものだと思います。今回の作品は同じような作品の構造をしていますが、キャンバスの生地に木炭と、白とグレーの絵の具を使って描かれています。それから紙の上に描かれた小品も、色鉛筆で何色ものカラフルな線が引かれています。それらの作品が画廊の同じ空間に置かれているので、キャンバスの作品にもほのかな色彩を感じます。
とはいうものの、高島さんの作品はつねに絵画の成り立ちをギリギリのところまで追究しているので、通常の絵画を期待して画廊に行くと、その彩りのなさに面食らうかもしれません。画面上に施された短い線や点は、画面の枠より一定の幅のところに存在していて、まるで画面の矩形の領域を確認するように描かれています。キャンバス生地は生(なま)なままで描画用に表面処理をされていない面を意図的に使っています。キャンバスの木枠への止め方も、脇を折り込まずにそのまま鋲で張り付けられています。
私のような古い世代の人間ならば、高島さんの作品をミニマル・アートの絵画の延長線上にあると感じるかもしれません。そのことについて、少し説明しておきましょう。かつてアメリカの評論家、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)は、絵画の芸術表現としての特徴は、その平面性にあるのだという趣旨のことを書いています。例えば、次の文を読んでください。

しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、もっとも基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範であった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち合う制限的条件もしくは規範であった。平面性、二次元性は、絵画が他と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他に何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。
(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ著、藤枝晃雄編訳)

だからマティスもピカソも、抽象絵画も絵画の平面性を目指したのだ、という論理です。このようにものごとを分析的に考えて、そこに核となるような普遍性を見出す思考方法はモダニズムに共通するものです。美術に限らず、科学や経済も分析的な思考法によって普遍的な真理を見出し、そのことによって発達してきたのです。絵画はその論理が展開する中で、最終的に平滑な色の平面にまで還元されました。しかし、誰が描いても平滑な色面になってしまうのでは、もはや美術でも芸術でもないのではないか、そんなストイックな息苦しさは耐えられない、という作家たちの思いと、そんな作品ばかりでは売れない、という画商たちの困惑が相乗して(?)、イラストまがいの旧套的な絵画が描かれ、売られるようになったのです。そして私の見た限りでは、その後もモダニズムの論理を乗り越えた、とは言い難い状況が継続しています。

そんなことをこのblogでも何回か書いていますが、高島さんの作品はそんなミニマル・アートとは異なるアプローチで絵画というものを追究しているのです。そのことを正しく受け止めないと、高島さんの作品は退屈なミニマルの延長にあるように見えてしまいます。それはあまりにもったいないと思い、以前にも高島さんの作品について拙文を綴ったことがありました。今回も思いとしては同じです。
その高島さんが、今回の展覧会で自ら文章を綴っています。

絵画の外部性を多様な位相から考える。
支持体は絵画の外部であるか。
目に前にあるキャンバスや紙を見ることから始める。
表や裏、側面や厚みをみる
見ながら触る。
呼吸が触れるまで、内と外を往還しながら見ることから始める。
未だカカレテいないシカク を見る
表や裏、側面や厚みに 点・線が触れる。
表や裏、側面や厚みに 色が触れる
(2021.10.1 高島芳幸 制作メモ)

