年末に図書館から、岡田温司(1954 - )の『半透明の美学』と言う本を借りてきました。年が明けてから、やっと読んだところです。
正直に言うと、本の中心となるアリストテレス(Aristotles、紀元前384 - 紀元前322)やダンテ(Dante Alighieri、1265 - 1321)などに関する記述は、深遠すぎて私の教養ではついていけない印象でした。しかし基本的な考え方は興味深く、重要なことを教えてもらったような気がします。そこで、忘れないうちに、気がついたことをメモしておきます。
まず、「なぜ半透明なのか」ということについて、岡田は次のようにまとめています。
一、言語であれイメージであれ、表象をめぐる理論と実践と批評において、伝統的に二項対立でとらえられてきたもの ― 透明なのかそれとも不透明なのか ― を脱構築すること。透明か不透明かといったありきたりの二者択一ではかたづけられないところに、表象のダイナミズムと機微が潜んでいるのではないだろうか。
二、くわえて、「フォルム」対「アンフォルム」という図式を再考すること。一般にはまだなじみが薄いかもしれないが、批評界で大きな話題を呼んだこの対立図式は、近年ロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボワがその共著『アンフォルム』(1997年)においてきわめて雄弁なかたちで提唱したもので、そのなかで二人は、「フォルム」の根強い暗黙の優位にたいして、「アンフォルム」の側からの価値転倒をもくろもうとする。だが、この転覆の試みもまた、結局のところ、透明性と不透明性という二項対立を脱しきれていないように、わたしには思われる。
三、そもそも絵画的なものの起源(をめぐる神話) ― 影と痕跡と水鏡 ― のうちに、半透明なものとの深い関連性が見いだされるということ。この三つからも予想されるように、絵画的なものの根源にあるのは、透明とも不透明とも断じがたいもの、透明と不透明とのあわいを漂っているものなのではないのか。
四、近代に優勢となる視覚モデルとしての「カメラ・オブスクラ」を相対化するとともに、それに対抗しうるモデルを、半透明のうちに探ること。
(『半透明の美学』)
これらの要点について、見ていきましょう。
「一」に書かれている「透明か不透明か」の二者択一の問題ですが、このことを考える前に「透明」、「不透明」というそれぞれの概念について知っておく必要があるでしょう。まず「透明」の概念に入るものは、例えばイタリア・ルネサンス時代に確立した、透視図法という遠近法の考え方です。当時の画家、デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)は、『横たわる裸婦を描く男』という木版画で、窓のような格子の枠からモチーフの女性を見ながら絵を描く男の姿を表現しています。規則的な格子(グリッド)の枠から透けて見える世界、これこそ透視図法によって表象された世界、透明性に依拠した世界だと言えるでしょう。逆に不透明の概念に入るのは、カンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866 – 1944)やモンドリアン(Piet Mondrian, 1872 – 1944)が創造した抽象絵画、あるいはグリーンバーグ(Clement Greenberg 1909~1994)が提唱したモダニズムの絵画の考え方です。とくにグリーンバーグは「マチエールの物質性と支持体の平面性」に絵画の絵画たるゆえんを見出したことで、「絵画の本質とは、表象そのものの不透明性にある」と結論づけたのです。この二者は対立しているように見えますが、実は共通した考え方を持っている、というのが岡田の見解です。すなわち、両者ともにシニフィアン(signifiant 意味するもの)とシニフィエ(signifié 意味されるもの)の合理的な結合が前提とされている、というのです。透視図法の世界では、画家=観察者=「把握する主体」と、女=モチーフ=「把握される対象」との関係が、それにあたります。一方、抽象絵画の世界では、カンディンスキーに精神的なものを、ポロックに主体的なものを、ロスコー(Mark Rothko, 1903 – 1970)に超越的なものを作品の背景に見てしまう・・・、つまり何か合理的な説明を求めてしまう傾向があります。双方ともに、合理的な意味や結びつきを作品に見出そうとしている点で共通している、ということになります。そうだとしたら、そこに対立関係を見出しても仕方がないでしょう。
「二」に書かれている、「フォルム」対「アンフォルム」についてですが、もしもロザリンド・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1941 - )の著作にまだ触れていないようでしたら、12月19日に掲載した<『オリジナリティと反復』「序」と 田中恭子の作品について>という拙文を参照してください。そこに書いたように、クラウスはグリーンバーグとの対立をはっきりと打ち出しているのですが、岡田はそれを「結局のところ、透明性と不透明性という二項対立を脱しきれていないように、わたしには思われる」と書いています。もうすこしくわしく引用しましょう。
クラウスとボアにとって、ルネサンスの美学もモダニズムの美学も、基本的には同じフォルムの透明な美学に与するもので、その意味においてどちらとも、混沌として流動的、予測不可能にして不透明なアンフォルムの美学に真っ向から対立するものとされる。
しかしながら、その議論は、単純な図式化のそしりを免れないようにわたしには思われる。批評の手練手管に長けた名うての二人が、価値の転倒をもくろもうとするあまり、不用意にもいまさらのごとく、フォルムや美をあたかも調和や理想や均衡と同一視しているのではないだろうか、と疑いたくなるほどである。ニーチェやフロイトを経たいまや、それにもかかわらず、なおもアポロ的なものがフォルムの美学の代名詞であると信じているものなど、誰もいないにもかかわらず。
ラカン的な言い方を借りるなら、二人の共著者はまるで、表象作用における象徴界(サンボリック)の働きをほとんど無視して、想像界(イマジネール)と現実界(レエル)との対比のみを強調しているかのようである。もちろん二人にとって、フォルムが前者に、アンフォルムが後者に対応する。
(『半透明の美学』)
ラカンの名前が出てきたところで、私の理解も怪しくなるのですが、クラウスとボア(Yve-Alain Bois, 1952- )はアンフォルムを唱えながら、どんどん現実界のモノに「無媒介的に接近していこうとする」ので、「ますますおどろおどろしいものになっていく」と岡田は書いています。それは「アポロ的なもの」に対抗するあまり・・・ということになるのでしょうが、そこには、二人の理論的な支柱となっているバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille, 1897 - 1962 )の思想が孕む危険性が背景にあるようです。その危険性についてはハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906 - 1975)も指摘していて・・・、ということなのですが、やはりこんなところでやめておきましょう。自分の理解できていないことを説明できるはずもありません。ただ、『アンフォルム』に対する私自身の興味と違和感が、岡田の説明によって少しずつ形になってきたような気がします。それはそれとして、岡田はフォルムとアンフォルムの二項対立的な考え方よりも、「両極の媒介項として、半透明なるものの意義を積極的に思考すること」の方が意義深いと考えているのです。
「三」の「絵画的なものの起源(をめぐる神話)」の 「影と痕跡と水鏡」とは、次の三つのことを言っています。「影」は「古代ローマの博物学者プリニウスが語るところによると、戦地に赴く恋人の影をなぞったのが、絵画の起源とされる」という話です。「痕跡」は、「キリスト教では、生前のイエスがハンカチに顔を当てると、そこに染みのようなものが痕跡として残ったとされ、それがイコンの起源として語り継がれてきた」という話、「水鏡」は「水面に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシア神話の美少年ナルキッソスは、アルベルティによると、絵画の発明者とみなされる」という話です。これらの「影にせよ痕跡にせよ水鏡にせよ、わたしたちにとって、透明でもなければ不透明でもなく、どちらかというと限りなく半透明に近いイメージとして存在していないだろうか」ということなのですが、これは説明不要でしょう。強いて言えば、出所の異なる三つの神話を絵画の起源として束ねた岡田の手腕が実にみごとなので、いかにも三つの話が必然的に結びついているように感じられる、というところでしょうか。
「四」の「近代に優勢となる視覚モデル」としての「カメラ・オブスクラ」ということの意味ですが、これは「カメラ・オブスクラ」という光学機械が、透視図法的な「表象の透明性にたいする信頼と欲望を根底から支えるという重責を担ってきた」ということを、言っています。この固定的な視点を持つ知覚モデルに対し、「人間身体の不安定な生理学と時間性」を持ち込んでモデルの変更を申し立てたのが、ジョナサン・クレーリー(Jonathan Crary)です。クレーリーについても、12月31日にこのブログで取り上げているので、よかったら参照してください。しかし、ここで岡田が企む「カメラ・オブスクラ」を「相対化するとともに、それに対抗しうるモデル」とは、クレーリーが考えているようなことではありません。
実はわたしが考えているのは、古くアリストテレスまでさかのぼる「ディアファネース」という、哲学においても芸術においても、これまでほとんど見過ごされてきた概念のうちに、新しいパラダイムの可能性を見いだすことはできないか、ということである。
(『半透明の美学』)
この「ディアファネース」とは、「透明なもの」と訳されることが多いのだそうですが、岡田の考えでは「透明性のさまざまな度合い」のようなものを表していて、「見えるものそれ自体なのではなくて、光と見えるものとのあいだにあって、見えることを可能にしているもの」という意味があるのだそうです。この言葉は、『半透明の美学』全体を通じて、キーワードのようなものになっています。
さて、ここまで読んでいただいても、何だかよくわからない、わだかまりのようなもの残っていることと思います。書いている私自身がそう感じているのだから、仕方ありません。しかし、少なくともここで言うところの「半透明」とは、すりガラスやレースのカーテン越しにものを見るような、物理的なものではないことは、分かったことと思います。キーワードである「ディアファネース」とは、紀元前にまでさかのぼることのできる言葉ですから、そこには深い美学的な領域が広がっているに違いありません。
ただ、私の興味はそのような深い美学にあるのではなくて、この「半透明」という概念が絵画の制作においてどのように捉えられるのか、ということです。透明な透視図法的な世界と、モダニズムの絵画の不透明な世界、その「両極の媒介項」としてあるような世界、というと、私の場合、やはりセザンヌの絵画をまっさきに思い浮かべてしまいます。
なぜ、セザンヌの絵画を思い浮かべてしまうのでしょうか?美術史的に、あるいは時間的にセザンヌが中間にいるからでしょうか?それなら、ゴッホでもゴーギャンでもいいような気がしますが、彼らよりも、やはりセザンヌなのです。
その理由を、次回以降考えてみたいと思います。
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