いまやモダニズムの世界が、あらゆる分野で行き詰まりにきていることは間違いありませんが、私はモダニズムの分析的な思考方法のすべてを批判することは、間違っていると思います。例えば気候変動や格差社会など、もはや待ったなしの問題が山積みですが、その一方で気候変動の危機をいち早く察知したのが、今年ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎という科学者であることを知りました。彼はコンピュータがふんだんに使える環境を求めてアメリカに渡った、ということですが、それはモダニズムの成果の最先端での研究だと言えるのでしょう。ですから今大切なことは、中途半端なところで思考停止をしないで、徹底的に前世代の躓きを分析した上で大きな視野で考える、ということでしょう。
例えばグリーンバーグが絵画を追究しようとしたことは意義があることだった、と私は思います。問題なのは、その絵画の特性が「平面」である、という一点に決めつけてしまったこと、そしてそれを無批判にのちの才能のある画家たちが受け入れてしまったことなのではないか、と思います。
例えばタブローという形式を考えてみた時に、木枠の上に白い布地をピンとはって鋲で止める、というのは絵画ならではの不思議な様態です。先入観を持たないで壁にかかった絵画を眺めれば、むしろ何が描かれているのか、ということよりも、そのような絵画全体の特殊な様態の方が気になるのかもしれません。
私は高島さんが徹底して追究していることは、そういうふうに絵画全体を、視覚も触覚も総動員して眺めた時の不思議な在り様についてなのだと思います。「絵画はどうして木枠に張るのか?」、「その厚みは鑑賞する際に無視していいのか?」、「そもそも木枠や絵画の厚みは絵画の一部なのか?」などということです。グリーンバーグはそれらをまったく無かったことのように、画面だけに集中して批評を展開しましたが、彼の後から美術批評に携わる人間は、その見方が一つの見解に過ぎなかった、という批判から始めるべきでしょう。実際にグリーンバーグ自身が、このようにも言っているのです。

モダニズムの芸術の原理を示すにあたって、単純化したり誇張したりしなければならなかったことは理解されたい。モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない。
(『グリーンバーグ批評選集』「モダニズムの絵画」グリーンバーグ著、藤枝晃雄編訳


そういうことなら、もう一度まっさらな目で、木枠に張ったキャンバスを剥き出しにしてみたらどうなるのでしょうか。過剰な行為を施さずに、絵画が絵画として成り立つギリギリの姿を検証してみるのです。それを自分でやるのは大変です。もちろん、やってみることは良いことですが、普通の人がやるとどうしても不徹底な面が出てしまうのです。そこまでのことがわかったら、とにかく高島さんの作品を見てみましょう。それはもちろん、あなたの求めた解答ではないでしょうが、少なくとも高島さんが用意した絵画の姿ではあるはずです。彼の作品をご覧になった方は、自分で判断し、批判し、絵画についての思考を深めていけば良いのだと思います。

さて、さとう陽子さんの作品は、画廊のホームページに映っている三枚の作品がそれぞれ違っているように、極端なことを言えば展示されている作品のすべてが違っているように見えます。こんなことを書くと、そんなことはあたりまえでしょう、とさとうさんに笑われそうですが、私のようにフォーマリズムの理論に傾倒した人間からすれば、一人の作家がある方法論、つまり作品のある制作方法を考えついたら、数回の個展ぐらいはその方法で制作して、似たような作品を展示するのが半ば当たり前なのです。
そんな人間からすると、一点一点を作品の描き出しやスタイルから思い付かなくてはならない、というのは大変だろうなあ、と思ってしまうのです。しかしこれも、よく考えてみれば当たり前の話です。むしろ制作方法があらかじめ決まっていて、あとは微妙なニュアンスだけ変えれば作品が量産できる、ということの方が不自然なことなのです。
こんなふうに、さとうさんの作品を見ると、自分の既成概念が洗われていくような気持ちがするのです。自分自身がどんなに不自由な人間なのか、思い知らされます。
以前にさとうさんと話した時に、さとうさんの作品が行き当たりばったりのような自由な作風なのに、その制作手順を読み解くと周到に描かれていることがわかって、驚いたことがあります。さとうさんに聞くと、さとうさんにはあらかじめ作品のイメージが見えていて、描く時には自分が何をどうすべきなのか、おおよそわかっているということなのです。さとうさんのその能力が、私のようないい加減なイメージしか持てない人間とはあまりにかけ離れているので、そこに驚きがあるのです。
今回は、そんな自然体のさとうさんの作品から、絵画の成り立ちについて考えてみたいと思います。
私が若い頃に影響を受けた美術評論家に宮川淳(1933 - 1977)という人がいます。私が彼の本を読み始めた時には、すでに故人になっていましたが、彼がその当時、日本で唯一と言っていいフランス現代思想を美術に応用した評論家だったこともあり、その本は貴重なものでした。彼がしきりに説いていたのは、私たちの視線がすでに美術の制度に深く毒されたものだということでした。

ミニマル・アート以降の美術の展開を特徴づけるものは、しばしばそういわれているように変貌というよりは、むしろ「美術」という対象の、或いはそう信じられてきたもののたえざる散逸であろう(それを象徴的に示すのは現代美術のいわゆる非物質化である)。ところで、この散逸を通じて今日の美術が提出している問いは、もはや芸術とはなにかではなく、なにかが芸術という意味を生み出すのか、にあるように思われる。今日の美術と人文科学の新しい方向との真の同時代性もそこにあるだろう。
(『引用の織物』「引用について」宮川淳)

ここだけ読んでもわかりにくいでしょうし、そうでなくても宮川の文章は高度な謎解きのような体裁なので、私なりに解説してみます。先ほどのグリーンバーグの批評によって、絵画はまったくの平滑な色面にまで還元されてしまい、それは芸術なのか、絵画なのか、という疑問さえ湧いてくる状態になりました。
宮川は、このように一色に塗られた平面を「絵画」だと思うのは、当の絵画である物質に要因があるのではなくて、それを「絵画」だと見なす私たちの見方にこそ原因があるのだというのです。つまり絵画を「絵画」として成り立たせているのは、私たちの視線なのだというのが、彼の結論です。
だからこそ、コンセプチュアル・アート、つまり人間の観念の中にアートがある、という考え方まで出て来るのです。それと同時に、私たちが制作する絵画には、もはや新鮮なものは何もない、というペシミスティックな考え方も現れます。どんなにスリリングな絵画を描こうとしても、それを絵画だと見なす視線の中に「絵画」があるのだから、それは描かれる前から「絵画」という制度に囚われてしまっている、という考え方です。
ずいぶん、面倒なことを考えるな、と思われるかもしれませんが、宮川が言っているように、その傾向はあらゆる人文科学の分野に現れていたようです。例えばその考え方で言えば文学においても、もはや新しい「文体」で文章を書くことなどありえない、ということになります。フランスの思想家、バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)は文学者の書く文章はもはや古くて、ジャーナリストが書くような感情のない文章こそがこれからの文体なのだ、という趣旨のことを言っていました(『零度のエクリチュール』)。そして、宮川自身も仏文学者の清水徹(1931 - )が書いた文章のなかから宮川が言葉を切り取り、並べ換えるという形で本を作りました(『どこにもない都市どこにもない書物』)。
そういう考え方を推し進めると、私たちはあらかじめイメージを持って絵を描くということは、すでにイメージを持った時点で作品は終わってしまっていて意味がない、ということにもなってしまいます。そのイメージを持つという営みが「創造」だとするなら、もはや「創造」することは終わっていて、これからは「引用」や「コラージュ」の時代である、ということになるのです。
今から考えると途方のない考え方だと思われるかもしれませんが、私などは不徹底であるとはいえ、そういう現代思想の洗礼を受けているのです。そういう人間からすると、さとうさんの絵はコンセプチュアル・アートの高度な具現化か、そうでなければ「創造」へのとてつもない逆行ということになってしまいます。理論というのは、時に(というかいつでも)本当に面倒くさいものです。
ここで私なりの現在の解釈を書いておきましょう。
あらゆる芸術の理論は、本来ならば作家の実践に対して妥当な言葉を与えるために書かれるべきものだと思います。「どうして、この人の作品は新鮮に見えないのか」、「どうしてこの人の絵は退屈な繰り返しに見えるのか」などということに対して、思いつきで批判するのではなくて、何らかの基本的な考え方を用意した上で妥当な言葉で批判し、その考え方が共有されることで作家自身も成長していくような、そんなことのために批評の言葉があるべきだと思うのです。
だから、もしもさとうさんの作品を見て、なにか既視感のようなものがあって新鮮に見えない、という人がいればそういう理論を応用して批判すれば良いのだろうと思いますが、おそらくそういう人はいないでしょう。私はさとうさんの作品を見ると、宮川の理論がいかにも頭の良い人の机上の空論のように思えて仕方ありません。仮にさとうさんの作品が、そのイメージの中で培われたものであったとしても、だからといてそれがイメージの段階で完結しているとは言えませんし、ましてや芸術の「非物質化」なんてありえません。さとうさんの作品はまさに「絵画」であって、コンセプチュアル・アートではありません。
そしてさとうさんの作品が、時に額縁まで丸ごと制作されているのを見ると、グリーンバーグの理論がいかに偏狭なものであったのか、と思わざるをえません。絵画は平面に還元できるというどころか、画面上のマチエールや物質感、果ては額縁まで丸ごと「絵画」なのですから、絵画の理論ももっと広範囲で多様でなければなりません。
ここで、さとうさんの言葉を引用してみましょう。この言葉の中には、新しい理論に拘泥することよりも、もっと大切で切実なことが書かれています。

文化芸術は衣食住足りてからとよく言われる。
しかし生きたいと願うこと自体が豊かなことではないのか。
私は本当に生きたいから制作をする。
効率や勝敗や損得のような価値観ではつかめない、世界の多面的な捉え方の面白さやその深さを作品で表現することが出来るから、生き生きと生きられる世界は現実に確かにあると感じられるからだ。
その時私の存在は認められているとも感じる。
誰もが生き生きと生きられる世界をもてること。それは一人ひとり自分の存在が無条件に認められていると実感できることだ。
(展覧会のホームページより)

本当は全文を引用したいところですが、さすがに気がひけるので、ぜひ画廊のホームページをお読みください。
「効率や勝敗や損得のような価値観ではつかめない、世界の多面的な捉え方の面白さやその深さを作品で表現することが出来るから、生き生きと生きられる世界は現実に確かにある」という美しい文章は、私のような頭の硬い人間こそが噛み締めるべきだと思いますが、もっと正直に言えば、今の為政者たちにこそ読ませたいところです。でも、きっとなにを言っているのかわからないでしょうね・・・。

最後に少しだけ、まとめのようなことを書いておきましょう。
高島さんとさとうさんと、まるで違う作家の作品を並べて書きましたが、既成概念にとらわれずに絵画表現について考え、実践していること、そして強いて共通するところを具体的に言えば、絵画を丸ごと表現として捉え、絵画の成り立つ現場に立ち会っていることが、いま二人の作品を見る時のポイントになると思います。その素材から支持体の厚み、場合によっては額縁まで、そして絵の表から裏まで意識されているところが二人に共通しています。モダニズムの絵画が、その表面だけに問題をしぼった挙げ句に、平滑な色面という窮屈な結論しか用意できなかったことに比べると、二人の作品はなんとまともで健康的なことでしょうか。そして、おそらくは絵画にとって大切なことは二人のように絵画の成り立ち全体を眺める態度です。
もっと言えば宮川が書いていた「今日の美術と人文科学の新しい方向との真の同時代性」とは、二人の作品に実践されていたと思います。ものごとを分断せずに全体を眺めること、そのことによってさとうさんが書いていたような「生き生きと生きられる世界は現実に確かにある」ということが実感できるのであり、さらに「私の存在は認められている」と思えることが、今よりも必要な時代はないのではないか、と切実に思います。

前回の宮下さんの展覧会に引き続き、こちらも会期までまだ時間があるので、できれば多くの方に見ていただきたい、というか、見るべき展覧会だと思います。よかったら、私のように駆け足でも二つの展覧会をはしごして見ると、その差異も含めて丸ごと楽しめます。

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